―January 5th―

半ば強引にタクシーに同乗し、
行き先を運ちゃんに告げたのが約1時間前。
そして今はもう日付もとうに変わった深夜1時。
そんな時間に私は、意中の相手の1人暮らしのマンションにお邪魔している。
変なくすぐったさはあるが、喜びの感情は一切ない。

着替えを済ませた彼は、
もう1分の余裕もないとばかりにベッドに倒れ込む。
体温計の在り処を聞き、渡して測ってもらうと…案の定アラフォーの数値が。
今からでも医者に…と勧めても彼が頑なに拒否をするから、
私としてもこの場でできるだけの処置をするしかなかった。

中川「なんかあったら遠慮なく言ってくださいね」

北原「…ああ、ありがとう…。
   でももう遅いから、早く家に帰った方が…」

中川「ふぅ!いまさら何言ってんの北原さん。
   私も眠くなったらそのへんで適当に寝ますから心配しないでください」

北原「いや、それは…」

中川「…何も気にしないで眠ってください。
   それだけが私の…そして、小春ちゃんの望みだと思いますよ?
   今度は私が、北原さんを助ける番です」

明日の北原さんのシフトは、
私が代わりに出ることを約束した。
体調が回復したらまたお礼をしてもらうからと、
これもまた半ば強引に納得させた。

中川「コンビニに行ってきます。鍵だけ預かっておきますね。
   すぐ帰ってきますから」

見れば冷蔵庫はほぼ空っぽに近かった。
だから色々と調達しに行く。
病人でも食べられそうな食材や飲み物。
あと、…自分のお泊りセットなんかも。
願わくば、戻ってきたとき彼が安らかな寝息を立てていますように。

…………………

戻ってきた私に彼はかすかな声で、
3つほど日本人のよく使う言葉を並べた。
『おかえり』 『ありがとう』 『ごめんね』
つまり私の望みは叶わなかったということだ。
今はまだ、眠気よりつらさの方が先立っているのだろう。
安定しない呼吸音が静かな部屋に広がっていく。

冷蔵庫をたった今買ってきたものなんかで整地し、
いつでも出せるようにして、ベッド前に着席。
どうしようかな、シャワー借りる?
いやそれは朝の方がいいな。
とりあえず北原さんの寝息が聞こえるようになるまで粘ろう。

…部屋を見渡すと、非常に殺風景だと言わざるを得ない光景が広がる。
1人暮らしをするのに最低限度のものしか存在せず、
趣味の匂いは一切しない。
こんな部屋で3年も一人で暮らしてきたんだ。
彼女たちへの想いだけを胸に、たった一人で…。

彼の修行僧のような今までの生活を思うと、
涙が溢れそうになる。
鼻の奥に痛みが走り、
目の前の風景が揺らぎ始めた瞬間、
苦悶の表情の北原さんが口を開いた。

北原「中川さん、ほんとにありがとう、助かった。
   正直ギリギリだった。…危なかったと思う」

中川「明日はちゃんと病院行ってくださいね。
   それ以外の行動は原則禁止!わかった!?」

北原「!………わかった」

職場とはまるで逆の立ち位置に、
彼は目を丸くし、少しだけ微笑んだ。
私がいることで安心感を少しでも感じでくれているなら本望だ。
今は、それでいい。
気を抜くと邪な私が顔を出そうとするが、
今は、それだけでいい。

北原「…なぁ…中川さん」

中川「…なに?」

北原「…俺は、どうすればいいのかな」

中川「…何について、です?」

弱った時にこそ本音というものは口をついて出るもの。
それはクリスマスの2人が実証済み。
その延長戦が今突然、始まったのだろうか。

北原「前にも言ったけどあの日は…泥のように眠れたんだ」

あの日とは、クリスマスの日ね。

北原「でも…その時はうまくごまかせたけど、
   それからは一度も心の平穏がない。
   眠れないから、ずっと考えてしまってる」

中川「………」

北原「…どうすればよかったんだろう、とか。
   どうすれば償えるんだろう、とか。
   ………でも答えなんて出ない」

中川「…うん」

北原「そうこうしてるうちに心も身体もバランスを崩していってこのザマ…。
   本当に情けなくて自分が嫌になる」

中川「そんな…」

北原「全部自分が蒔いた種なのに。
   全部………全部、俺が悪いのに!!!」

中川「っ!北原さん興奮しないで!
   体に障るよ…」

突然の感情の暴発。
完全にコントロールを失っている。
そうだ。鬼軍曹なんて揶揄される程に隙のない彼も、
一皮むけば一人の弱い人間なんだ。
こんなにも…脆い。

北原「…どうすればいい?
   何をしようとしても足が竦むんだ。
   …雪菜に、なんて言えばいい?」

中川「北原、さん…」

北原「俺…は…。
   うぅ…うあ…ああぁぁぁぁあああ………」

中川「………」

北原さんが泣き崩れたのを見て、
私もひっそりと、涙をこぼした。

私は今まで、少し勘違いをしていたのかもしれない。
北原さんや、小春ちゃん。
どんな時でも真っ直ぐな2人と、自分を比べすぎていて、
自分の事を悪く思い過ぎていたのかもしれない。

