『お前がこんなにも駄目な奴だから、どうしようもない奴だから……』

 ……そんなの、分かってる。
 誰に言われるでもなく。
 自分が一番分かってるよ。

『だから…………俺がなんとかするしかないだろ?』

 ……だから、分からなかったよ。
 お前がそんなこと言いだした時に。
 お前が何を考えてたかなんて。

『お前が幸せになるために……いや、お前が生きていくために、俺が必要だって言うのなら……』
『俺は、お前の側にいる。……たとえ、全てを捨てることになっても』

 ……尚更だった。
 だって、お前にとって、全てを捨てるってことは。
 ……あいつを、裏切るってことなんだぞ。





「……っ」

 何でもないところで突っ掛ってしまった。
 ……正直、練習に身が入らない。
 拭い切れない淀みのようなものが、また胸を押し潰す。
 ……もう、半年近く経つのに。

「どうしたの?」
「あ、いや、なんでもない。続けよう」

 再び身を乗り出したあたしを、何故か師匠は押し留めた。

「今のあなたはそんな状態じゃない。少し休みなさい」
「でも、それじゃあ」
「いいから。上達には休息も必要なのよ」

 ……体よく追い出され、あたしはコーヒーを口にする。
 ……やっぱり、少し苦かった。
 でも、あいつにきつく言われてるからな。砂糖は控えろって。
 ……まあ、そんなあいつの忠告を素直に聞くあたしも、らしくないかな。





『どっちを選んでも、俺、もう後悔せずにはいられないんだよ』

 ……そんな。どうして。
 こんな、あたしなんかのために。
 お前は、お前は……。

『俺しか頼れないお前を見捨てたら、やっぱり俺、一生引きずるんだよ』

 ……本当に、お人よしだなお前は。
 そういうところだけはちっとも進歩してやしない。
 ……こんな、駄目なあたしなんかに、振り回されて、さ。

『もう、どっちに進んでも、駄目なんだ。何もかも、遅すぎるんだよ。
 だから俺は……』
『一番、大切なひとだけを救おうって、そう、決めたんだ』

 ……あたしが、一番、大切?
 ……信じて、いいのか?
 あたしが、お前を、愛しても、いいのか……?





「……ふうっ」
「お疲れさま。今日はここまでにしようかしら」
「ああ。分かった」
「……なにかあったの?」
「え?なにかって」
「いや、音がブレてるように感じて。
 私の勘違いでなければいいんだけど、ひょっとして、この間日本で」
「心配いらない。あたしは今が一番幸せなんだからさ」
「……そう。まあ、あなたがそう言うのなら、そういうことにしておきましょうか」

 ……同じ芸術家なのに、時々煩わしくなる。
 母さんも、そうだったから。
 おそらく、いや、周りはきっと気付いている。
 今のあたしの音は、揺さぶられていることに。
 ……幸と不幸の狭間に、押し潰されてしまいそうだということに。





『多分、この先……お前も俺と同じでさ、どっちの道を進んでも後悔すると思うんだ』

 ……後悔、か。
 そんなの、五年前からしっぱなしだった。
 それこそ数えきれないほどに。気が遠くなるほど長い間。

『だからせめて……自分の選択で後悔するんだ。好きな人を裏切るなら、そのことを覚えておくんだ』

 ……お前は、もう決めたんだな。
 ……あいつを、傷つける選択を。
 ……あたしがお前をあいつから奪って、幸せを手にする道を。





「……ふうっ」

 ……それからあたしは、のんびりと家路についた。
 ……なにもかも、日本とは違う趣の街を。
 ゆっくりと、気の向く速さで。

「……」

 思わず、口をつぐむ。
 今、口からこぼれそうになった単語を、必死で押し込める。
 ……少なくとも、今のあたしは、まだ、許されていないはずだから。





『そんなことある。あなたはたくさんのものを持ってるよ』

 ……なにも、ないよ。
 人に褒められるような要素なんて。
 あたしは、何一つ、持ち合わせてなんかいないのに。

『ピアノに、賞に、女性としての魅力。それに、それに……』

 そんなもの、勝手について回っただけだ。
 あたしがほしくて手にした訳じゃない。
 だって、あたしは。あたしが本当にほしかったものは……。

『愛する、ひと』

 ……そうだよ。
 お前が手にするはずだったものなんだよ。
 ……あたしにとって、それは……。

『全部、かずさが持ってる』

 ……禁断の果実なんだよ。
 許されないものなんだよ。
 ……でも、ほしかったんだよ。たとえお前を傷つけても。

『いつの間にか、かずさのものになってる……』

 だって、裏切ってくれたから。
 あいつが、お前を。
 他ならぬあたしが、あいつに頼んだのだから。

『わたし、まるで理解してなかった。
 かずさの言ってること、何も頭に入ってなかったんだよ。
 本当に、どうでもよかったんだ……』

 だから、お前に償いたかった。
 意味のないことであったとしても。
 単なる自己満足であったとしても。

『だからわからないんだよ!
 気がついたら振り払ってた。
 あなたの愚かな真似を、必死で止めてた』

 ……本当に、愚かだよな。
 救いようのないくらいに、さ。
 そんなことしたって、許されないのは分かってたのに。





 ……正直、敵わないって、ずっと思っていた。
 あんなに素直に自分の気持ちをさらけ出せる強さは、あたしは持ち合わせていない。
 五年前から、思い知らされていた敗北感。
 あたしは、あんなに強くは、あんなに素直にはなれない。
 だから、あたしは背を向けてしまった。
 ……あいつへの――春希への気持ちに。

