「社長……本当によろしかったんですか?」

 空港から帰る道すがら、車の中。
 美代ちゃんが唐突に問い詰めてくる。

「……なにが?」
「本当に、これでよろしかったんでしょうか?」
「あの娘が決めたことだもの。ならいいんじゃない」
「でも、でもぉ……」
「分かってる。美代ちゃんが何を言いたいのかは」
「社長のご病気もあるのに、結局ウィーンに戻ってしまって……」
「今のあの娘が求めている人は、少なくともわたしじゃないもの」

 そう、娘は行ってしまった。わたしの願いも虚しく。
 娘が自ら求めた幸せと共に。愛する人と後戻りのない道へと。





 正直、こんな結末になるとは。
 さすがのわたしでも、想像だにしていなかった。
 あの二人が、自らの幸せのために、他の全てを切り捨てる選択を選ぶとは。
 ……いや、途中から気付くべきだったのかもしれない。
 彼の危険すぎるその危うさに。彼の固すぎるとも受け取れる意志に。
 ……そして、彼自身全く気付かなかったであろう、強がりの裏側の弱さに。





『帰ってくれませんか?俺たちと……あいつと一緒に、ウィーンに』
『別に、逃げる訳じゃありません。二人で相談して、決めたことです』
『曜子さん……あいつには、やっぱりあなたが必要なんです』
『あなたのケアについては、俺が絶対に何とかします。
 日本じゃなくても……ううん、日本以上に、あなたに不自由はさせません』
『だから……一緒に来てもらえませんか?
 あいつのこと……一緒に護ってもらえませんか?』
『あいつが辛い思いをしないように、これからも、あいつを導いて……』

 彼の言葉を聞いて、やはりわたしは彼が逃げていると思った。
 娘は、彼への想いを遂げられて幸せの絶頂にいるというのに。
 むしろ、辛い思いをしているのは娘を選んで婚約者を裏切った彼の方なのに。
 彼はいつも自分に対して不利な会話に入ろうとすると、決まって話題を逸らすなり相手の都合に入り込むなりしてうやむやにしようとしていたから。
 だから分かってしまった。自分の辛さを娘の話に転換しようとしている彼が、その場しのぎの苦肉の策に頼っていることに。
 二人とも、自分たちの選択が理から外れていることは自覚していたのだろう。
 だからわたしに縋ってきたのだ、と。

『俺は、あいつさえいれば、大丈夫ですよ?』
『あいつに護ってもらおうなんて思ってません。
 これからも、自分の人生は自分で切り開きます』
『ちゃんと現地で仕事を探して、言葉も勉強して、二人……いや、三人だって抱えてみせます』
『あいつが側にいれば、それができるんです。
 それこそあいつは、隣で気ままにピアノを弾いていればいい』
『そして俺は、あいつを護るためなら、あなたの力にだってなってみせます』
『だから、一緒に来てください。あいつを世界一幸せなキリギリスにしてやってください』

 だから、わたしは納得もしていない。
 この時彼が言った言葉は、それまでの娘の気持ちそのものだったから。
 『あいつがいてくれれば、他には何もいらない』と言っていた娘の。
 その言葉を呟いていた娘が、前向きな気持ちだったとは思っていない。
 だから分かる。彼も、娘を思うがあまりに何とか現状を打開しようと焦っていたことが。
 ……そして、そのあまりの覚悟の欠如も。

 後になって考えると見えてくる。
 彼の選択が、先のことを考えず何の覚悟も定まらないままにその一時の勢いに流されてしまった見切り発車でしかなかったことが。
 なぜなら彼は、あの時のわたしの答えを聞いても最後まで言わなかったから。
 『あなたと一緒に日本に残る』という言葉は出なかったから。
 最初から、二人の選択肢にはなかったことだから。
 本当にわたしのことを考えての発言ならば、彼の性格からしてわたしの決断を覆そうとしてまで食い下がってはこない。
 『わたしと共に日本に残る』はずだ。『わたしを連れてウィーンへ行く』必要はない。
 相手の都合を考えたうえで、自分の意見を通す。その点では彼は信頼できるから。





「……お疲れ様です」
「美代ちゃんもね」
「それはもう、いつものことですから」
「そう。でも、大変なのはこれからよ」
「はい、それもいつものことです」

 ……一息吐いて、ソファーに身を沈める。
 ……これから、どうなるのだろうか。
 もちろん、二人のことではなく、残された人たちのことだけど。
 特に、彼女は。

 ……わたしのしたことは、到底許されるものではない。
 彼らの得るはずだった幸せを、完全に破壊してしまったのだから。
 直接関与したのはあの二人だけど、そのきっかけを作ってしまったのは、他の誰でもないわたしなのだ。
 あの、ストラスブールでの思いがけない彼との再会で、彼が彼女と婚約するかもしれないと知っていて。
 わたしの願いを叶えるために彼を娘に近づけ、彼を利用した。
 わたしが病に倒れた後でも、娘が自分の足で歩けるように。

 でも、結局娘は自ら閉ざした世界の外に出ることはなかった。
 そして、唯一の心の拠り所である彼に縋り。
 彼を、彼だけをその閉ざした自分の世界に引きずり込んだ。

 ……そして、幸せを手にした。
 彼が手にするはずだった、他の全てを壊して。
 娘が幸せを手にするために彼に払わせた代償はあまりにも大きく。
 彼は、彼女を裏切った。
 娘は、彼女との絆を引き千切った。
 そして……彼女は、彼を失った。