確かに、私は彼らの事を羨んだ。
そして、いつも何か別の意図を隠し持っているような自分を、
『嫌おう』としていたふしがあった。
それは、前に親友相手に致命的なミスを犯した自分の愚かさを忘れないための、
独善的な自己犠牲の精神だったように思う。

でも今私の頬を伝うこの涙は、
決して自己犠牲に酔ってのものではない。
誰かのことを深く思い過ぎて、
胸の中に収めきれずに溢れてきた美しい、本物の涙だ。

自分を嫌いになったりもした。
真っ直ぐな他人を羨んだりもした。
でも、私は私で、くだらないなりにも、
手を抜かずに真剣に悩み続けてきたと思う。
目の前の彼の事で、心を痛め続けてきたと思う。


…そう、今は、北原さんが好きだって。
守りたい、って思ってる。


北原「あああぁぁぁ…う…う…うぁあぁああああ………」


中川「…うん…うん…」


千載一遇のチャンスのようなこの状況に、
私は、何も言わず彼を見つめ続けることを選んだ。
ただただ、彼の心の平穏。
それだけを、願えていた。

…………………

中川「いらっしゃいませ〜!」

小春「い、いらっしゃいませ〜!」

来客があったことを示す電子音を、
いち早く察知したのが私。
2番手が、彼女。
普段なら逆なことが多いのに、
今回こういう並びになったのにはわけがある。

中川『そうなの。
   昨日帰った後なんか熱を出しちゃったみたいでさ』

小春『えっ…熱、ですか?』

中川『だから急遽変わってくれって頼まれてさ。
   まぁしょうがないね。
   北原さんにはちょうどいい休みになるんじゃない?』

小春『大丈夫なんですか?
   ほら、北原先輩絶対いろいろ疲れて…』

中川『まぁ本人大丈夫って電話越しに言ってたけどね。
   …色々聞いちゃった分さ、
   こっちも色々考えちゃうけど…。
   そのへんは、北原さんを信じようよ。
   病気とか傷心とか、そんなんでダメになるほど弱くない…ってさ!』

小春『………』

小春ちゃんが目を丸くして少し驚いてる。
なんだろう。
普段の私と違うかな?
喋ってる感じとか。

中川『私たちにできるのは、
   店を支えてくれたあの人に安心してもらうことぐらいだよ。
   よし、今日もがんばろうね、小春ちゃん!』

小春『…は』

ピンポンパンポ〜〜ン♪

で、話はこのverseの頭に戻る、と。

電話越しってのは、ハッキリと嘘だ。
でも、彼が熱を出したのはハッキリと本当だ。
彼女は嘘に敏感だ。前例もある。
だからせめて自信満々に、堂々と虚実を織り交ぜる。

正直、身体はもうくたくただ。
私も熱を出す一歩手前くらいまで来てるかもしれない。
でも、今日だけはこの堂々とした、
私じゃない私で乗り切ってやる。
部屋で寝込んでるか、もしくは今頃医者にかかってるだろう、あの人の為に。

小春ちゃんが驚いた顔をしたのは、
私の態度に、私じゃない何かを嗅ぎ取ったからなのかも。
そりゃあ、そうだよね。
だって今日の私は、北原春希なんだから。

…………………

『やってやれないことはない』。
どこかの視聴率男のドラマで聞いたようなセリフだが、
それを今日ほど実感したことはない。
私は結局満身創痍の身体で混乱の店内を、
とても爽やかに、華麗に泳ぎ切ってみせた。
…毎日続けてたら身がもたないだろうけどね。

そして我が身は、休憩室。
他の2人より先に自分の仕事を終え、
応接用の椅子に凭れ掛かっている。
眠ってしまえそうな微睡の中に、
突然侵入してきたのは人騒がせな社会人見習いの姿。

佐藤「お疲れ!中川さん!
   ちょっと急ぎの用があるんで戸締り任せていいかな?」

中川「いいかな?って…もう着替えて帰り支度済んでるじゃないですか。
   あれでしょ?
   昨日の今日でもう打ち合わせするんでしたっけ?
   勝手に行けばいいじゃないですか」

佐藤「恩に着るっ!
   じゃ、また明日ね!」

バタン!

