14 バンド打ち合わせ ／ 2015年６月初旬
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ushigara_neko 2014年05月05日(月) 14:43:42履歴
「学園祭ツアーの日程は、11月１日・日曜日・仙台・伊達大学。11月２日・月曜日・青泉大学。11月 ３日・火曜・文化の日・峰城大学。11月21日・土曜日・名古屋・名京大学。11月23日・月曜日の振替休日・広島修学大学。11月28日・土曜日・福岡・筑豊大学。11月29日・日曜日・京都・同心社大学……か。
七回は思ったより、多いな。それに、最終日がちょっと厳しそうだ」
春希は、御宿のオフィスで、松岡純夜からのメールを確認していた。
雪菜は、この日程で大丈夫なんだろうか。小木曽雪菜としての、全国ツアーの最終日、10月２日・金曜日、京都会館大ホールの公演から、１か月弱しか間隔がない。これじゃ、８月下旬から、11月の終わりまで、まるまる三か月の長期ツアーと言っても過言じゃない。
春希は、ここにきて、さすがに自分の企画提案の重大さに気がついた。
自分は、雪菜のマネージャー失格かもしれない。
「今日の雪菜の予定は……、午前中、DTM マガジンのインタビュー、午後はボイス・トレーニング、夜は純夜さんとバンドの打合せ、だったな」
一度帰って、夕食の準備をしてから、その打合せに合流しようか。話が煮詰まって来た現在、さすがに顔を合わせずに日程を確定するのは、怖い。
ギタリスト・松岡純夜は、多忙を理由に、なかなか春希と会おうとはしなかった。ただ、メールへの返信は、深夜にはなるものの、必ず当日中に返して来た。
……文面は、事務的で、かなり素っ気なかったが。
「好意は、持たれていない気がするな」
�爐世�、今日、会おう��
春希は、決意した。とりあえず、雪菜にはメールで伝えておこう。ただし、松岡氏には直前まで伝えるな、と。
すぐ、返信があった。「学園祭ツアーの件だね。了解です。純夜さんが、逃げ出さないように、気をつけるよ」
「お願いするよ。場所だけ、送ってほしい」と返信した。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
雪菜に教えられた場所は、オフィスからそんなに離れた場所ではなかった。
西御宿の電気屋街にある。
春希は、指定された時間より早く周辺に着いた。
手早く食事を用意した後、雪菜のバンドの打合せに行くから、出かける、と言った時のかずさの顔……。今更、そんなに心配そうな顔をすることはないだろう。
しかし、問題なのは、曜子の方で、「浮気は男の甲斐性と存じ上げております。ですが、早くお帰り下さいませ」等と言うものだから、かずさが怒る怒る……。帰ったら、ねちねちと苛められるな。寝る前のケアが大変だ。
…………。
春希が早めに来たのは、御宿郵便局前の通りを歩きたかったからだ。
七年前、高等部三年生の2月、雪菜の誕生日パーティの日。春希は、雪菜に嘘をついて、ウィーンから帰国したかずさを出迎えるために、成田空港まで行った。
その時、かずさに話した表向きの理由は、パーティーに出て、高校を卒業後にウィーンで本格的にピアノを学ぶことを雪菜に伝えろ、というものだった。
だが、冬馬曜子からかずさのウィーン行きの話を聞いて、自分からかずさが離れていくことに恐ろしく動揺した、というのが真実だ。
だが、かずさは言葉を濁して、行くのを拒んだ。そして、御宿駅に着いてから、かずさは、タクシーを探して、御宿郵便局前まで歩いてきた
雪菜を愛さなければ、かずさと距離を取らなければ、と考え、そのように振舞ってきたのに、いざかずさが離れていくと知った途端、「どうして俺の前からいなくなろうとするんだよっ」と、理不尽な我儘が吹き出した。
そこで、春希は初めて、自分の本当の気持ちに気づいた。同時に、かずさの本当の気持ちを知った。そして、お互い、好き合っていることを確認した。
だが、かずさは、春希の慣れたキスの中に雪菜との深い関係を見つけて、春希を激しく拒絶した。
打たれて、無様に尻餅をついた春希から、かずさが泣きながら遠ざかっていく……。その向こうに、特徴的な形の損保ジャパン本社ビルがそびえていた。
今も、その景色は変らない。
�牴驚�はどうなんだろうな、かずさ。俺は、もう、お前に辛い思いをさせずにすむような男に、なれたんだろうか。俺は、本当に、お前に相応しい男になっているんだろうか。
雪菜、俺が君の側にいても良いのだろうか……��
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「ここだな」
こんな路地があることも、奥に喫茶店があることも、春希は全く気づかなかった。ドアを開けると、比較的大きな音で、ジャズが流れている。
雪菜は、いない。数人のサラリーマンが、暗い照明の中、無言で聴いている。カウンターの向こうに座る店主に声をかけると、奥のドアを示された。
ドアを開けると、小さな部屋があり、店内より少し明るい光に満たされていた。円卓に座る、男二人と、女一人。何時ものツーサイド・アップじゃない、髪を無造作に一つにまとめた雪菜が振り返る。
「春希くん」
「雪菜、ちょっと早かったか……。ああっ」
こちらを向いて、奥に座っている男に、春希は見覚えがあった。
「北原。久しぶりだな……」
「松岡、さん。どうして……」
「どうしてって、俺が松岡純夜だよ。下は芸名ね」
「…………」
「かなり驚いた、って、顔だな。まあ、座れよ」
「そうですね。全く、雪菜には驚かされることばかりですよ。……でも、しっくり来ました。開桜社での顔は、仮面だった、ってことですね」
�爐世�ら、マスコミ関係者にして、あの仕事スタイルだったのか��
「うーん。正確に言うと、そうじゃない。雪菜のおかげで、かなり収入が増えたが、それでも昨年の収入は、会社勤めの方が上だったからな。
