◇ ◇ ◇



 昼より肌寒さが増した夜のウィーン郊外。まだ慣れない風景の中、一人帰路につく。
 日本に居た頃に比べてはるかに早い帰宅時間に、新米で見習いという立場を痛感し、歩みを鈍くさせる。

 社長からの電話を受け、メールで送られた詳細をチェックしたあとの事務所は慌しかった。
 突然ねじ込まれた仕事に、あったはずの余裕を吹き飛ばされ、電話に確認に問い合わせにと、目まぐるしく状況が動き出した。

 時間が午後を大きく回っていたこともあり、スタッフの二人は苦労したようだが、まだまだ俺は蚊帳の外。
 電話の応対一つ覚束ない俺には肩身が狭いことこの上なかったし、次々に増える雑用に四苦八苦するのが精一杯。
 二人が「Merde!」だの「Scheisse!」だの「Sit!」だの、三ヶ国語で問題発言をぶっ飛ばしていたのを見ながら縮こまっていた。

 やがて冬馬邸に到着した。敷地内に入る鉄格子の入り口を潜って玄関に向かう。
 外灯は点いているものの、歩き慣れない敷地をおっかなびっくりで進みながら、かずさに電話をかけた。

『春希? 着いたか?』

「ああ、いま着いたところ。鍵開けてくれ」

『わかった。今行くよ』

 扉の向こうから音がして、開くと同時にかずさが顔を出す。
 半開きのまま猫のように滑り込むと、かずさは手を広げて抱え込むように俺を迎えた。

「…おかえり」

「…ただいま」

 待っていたように首に手を廻し、俺の頬をついばむかずさに、同じようにして帰宅を告げる。
 そのままお互いに腰を抱きあってリビングに入った。

「あれ、この晩ご飯…」

「ヘルパーさんが気を利かせてくれたみたいでさ、帰ったら出来てた」

 大きな寸胴鍋からいい匂いを漂わせているのはたっぷりのホワイトシチュー。
 温め直すだけで済むし、二日三日と食べられるのは実にありがたい。
 おまけに、朝買ってきた果物を使ったフルーツサラダも添えてあった。

「助かった。今度直接お礼言わなきゃな」

「挨拶も兼ねて、な」

 くっついたままのかずさが羞恥で頬を朱に染めながら、上目遣いで俺を見る。
 あー…つまりそういうこと? 新しい同居人が男で、どういう関係か、もう知られてるって?

「…じゃ、頂こうか」

「春希、平気な顔してるけど、お前照れてるだろ?」

「うるさいな、悪いかよ」

「悪くなんかない。だからさ、見せろよ、お前の照れてる顔」

 そんなかずさはとりあえず知らん振りで、照れ隠しに一度かずさから離れた。
 高そうな革張りのソファーに鞄を置いて、ネクタイをほどき、ついでに上着も脱ぐ。
 そうしてから、空腹の胃袋と鼻孔をくすぐる香りの漂うテーブルについた。

「いただきます」

「…いただきます。って、毎回言うのかこれ」

「神様への感謝の祈りの方がいいのか? 日々の糧を感謝しますアーメンってやつ」

「やだよ面倒くさい。付き合い以外であんな堅苦しいのやってられるか」

「ならこっちに付き合え。あ、これ、俺の携帯電話。あとで使い方教えてくれ」

「…あたしのと同じ、か」

「ああ。メモリの登録とかまだ慣れてないから」

「…そうか。なら仕方ないな。教えてやるよ」

「何が仕方なくて、何でえらそうなんだよ…」

 野菜たっぷりのホワイトシチューを味わい、パンにつけて楽しみ、果物で口を休める。
 その間はかずさと他愛ない会話を交わす。これだけで、半日分の疲れが癒えていく。

「ふぅ、結構食べたなあ…ご馳走さま」

「あたしもご馳走さま…どうする? 片付けるか?」

「そうしよう。手伝ってくれ。洗った後、どこに片付ければいいか知らないし」

「ん、わかった」

 食事が済むと、二人でキッチンに立ち、皿を洗って片付ける。
 ピアニストの指に火も刃物も使わせる気はないが、これくらいはさせる。
 なにより、こうして並んで一緒にやること自体に、ささやかな幸せを感じられるから。