恨みがましい私の口調も意に介さず、
ロマンティック浮かれモードの彼は夜の帳の中へ。
その先に光があるのかは知りませんがね。
余談だが、チーフの私はスタッフ用のマスターキーを持たされている。
だから安心して彼は飛び出して行けたのだと思うが、
…ほんまに正社員になりたいんかいな。

少しだけ覚醒した私の脳内に、
先ほど確認した北原さんからのメールの文面が蘇る。

『お疲れ。
 昨日はありがとう。
 そして、今日は代わってくれてありがとう。助かった。
 診察受けてきました。ただの風邪だそうです。
 インフルとかじゃなくてよかった。
 でも2、3日は安静だそうなので、
 その間店に迷惑かけるけど、ごめんな。
 よろしくお願いします。   北原』

差出人の分かりきったメールの最後に、
何故彼は自分の名字を入れてしまったのか。
このあたりが彼の混乱具合や草臥れ具合を示してるのだと思うが、
不謹慎にも笑ってしまった罪深い私。
そしてさらに不謹慎なのが、
こんな形だけど、長文メールを貰えてうれしいと思っている私だ。

明日は遅番のみ。
今日ゆっくり眠れば、絶対にあと2、3日は乗り切れる。
だって今日、確信した。
大事な人の為に行動する人間は、本当に強い。
そして何より、ひたむきになれる。

メールの文面から考えると、
彼は間違いなく2、3日で復帰してくるだろう。
基本不言実行を貫く彼が、有言不実行になる光景は想像できないから。
その時までに、彼は答えを出しているのだろうか?
熱に魘された状態で私にした質問の、その答えを。
分からない。

ガチャ…

分からないけど…。

小春「チーフ!表の施錠と最終チェック、終わりました!」

中川「お疲れ!小春ちゃん!
   紅茶淹れたから、ちょっと一服してから帰ろ?」

私は…私なりの答えを出した。
今から、答え合わせ。
公務員試験の過去問のように、
公式な模範解答なんて、ないけれど。

…………………

小春「北原先輩いなくてもなんとかなるもんですねぇ。
   ま、他のメンバーみんなが危機感を持ってたからかもしれないですけど」

中川「怪我の功名ってヤツ?
   まぁそれでも明日明後日を考えるとちょっと怖いけどねぇ」

小春「そこは前向きに頑張りましょ!
   北原先輩にも休みは必要ですし。
   ちょうどいいじゃありませんか」

中川「そうだねぇ。
   あの人、根を詰め過ぎてたよねぇ…」

熱めの紅茶を啜りつつ、遠い目。
私たちはきっと2人とも、同じ感覚を共有している。
彼の艱難辛苦に満ちた3年間に、想いを馳せている。
だから自然とこういう結論になるはずだ。
『いいよ、ゆっくり休んでちょうだい』…と。

中川「それより小春ちゃんこそ身体壊さないでよ!
   あなたに抜けられたら本当にこの店終わっちゃうから!」

小春「中川さんにそのセリフはお返ししますよ。
   せっかくの休みを棒に振って…。
   元気になったら先輩になんかおごってもらいましょうね!」

中川「あはは、そうだね〜」

小春ちゃんは、仕事中は私を『チーフ』と呼び、
ひとたび解放されると『中川さん』になる。
こんな使い分けを完璧にこの若さでされると、
『この子には敵わない』と強く思い知らされる。
それは、彼女の真っ直ぐさに触れて知った劣等感にも似た感情だ。

でも私は、あの時ほど悔しくはない。
劣等感は、正面から受け止めればなんてことない、
むしろ自分を成長させる側面すら、ある。
そして今は、正面から受け止められるほどに精神が安定してる。
だから私、成長したんじゃない?

小春「北原先輩…これからどうするつもりなんでしょうね…」

中川「うん…わかんないね…」

小春「中川さんは、どうするのがいいと思います?」

中川「!」

驚いた…というより、とある設定を忘れていた。
それと同じ質問を私は、あろうことか本人から受けていたからだ。
そうだ、この子は『小さな北原春希』だった。
…小春希とでも名付けようかな。

中川「う〜ん、それこそわかんないな。
   北原さんが後悔しないようにって、願うだけだね」

小春「そうですね…おっしゃる通りだと思います…。
   でも私は、小木曽先輩を好きになれそうにないから…」


その先は…
『できれば、頑張らないでほしい。』とかかな?


中川「…小春ちゃんは、北原さんのこと、好きなの?」


小春「え………」


切り出し方は、予定と違った。
卑怯な私が、嫌いな私が、一瞬顔を出した。
でもここからは一本道。
何の為に今まで淹れたこともない紅茶なんか用意したか。
もちろん、この為。


小春「え、え、何言ってるんですかいきなり!
   なんで私があんな無愛想で無神経で自分を大事にしない…」


中川「私は………好きだな。
   彼の…北原さんのことが」


小春「………え?」


戦いが始まるかどうかも定かでないのに、
最大のライバルになるかもしれない彼女に、
青田買いの宣戦布告をする為。

小春「えっと…あの…それ、どういう意味…」

中川「そのまま受け取っていいよ。
   そのまま」

小春「え…でも…でも北原さん、好きな人が…。
   小木曽先輩が、いるんですよ!?」

中川「…そうだね」

小春「…中川さん…」

ちょっとした失敗をしてしまった。
でも初めての経験には失敗がつきもの。
本当は、北原さんが好きだと伝えた後に、
『小春ちゃんは?』と訊くつもりだった。
臆病さと余裕のなさがもたらした作用だとしたら、
ちょっと凹むかなぁ…。
でも、それでも私はちゃんと訊いたよ。