まあ、簡単に言うと、冬馬曜子オフィスのおかげで、雪菜のギターの先生と、雪菜のバンドのギタリスト兼アレンジャーっていう仕事が入ってきて、やっと音楽の方で食って行けそうな気がしてきたよ。
それに今回は、ツアーまで提案してくれて、感謝してる」
「雪菜は、松岡さんと俺が、知り合いだったこと、知っていたんだよな」
「うん。怒った？」何とも小憎い、可愛い顔で言う。
�爐海譴蓮�俺の完敗だな……��
だが、春希は、もちろん怒る気にはならない。
「雪菜のビックリには、慣れてきたよ」
「こちらも、ついさっき、お前が来るって、雪菜から教えられたところさ」
「自己紹介が遅れました。私、冬馬曜子オフィスで、小木曽雪菜と冬馬かずさのマネージャーをしております、北原春希です。宜しくお願いします」
「こちらこそ、宜しくお願いします。んで、こっちがドラムの杉田ね」
「杉田です。お話はかねがね」杉田は、春希を睨む。
「こいつはナイツ・レコード勤務時代からの、つまりインディーズ時代からの、ガチガチの雪菜ファンだから、対応には気をつけてな」
「宜しくお願いします」
「さて、マネージャーさんから、お話を聞こうか」
完全に相手のペース。だが、春希は怯んではいられない。自分から、相手のフィールドに飛び込んだのだ。開き直るしかない。
「今日は何点か、当社サイドとして確認をしたい件がありまして、お邪魔しました。資料を見て下さい。
まず、日程を書面で確認します。ちょっと強行スケジュールかなと思いまして……」
「大丈夫だと思う。でかい大道具持って動こうって訳じゃないんだ。演奏のための機材さえ動かしてくれれば良い。PAは事前確認して、よっぽどショボければ現地調達で梃入れするけど、照明のセッティングは、大学の学園祭事務局側に任せようと思っている。
つまり、できる限りシンプルに、ラフな感じで行こうと」
「了解しました。基本的に、それが狙いです。
次に、参加メンバーのことですが、松岡さんがギター、杉田さんがドラム、後はベース、キーボード奏者を選定中、とお聴きしていますが、一枚目を録音した時のメンバーでは、難しいのでしょうか」
「あの人達も悪くなかったけど、なんていうか、スタジオ・ミュージシャンの匂いが着き過ぎてる感じがしてな。俺としては、もっと若くて新鮮な奴らが良いんだけど」
「必要があれば、オーディションを行っていただいて結構です」
「良かった。そう言ってくれないかなって、思ってたのよ」雪菜は、微笑む。
その後の松岡とのやり取りは、概ね順調だった。曲数は、全十曲を用意する。スタッフはできる限り学園祭実行委員会サイドで手配してもらう。PAエンジニアだけは、松岡の知り合いに依頼、帯同してもらう。
「一番の問題は、入場者数、なんだ」
「そうですね。小木曽雪菜としての、ツアーの後になりますから……」
「パニックになる程、客が来る可能性がある。それも一般の」
「ですので、完全予約制にして、シークレット・ライブに近い形で行いたいと思います。全て会場は、野外ではなく、大学の体育館や、一般教養の大講義室などで行われますので、入場者の管理は可能だと思います。
ただ、学生以外の一般客が中心になることや、ネット・オークションでチケットを高額で転売されることは、できれば避けたいと思っています」
「転売ヤーなんて好きにさせとけば良いだろ」
杉田が口を挟む。
「ごめんなさい。わたしが嫌なの」
「あっ、ごめん……。雪菜ちゃんがそういうなら……」
「ううん」雪菜が微笑む。……杉田には、抜群の効果がありそうだ。
「で、マネージャーさんの案は？」松岡が言う。
「その前に、ご相談があります。
今からでは、本当は調整が難しいのですが、八月末か、九月頭に、思いっきり疾走感のある元気なシングルを、ユニットとしてのバンド��SETSUNA�疚承舛廼杁淅�売できないかと考えています。
三十歳以上は、あまりターゲットにできないような内容のものを、です」
「そりゃ、俺達としては、円盤出したいけど。……その意図は？」
「その中に、期間限定URLと、シークレットコードを書いたライブの案内を入れます。そして、希望者にエントリーしてもらいます。
機械的に抽選して、当選者にはメールで、チケット購買方法を連絡します。
チケットには、QRコードと、番号を記載します。オークションで売買した場合、個人が特定できる場合は、ファン・クラブ加入者は除名することとします。また、オークション運営サイトに削除依頼をかけます」
「徹底的だな。そこまで事務手続きを細かくして、収益に影響しないか」
「当社では、この企画で利益を得ることは考えていません。もちろん、ミュージシャンやスタッフへのギャランティは確保しますが、基本的には雪菜への来年以降への投資と考えています」
「了解。ギャラの確保はしっかり頼むな。
じゃあ、曲についてだが、雪菜が書いたのでなければ、用意できると思う」
「当社としては、バンド��SETSUNA�瓩砲弔い討蓮△任�る限り小木曽雪菜が作詞・作曲したものを演奏してほしいと考えていますが……」
「わたしもできるだけそうしたいと思ってた。でもね、春希くん。わたし、まだまだ、足りないことが分かった」
「雪菜も曲作りに努力しているが、今ちょっと壁に突き当たっててな」
「壁って……」
「思い切った曲想が出ないみたいなんだ。ギターや、ピアノを学んだせいかもしれない。ちょっと半端な状態で、オリジナリティが希薄なんだ。
俺は、コードに捕われずに、思い浮かんだ歌だけを、乱暴に録音してこい、って言ってるんだけど」
「ふふふ。なかなか、かずさみたいには、いかないね」
「雪菜……」日本に戻ってから、春希が初めて見た、悔しそうな表情だった。
「雪菜ちゃん、別に冬馬かずさを意識しなくても……」杉田が声をかける。
「…………」雪菜は黙っている。
「まあ、雪菜はそれだけ、常に自分を追い込んでるんだよ。きっと何時か、壁は越えられると思うけどね。