 片づけが終わった後、一服のため、二人分の飲み物を作る。
 どうせこの後は揃って部屋に引っ込むわけだし、少し多めに作ってポットに入れよう。

「グリューワインでも作ってみようかな。かずさ、赤ワインあるか?」

「あるよ。ちょっと待ってろ…ほら、母さんがもらってきたやつ」

「おう、ダンケ…って、これ高そうだな。ラベル読めるか?」

「ん…? ええっと、シャトー・ムートン・ロートシルト」

「ワインには詳しくないんだよな…ま、美味ければいいか」

「同感。あ、砂糖とシロップ両方入れろよ。オレンジの皮は入れ過ぎないで。あと熱くしすぎないで」

「甘くしたけりゃ後で足せ。熱けりゃ冷ませ。俺も飲むんだぞ」

 かずさにクラッカーの袋とストロベリージャムを一瓶預ける。
 でもこのワイン、ホットワインにしちゃっていいのかな…なんかいいワインっぽいけど。

「先に部屋、行っててもいいぞ」

「んーん。ここで見てる」

「…いいけどな。あ、こら、危ないだろ」

「んー…いいだろ別に。じっとしてるからさ…あむ」

「っっ!? っ、おい、やめろって…」

 鍋を火に掛けてる時に背中に乗ってくるな、この甘えん坊。
 肩に顎を乗せるな。腹とか胸板とか撫で回すな。足を絡めるな。耳たぶ噛むな。
 …なによりも、そんな立派なもん二つも押し付けるな! 形が崩れたらどうする!
 というか、台所に立つ伴侶を後ろから悪戯するってのは、本来男の夢だ!

 などと、戯れ合うことしばし。
 出来たてのホットカクテルを移したポットと、シロップと角砂糖をトレーに乗せ、かずさの部屋へ。
 …というか、少ないとはいえ、俺の私物の一切合切を置いてあるから、俺とかずさの部屋と言うべきか。

「ずず…あち! おい、熱いじゃないか」

「文句言うな。ふーふーとかしてやらないからな」

「…ちぇ」

「舌打ちすんな…って、冷ますためだけにシロップ足すのかよ!?」

 マグカップに注いだ温かいアルコールが、今夜のひと時を彩る小道具。
 お互いに部屋着に着替えて、当たり前のようにベッドの上で寛(くつろ)ぐ。
 もう着替え程度では羞恥を覚えなくなっているのに、そこはかとなく不安を感じてみたり。

「今日はお師匠様…フリューゲル先生のところで弾いてきたんだろ? 何か言われたか?」

「ん…まあ、言われたには言われたんだけど…なんて言えばいいのかな」

「…なんか、褒められたって感じじゃないな。ひょっとして怒られたのか?」

「いや、怒られてはない…と思う。でも、あたしのピアノがさ、変わり過ぎたとは言われた」

 …実を言えば、俺の方には一刻も早くかずさに伝えなければいけないことを抱えたままなんだけど。
 伝える糸口を探る一手目の切り出しから、なにやら気になる話が出てきたな…

「爺さんはさ、あたしのピアノが別人のようになってしまったって驚いてた。
 今までのあたしとは全然音が違ってて、でも前より悪くなっているわけじゃなくて、むしろ格段に良くなってるって」

「…それ、褒められたってことじゃないのか?」

「少しは褒められてると思うけどさ。爺さんからしたら、自分の指導はなんだったのか、って話。
 こんなに変わったら、今までの指導とこれからの指導を、どう摺り合わせりゃいいんだって。
 引退間際でやっかいな悩みを抱えさせおって、なんてさ、愚痴られた感じ?」

「…そう、か」

 かずさの師匠(レーラー)、達人(マイスター)マーティン・フリューゲル。
 現代クラシック音楽界の系譜に必ず出てくる歴史的演奏家で、老齢から今年で引退すると聞いている。
 そんな偉大な人でも、この気まぐれな弟子(シューラー)には手を焼くのか。