小春「…なんで、それを私に言うんですか?」

中川「なんでって…なんでだろうね。
   もしかしたら、小春ちゃんも同じ想いかな、って。
   だとしたら尚更、隠したくなくてね」

小春「わ…私は…!」

中川「わかんないんだよね。まだ。
   きっとそうだよ」

小春「わからないも何も…言いましたよね前に!
   私には親友がいて、その子は北原先輩のことが好きで、
   だから…だから、そういう感情を持つこと自体許されない…」

中川「私もね、谷口さんが振られたとき、
   あの時、もう北原さんの事が好きだったんだよ。
   遠慮しちゃって、応援して、煽るだけ煽って…。
   そして、後悔しか残らなかった」

小春「………」

中川「だから、もう後悔だけはしたくないし、できないんだ。
   ほんと卑怯だね、私。
   退路を断つために今、小春ちゃんを利用してる」

小春「いえ、それは………」

小春ちゃんにこの段階で打ち明けてしまうことが、
果たしていいことなのか、よくないことなのか。
…よくないに決まってる。

中川「だから小春ちゃんも、後悔しないでほしい。
   自分が思うように、進んでいってほしい。
   あなたの友達の件も、含めてね」

この子はきっと親友を立てるし、北原さんを立てる。
彼らの想いを尊重すると思う。
だから、本来私は沈黙すべきところなんだろう。
こんな告白、誰も得しない。

中川「私は…北原さんが小木曽さんとうまくいくなら、それでもいい。
   そうであってもそうでなくても、
   いずれはちゃんと自分の気持ちを伝える」

そう、これが私の答え。
だから、宣戦布告というより、決意表明。

中川「この年末年始、慌ただしすぎたよね、私たちの周辺。
   やっぱりちょっと疲れてるのかな、私。
   …うん!この話はもう終わり!」

小春「え、え?」

中川「じゃあ帰ろうか。ごめんね、毎日遅くまで」

小春「え、あ………そうですね………」

北原さんよりも程度は軽いが、
私だってあのクリスマスの日から、
1日たりとも心の休まる日はなかった。
その影響で、正常な判断力が麻痺しているのかもしれない。
正しいことをしている自信はまるでないし、
明日目が覚めた瞬間にこう思うだろうと予感してる。
『なんてことを言ってしまったんだ…』と。

それでも私は固く決意する。
この先の物語が悲恋でも決別でも、
自分の力で完結させるということを。

そのとばっちりを受けた小春ちゃんは、
すっかり元気をなくしてしまった。
本当に申し訳なく思うけど、いずれは彼女にも伝えることだ。
…自分の力で進みたいと願うならば。
それほどまでに私たち3人は、分かち合ってしまっているんだから。

当然、帰り道で2人の会話が弾むことはなかった。



   ―January 8th―

なんだかんだで人生ってうまくできていると思う。
誰一人手を抜かれることがなく、
それぞれのシナリオが用意されている。
本当に細部までよく作り込まれてる。
喜びも、怒りも、悲しみも、楽しさも全部、
有り難いことに、私たちは感じることが出来る。
…境遇や性格なんかに左右されるもんだから、
時々不平等に思うこともあるけどね。

シナリオ上(そういう意味)では、北原さんは今はっきりと苦境だよね。
生真面目で妥協を許さない性格が災いして、
自分の過去の過ちを許せないでいたし、
とうとう最愛の人からも許されなかった。
漫画なんかだと苦々しさばかりが読者に先行して、
アンケートの票を取れなくなるような場面じゃなかろうか。

でも、信じてる。
そんなに苦しんだんだから、彼はきっと救われる。
そんな結末が、最終回に巻頭カラーで用意されていてほしい。
…平等で、あってほしい。

私のシナリオの結末は…どんな風になるのかな。
別に救われなくてもいいから…っていうのは、
この間小春ちゃんに言ったような建前。
3日間いろいろ考えたけど、
やっぱり私だって、救われたい。

結末を覗ける道具でもあれば、
楽になる代わりに、すべての刺激は失われるだろう。
そんなのは、嫌だ。
だから先ずは、目の前にいる完全復活したこの男の行動だ。
それによってまたシナリオは進む。
一度は保留したはずの答えを、
きちんと出したんだろうか…?

北原「中川さん3番テーブル!
   ずっと呼ばれてるよ!早く行って!」

中川「は、は〜〜〜い!!」

って、昼のピーク時に私はいったい何を考えとるんだ。

…………………

夕方の、まかない休憩。
私の座っている位置はちょうど西日が窓から差し込んでいて、
冬にそぐわぬ温もりと、強烈な眠気を連れてくる。
というか最近はずっと眠い…。

自分の部屋で眠りにつこうとする瞬間、
頭が望んでもいないシミュレーションを勝手に開始するからだ。
ああきたら、こうして。
こうきたら、ああして…という風に。
だいたいそういう皮算用は、
予期せぬ展開の前に風塵に帰すのにね。