それで、だ。俺としては、発想を転換して、バンド��SETSUNA�瓩砲弔い討蓮∪禳擇函�俺と杉田、実力によっては、これから加入する鍵盤、ベースの五人によって、雪菜の様々な面を引き出していくことを目的に、対等な立場で組んだバンド、という形を取りたいんだが、そういう内容で契約してもらえないだろうか」
「松岡さん……」
「何だ」
「僕はインディーズは未だにあまり分かりませんが」
春希は鞄の口を開け、手を突っ込む。
「このCDが素晴らしいことだけは、分かります」
そう言って、ビジュアル系と思われる派手なジャケットのCDを机に置く。
「うわわわ。何でお前が、俺の黒歴史をっ」
「うちの社長のコレクションです」
「あんの姉さんは……。捨ててくれって言ったのに……」
「やっぱり……。春希くんは必ず見つけ出すと思った」
雪菜は、笑う。
「ボーカルの方は全く僕の趣味に合いませんが。松岡さんの書かれた曲は、リフ、メロディが素晴らしく、曲想、アレンジとも、オリジナリティに溢れていると思います」
「分かった。分かったから、それを俺に寄越せ」
「ホント、可愛いですよね〜。この一番端っこに写ってる純夜さん」
�爐Α爾鵝△海琉貳峅聴Δっ砲了劼�松岡さんだとは気づかなかった��
「雪菜、お前、ホントに性格悪いな」
「わたしの性格を悪くしたのは、このマネージャーですから、苦情は、どうぞこちらに」
�爐�いおい、その振り方は笑えない……��
「松岡って、ボーカルの奴に真剣に惚れられて、掘られかけたんだよな」
「おい、杉田。死にたいか。……未だに背中がぞわわってするから止めてくれ」
「それと」春希はもう一枚取り出す。「このCDの突き抜けた曲想は面白かったです。趣味ではありませんが」
「わあああああ」こんどは杉田が慌てる。回収しようとするが、いち早く雪菜が取り上げる。
「この黄色いピチピチを着て笑ってるのは……」
「おっと、この小っ恥ずかしいテクノは、杉田の黒歴史だったな」
「正解でしたか？これも社長のコレクションです」
「これ五百枚しか作ってないんだよ……。雪菜ちゃんには、隠しておくつもりだったのに……。お宅のマネージャー、性格悪いよ」
「こりゃ……、俺の企画じゃダメか」
松岡は天井を見上げる。
「ということで、先程の松岡さんのご提案の通りで結構です」
「ええっ」
「そういう提案が松岡さんからあるだろうと、社長はお見通しです。好きにやってもらえば良いと。きっと面白くなるはずだと」
「ホントに食えない人だ……。あの人は」
「でも、食われたことはあるんでしょ」
「ばっ、雪菜、お前、何言ってんのっ」
「さすがに、それは、聴いていませんでした。そうか、それであんなに詳しかったんだな」
春希は資料に書き込もうとする。
「こらっ北原、メモるなメモるなっ」
「すみません。前職のくせで、美味しそうなネタがあるとつい……」
「お前、実は全然変ってないのな」
「松岡さんも、ですね……」
「ああ、参ったよ」松岡は右手で顔を覆う。
「杉田さんも、問題ないでしょうか」
「ああ……。宜しくお願いします」
二人は毒気を抜かれた。
「それと、社長と、僭越ながら僕から、この企画の契約に関して、お二人に対してお願いがあります」
「何だ」
「かずさのライバルになっていただきたいんです」
「……それはどういう意味だ」
「社長も、僕も、雪菜とかずさのコラボには、特別の思いを持っています。当面、小木曽雪菜名義のソロは、かずさとのコラボが基本になります。
ですが、アーティストとしての雪菜の可能性を、もっと広げたいんです。
ぜひ、かずさが歯ぎしりするような、面白い曲をたくさん作ってほしいんです。そして、いずれは雪菜のソロと交互に、最低二年に一度はアルバムを出せるようなバンドにしてほしいんです。
そのために、才能あるミュージシャンのまとめ役と、アレンジの責任は松岡さんに担っていただけませんか。杉田さんも、如何でしょうか」
「まあ……、もちろんそうなるわな」杉田は肯定する。
「分かったよ」松岡は座り直す。
「正式の契約は、後日当社オフィスでお願いします」
「待って！」
「どうした」春希は雪菜を見る。
「ねえ、前から思ってたんだけど、今の春希くんの言い方、少し気になる」
「えっと、どこが気に……、え、雪、菜」
雪菜の顔色が見る間に悪くなる。肩が震えてる。
�爐舛腓辰搬圓董�どうしたんだ？��
「松岡さんにわたしを背負わせて、わたしからかずさを、引き離すつもりじゃ……。
わたしからまた、春希くん、離れて行くつもりじゃ……」
「違う。そんなことは言ってないよ、雪菜」
「雪菜。北原はそんなこと言ってないよ」
松岡がなだめにかかる。
「嘘、じゃないの？ 信じても、良いの？」
「前も言ったじゃないか。かずさは雪菜とじっくり曲を作りたいと思ってる。二年をサイクルに一枚形にする位じゃないと、キツいんだよ」
「リリースのない年は、ウィーンに帰っちゃう気じゃ、ないの？
わたしから、また離れて行く気じゃ、ないの？」
「雪菜……」それは少し頭にあった。
ヨーロッパは、かずさの主戦場だから。
「わたしが……、やっぱり、じゃまなの？
わたしが汚い女だから……」
雪菜の不安そうな顔……。
もう二度と見たくないと思っていたはずなのに。
「雪菜、この前言っただろ。俺は、君の親友になりたい。かずさだって、君のことを大切に想っている。
……もう裏切ったりしない」
「本当、なの？」
「信じるのは無理かもしれないが、信じてほしい」
松岡が、立ち上がり、椅子を雪菜の横に置いて座り直す。
黙って、並んで座っている。
「分かった。……うん。ごめん。
ちょっと、取り乱しちゃった……」
「いや、マネージャーのくせに、説明不足で、ごめん」
「言ったでしょ。春希くんの、ごめん、は、なし」
「分かった。改めて、また話をさせてくれ。頼む」
「うん。……純夜さん、杉田さん、すみませんでした」
「北原、俺と杉田との契約には、雪菜と、かずささんと、お前の三人が、良好な人間関係を保つことが、前提になると思っててくれ。もちろん、契約書に書く必要はないが、お前の記憶の中には、明記しておいてくれ」
