最終更新:ID:M+2BrIvTRQ 2012年05月16日(水) 23:22:51履歴
『お前がこんなにも駄目な奴だから、どうしようもない奴だから……』
……そんなの、分かってる。
誰に言われるでもなく。
自分が一番分かってるよ。
『だから…………俺がなんとかするしかないだろ?』
……だから、分からなかったよ。
お前がそんなこと言いだした時に。
お前が何を考えてたかなんて。
『お前が幸せになるために……いや、お前が生きていくために、俺が必要だって言うのなら……』
『俺は、お前の側にいる。……たとえ、全てを捨てることになっても』
……尚更だった。
だって、お前にとって、全てを捨てるってことは。
……あいつを、裏切るってことなんだぞ。
「……っ」
何でもないところで突っ掛ってしまった。
……正直、練習に身が入らない。
拭い切れない淀みのようなものが、また胸を押し潰す。
……もう、半年近く経つのに。
「どうしたの?」
「あ、いや、なんでもない。続けよう」
再び身を乗り出したあたしを、何故か師匠は押し留めた。
「今のあなたはそんな状態じゃない。少し休みなさい」
「でも、それじゃあ」
「いいから。上達には休息も必要なのよ」
……体よく追い出され、あたしはコーヒーを口にする。
……やっぱり、少し苦かった。
でも、あいつにきつく言われてるからな。砂糖は控えろって。
……まあ、そんなあいつの忠告を素直に聞くあたしも、らしくないかな。
『どっちを選んでも、俺、もう後悔せずにはいられないんだよ』
……そんな。どうして。
こんな、あたしなんかのために。
お前は、お前は……。
『俺しか頼れないお前を見捨てたら、やっぱり俺、一生引きずるんだよ』
……本当に、お人よしだなお前は。
そういうところだけはちっとも進歩してやしない。
……こんな、駄目なあたしなんかに、振り回されて、さ。
『もう、どっちに進んでも、駄目なんだ。何もかも、遅すぎるんだよ。
だから俺は……』
『一番、大切なひとだけを救おうって、そう、決めたんだ』
……あたしが、一番、大切?
……信じて、いいのか?
あたしが、お前を、愛しても、いいのか……?
「……ふうっ」
「お疲れさま。今日はここまでにしようかしら」
「ああ。分かった」
「……なにかあったの?」
「え?なにかって」
「いや、音がブレてるように感じて。
私の勘違いでなければいいんだけど、ひょっとして、この間日本で」
「心配いらない。あたしは今が一番幸せなんだからさ」
「……そう。まあ、あなたがそう言うのなら、そういうことにしておきましょうか」
……同じ芸術家なのに、時々煩わしくなる。
母さんも、そうだったから。
おそらく、いや、周りはきっと気付いている。
今のあたしの音は、揺さぶられていることに。
……幸と不幸の狭間に、押し潰されてしまいそうだということに。
『多分、この先……お前も俺と同じでさ、どっちの道を進んでも後悔すると思うんだ』
……後悔、か。
そんなの、五年前からしっぱなしだった。
それこそ数えきれないほどに。気が遠くなるほど長い間。
『だからせめて……自分の選択で後悔するんだ。好きな人を裏切るなら、そのことを覚えておくんだ』
……お前は、もう決めたんだな。
……あいつを、傷つける選択を。
……あたしがお前をあいつから奪って、幸せを手にする道を。
「……ふうっ」
……それからあたしは、のんびりと家路についた。
……なにもかも、日本とは違う趣の街を。
ゆっくりと、気の向く速さで。
「……」
思わず、口をつぐむ。
今、口からこぼれそうになった単語を、必死で押し込める。
……少なくとも、今のあたしは、まだ、許されていないはずだから。
『そんなことある。あなたはたくさんのものを持ってるよ』
……なにも、ないよ。
人に褒められるような要素なんて。
あたしは、何一つ、持ち合わせてなんかいないのに。
『ピアノに、賞に、女性としての魅力。それに、それに……』
そんなもの、勝手について回っただけだ。
あたしがほしくて手にした訳じゃない。
だって、あたしは。あたしが本当にほしかったものは……。
『愛する、ひと』
……そうだよ。
お前が手にするはずだったものなんだよ。
……あたしにとって、それは……。
『全部、かずさが持ってる』
……禁断の果実なんだよ。
許されないものなんだよ。
……でも、ほしかったんだよ。たとえお前を傷つけても。
『いつの間にか、かずさのものになってる……』
だって、裏切ってくれたから。
あいつが、お前を。
他ならぬあたしが、あいつに頼んだのだから。
『わたし、まるで理解してなかった。
かずさの言ってること、何も頭に入ってなかったんだよ。
本当に、どうでもよかったんだ……』
だから、お前に償いたかった。
意味のないことであったとしても。
単なる自己満足であったとしても。
『だからわからないんだよ!