ガチャ…

ほら、こんな風に。

北原「あ、いたいた。
   中川さん。ほんとにありがとう。助かったよ」

中川「今朝もメールでも何度も聞きましたから。
   全然大丈夫ですよ!私、元気が取り柄ですから!」

北原「そんなキャラクターあったっけ?
   まぁ、なんにせよ感謝してる。ありがとな」

中川「いえいえ〜。
   この先も中川代行屋を是非ともご贔屓に…」

…いい。これはいいぞ。
顔を合わせた瞬間の反応。
会話の跳ね方や表情の推移。
すべてが過去最高ランクで私の望む水準に達している。
今までの守勢・劣勢が、
予期しなかった伏兵の活躍で跳ね返ったような感じ。
…この場合伏兵は、風邪のウイルスってことなんだろうけど…。

北原「でさ、明後日バイト終わってから暇じゃないかな?
   冬休みも終わるし、お礼も兼ねてさ。
   いい店見つけたんだ、一緒にどう?」

中川「ん〜どうしましょう。
   確かに私は常時暇を持て余しておりますが、
   北原さんごときが私の舌を唸らせるような店を紹介できるのかどうか…」

北原「そんなキャラもなかったよな!?
   まぁいいや、決定ね」

中川「はい〜」

急造の元気キャラやグルメキャラ以前に、
普段のキャラが崩壊してる気がしないでもないけど、
とりあえず蓄積された眠気のなせる業ということにさせていただきましょう。
それだけ告げてそそくさと持ち場に戻る彼。
背中を見守り、私は考える。

弱い自分を肯定し、生まれ変わった気分でいる今の私。
だから、今までになかったハッキリとした願望・欲望が顔を出す。
『この人の彼女になりたいです』と。
それを止める気はないし、
止める理由も…理由はあるにはあるけどさ。

私たちの関係は、『友人』としては物凄く成熟した。
何でも言い合える仲にはなった。
小春ちゃんと対比した場合、私の方に運があったということだけかもしれないが、
それは今更言い出してもしょうがない。
運に恵まれて、明後日の2人きりの時間を私は得ることが出来た。

しかし、たとえ私が過去の弱い自分を認めてやって、
真っ直ぐに好きな人の事を案じられる人間になったとしても…。
私の心は、曇天模様のままだ。
切れ間から陽が差し込むか、冷たい雨が降り注ぐか、
それはまだ、分からない。

そしてそれが分かるかもしれない。
運命の日に、なるかもしれない。
…結論を、持って来られるかもしれない。

舞台は用意された。
私は確かに小春ちゃんに言った。

『私は………好きだな。
 彼の…北原さんのことが』

『私は…北原さんが小木曽さんとうまくいくなら、それでもいい。
 そうであってもそうでなくても、
 いずれはちゃんと自分の気持ちを伝える』

うまくいくなら、それでもいい。
たった3日前に本心で言ったはずの言葉が、
得も言われぬ恐怖心を連れてきては、私を揺るがす。

そう。
北原さんと小木曽さんがうまくいくことも、
私自身が振られてしまうことも、
今の私にとっては恐怖以外の何物でもない。
負けたくない。振られたくない。
…できれば、救われたい。

北原さん、あなたは、
私の望むシナリオを書いてきてくれるの?
もしそうじゃないなら…。
…私、泣いちゃうかもしれないよ?
ねぇ………。



   ―January 10th―

時は来た。
別に心待ちにしたわけじゃない。
何故なら嬉しいはずの今回のお誘いが、
すべてを終わらせる危険性を孕んでいるからだ。
それでも短針も長針も何ら変わらぬ速度で回ってしまった。
…ただ、それだけだ。

欲しいのは、感謝でも、謝礼でもない。
でも今回彼がくれるのは感謝であり、謝礼だと思う。
それ以上を期待すると、それ相応ではつらくなる。
だから私は、今日の事を、
出来るだけ本音には蓋をして臨むことを決意する。
出来るだけ純粋に、楽しもうと思う。

ガチャ…

北原「あ、お待たせ、中川さん」

さぁ行こう、もう一度、連鎖した奇跡の中に。
もしかしたらこれが最後に…なるかもしれないけれど。

…………………

連れられて来た先は、御宿にある小さなアジア屋台料理の店。
北原さんは、なんかカッコつけた感じで、
『この店あんまり綺麗じゃないけど、安くて美味いんだぜ』
みたいなこと言ってたけど…僕、笑っちゃいます。
だってここ、来たことあるし。

一時期加奈と二人で、
御宿の店を虱潰しに飲んで歩こうみたいな時期があった。
なんでそんな意味不明な行動を女二人で取ってたのか。
…今となっては若気の至りというしかないけどね。
だから気を遣わないようにそう言ってくれるのはありがたいんですけど、
それなりに値が張るってことも知ってますよ、北原さん。
…てか、メニューに値段書いてあるじゃん。