「分かりました」
「雪菜、今日は、ちょっと疲れたみたいだな。
もう帰って休め。
北原、雪菜を送るから、ついでに乗って帰れ。
すまん。杉田、車、取って来てくれないか」
「了解」
「すみません。ご一緒します」
……ドラム・セットを積んだ、杉田のバンに乗って、雪菜の家に向かう。マスコミ向けに情報を流していたマンションには、雪菜はいない。
雪菜は、未だ、実家に住んでいる。両親、つまり晋と秋菜が、雪菜を離さなかった。
「杉田さん、すみません。僕は、雪菜の家の前までは、行けないんです」
「そこの角で止めるわ。松岡、頼むな」
「ああ……。雪菜、帰ろう」
「杉田さん、今日はすみませんでした。でも、わたし、お二人と一緒にバンド、頑張りますから、宜しくお願いします」
「楽しみにしてるよ。おやすみ、雪菜ちゃん」
「雪菜、おやすみ」
「春希くん、おやすみ」
松岡は、雪菜を連れて、小木曽家の前まで行く。秋菜が出てくる。松岡が頭を下げる……。晋も出て来た。
二年ちょっと前まで、あそこで頭を下げていた男は、自分だった。
だが、もう二度と、あの玄関先まで行くことはないだろうと、春希は思った。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「北原、あの店な、どう思った」
岩津町へ向かう途中だった。松岡が切り出した。
「渋いお店ですね。ジャズ喫茶、っていうやつですか。松岡さんは、ジャズも聴かれるんですか」
「まあ、確かに聴くが、あの店は俺の行きつけじゃない」
「俺たちは、雪菜ちゃんに教えてもらったんだ」
杉田はぼそっと言う。
「えっ」
「大学の頃、そうだな、一回生から三回生までの間、時々行っていたらしい。御宿で映画を見た帰り、時々一人で飲んでいたそうだ。地味な服着てな……。
古い女性ボーカリストの、トーチ・ソングばかりリクエストしてたそうだ。
トーチ・ソングっていうのは、失恋の歌だ」
そういえば、春希は、あの空白の三年間、一人で何をしていたかについて、雪菜から詳しく話を聞いたことがなかった。
「北原は知ってるんだろ。そのころ雪菜は、歌を歌えなかったことを」
「はい」
「それでも、雪菜の心は音楽を求めていた。
あそこのマスターな、自分からは客に干渉しないが、質問するとしっかり教えてくれる。
その時の口調が、誰かさんに似ているらしい。
大学時代に、良質なジャズを学ぶ機会があったことは、今のあいつにとっても財産になっているはずだ。
俺は、あいつが子どもの頃から、音楽に触れていれば、かずささんにも負けないアーティストになっていたはずだと、思ってる」
「はい」
「北原……、もう分かったと思うが、雪菜は、完全に吹っ切れたわけじゃない」
「……はい」
「ま、完全に吹っ切れる位なら、あんな痛い歌ばかりは歌わないだろうがな」
「…………」
「ただ、ああいう姿をお前に見せてしまったのは、あいつにとって、計算外だったと思う」
「はい」�爐修Δ世蹐Δ吻�
「かずささんには、黙っていてもらえないか」
……春希は困った。雪菜のことで、かずさには隠し事はできない。
「頼む」
「…………」
「俺たちは」杉田はゆっくりと話しだす。
「雪菜ちゃんの酷い時を、間近で見ている。……本当は今日、俺は一言、北原さんに、文句を言いたかった。
けれども、雪菜ちゃんのあんな楽しそうな、そして、悲しそうな顔を見せられたら、もう何も言えん。彼女は、本当に、君のことを大切に思っている」
「その通りだ。正直、俺も契約の話がどうなろうと、キツい皮肉の一つでも言ってやるつもりだったんだ。だから、俺は素性を隠したまま、今日までお前に直接会うのを避けていたのにな」
「松岡が、雪菜ちゃんにギターを教え始めた頃、彼女は、笑うことができなかった。痛々しい程、根をつめて、歌の練習、ギターの練習に打ち込んでたみたいだ。俺は、時々、それに付き合っただけだがな。
俺の記憶じゃ、笑えるようになったのは、去年の彼女の誕生日あたりからだ」
「ああ……。そうだったな」
「歌とギター、やっと手応えが掴めた感じだったのかな。
それで、雪菜ちゃんの誘いで、三人で曲作りをするようになって、段々、俺にも笑ってくれるようになったよ」
「…………」春希は、何も言うことができない。
「ホント、酷かったよ。睡眠も、食事も忘れて、打ち込むもんだから、俺が秋菜さんに泣きつかれて……。晋さんに説教されて……。困ったよ。
曜子さんの頼みじゃなかったら、北原がらみの人間じゃなかったら、こんなに手のかかる生徒なんか、引き受けなかったのに、って、思ってたな。
だが、あいつは驚くべきスピードで上達した。あんなに執念の強い人間は、開桜社の風岡麻理以外には、俺は知らないな」
「俺に、鍵盤を教えろ、と言い出した時はびっくりしたな」と、杉田が言った。
「杉田はテクノやってただけあって、鍵盤上手いんだぜ」
「テクノは関係ないだろ。まあ、ガキの頃、そこそこやってたんだ」
「曜子さんに鍵盤の練習してるの、知られるのが嫌だったんだろうな。
なあ、北原。雪菜は、かずささんのことを、神様みたいに思ってる。同時に、できる限り、対等でいたいと思って、努力しているんだ」
「それは、分かっています」
「だから、かずささんに、あいつの弱い所を教えるのは、止めてやってくれ」
「……分かりました」
「頼んだぞ」
「松岡さん、杉田さん、ありがとうございます。雪菜のこと、宜しくお願いします」
「こちらこそ、な」
�牴燭髻�宜しくお願いすると言うのだ？
俺が、俺以外の男に、雪菜のことを「宜しくお願い」する、だと？��
春希は、胸の底に嫉妬心が湧くのを感じた。
そして、そんな自分を恐ろしく感じた。
心の中で、頭を振った。
�牴兇郎�、この二人に、雪菜を託す以外にない。
俺は、ただのマネージャーなんだ��
春希は、表情を悟られまいと、車窓に流れる街の明かりを見ているしかなかった。
目次 ／ 前回 ／ 続き