「かずさ、実は俺も今日な、事務所から…正確にはお母さんから、言付かってきたことがある」

「え…なに?」

「お前の次の仕事が決まった。社長の知り合いがコンマスやってるオケに飛び入り参加だって。
 ピアノとオーケストラの協奏曲を二、三曲…イースターコンサート、つまり一週間後に」

「………はぁ!?」

 はぁ!? だよなぁ、やっぱり。
 でもな、かずさ…たしかに無茶苦茶な日程だけど、お母さんにも考えがあってのことなんだよ…



 ◇ ◇ ◇



『理由はちゃんとあるのよ? それも複数』

「…聞かせて頂けますか?」

『まずひとつ。せっかくの季節行事を逃す手は無い。土地柄もあるしね。
 二つ。春希君が通常業務の流れを覚えるいい機会になる。一度で覚えろとは言わないけど良い材料になる。
 これで仕事の流れを見て聞いて覚えて。一つのコンサートにどれだけの人間が関わるのかを。
 どこにどうお金が流れて、どれだけの人間と才能と義理が動くのかを。期待してるわよ?』

「は、はぁ、ありがとう、ございます?」

『で…三つ目。他にもあるけど、これが一番重要。今のあの子に、何かを『祝う』ピアノが弾けるのかどうか』

「祝う…ですか?」

『そう。出国直前に、かずさと空港で話したこと思い出してたんだけどね。
 あの子、わたしの問いをはぐらかしたところがあったのかもしれない、って思っちゃって』

「…詳しく、お聞きしても?」

『わたしはあの子にこう言ったの。
 贖罪のための演奏なんてつまんない。やるならとことん色っぽく楽しみなさい、って。
 またあなたのピアノ聞くから、どんどんCD出しなさいって。
 でもね…今思い返してみると、あの子一度も、わかったとか、うんとかはいとか言ってないのよ』

「っ、え…?」

『あの子が追加公演の練習を再開した日にね、音を聞きに行ったら、既にほとんど完成してた。
 重い罰を望んでいるような悲壮感溢れる音で…全然わたしの趣味じゃない音に、変質してた。
 人によってはものすごく惹かれる、精神ごと引きずられかねないような音にね』

「そんな…」

『作れる音の幅は、こなせる仕事の幅に直結する。
 どんなに見事な一面があっても、それだけじゃ近い内に飽きられて、干される。
 それにね…あの子、こうも言ってたの。あんたの望む冬馬かずさになれないかもしれない、って』



 ◇ ◇ ◇



「今のかずさには、そんな音しか作れなくなってるんじゃないかって。
 表現力まで一点特化したような、悲しい完成品になってしまったんじゃないかって」

「………」

「それから、協奏曲でやらせるのも。良くも悪くもソロ屋なお前が、また誰かと音を作れるのかって。
 これからのお前を占う、試金石にするって。ここが…分水嶺なのかもしれない、って…」

 ベッドに腰掛けたまま、いつの間にか俺の手を握ったまま、かずさは一言も返さない。
 俯いたまま何を言うでもなく、無意識にか、俺との距離を消すように身を寄せて。

 かずさが何を思っているのか、今の俺には推し量れない。
 有象無象としか見れない相手と一緒になんかやれない、なんて言わないだろうか。
 あの頃の、母親に見切られたと思っていた昔のように、変にへそを曲げてしまわないだろうか。

『そうなった時には…また、あなたが引っ張ってあげてね』



 社長はそう言って電話を切った。つまり俺は、諌め役としての役割を期待されているわけだ。
 それを不満には思わない。実際、今の俺にはその程度の仕事しかできないのだから…