中川「ふ〜ん。こんな値段に『安い』って言っちゃうんだ。
   北原さんって実はお金持ち?それとも世間ずれ??」

北原「…言ったっけ?そんなこと。
   まぁ安くは…ないか。でもまぁ気にせず注文しなよ」

中川「言ったよ〜。
   もし無意識に出たんだとしたら、まだ風邪治ってないんじゃない?」

北原「流石に風邪のウイルス持ったまま飲食店で働くほど、
   常識のない人間じゃございません!」

軽妙と言って差し支えない会話。
私たちが言葉を交わし合うのに、もう壁や障害なんかは存在しない。
2人でいることには、理由は必要だけどね。
今回の場合は、看病やバイトを代わってあげたことに対する、
北原さんから私へのお礼…ってとこだろう。
それ以外の理由が存在するかは…まだ分からないけど。

中川「ちょっとだけ小春ちゃんが不審がってましたよ?
   私たちが2人だけで早番で抜け出していくことに」

北原「そうか…それならあいつも連れてきてもよかったかもな。
   いずれは杉浦にも感謝の気持ちを形にしとかないと…って思ってたしさ」

中川「でも今あの子相当な戦力だからねぇ。
   北原さん抜けるなら小春ちゃん置いとけ!みたいなね」

北原「まぁ確かに杉浦と…ついでに佐藤がいたら、
   なんだかんだ安心して任せられるしな」

中川「そだねぇ。
   予感はあったけど、ほんとに拾い物だったよね」

北原「入ってきたてはどうなることかと思ったけどな…」

衝撃の出会い(私にとっては)から、まだたかが1か月。
でも…されど、1か月だ。
年をとった心境になるからしみじみ思うのは嫌だけど、
彼女が入ってからの1か月は本当に濃密だったなぁ。

今このタイミングなら、
『小春ちゃんのこと、どう思います?』っていう、
本人不在の掟破りもできるけど、しない。
圧倒的なまでの過保護と、純度100%のあの涙は、
ひととき北原さんの心を潤したはずだ。
だから北原さんにとって小春ちゃんは特別で、もしかしたら格別。
…聞くのが怖いというのも多分にある。

でももっと特別で格別な人が、2人も彼の心の中で息をしているから、
私も小春ちゃんもまだその領域に入っていけないし、及ばない。
いや、そもそもが違う。
及ぶ及ばないじゃないじゃん。
彼女はともかく、私は彼の背中を押すと決めたんだから、
今はまだ、『特別扱いされたい』と思うことすらおかしい。

そして、彼が起こした行動を教えてもらう権利も、
聞き出す義務も、残念ながら私にはない。
だからもしかしたら、今日のこの素敵な時間は、
今感じているような『楽しい』時間のまま終わってしまうかもしれない。
それはそれでいいのかもしれないが、
それじゃあ私は前へも後ろへも進めない。

掴みとりたければ恐怖を乗り越えなければ。
未来へ飛び出したければ痛みを知らなければ。
…そんなことはもう分かってるから。
だから余計なことを言わんで見守っていておくれよ。
心の中のもう一人の私さんよ。

北原「…どうした?中川さん」

中川「え?何がです?」

北原「いや、突然箸を置いて止まったから…。
   もしかして、口に合わなかったかな?」

中川「いえいえ〜そんなことないです〜。
   小休止ですよ!インターバル!
   …こんな機会逃せませんし、
   北原さんの通帳の残高分、まるごと喰らうつもりですから♪」

北原「…時々怖い発想するよね、中川さん」

今日私が心に決めていたこと。
細分化すると、
北原さんと、楽しくおしゃべりすること。
北原さんのことを、応援すること。
そして、北原さんを…困らせないこと。

前の二つはともかく、最後の一つだけは死んでも守るつもり。
誰より悩み苦しんできた北原さんを、
これ以上余計な事で悩ませてはいけないから。
だから、神妙な空気は口先三寸でもいいからカバーする。
『そういう空気』になったら、黙って聞く。
大丈夫。何にでも対応するし、何にでもなってやる。

でも、どれだけ前半分を防具でガチガチに固めたって、
横からどつかれれば人間ヤワなもの。
このあとの彼の話題転換は、
そう思い知らされるほど、私にとっては想定外のものだった。

中川「ていうか北原さんもうすぐ試験なんでしょ?
   こんなところで私相手に油売ってていいの〜?
   優等生の肩書き、なくしちゃうよ」

北原「その点は抜かりないのでご心配なく。
   それに、バイトもそろそろひと段落着きそうだしな」

中川「ひと段落って?」

北原「聞いてない?
   店長が明日から復帰できるらしくてさ。
   まぁギックリ腰なら2週間でほぼ完治するし、
   年配の人に文句言う気ないけど、ちょっと待たされ過ぎた感はあるよな」


………え?