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
七回は思ったより、多いな。それに、最終日がちょっと厳しそうだ」
春希は、御宿のオフィスで、松岡純夜からのメールを確認していた。
雪菜は、この日程で大丈夫なんだろうか。小木曽雪菜としての、全国ツアーの最終日、10月２日・金曜日、京都会館大ホールの公演から、１か月弱しか間隔がない。これじゃ、８月下旬から、11月の終わりまで、まるまる三か月の長期ツアーと言っても過言じゃない。
春希は、ここにきて、さすがに自分の企画提案の重大さに気がついた。
自分は、雪菜のマネージャー失格かもしれない。
「今日の雪菜の予定は……、午前中、DTM マガジンのインタビュー、午後はボイス・トレーニング、夜は純夜さんとバンドの打合せ、だったな」
一度帰って、夕食の準備をしてから、その打合せに合流しようか。話が煮詰まって来た現在、さすがに顔を合わせずに日程を確定するのは、怖い。
ギタリスト・松岡純夜は、多忙を理由に、なかなか春希と会おうとはしなかった。ただ、メールへの返信は、深夜にはなるものの、必ず当日中に返して来た。
……文面は、事務的で、かなり素っ気なかったが。
「好意は、持たれていない気がするな」
�爐世�、今日、会おう��
春希は、決意した。とりあえず、雪菜にはメールで伝えておこう。ただし、松岡氏には直前まで伝えるな、と。
すぐ、返信があった。「学園祭ツアーの件だね。了解です。純夜さんが、逃げ出さないように、気をつけるよ」
「お願いするよ。場所だけ、送ってほしい」と返信した。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
雪菜に教えられた場所は、オフィスからそんなに離れた場所ではなかった。
西御宿の電気屋街にある。
春希は、指定された時間より早く周辺に着いた。
手早く食事を用意した後、雪菜のバンドの打合せに行くから、出かける、と言った時のかずさの顔……。今更、そんなに心配そうな顔をすることはないだろう。
しかし、問題なのは、曜子の方で、「浮気は男の甲斐性と存じ上げております。ですが、早くお帰り下さいませ」等と言うものだから、かずさが怒る怒る……。帰ったら、ねちねちと苛められるな。寝る前のケアが大変だ。
…………。
春希が早めに来たのは、御宿郵便局前の通りを歩きたかったからだ。
七年前、高等部三年生の2月、雪菜の誕生日パーティの日。春希は、雪菜に嘘をついて、ウィーンから帰国したかずさを出迎えるために、成田空港まで行った。
その時、かずさに話した表向きの理由は、パーティーに出て、高校を卒業後にウィーンで本格的にピアノを学ぶことを雪菜に伝えろ、というものだった。
だが、冬馬曜子からかずさのウィーン行きの話を聞いて、自分からかずさが離れていくことに恐ろしく動揺した、というのが真実だ。
だが、かずさは言葉を濁して、行くのを拒んだ。そして、御宿駅に着いてから、かずさは、タクシーを探して、御宿郵便局前まで歩いてきた
雪菜を愛さなければ、かずさと距離を取らなければ、と考え、そのように振舞ってきたのに、いざかずさが離れていくと知った途端、「どうして俺の前からいなくなろうとするんだよっ」と、理不尽な我儘が吹き出した。
そこで、春希は初めて、自分の本当の気持ちに気づいた。同時に、かずさの本当の気持ちを知った。そして、お互い、好き合っていることを確認した。
だが、かずさは、春希の慣れたキスの中に雪菜との深い関係を見つけて、春希を激しく拒絶した。
打たれて、無様に尻餅をついた春希から、かずさが泣きながら遠ざかっていく……。その向こうに、特徴的な形の損保ジャパン本社ビルがそびえていた。
今も、その景色は変らない。
�牴驚�はどうなんだろうな、かずさ。俺は、もう、お前に辛い思いをさせずにすむような男に、なれたんだろうか。俺は、本当に、お前に相応しい男になっているんだろうか。
雪菜、俺が君の側にいても良いのだろうか……��
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「ここだな」
こんな路地があることも、奥に喫茶店があることも、春希は全く気づかなかった。ドアを開けると、比較的大きな音で、ジャズが流れている。
雪菜は、いない。数人のサラリーマンが、暗い照明の中、無言で聴いている。カウンターの向こうに座る店主に声をかけると、奥のドアを示された。
ドアを開けると、小さな部屋があり、店内より少し明るい光に満たされていた。円卓に座る、男二人と、女一人。何時ものツーサイド・アップじゃない、髪を無造作に一つにまとめた雪菜が振り返る。
「春希くん」
「雪菜、ちょっと早かったか……。ああっ」
こちらを向いて、奥に座っている男に、春希は見覚えがあった。
「北原。久しぶりだな……」
「松岡、さん。どうして……」
「どうしてって、俺が松岡純夜だよ。下は芸名ね」
「…………」
「かなり驚いた、って、顔だな。まあ、座れよ」
「そうですね。全く、雪菜には驚かされることばかりですよ。……でも、しっくり来ました。開桜社での顔は、仮面だった、ってことですね」
�爐世�ら、マスコミ関係者にして、あの仕事スタイルだったのか��
「うーん。正確に言うと、そうじゃない。雪菜のおかげで、かなり収入が増えたが、それでも昨年の収入は、会社勤めの方が上だったからな。
まあ、簡単に言うと、冬馬曜子オフィスのおかげで、雪菜のギターの先生と、雪菜のバンドのギタリスト兼アレンジャーっていう仕事が入ってきて、やっと音楽の方で食って行けそうな気がしてきたよ。
それに今回は、ツアーまで提案してくれて、感謝してる」
「雪菜は、松岡さんと俺が、知り合いだったこと、知っていたんだよな」
「うん。怒った？」何とも小憎い、可愛い顔で言う。
�爐海譴蓮�俺の完敗だな……��
だが、春希は、もちろん怒る気にはならない。
「雪菜のビックリには、慣れてきたよ」