「不愉快に…思うか? でもな、これは純粋に娘を────」

「わかった。やるよ」

「────想っての愛情からなんだってことお前なら………って、え?」

 …なんて、俺のおこがましくて下種な勘繰りを、かずさは一刀両断してみせた。
 はっきりと、きっぱりと。いっそ清々しいほどに、肯(がえ)んじてみせた。



「かずさ…?」

「なんだよ、その意外そうな顔は。あーあ、あたしって信用ないんだなー。やっぱりやめよっかなー」

「お、おい!?」

「冗談だよ、本気にするな。やるよ…祝いのピアノ、弾いてみせる」

 言いながら俺を見つめるその目には、確かな決意の光が宿って。
 こうと決めたら頑として引かない、本当にかずさらしい輝きに満ちていた。

「春希はこれで仕事を覚えるんだろ? つまり、春希にも必要な経験なんだよな?
 なら、あたしにとっても必要な仕事だ。断る理由なんてありっこない」



 ああ…このかずさはきっとやってみせる。
 俺が…この世の誰より頼もしく感じる時のかずさだ。
 もう…この状態より上なんて無いんじゃないかって思えるような。



「お前がやっていけるようになることを、当面の間は最優先にする。だからさ、弾くよ。
 お前は下らない心配なんかするな。あたしの心配より、自分の心配した方がいいぞ?」

「っ…かずさ…」

「気張れよ、素人マネージャー。あたしが引っ張ってやるからさ」

「………っ、かずさ!」

「あ…っ!」

 この…馬鹿。なんて台詞吐きやがる。
 この…馬鹿。なんて格好つけやがる。

 俺にこれ以上、お前が眩しくて仕方なくするつもりか。
 俺をこれ以上、お前なしじゃいられなくするつもりか。

 お前なんか抱き締めてやる。お前なんか閉じ込めてやる。
 もう一生、俺という鎖に繋いで、どこにも行けなくさせてやる。
 俺という檻の中に護られて、他の所なんか行かなくさせてやる。

「っあぁ…春希…だからさ…春希」

「…なんだ。離してなんかやらないぞ」

「いいよ…いいからさ…春希ぃ」

 俺の目は節穴だ。本当のことなんかいつも見えやしない。
 本当に大切なことほど、ろくろく見せちゃくれやしない。
 ごめん…ごめんなかずさ。誰よりも、俺が信じてやらなきゃいけないのに。
 肝心な時に鈍くて、情けないこと極まりなくて、本当にごめんな。

「あたしのこと…信じてくれよ。かわいがって…くれよ…」

「愛してる、かずさ。お前がもう嫌だって言うまで、全身全霊で愛しまくってやる…!」

 今夜の俺は、野獣もかくやとばかりに荒れ狂うだろう。
 実の母すら気付けなかった、大きく成長したこいつを貪り尽くしてやる。
 俺のためならいくらでもポテンシャルを上げる悲しい芸術品を、愛し尽くしてやる。

「嫌だなんて…一生言うもんか…っ!」

「なら…一生、俺に愛されろ…っ!」

「っは、あぁぅ…っ…はるき…春希ぃ…っ!」

「覚悟しろ…かずさ…っ! かずさ…っ!!」



 ◇ ◇ ◇



 精も根も尽き果てたかずさは、体液に塗れたままの婀娜(あだ)たる肢体をベッドに投げ出していた。
 かろうじて起きてはいるものの、その蕩けきった恍惚の表情から窺うに、意識は朦朧としているようだ。
 連日で、よくもまあお互いに、ここまで貪欲に求め合うことができるものだと呆れざるを得ない。

 俺はそんなかずさの髪を撫でるように梳きながら、枕元の携帯電話を手に取った。
 3月25日、01時30分。この時間なら、むこうは同日、09時30分。もう大丈夫だろう。
 俺はかずさに教えられた通りに登録した番号を呼び出し、通話ボタンを押した。

『お電話ありがとうございます。冬馬曜子オフィス、工藤でございます』

「お疲れ様です、欧州支部の北原です。工藤さん、おはようございます」

『あぁ、北原さん、お疲れ様です。そちらはどうですか?』

「おかげさまで、色々とうまくいきそうです。あ、これが私の携帯電話になります。
 24時間出られますので、事務所で繋がらない時はこちらにおかけ下さい」

『はい、畏まりました。それで、何かありまし…たよねぇ、色々と…』

「ええ、色々と…工藤さんの苦労の一端、垣間見させて頂きました…」

『あ、あはははは…恐縮です…』

「で、本題ですが、実は社長にご許可を頂きたいことが幾つかありまして」

『はい、承り…あの、許可ですか? 質問とか、説明とか、文句とかじゃなく?』

「…最後のひとつは聞こえなかったことにしまして、ええ、許可と…検討して頂きたい案が、幾つか」

 かずさは何も心配いらない。俺と社長の懸念は杞憂に終わった。
 だが、まだだ。これだけで済ませはしない。

 窮地に見えたこの件はしかし、俺たちの好機だった。
 なら、俺の仕事はこれだけでは終わらせない。終わらせてはいけない。
 俺は新米の札が剥がれていない見習いのマネージャーではあるが、足掻く余地はある。