北原「冬休み終われば人員も減らせるし、
   店長戻るんなら俺もお役御免だしさ。
   だから、職場で中川さんと顔を合わせるのは、
   結果今日が最後だったかもしれないな」


…え、え、ちょっと待って!
え?どういう…。

…確かに、来週のシフトに、彼の名前はなかった。
でも彼はいつも、名前がなくてもジョーカー的に店に居たし、
それに、試験に配慮したものかもしれないと勝手に思ってた。
『来週なんでシフトに入らないんですか?』と聞けば済む話なのに、
勝手に頭の中で、都合のいい方に修正していた。
都合の悪い現実なんて、見ようともしなかった。

…やっと気づいた。
うぅん。本当は分かっていた。
私たちの関係は確かに自然で、壁もなくて、居心地のいいものかもしれないけど、
それでも…吹けば飛んでしまうような、質量の軽いものなんだと。
約束がなければ形すらなさない、脆弱なものなんだと。
顔を合わせるための理由が、なくなってしまった…。

肌が、粟立つ。
心が、揺らいでいく。
もっと早くになら、離れられたかもしれない。
例えば、とにかく『保証』を欲しがって、諦めたあの夜なら。
でももう私はあの時の私じゃない。
北原さんにどっぷりと肩まで浸かった、今の私は。

中川「へ、へ〜そうなんですか…」

しっかりしなければ。

中川「さびしくなっちゃいますねぇ、ウチの店も」

心が傾いで止まらない。
けどそれでも、守るって決めたじゃない。
困らせない、って。

中川「とりあえずこの1か月間、ありがとうございました!
   スタッフを代表して、お礼言っときますね♪」

会えなくなるのは、嫌。
嫌、嫌、嫌、嫌…。
なのに…。

北原「ありがとう。
   俺本当に中川さんには感謝してる。
   一番、感謝してる」

中川「一番なんて言っちゃあ小春ちゃんに可哀想だよ。
   あんな小さい体で全力で走り回ってたし、
   いつも北原さんのこと、気にかけてたよ?」

北原「…ああ、そうだな。
   杉浦と同じくらい、感謝してる。
   ほんとにありがとう、中川さん」


『ありがとうって言ったら、永遠にさよならになる』


2世のわりに演技派な女優が副業で歌っていたフレーズが、
唐突に私の中に浮かび上がった。
…やめてよ、縁起でもない。


北原「それと…」


まだ何か、あるの?


北原「雪菜との、ことなんだけど…」


中川「…あ…」


きっとこれが、今日の本題。
北原さんが、どうしていきたいか。
北原さんが、どういう結論を下したか。
ちゃんと彼は包み隠さず、
丁寧に私に教えてくれた。

…………………

北原「………」

中川「………」

気怠い空気が2人を包む。
きっと北原さんは、引き続いて気の休まる瞬間がなくて、
私は今の話を聞くのに力を集中し過ぎてしまった。

中川「そうなんだ。
   メール、してみたんだね」

北原「うん」

ウイルスが身体中を駆け巡るのと同調したかのように、
苛立ちや不甲斐なさ、あらゆる負の感情が、
一人で身動きの取れない北原さんを苦しめた3日間。
その中で、どうせ身動きが取れないなら逃げるのはやめて、
しっかり向き合ってみようと腹を括った瞬間が彼にはあったらしい。
もちろんそれは小木曽さんのためだし、
…一緒に頭を悩ませてくれた私や、小春ちゃんのためでもあったらしい。

北原「まぁ…ポツリポツリと。
   まず俺が謝って…彼女も謝って」

中川「そうなんだね…」

北原「お互いの現況とか何気ない話とか…。
   分からないけど、大学も一緒だし、
   そのうち顔を合わすことになると思う」

中川「………」

そして徐々に病状が快方に向かい、
外に出ても問題ないと判断ができるようになった頃には、
逆に行動を起こさない方が難しくなっていたとのことだ。
ただ、メールを送ること。
それだけのことがまた、彼を取り巻くすべての状況を劇的に変えていく。

私の知っている限りで、
クリスマス以降に最も彼の隣にいたのは私だろう。
寂しさに耐えきれずに大学の同級生を部屋に招き入れたりしてない限りは。
優越感に浸るには、これもまた脆弱な事象だ。
でも私には、それしかなかった。
偶然のタイトロープに縋るしか、なかった。
その結果が今、この瞬間なんだ。

北原さんは再び、小木曽さんとの距離を近くする。
そして私は北原さんに会う術を、失う。

…この状況で笑える?


北原「中川さんのおかげだ。
   俺が折れてしまいそうな時に、何度も何度も励ましてくれた。
   本当に、ありがとう」


感謝も、謝礼も、いらなかった。


北原「もう俺、きっと大丈夫だ。
   償いとか、余計な事は考えずに、ちゃんと雪菜と向き合ってくる」

ただ、あなたのそばに…いたかった。


…………………

私は、何とか自分を保つことが出来た。
『楽しい時間』を、過ごせないまま。
最後の方は、何を話したかも覚えてない。
自分を保つことで精いっぱいだった、そのせいで。

そして2人は再び寒空の下に。
私にとっては冷たい現実世界に…。

北原「なぁ、中川さん」

中川「…なんでしょう?」

冬の風が冷たく、頬を弄る。
そしてそれは心の中にまで吹き抜けていく。
ずっと曇天模様だった心の空から、
とうとう、雨が降り始めた。
その雨が頬を濡らさないのは、彼の隣にいるから。
触れないまでも、温もりを感じられるから…。