「こちらも、ついさっき、お前が来るって、雪菜から教えられたところさ」
「自己紹介が遅れました。私、冬馬曜子オフィスで、小木曽雪菜と冬馬かずさのマネージャーをしております、北原春希です。宜しくお願いします」
「こちらこそ、宜しくお願いします。んで、こっちがドラムの杉田ね」
「杉田です。お話はかねがね」杉田は、春希を睨む。
「こいつはナイツ・レコード勤務時代からの、つまりインディーズ時代からの、ガチガチの雪菜ファンだから、対応には気をつけてな」
「宜しくお願いします」
「さて、マネージャーさんから、お話を聞こうか」
完全に相手のペース。だが、春希は怯んではいられない。自分から、相手のフィールドに飛び込んだのだ。開き直るしかない。
「今日は何点か、当社サイドとして確認をしたい件がありまして、お邪魔しました。資料を見て下さい。
まず、日程を書面で確認します。ちょっと強行スケジュールかなと思いまして……」
「大丈夫だと思う。でかい大道具持って動こうって訳じゃないんだ。演奏のための機材さえ動かしてくれれば良い。PAは事前確認して、よっぽどショボければ現地調達で梃入れするけど、照明のセッティングは、大学の学園祭事務局側に任せようと思っている。
つまり、できる限りシンプルに、ラフな感じで行こうと」
「了解しました。基本的に、それが狙いです。
次に、参加メンバーのことですが、松岡さんがギター、杉田さんがドラム、後はベース、キーボード奏者を選定中、とお聴きしていますが、一枚目を録音した時のメンバーでは、難しいのでしょうか」
「あの人達も悪くなかったけど、なんていうか、スタジオ・ミュージシャンの匂いが着き過ぎてる感じがしてな。俺としては、もっと若くて新鮮な奴らが良いんだけど」
「必要があれば、オーディションを行っていただいて結構です」
「良かった。そう言ってくれないかなって、思ってたのよ」雪菜は、微笑む。
その後の松岡とのやり取りは、概ね順調だった。曲数は、全十曲を用意する。スタッフはできる限り学園祭実行委員会サイドで手配してもらう。PAエンジニアだけは、松岡の知り合いに依頼、帯同してもらう。
「一番の問題は、入場者数、なんだ」
「そうですね。小木曽雪菜としての、ツアーの後になりますから……」
「パニックになる程、客が来る可能性がある。それも一般の」
「ですので、完全予約制にして、シークレット・ライブに近い形で行いたいと思います。全て会場は、野外ではなく、大学の体育館や、一般教養の大講義室などで行われますので、入場者の管理は可能だと思います。
ただ、学生以外の一般客が中心になることや、ネット・オークションでチケットを高額で転売されることは、できれば避けたいと思っています」
「転売ヤーなんて好きにさせとけば良いだろ」
杉田が口を挟む。
「ごめんなさい。わたしが嫌なの」
「あっ、ごめん……。雪菜ちゃんがそういうなら……」
「ううん」雪菜が微笑む。……杉田には、抜群の効果がありそうだ。
「で、マネージャーさんの案は？」松岡が言う。
「その前に、ご相談があります。
今からでは、本当は調整が難しいのですが、八月末か、九月頭に、思いっきり疾走感のある元気なシングルを、ユニットとしてのバンド��SETSUNA�疚承舛廼杁淅�売できないかと考えています。
三十歳以上は、あまりターゲットにできないような内容のものを、です」
「そりゃ、俺達としては、円盤出したいけど。……その意図は？」
「その中に、期間限定URLと、シークレットコードを書いたライブの案内を入れます。そして、希望者にエントリーしてもらいます。
機械的に抽選して、当選者にはメールで、チケット購買方法を連絡します。
チケットには、QRコードと、番号を記載します。オークションで売買した場合、個人が特定できる場合は、ファン・クラブ加入者は除名することとします。また、オークション運営サイトに削除依頼をかけます」
「徹底的だな。そこまで事務手続きを細かくして、収益に影響しないか」
「当社では、この企画で利益を得ることは考えていません。もちろん、ミュージシャンやスタッフへのギャランティは確保しますが、基本的には雪菜への来年以降への投資と考えています」
「了解。ギャラの確保はしっかり頼むな。
じゃあ、曲についてだが、雪菜が書いたのでなければ、用意できると思う」
「当社としては、バンド��SETSUNA�瓩砲弔い討蓮△任�る限り小木曽雪菜が作詞・作曲したものを演奏してほしいと考えていますが……」
「わたしもできるだけそうしたいと思ってた。でもね、春希くん。わたし、まだまだ、足りないことが分かった」
「雪菜も曲作りに努力しているが、今ちょっと壁に突き当たっててな」
「壁って……」
「思い切った曲想が出ないみたいなんだ。ギターや、ピアノを学んだせいかもしれない。ちょっと半端な状態で、オリジナリティが希薄なんだ。
俺は、コードに捕われずに、思い浮かんだ歌だけを、乱暴に録音してこい、って言ってるんだけど」
「ふふふ。なかなか、かずさみたいには、いかないね」
「雪菜……」日本に戻ってから、春希が初めて見た、悔しそうな表情だった。
「雪菜ちゃん、別に冬馬かずさを意識しなくても……」杉田が声をかける。
「…………」雪菜は黙っている。
「まあ、雪菜はそれだけ、常に自分を追い込んでるんだよ。きっと何時か、壁は越えられると思うけどね。
それで、だ。俺としては、発想を転換して、バンド��SETSUNA�瓩砲弔い討蓮∪禳擇函�俺と杉田、実力によっては、これから加入する鍵盤、ベースの五人によって、雪菜の様々な面を引き出していくことを目的に、対等な立場で組んだバンド、という形を取りたいんだが、そういう内容で契約してもらえないだろうか」
「松岡さん……」
「何だ」
「僕はインディーズは未だにあまり分かりませんが」
春希は鞄の口を開け、手を突っ込む。
「このCDが素晴らしいことだけは、分かります」
そう言って、ビジュアル系と思われる派手なジャケットのCDを机に置く。