『他人にどう言われたっていい。
 わたしの価値観を理解してもらうつもりはないし、人に言われたくらいで揺らぐような恋はしてないから』

 そう。あいつは揺らがなかった。
 自分の想いにどこまでも素直で。
 愚直なまでに前向きで。

『でもさ……冬馬さんとだけは、価値観を共有してるって信じてる』

 あたしの気持ちまで見透かしていて。
 あたしの気持ちを引き出そうと突っ掛って。
 それでもあたしは素直になれなくて。

『無駄だよ。
 これも、あなたがどれだけ否定しても改める気ないから』

 ……そして、奪われてしまった。
 あたしが求めていた幸せを。
 ……春希との、物語を。

「はぁっ……」

 だから、後悔した。
 あの時からずっと、あの二人が付き合うのを見るのが辛かった。
 だからあたしは、逃げるしかなかった。
 でもそれが、結局あたしたちをズタズタに引き裂いてしまった。
 ……あたしが、想い出にしきれなかったから。
 あたしが春希を、奪ってしまったから。
 ……二人に対して、罪を犯した。
 そして、五年間も逃げ続けて、そして思わぬ再会を果たしてしまい。
 ……やっぱり、あたしたちが変わることはなかった。
 あたしがまたあいつから春希を奪い、今度こそ……。

「……っ!」

 ……拭い切れない、許されることのない罪を犯してしまった。
 あたしの、身勝手な幸せ、それだけのために。
 ……春希を、巻き込んで。
 ……生涯、払い切れない罰を課させてしまった。





「……春希?」
「……あ、お帰り」

 帰ると、春希が何やらぐったりした様子で椅子にもたれていた。
 ……何かあったのだろうか?また無茶な仕事でも引き受けたのか?

「……待ってろ。今飯の支度する」
「無理するな。今日はデリバリーでいい」
「……そこで『今日はあたしに任せろ』って台詞が出ないのがお前らしいな」
「当たり前だろ。お前がさせてくれないんだから」
「目玉焼き焦がして火災報知器の世話になる奴なんて信用できるか」

 痛いところを突かれ、あたしは思わずどもってしまった。

「うっ……春希っ」
「ははっ、まあとにかく先にシャワー浴びろ。飯はそれからでもいいだろ?」

 くそ。何だか悔しいな。
 そう思ってあたしは春希を振り返り。

「何だよ?昨日もあんなにしたのに、もうほしくなったか?」
「言ってろ。今日は寝かせないからな」
「ほら。『今日も』だろ?」
「あ……」
「ふふっ。まあ、楽しみに待ってろ」

 ……そうだな。あたしも今日はいろいろ思うところがある。
 春希に余計な負担はこれ以上掛けられないしな。





 ……なのに。

「うわあああぁぁぁぁっ!」
「……春希っ」

 ……ああ、まただ。
 春希、やっぱりお前……。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
「……春希、大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ……」

 明らかに嘘だと分かる一言に、あたしは容赦なく突っ込む。

「大丈夫なものか、馬鹿」
「はは……そんなにイケてないか、俺?」
「ああ。世界一不細工だ」

 ……そんな訳あるか。あたしにとってお前は、世界一の男なんだ。
 ……こんなあたしを、心の底から愛してくれる、最高の。

「ごめんなかずさ。俺……」
「言っただろ?覚悟してるって。……これからも、一生引きずり続けるって」
「かずさ……」
「それでも、後悔はしてない。今のあたしには、お前がいるんだから」
「そうか……」
「今のあたしは、お前が側にいてくれるんだから、世界一幸せなんだよ」

 そう、それだけは決して揺るがない。
 あたしにとって、北原春希は、絶対なんだ。
 春希だけが、あたしの生き甲斐。
 ……なのに、なんだよ、春希。そんなにしょげ返って。
 ……また難しいことに頭悩ませてるのか。

「ま〜た、難しい顔しやがって」
「い、いへへへへっ」

 あたしは春希の頬を思い切りつねり、横に引っ張る。

「あたしの幸せは、お前がいてくれることなんだよ」
「かずさ……」
「こうしてお前に抱かれて、お前の温もりを感じることができる、今が」

 ……そう、あたしは幸せだ。
 だって、お前を愛してるから。お前に愛されてるから。
 本当に、他には何にもいらない。お前が側にいてくれれば。
 ……それが、人の道から外れていようとも。
 誰からも認められなくとも。
 どれほどの犠牲を払ってでも。
 ……あいつを、裏切って手にした幸せでも。
 そのことが、春希を一生苦しめることになろうとも。
 この幸せだけは、絶対に離さない。

 ……だから、ごめんな。
 ……あたしは生涯をかけて、お前から奪った幸せを、この甘い幸福を味わい尽くすよ。





 雪菜……。

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