 この機を活かす。北原春希は貪欲なんだ。

 俺に出来る事は他に無いなんて、卑下するのはもうやめだ。
 俺にだって、まだまだやれることがあるはずなんだから。



 ◇ ◇ ◇



 日々は瞬く間に過ぎ去った。

 かずさは一人練習に励む、ことはなく、なんと自ら先方の練習に赴き、そちらで音を合わせた。
 これは欧州スタッフにも、工藤さんにも、そしてもちろん社長にも、驚天動地の大事変に映ったらしい。

「揃いも揃って失礼な…だいたい、合わせる相手がいるんだから当然だろ」

 というのは本人の談だが、自業自得、明々白々、お前が言うかと突っ込みたくもなる。
 そして、急な話ながら、先方の反応も良く、音合わせも問題なしと、身内の不安を吹き飛ばした。

 むこうはウィーンに腰を据えているとは言っても、この界隈では鳴かず飛ばずの弱小オケらしい。
 しかし、冬馬曜子の知己というコンマスの女性は、ほとんど趣味でやっていると豪語する磊落な方だった。
 そして集まっている面子も、昔からの付き合いや、その息子や娘で構成されており、問題も少なかったようだ。
 会場は郊外の小さな教会兼ホールで、神父様も、聖歌隊の子供たちも、皆々近所の付き合いというのも大きかった。

 少し驚いたのは、メンバーの多民族構成だった。
 ヨーロッパの人間だけでなく、黒人やモンゴロイドも多く混じっており、髪の色も肌の色も多様。
 聞けば全員こちらに住んで長いらしく、中にはオーストリア国籍を持っている者や、二重国籍の子もいるという。
 面子に混ざるにあたって、こういう環境だったのは、日本人のかずさにとって幸いの一語に尽きた。

 かずさのコンディションについては、もう言うまでも無い。
 あいつがその気になったら、半人前のギタリストもどきにだって難なく合わせることができる。
 どころか、ぐいぐい引っ張って、どんどん上へと導いてさえみせる奴なんだから。

 合同練習は順調に進み、弾かせてもらうことが決まった二曲も、難なく完成させたようだ。

 そして、イースターコンサート当日。
 かずさの準備は…すべての準備は、万全に整っていた。



「おい…春希」

「うん、そのドレス、よく似合ってるぞ。やっぱりお前は黒が映えるな」

「…とりあえずありがとう。で、それは置いといて…」

「十一曲のうち、たった二曲だ。気楽に行って、楽しんでこいよ」

「露骨に誤魔化しやがって…あれ、母さんの仕業か? お前の仕業か?」

「…さて、なんのことやら」

 聖歌隊の子供たちのアヴェ・マリアを舞台袖で聞きながら、かずさは客席を見て溜息をついた。
 そんなかずさを相手に、俺は空々しくとぼけて見せていた。



 …聴衆には、ウィーンに在住する、冬馬曜子の友人という友人が何人も混じっている。
 もちろん、そのほとんどは、この地で活躍している現役の音楽家たちだった。

 そして、予定があって来れない本人に頼まれ、代理として、配偶者や親兄弟が来ていたりもする。
 その方々も音楽の道に名を刻む人たちばかり。その目当てが、かずさのピアノだと俺は知っている。



「…どんな手を使えば、あんな錚々(そうそう)たる顔ぶれ集められるんだよ。
 誰も彼も、こんな小さなコンサートに来るような人じゃないぞ…?」

「さりげなく先方に失礼なことを言うな。祝日を利用して、親交を深めてるだけじゃないのか?」

 白々しくあさっての方を向く俺は、当然のこと真相を知っている。
 事実だけを言えば、今ここに来ている音楽の名家たちに、声をかけたのは確かに俺だ。

 別に、来てくれと懇願したわけではないし、何かしてくれと頼んでもいない。
 それに、俺が声をかけた人全員が来てくれているわけでもなかった。
 あの方々は、自主的に集まってくれただけに過ぎないんだから。