「うわわわ。何でお前が、俺の黒歴史をっ」
「うちの社長のコレクションです」
「あんの姉さんは……。捨ててくれって言ったのに……」
「やっぱり……。春希くんは必ず見つけ出すと思った」
雪菜は、笑う。
「ボーカルの方は全く僕の趣味に合いませんが。松岡さんの書かれた曲は、リフ、メロディが素晴らしく、曲想、アレンジとも、オリジナリティに溢れていると思います」
「分かった。分かったから、それを俺に寄越せ」
「ホント、可愛いですよね〜。この一番端っこに写ってる純夜さん」
�爐Α爾鵝△海琉貳峅聴Δっ砲了劼�松岡さんだとは気づかなかった��
「雪菜、お前、ホントに性格悪いな」
「わたしの性格を悪くしたのは、このマネージャーですから、苦情は、どうぞこちらに」
�爐�いおい、その振り方は笑えない……��
「松岡って、ボーカルの奴に真剣に惚れられて、掘られかけたんだよな」
「おい、杉田。死にたいか。……未だに背中がぞわわってするから止めてくれ」
「それと」春希はもう一枚取り出す。「このCDの突き抜けた曲想は面白かったです。趣味ではありませんが」
「わあああああ」こんどは杉田が慌てる。回収しようとするが、いち早く雪菜が取り上げる。
「この黄色いピチピチを着て笑ってるのは……」
「おっと、この小っ恥ずかしいテクノは、杉田の黒歴史だったな」
「正解でしたか？これも社長のコレクションです」
「これ五百枚しか作ってないんだよ……。雪菜ちゃんには、隠しておくつもりだったのに……。お宅のマネージャー、性格悪いよ」
「こりゃ……、俺の企画じゃダメか」
松岡は天井を見上げる。
「ということで、先程の松岡さんのご提案の通りで結構です」
「ええっ」
「そういう提案が松岡さんからあるだろうと、社長はお見通しです。好きにやってもらえば良いと。きっと面白くなるはずだと」
「ホントに食えない人だ……。あの人は」
「でも、食われたことはあるんでしょ」
「ばっ、雪菜、お前、何言ってんのっ」
「さすがに、それは、聴いていませんでした。そうか、それであんなに詳しかったんだな」
春希は資料に書き込もうとする。
「こらっ北原、メモるなメモるなっ」
「すみません。前職のくせで、美味しそうなネタがあるとつい……」
「お前、実は全然変ってないのな」
「松岡さんも、ですね……」
「ああ、参ったよ」松岡は右手で顔を覆う。
「杉田さんも、問題ないでしょうか」
「ああ……。宜しくお願いします」
二人は毒気を抜かれた。
「それと、社長と、僭越ながら僕から、この企画の契約に関して、お二人に対してお願いがあります」
「何だ」
「かずさのライバルになっていただきたいんです」
「……それはどういう意味だ」
「社長も、僕も、雪菜とかずさのコラボには、特別の思いを持っています。当面、小木曽雪菜名義のソロは、かずさとのコラボが基本になります。
ですが、アーティストとしての雪菜の可能性を、もっと広げたいんです。
ぜひ、かずさが歯ぎしりするような、面白い曲をたくさん作ってほしいんです。そして、いずれは雪菜のソロと交互に、最低二年に一度はアルバムを出せるようなバンドにしてほしいんです。
そのために、才能あるミュージシャンのまとめ役と、アレンジの責任は松岡さんに担っていただけませんか。杉田さんも、如何でしょうか」
「まあ……、もちろんそうなるわな」杉田は肯定する。
「分かったよ」松岡は座り直す。
「正式の契約は、後日当社オフィスでお願いします」
「待って！」
「どうした」春希は雪菜を見る。
「ねえ、前から思ってたんだけど、今の春希くんの言い方、少し気になる」
「えっと、どこが気に……、え、雪、菜」
雪菜の顔色が見る間に悪くなる。肩が震えてる。
�爐舛腓辰搬圓董�どうしたんだ？��
「松岡さんにわたしを背負わせて、わたしからかずさを、引き離すつもりじゃ……。
わたしからまた、春希くん、離れて行くつもりじゃ……」
「違う。そんなことは言ってないよ、雪菜」
「雪菜。北原はそんなこと言ってないよ」
松岡がなだめにかかる。
「嘘、じゃないの？ 信じても、良いの？」
「前も言ったじゃないか。かずさは雪菜とじっくり曲を作りたいと思ってる。二年をサイクルに一枚形にする位じゃないと、キツいんだよ」
「リリースのない年は、ウィーンに帰っちゃう気じゃ、ないの？
わたしから、また離れて行く気じゃ、ないの？」
「雪菜……」それは少し頭にあった。
ヨーロッパは、かずさの主戦場だから。
「わたしが……、やっぱり、じゃまなの？
わたしが汚い女だから……」
雪菜の不安そうな顔……。
もう二度と見たくないと思っていたはずなのに。
「雪菜、この前言っただろ。俺は、君の親友になりたい。かずさだって、君のことを大切に想っている。
……もう裏切ったりしない」
「本当、なの？」
「信じるのは無理かもしれないが、信じてほしい」
松岡が、立ち上がり、椅子を雪菜の横に置いて座り直す。
黙って、並んで座っている。
「分かった。……うん。ごめん。
ちょっと、取り乱しちゃった……」
「いや、マネージャーのくせに、説明不足で、ごめん」
「言ったでしょ。春希くんの、ごめん、は、なし」
「分かった。改めて、また話をさせてくれ。頼む」
「うん。……純夜さん、杉田さん、すみませんでした」
「北原、俺と杉田との契約には、雪菜と、かずささんと、お前の三人が、良好な人間関係を保つことが、前提になると思っててくれ。もちろん、契約書に書く必要はないが、お前の記憶の中には、明記しておいてくれ」
「分かりました」
「雪菜、今日は、ちょっと疲れたみたいだな。
もう帰って休め。
北原、雪菜を送るから、ついでに乗って帰れ。
すまん。杉田、車、取って来てくれないか」
「了解」
「すみません。ご一緒します」
……ドラム・セットを積んだ、杉田のバンに乗って、雪菜の家に向かう。マスコミ向けに情報を流していたマンションには、雪菜はいない。
雪菜は、未だ、実家に住んでいる。両親、つまり晋と秋菜が、雪菜を離さなかった。