気がついたら振り払ってた。
あなたの愚かな真似を、必死で止めてた』
……本当に、愚かだよな。
救いようのないくらいに、さ。
そんなことしたって、許されないのは分かってたのに。
……正直、敵わないって、ずっと思っていた。
あんなに素直に自分の気持ちをさらけ出せる強さは、あたしは持ち合わせていない。
五年前から、思い知らされていた敗北感。
あたしは、あんなに強くは、あんなに素直にはなれない。
だから、あたしは背を向けてしまった。
……あいつへの――春希への気持ちに。
『他人にどう言われたっていい。
わたしの価値観を理解してもらうつもりはないし、人に言われたくらいで揺らぐような恋はしてないから』
そう。あいつは揺らがなかった。
自分の想いにどこまでも素直で。
愚直なまでに前向きで。
『でもさ……冬馬さんとだけは、価値観を共有してるって信じてる』
あたしの気持ちまで見透かしていて。
あたしの気持ちを引き出そうと突っ掛って。
それでもあたしは素直になれなくて。
『無駄だよ。
これも、あなたがどれだけ否定しても改める気ないから』
……そして、奪われてしまった。
あたしが求めていた幸せを。
……春希との、物語を。
「はぁっ……」
だから、後悔した。
あの時からずっと、あの二人が付き合うのを見るのが辛かった。
だからあたしは、逃げるしかなかった。
でもそれが、結局あたしたちをズタズタに引き裂いてしまった。
……あたしが、想い出にしきれなかったから。
あたしが春希を、奪ってしまったから。
……二人に対して、罪を犯した。
そして、五年間も逃げ続けて、そして思わぬ再会を果たしてしまい。
……やっぱり、あたしたちが変わることはなかった。
あたしがまたあいつから春希を奪い、今度こそ……。
「……っ!」
……拭い切れない、許されることのない罪を犯してしまった。
あたしの、身勝手な幸せ、それだけのために。
……春希を、巻き込んで。
……生涯、払い切れない罰を課させてしまった。
「……春希?」
「……あ、お帰り」
帰ると、春希が何やらぐったりした様子で椅子にもたれていた。
……何かあったのだろうか?また無茶な仕事でも引き受けたのか?
「……待ってろ。今飯の支度する」
「無理するな。今日はデリバリーでいい」
「……そこで『今日はあたしに任せろ』って台詞が出ないのがお前らしいな」
「当たり前だろ。お前がさせてくれないんだから」
「目玉焼き焦がして火災報知器の世話になる奴なんて信用できるか」
痛いところを突かれ、あたしは思わずどもってしまった。
「うっ……春希っ」
「ははっ、まあとにかく先にシャワー浴びろ。飯はそれからでもいいだろ?」
くそ。何だか悔しいな。
そう思ってあたしは春希を振り返り。
「何だよ?昨日もあんなにしたのに、もうほしくなったか?」
「言ってろ。今日は寝かせないからな」
「ほら。『今日も』だろ?」
「あ……」
「ふふっ。まあ、楽しみに待ってろ」
……そうだな。あたしも今日はいろいろ思うところがある。
春希に余計な負担はこれ以上掛けられないしな。
……なのに。
「うわあああぁぁぁぁっ!」
「……春希っ」
……ああ、まただ。
春希、やっぱりお前……。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
「……春希、大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ……」
明らかに嘘だと分かる一言に、あたしは容赦なく突っ込む。
「大丈夫なものか、馬鹿」
「はは……そんなにイケてないか、俺?」
「ああ。世界一不細工だ」
……そんな訳あるか。あたしにとってお前は、世界一の男なんだ。
……こんなあたしを、心の底から愛してくれる、最高の。
「ごめんなかずさ。俺……」
「言っただろ?覚悟してるって。……これからも、一生引きずり続けるって」
「かずさ……」
「それでも、後悔はしてない。今のあたしには、お前がいるんだから」
「そうか……」
「今のあたしは、お前が側にいてくれるんだから、世界一幸せなんだよ」
そう、それだけは決して揺るがない。
あたしにとって、北原春希は、絶対なんだ。
春希だけが、あたしの生き甲斐。
……なのに、なんだよ、春希。そんなにしょげ返って。
……また難しいことに頭悩ませてるのか。
「ま〜た、難しい顔しやがって」
「い、いへへへへっ」
あたしは春希の頬を思い切りつねり、横に引っ張る。
「あたしの幸せは、お前がいてくれることなんだよ」
「かずさ……」
「こうしてお前に抱かれて、お前の温もりを感じることができる、今が」
……そう、あたしは幸せだ。
だって、お前を愛してるから。お前に愛されてるから。
本当に、他には何にもいらない。お前が側にいてくれれば。
……それが、人の道から外れていようとも。
誰からも認められなくとも。
どれほどの犠牲を払ってでも。
……あいつを、裏切って手にした幸せでも。
そのことが、春希を一生苦しめることになろうとも。
この幸せだけは、絶対に離さない。
……だから、ごめんな。
……あたしは生涯をかけて、お前から奪った幸せを、この甘い幸福を味わい尽くすよ。
雪菜……。
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