 ◇ ◇ ◇



「お初にお目にかかります。お噂はかねがね。本日は冬馬の代理として参りました」

「恐縮です。まだまだ言葉も覚束ない未熟者でして、ご無礼がありましたら、どうかご寛恕下さい」

「私は日本で冬馬とといくつか仕事を同じくしまして、その縁でこのような役目を仰せつかっております」

「あはは…お察しの通り、彼女の無茶苦茶に巻き込まれまして、なんの因果かこのようなことに」

「はい…実を言えば、弊社の冬馬曜子は病状が重く、此度の仕事につきましても、些かならず不安の種がありまして」

「それというのも、娘である冬馬かずさのピアノについて、色々と複雑な評価を受けておりまして…」

「はい。皆様が仰るには、彼女のピアノが劇的に変わった、と言うより、変質してしまったと…」

「そのことで、フリューゲル先生も大変悩まれているそうなのです」

「ええ、かのマーティン・フリューゲル先生でございます。今年で引退というのに、最後の弟子がこんなことに、と」

「決して悪くなったということではないそうです。むしろ急激に伸びたと。ですが、あまりにも…」

「はい…そういった次第で、動けぬ身の社長は、そのことを気に病んでおりまして」

「普段の彼女、昔の彼女を知っておられる方々は、皆揃って『そんな曜子は初めてだ』と」

「私自身は元々この世界の人間ではありませんので、こうして冬馬の手足としてしか動けないのが歯痒く…」

「ありがとうございます。弊社社長からは以上です。お忙しい中、お時間を頂きましてありがとうございました」

「はい。今後どのようなことになろうとも、冬馬親子の一助にと、精励する所存でございます」

「痛み入ります…これは私の個人的なお願いとなりますが、まだ会話が可能な内に、ご連絡のひとつも頂ければ幸いです」

「はい。微力を尽くします。本日は…ありがとうございました」



 ◇ ◇ ◇



 誓って言おう。嘘は一片も無い。事実そのものだ。
 ただ、ことさら大袈裟に、不安を煽るように、興味を引くようにデコレーションしただけだ。
 そして、この一週間、四十件くらいそんなペテン…もとい、営業に回っただけだ。

 拙いドイツ語を補強してくれたうえ、俺の顔と名前を運んでくれた事務所のスタッフには感謝しきりだ。
 極東の地で捕まえた、畑違いの青二才を使わなければならないほどの手詰まり、という演出が大切だったし。

 ことの始まりは、俺が日本オフィスにかけた一本の電話。
 冬馬曜子と親交が深く、かつ今までにかずさの演奏を聞いたことがある知人を片っ端から教えてもらう。
 そして彼らの興味を引くために、一芝居打ってみたいと、親ばか社長に許可を願った。

 弊社社長には「後でバレても、てへ、ゴメンね? で済ませてみせるわ」とのありがたいお言葉を頂いてある。



 タチの悪い詐欺…じゃなくて、悪意の無い悪戯の内容はおおよそ三つ。

 まず、かずさのピアノが劇的に変わったこと。
 次に、高名なフリューゲル先生が頭を悩ませたということ。
 そして、重い病に伏して動けない曜子がそのことを気に病んでいるということ。

 これらを吹き込む狙いは以下の通り。

 俺が関係者の顔と人となりを覚える。
 俺の顔と名前、そして役どころを関係各位に知ってもらう。
 かずさの変わりように興味を持ち、新しい仕事を振ってもらえることを期待する。
 曜子さんの知人を集める事で周囲の注目を集め、コンサート自体の興行的成功と収益の上昇を狙う。

 別に大したことはやっていない。
 新米社員として、足を使って宣伝と広報をしただけだ。

 俺は俺のできることで…今の北原春希に可能な限りで、最大効果を目指しただけだ。



 ◇ ◇ ◇



「複数の仕事に対しても絶大なキャパシティを発揮し、並列計画、並列処理を臨機応変にこなす。
 一石で三鳥四鳥と求める仕事への貪欲さを持つ。行動力も抜群の、マルチタスクの申し子。
 アンサンブルの編集長は、彼を…春希君を、そう評価してたわね」