「杉田さん、すみません。僕は、雪菜の家の前までは、行けないんです」
「そこの角で止めるわ。松岡、頼むな」
「ああ……。雪菜、帰ろう」
「杉田さん、今日はすみませんでした。でも、わたし、お二人と一緒にバンド、頑張りますから、宜しくお願いします」
「楽しみにしてるよ。おやすみ、雪菜ちゃん」
「雪菜、おやすみ」
「春希くん、おやすみ」
松岡は、雪菜を連れて、小木曽家の前まで行く。秋菜が出てくる。松岡が頭を下げる……。晋も出て来た。
二年ちょっと前まで、あそこで頭を下げていた男は、自分だった。
だが、もう二度と、あの玄関先まで行くことはないだろうと、春希は思った。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「北原、あの店な、どう思った」
岩津町へ向かう途中だった。松岡が切り出した。
「渋いお店ですね。ジャズ喫茶、っていうやつですか。松岡さんは、ジャズも聴かれるんですか」
「まあ、確かに聴くが、あの店は俺の行きつけじゃない」
「俺たちは、雪菜ちゃんに教えてもらったんだ」
杉田はぼそっと言う。
「えっ」
「大学の頃、そうだな、一回生から三回生までの間、時々行っていたらしい。御宿で映画を見た帰り、時々一人で飲んでいたそうだ。地味な服着てな……。
古い女性ボーカリストの、トーチ・ソングばかりリクエストしてたそうだ。
トーチ・ソングっていうのは、失恋の歌だ」
そういえば、春希は、あの空白の三年間、一人で何をしていたかについて、雪菜から詳しく話を聞いたことがなかった。
「北原は知ってるんだろ。そのころ雪菜は、歌を歌えなかったことを」
「はい」
「それでも、雪菜の心は音楽を求めていた。
あそこのマスターな、自分からは客に干渉しないが、質問するとしっかり教えてくれる。
その時の口調が、誰かさんに似ているらしい。
大学時代に、良質なジャズを学ぶ機会があったことは、今のあいつにとっても財産になっているはずだ。
俺は、あいつが子どもの頃から、音楽に触れていれば、かずささんにも負けないアーティストになっていたはずだと、思ってる」
「はい」
「北原……、もう分かったと思うが、雪菜は、完全に吹っ切れたわけじゃない」
「……はい」
「ま、完全に吹っ切れる位なら、あんな痛い歌ばかりは歌わないだろうがな」
「…………」
「ただ、ああいう姿をお前に見せてしまったのは、あいつにとって、計算外だったと思う」
「はい」�爐修Δ世蹐Δ吻�
「かずささんには、黙っていてもらえないか」
……春希は困った。雪菜のことで、かずさには隠し事はできない。
「頼む」
「…………」
「俺たちは」杉田はゆっくりと話しだす。
「雪菜ちゃんの酷い時を、間近で見ている。……本当は今日、俺は一言、北原さんに、文句を言いたかった。
けれども、雪菜ちゃんのあんな楽しそうな、そして、悲しそうな顔を見せられたら、もう何も言えん。彼女は、本当に、君のことを大切に思っている」
「その通りだ。正直、俺も契約の話がどうなろうと、キツい皮肉の一つでも言ってやるつもりだったんだ。だから、俺は素性を隠したまま、今日までお前に直接会うのを避けていたのにな」
「松岡が、雪菜ちゃんにギターを教え始めた頃、彼女は、笑うことができなかった。痛々しい程、根をつめて、歌の練習、ギターの練習に打ち込んでたみたいだ。俺は、時々、それに付き合っただけだがな。
俺の記憶じゃ、笑えるようになったのは、去年の彼女の誕生日あたりからだ」
「ああ……。そうだったな」
「歌とギター、やっと手応えが掴めた感じだったのかな。
それで、雪菜ちゃんの誘いで、三人で曲作りをするようになって、段々、俺にも笑ってくれるようになったよ」
「…………」春希は、何も言うことができない。
「ホント、酷かったよ。睡眠も、食事も忘れて、打ち込むもんだから、俺が秋菜さんに泣きつかれて……。晋さんに説教されて……。困ったよ。
曜子さんの頼みじゃなかったら、北原がらみの人間じゃなかったら、こんなに手のかかる生徒なんか、引き受けなかったのに、って、思ってたな。
だが、あいつは驚くべきスピードで上達した。あんなに執念の強い人間は、開桜社の風岡麻理以外には、俺は知らないな」
「俺に、鍵盤を教えろ、と言い出した時はびっくりしたな」と、杉田が言った。
「杉田はテクノやってただけあって、鍵盤上手いんだぜ」
「テクノは関係ないだろ。まあ、ガキの頃、そこそこやってたんだ」
「曜子さんに鍵盤の練習してるの、知られるのが嫌だったんだろうな。
なあ、北原。雪菜は、かずささんのことを、神様みたいに思ってる。同時に、できる限り、対等でいたいと思って、努力しているんだ」
「それは、分かっています」
「だから、かずささんに、あいつの弱い所を教えるのは、止めてやってくれ」
「……分かりました」
「頼んだぞ」
「松岡さん、杉田さん、ありがとうございます。雪菜のこと、宜しくお願いします」
「こちらこそ、な」
�牴燭髻�宜しくお願いすると言うのだ？
俺が、俺以外の男に、雪菜のことを「宜しくお願い」する、だと？��
春希は、胸の底に嫉妬心が湧くのを感じた。
そして、そんな自分を恐ろしく感じた。
心の中で、頭を振った。
�牴兇郎�、この二人に、雪菜を託す以外にない。
俺は、ただのマネージャーなんだ��
春希は、表情を悟られまいと、車窓に流れる街の明かりを見ているしかなかった。
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正直松岡さんがバンドのギタリストという設定にはガッカリしましたね。
松岡さんはお調子者に見えてもかずさTで春希が一身上の都合で退職すると聞いたとき本気で怒るなど熱血なところを見せていましたし、
編集者としての仕事や開桜社に愛着を持ってる人だと思っていたので、松岡さんが二足の草鞋を履いていた上に後に自分も退社してるっぽいのは、
かずさTでの開桜社関連での感動を台無しにされてる感を覚えて残念です。