「次、ですね……」

「そうね」

 そして……二月に、なった。

 月が変わって初めての日曜日。いよいよ俺は、かずさの本当の本気に触れる。

 コンクール、本選の日。俺は曜子さんの隣の席で、固唾を飲んでかずさの出番を待ちわびていた。

――そう、今日は本選。かずさの人生を左右する肝心の予選は既に終わっていた。予選は平日開催だったが応援に行った方がいいかと俺が訊くと、かずさに来るなと突っぱねられた。会いたいと言ったり会いたくないと言ったり、最近のかずさはよくわからない。

 ただし、指定した時間にケータイの留守電に何でもいいから一言残せと命令された。

……本当によくわからない。

「大丈夫でしょうか」

「平気よ。かずさは幼い頃からやってるし、場数を踏んでるから」

「そう……ですか」

「とはいえ思ったよりもレベルが高いわね。十二番の人なんか特に」

「学生コンクールとかじゃないですからね」

 年齢制限は十八歳以上三十歳以下。俺にはピアノの違いなんてさっぱりわからないが(すごいってのは感じるけど)、その中でもかずさが最年少だってことはわかる。二年振りの復帰戦でいきなりそんな厳しいのを選ぶところが、曜子さんらしいというか、親心というか……。

「ま、あたしの方が断然上手いけど」

「当たり前です。世界的なプロのピアニストなんですから」

「あら、私いま口説かれた?」

「大事な娘の演奏の前に何をのんきに冗談言ってるんですか」

 曜子さんとも大分打ち解けたと思う。……それが大人としてかどうかはさておき。

「だって私が出した条件は『本選に出場すること』だもん。もう達成されちゃったし」

「出した本人が言っていいんですか? その台詞」

「かずさだってモチベーション低いんじゃないかしら。まだ私から合格って言葉は出してないけど、あの子、手を抜いていいときは思いっきり抜くし」

「そんなことしたら推薦の話も取り消しになるんじゃないですか?」

「ま、それはそうだけど」

「それに……」

「それに?」

「あいつは、絶対に手を抜きません。きっと優勝します」

「……」

 だって、約束したから。

 次の”ご褒美”を。

「続きまして十九番。冬馬かずささん」

 会場アナウンスの後にかずさが舞台に上る。黒のシックなドレスに身を包み、いつもの長く艶やかな黒髪を揺らしつつ、思ったとおり堂々と登場してきた。俺の視線は舞台の上に釘付けになった。

 制服もそうだけど、やっぱあいつって黒がよく似合うな。馬子にも衣装って言うけど、もともとモデルみたいにスタイルがいいから一層衣装映えする。

「……」

 気づけば、俺の拳は緊張でガチガチに固まっていた。

 そして……いよいよ、かずさの演奏が始まった。

…………

「『十で神童、十五で秀才、ハタチ過ぎればただの人』って、よく言うけれど……」

 コンクール終了後、控え室の外で待っていた俺と曜子さんの前に、気まずい表情のかずさが現れた。当然ステージでの晴れ姿ではなく普段着に着替えている。今のかずさと舞台の上でピアノを弾くかずさ。同一人物のはずなのに、俺の目にはどうしても重なって見えなかった。まるで一卵生双生児を見ているようで。

「今のあなたは、昔よりよっぽど荒削りで、原石にまで戻ってしまっているわね」

 開口一番、曜子さんの「お疲れさま」から始まった総評。大人しく拝聴していたかずさが首を傾げた。

「それって……下手になったってこと?」

「ありていに言えばそうなんだけどね……。でも相変わらず、私の若い頃よりは上。そこが我が子ながら許し難いところ」

「なんだよそれ……よくわからないけど、むずかゆくなってきた」

「上手くはなってないけど、伸びしろが劇的に増えたって言ってるの」

「要するに、どういうこと?」

「合格、ってこと」

 その一言で、かずさの顔がぱっと晴れる。無邪気で幼い横顔がスクリーンに一瞬だけ映し出された。きっと峰城大付属に入学するまではこの言葉だけを糧にピアノを続けてきたんだと、俺は直感した。

 以前にかずさ自身も語っていた。三年前までの自分は、自分でも気づかないうちに、母親のため”だけ”にピアノを弾いていたと。自分が感じた手応えとか、コンクールでの観客の反応とか、そういう『素人の感想』は、まるで気にしなかったと。ただ母親や、彼女が連れてきた先生の評価を絶対として、その価値を高めることにしか興味を持たなかったと。

 それが、天才二世にして天才の陥った罠だった。

 芸術家としても、エンターテイナーとしても、確固たる地位を築き上げた偉大なる母親は、そんな娘の将来に危機感を抱き、しばらく距離を置いたのだった。

 その決断が、かずさを悲しみの谷底まで突き落としたというのに……

「ただ……ちょっと危うさも感じてるのよ」

 曜子さんは、高評価していた総評に水を差した。言っておかなければならないという葛藤を抱いているように、物憂げな表情で。

「危うさ……?」

 どういうことか理解しかねてかずさが聞き返す。曜子さんは頬に手を当てながら、

「このまま閉塞的になっちゃわないかって。視野を広げず、現状維持で満足するんじゃないかって」

「あたしこのままでいいなんて思ってないよ。母さんに言われたとおり、まだまだだよ。二年もピアノから離れてたし」

「そういう技術的なことを言ってるわけじゃないのよ。……ま、いずれわかるわ。あなたがピアノを続けていくのならね」

 と、最後は思わせぶりな言葉で締めくくった。これが所謂アーティストの一面だろうか。俺にもよくわからなかった。

 曜子さんは腕時計を確認して、

「それじゃ私、今から主催者の人と会食があるから。今日の帰りは遅くなるわ。泊まることになるかもしれないからそのつもりで」

 ツカツカとヒールを鳴らしてこの場を去って行った。残されたのは、気まずい雰囲気のかずさと、同じく気まずい俺。

「えーっと……おめでとう」

「……気休めはよしてくれ」

 迷った末に出した常套句は、曜子さんの時とはまた違う沈んだ声で払われた。

「でも頑張ったじゃん。予選にエントリーした百人以上の中から本選に出場できるのは二十人。しかもかずさは最年少だ」

「汗をかく奴なんかよりも、結果を出す奴が一番偉い」

「お前ならそう言うとは思ってたけど、そこまで僻むことないだろ」

「……」

「だって……入賞もしたし」

――五位。十九番、冬馬かずささん。

 そのアナウンスがホール全体に響いたとき、会場の拍手と共に俺の緊張は糸が切れたように脱力した。

「だから……なんだよ」

 顔を背け、今にも泣き出しそうにかずさは震える。さっきの無邪気な笑顔と重なる。

 わかってる。準備不足を一番理解しているかずさが予想以上の好成績を収めたにも関わらず、落ち込む理由を。

「春希との約束は優勝だった」

 だって、俺のせいだから。

「春希との約束、果たせなかった」

 俺が約束させたから。

「かっこわるいよな、あたし」

 俺が”優勝”の二文字を、かずさに意識させてしまったから。

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