「ベタ褒めですね…」

「ちょっと大袈裟ねぇなんて思ってたけど、フタを開けてみたらその通りだったわ」

「北原さん、やれそうですね。思った以上に」

「当然よ。かずさが惚れて、わたしが見込んだ義子(むすこ)だもの」

「…そういうのも、惚気って言うんでしょうか」

「いいじゃない別に。頼りになるに越した事はないでしょ?
 わたしの無茶に、新たなメリットをプラスしてやってのけようとする………彼、いいわ。
 美代ちゃん、随時サポートお願いね? そのうち、わたし以上の無茶するかもしれないから」

「うう…せっかく同じ苦労を分かち合える仲間ができたと思ったのにぃ…」



 ◇ ◇ ◇



 今の俺はもう、ふらついた心とあやふやな態度で右往左往していた、付属時代の俺じゃない。

 俺はこれまでの人生で、多くの人と共に歩み、多くの人のお世話になって、今日までを生きてきた。
 その中で、積ませてもらった経験と叩き込まれた知識、注いでもらった愛情が、俺の中で息づいている。

 俺のこれからの人生は、多くの人を踏み躙り、多くの人の想いに逆らって、その果てに求めたもの。
 その中で、新たな世界と畑の違う仕事へと、俺の持てる限りを全て注ぎ込んで、ただ一人のために歩む。

 俺は最低でいい。人間の最底辺で構わない。
 自らの望みのためには手段を選ばない、唾棄されるべきエゴイスト。
 それこそが北原春希の本性。そして、これからの俺のルーツとなるのだから。



「勝手にハードル上げやがって…どうせお前も一枚噛んでるんだろ?」

「ご想像にお任せします、とだけ言っておこうか。それより…いけるか?」

 少年たちの美声による聖歌が終わり、客席から拍手が鳴り始めた。
 いよいよ次がかずさの出番となる。俺の仕事はここまで。ここからは、かずさの仕事だ。

「誰に言ってるんだ、馬鹿。大丈夫だって」

 俺たちが仕掛けた小細工など、少しも気にせず、気負いもせず、かずさは颯爽とステージへ向かう。
 そうか。大丈夫なんだな。久々に聞いたよ…一片の疑いもなく信じられる、お前の大丈夫は。

 俺が言わせた大丈夫って言葉には…まだ、苦い記憶が多いけど。
 俺が口にした大丈夫って言葉には…ただ、重い罪科が滲むけど。

 きっと、今この時から、疑いなく大丈夫って言えることを積み重ねていこう。
 そして、今この時から、辛く苦しく悲しいのに幸せという罪を重ねていこう。

 いけ、かずさ。俺たち二人の小さな世界を、大きな世界に見せびらかしてやろうぜ。

 舞台袖で一人密かに決意する。
 お前のピアノを観客として聞くことは一生ないだろうけど。
 お前のピアノを観客に届けることで感じられる幸せに浸る。

 いけ、かずさ。俺にはもう、このコンサートは大成功するって心から確信しているから。



 ◇ ◇ ◇



「じゃ、乾杯」

「何に乾杯?」

「そうだな…大いなる父の愛し給うた御子の復活と、初仕事の大成功に」

「うっわ、気障ったらしい…キモいぞお前」

「言ってろ馬鹿。まぁ…乾杯」

「ん…乾杯」

 きぃん、と、安物のグラスが甲高い音を立てて触れ合う。
 俺とかずさは大成功に終わったコンサートと復活祭を祝う食事会を、ワイン片手にそっと抜け出していた。
 会場を出た俺たちは、どちらかが言い出すでもなく、自然とコンサートホールに向かった。

 こうして客席から見てみると、このホールは教会を意識して作られていることがわかる。
 正面上部に磔刑に処された御子の像。天使の描かれたステンドグラス。
 重厚な外観でありながら明るさを感じさせ、ドーム状の天井にも見事な宗教画が描かれている。

 俺たちが手にしているこのワインは、裏切りの使徒が口にした物となんら変わらないものかもしれない。
 そうだとしても、俺たちはそれにこそ幸せがあるとの傲慢な主張のもと、こうして愛を育んでいくのだろう。