 彼が娘を選んでくれたことには、母親としては感謝している。
 彼が娘を真剣に愛してくれていることは、わたしにも十分伝わった。
 それに、彼が誰を選ぼうとも、それは彼の自由だ。誰の意見も入り込む余地はない。
 だが、二人は失念していた。
 『自由』に対しては、必ず『責務』を負う必要があるのだということを。
 その責務を果たさないままに自分たちの意志を相手に押し付けるのは、自由ではない。単なるワガママに過ぎない。
 彼が娘を選んだことで彼女を裏切り、彼女や彼女の周りの人たちを巻き込んで傷つけてしまったのなら、その行為に対して責任を果たさなくては、二人の選択は相手に受け入れられるものではない。
 そして、彼が娘を選んで彼女を裏切った以上、相手の側からどれだけの抗議や罵り、非難や中傷を受けたとしても、それを全て甘んじて受け止めなければいけない。
 二人にも、自分たちの選択が道理から外れていることは自覚していたはずだ。
 たとえわたしの病気を盾にして正当化したとしても、それは彼女の側には何ら関係のない話だ。彼が彼女を裏切った事実を覆すことにもならない。
 何より、彼女の意志を無視しての選択で彼女を裏切った以上、二人の方から相手に許しを請うことは絶対に許されない。
 自分たちの自己満足を相手に押し付けるだけで、それこそ相手に対する侮辱以外の何物でもない。
 少なくとも、二人は彼女の心の傷に対して正面から向き合わなければいけなかったのだ。
 彼女や周りの人たちと顔を合わせるのが気まずいというのは確かにあるかもしれないが、相手の方も気まずい気持ちであったとしてもそれはやはり二人の身勝手な都合でしかない。
 それこそが二人の『自由』な意志に基づいた選択に対する『責務』なのだから。

 でも、二人はウィーンに行ってしまった。
 二人が自身で付けた彼女の心の傷に背を向け、逃げてしまった。『これ以上彼女を傷つけたくない』だけでなく、『自分たちのせいで傷ついた彼女をこれ以上見ていられない』という理由で。
 本人にその考えがないかも知れなくとも、裏切った二人には反論する資格はないのだから。
 彼にも、娘にも、最初から他の選択肢はなかったのだ。彼らには、彼女に関する全てを諦めていたのだ。
 だから思う。二人がウィーンに逃げて二人きりの世界で幸せを築こうとしても、それは見せかけに過ぎない、と。
 なぜなら、二人は気付いていないから。
 五年前の過ちを、繰り返していることに。
 彼女を裏切ったこともそうだが、その裏切りで娘たちが距離を置いていたこの五年間が、結局何の解決にもなっていなかった、ということにだ。
 娘がこの五年間、彼と距離を置いていても、もう交わることはないと考えていても、結局はこの結果だ。
 彼の方も、娘への想いを先送りにしていただけで、五年間彼女と過ごしていたことさえ何の意味も成さなかったのだ。
 そんな二人が、たとえ彼女とは二度と会わない、と決意してウィーンへ行ったとしても、それは何の解決にもなっていない。
 彼女と距離を置いたとしても二人が逃げ続けている限り、彼女と向き合う覚悟がない限り、時間は無駄に過ぎていくだけで進展はしない。
 実際、二人は五年間ずっと会わずにいた。もう二度と会わない、と決めていた。
 でもそれだけだった。二人の決意には何の覚悟もなかったから、今回の再会でそんな決心はもろくも崩れ、結果二人で手に手を取っての逃避行をしただけだった。
 今度こそもう二度と、と思っていても、先のことなど誰にも分からない。二人が離れることはなくとも、彼女に対する罪は決して償えない。
 でも、二人はもう自分の意志で彼女と向き合うことはないだろう。
 彼が、娘の閉ざされた世界を認めてしまったから。
 そのせいで彼自身が世界を閉ざしてしまったから。
 娘が、彼を自分だけの世界に閉じ込めてしまったから。





「社長。お見えになりました」
「そう。じゃあ通してちょうだい」

 だから、わたしが覚悟する。
 いつか二人に、彼女の傷に向き合う覚悟を決めさせるためにも、わたしが二人の代わりに責務を果たす。
 始まりは、わたしだから。わたしが娘のために彼を近づけ、彼女を不幸にしてしまったのだから。だから今は二人の代わりにわたしが罪と向き合う。
 許しを請うのは許されないのだから。罪を償うことが彼女に対する贖罪には成りえないのだから。わたしはわたし自身の責務を果たすだけ。

 訪問者は、手にしていたケースから楽器を取り出す。
 あまり手入れの届いていない、アコースティックギター。

「じゃあ、始めましょうか」
「はい、よろしくお願いします」

 ……かずさ。北原君。
 今は、わたしが引き受ける。
 だから二人とも。時が至ったら、その時こそ覚悟して受け止めなさい。
 自分たちの選択で、犯してしまった過ちの結末を。
 そして、自分たちが手にするべき、本当の形の幸せをね。

 だから、今はわたしが、目の前でギターを手にする彼女の……





 ……小木曽雪菜さんの全てを受け止める。
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