「なぁ、ステージ、立ってみないか?」

「おい、いいのかよ。曲がりなりにもそこは楽師たちの聖域であって、俺なんかが立っていいものじゃ…」

「いいから来い。誰もいないんだし、こんな日まで堅物にならなくたっていいだろ」

「…知らないからな、まったく」

 かずさのピアノは…それはもう、素晴らしいなんて陳腐な言葉しか出てこないくらいに凄かった。
 全ての曲目が終わり、最後に神へのお祈りを観客を含めて全員で行った後、かずさのもとには人だかりが出来ていた。
 聖歌隊の子供たちに振り回され、コンマスの女性に握手を求められて真っ赤になり、百面相を見せつつ困惑しきりだった。

 曜子さんの友人たちも、態度こそ様々だったが、おおよそ好感触と言えるだろう。
 苦言を呈する人、褒め称える人、目尻に涙を湛えた人と、かずさの狼狽ぶりは見ていて笑えてしまった。
 それでも決して悪評は無く、むしろ一目置いてくれたようにさえ見えた。

「社長にいい報告ができそうでなによりだ。凄かったぞ、かずさ」

「当然だ。でも…気分がいいからもっと褒めろ」

「ああ、褒めるさ。凄いぞ。偉いぞ。抱き締めて頭とか撫でたくなるくらい」

「あたしは犬か。まぁ…似たような扱いされてるけどさ」

「嫌か?」

「まさか。だから早くご褒美よこせ」

「おっ、と…ワインこぼすなよ。この礼服一着しかないんだから」

 誰もいないステージの上で、かずさが俺の胸に寄り添ってきた。
 アルコールと髪の香りに、痺れにも似た感覚が俺の体に走る。
 御子にお叱りを受けてしまうかもな。神聖な場所でいちゃつくんじゃありません、なんて。

「今日のピアノは、さ…神様に感謝しながら、弾いたんだ」

「…感謝、か。どんな?」

「あたしとお前を会わせてくれて…ありがとうございます、って」

「…それは、俺も感謝しなきゃな」

「祝いのピアノって…実はあんまりピンとこなくてさ。なら、感謝ならどうかな、って」

 かずさの頬と俺の頬が触れ合う。自然、互いの言葉は互いのすぐ耳元で聞こえる。
 まるで、聖なる場所で卑しい秘め事をしているような背徳感を覚える。
 というか実際、あんまり間違っている気がしなかったりするけど。

「綺麗に嵌ったよ。祝いの日に感謝のピアノ。ほとんど苦労しなかった」

「流石だよ、お前…これからの心配が一気に消えて無くなった」

「無いさ…心配なんて。あたしがいて…お前がいれば、心配なんて無い。幸せしか…ないさ」

「かずさ…」

「愛してる、春希」

 だけど神さま、あと少しだけ、この卑しき恋人たちに、愛を語り合う時を下さいませんか。
 だから御子様、あと少しだけ、この罪深き咎人二人に、時と慈悲をお与え下さいませんか。

 御前(おんまえ)にて、今日この時をお祝い致します。
 我ら二人、許しは請いません。ただ、我らが共に生きる、春を…希(こいねが)わせ給え。

「俺もだ、かずさ。愛してる」

 かずさと世界は俺が繋ぐ。
 かずさの未来は俺が紡ぐ。

 ただ只管(ひたすら)に感じるかずさの求める幸せ。今そっと触れ合わせた唇の温もり。
 ただこれのみを糧として、俺はお前を護る強さを得られる。

 俺にも信じる神がいる。尽きせぬ愛を注げる人がいる。

 俺はいつでも、心の中でも、その名を呼ぼう。
 かずさ…かずさ。



 − DAS ENDE −






作者から転載依頼
転載元
http://www.mai-net.net/
作者
火輪◆a698bdad氏
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良いですね。
春希ならこのくらいはやりそうなところが。
それに関しての曜子さんの感想も。
ちょっとかずさが人間的に出来過ぎな気もしますが。

1
Posted by ほよよ 2014年01月02日(木) 18:23:19 返信

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