北原「俺のやってること、正しいと思う?」

中川「…分かりません。
   正しさなんて口に出しても、それは十人十色でしょ?
   …ただ私は、北原さんの決断を応援するだけです」

北原「そっか…ありがと」

中川「いえいえ」

『北原さんを、困らせないこと』
自分に課した枷が、我が身に食い込んで血が流れる。
痛みにも切なさにも私は今、乱れ踠いている。
北原さんの目の届かないところへ出さえすれば、解放してあげられるけど、
でもそれは、終わりを意味することでもある。

もともと、可能性なんて1mmもなかったんだろうか。
そうだとしたら、先に言っておいてよ。
でも…どれだけ苦しかったとしても、この先も苦しむとしても…。
私は北原さんに出会えないなんて、嫌だった。
出会えて、よかったと思う。

『ありがとうって言ったら、永遠にさよならになる』

大げさだ。
そう吐き捨てていいほど、私たちは偶然の力を借りて今ここにいる。
絶対にまたいつか会える。
というより、この人はこの先も何かにつけてウチの店の世話を焼こうとするだろう。
目に見えている。

でもその時にはきっと、北原さんは小木曽さんと話し合った後で、
お互いの心の雪解けが無事に終了したのであれば、
2人を隔てる物は何もなくなるわけで…。
私は、そうなった北原さんを正視できるだろうか。
…きっと無理だな。
まぁそこから先のことは、その時考えればいいや。

あ、もう駅が見えてきた。
意外と、早かったなぁ…。

北原「なぁ、中川さん」

中川「はい、なんでしょう」

きっとこれが、最後の会話。
それを予感させるくらい、
北原さんの声は重く、低く、はっきりとしていた。

北原「どうして俺の事を、応援できるんだ?」

中川「え?どうしてって…」

北原「俺は…本当に大切に思ってた女性を、何度も裏切ってきた。
   何回も何回も深く、傷つけてきたのに」

中川「………」

北原「同じ女の子だったら分かるだろ?
   俺がどれだけの事をしでかしたのか。
   俺が…どれだけの罰を、受けなきゃならないのか」

中川「………」

最後の最後に、何故か北原さんはこんな質問をぶつけてきた。
さっきまで前に進むことを固く決意していた人間と同一人物とは思えない、
とても後ろ向きな顔。
まぁ北原さんらしいと言えばらしいけどね。

北原「杉浦もそうだった…。
   なんでそこに目を瞑って、俺のことを助けてくれたんだ?
   助けてもらう価値なんて全くない男なのに…。
   谷口さんだって傷つけた。
   矢田さんのことだって…。
   それなのになんで、どうして………」

真面目だなぁ、北原さん。
そんなに肩肘張ってると、この先の人生も疲れちゃうよ?
うまくいくものも、うまくいかなくなっちゃうよ?

そしてその最後の後ろ向きな問いに、
私は自分でもびっくりするほど瞬時に答えを用意できた。
もちろん正解でも不正解でもない。
ただ、私の心中を100%反映しただけの、答えを。


中川「…裏切りをした北原さんなんて、私は知りませんから」


北原「………え?」


そう、私がずっと見てきたのは、
追い続けたのは、
好きになったのは………。


中川「それだけの話ですよ。
   私は今の北原春希さんしか知りませんから。
   過去にどれだけの事があったとしても、
   そんなこと、私には関係ありませんから」


北原「………」


あ、そうか。
そっかそっか。これが私の、告白なんだ。
今日一日自分の心に制約を立てていた私に許された、
最後の本音トークの時間。
北原さんを困らせるようなことを言わずに、
自分の想いを120%伝えられる、最後の………。


中川「生真面目で、融通きかなくて………。
   他人にも厳しいけど、自分にはもっと厳しくて。
   でも不器用で、感情の表し方が下手で、
   …ついでに、プレゼントの選び方も下手で。
   強く見せようと努力してるけど、実は誰よりも繊細で、弱くて」


北原「中川さん…」


最後くらいは、素直になりたい。
想いを伝えたい。
そう思うと、言葉が単調になっていく。
けどこれが紛れもない、本当の私なんだから。
だから………。


中川「一生懸命考えて、踠いて踠いて踠いて…。
   それでも、最後まで逃げずに頑張り抜いた北原さんの事が…」


だから、この一言だけは、見逃してください。




中川「私は、好きですから」




北原「………え?」




中川「だから、応援してます!
   うまくいくといいですね!がんばってください!」


北原「…あ、ああ!ありがとう」


中川「こちらこそ、ありがとうございました!
   もう北原さんの電車来ますね。
   ではではまた!」


北原「うん、じゃあ…また!」


中川「またね!ありがとう!」


想いを込めたたった一つの言葉は、
ちゃんと文脈に紛れてくれただろうか。
もうそれを、確かめる機会ははないだろうな。

そして、こんな玉虫色の決着で、
私の想いは成仏してくれるのだろうか。
それは、無理だと思う。

だから私は、
北原さんがホームに連なる階段を上って姿が見えなくなった瞬間、
改札の外へ急いで飛び出した。
もう、溢れていた。
人気の無い場所を探して、みっともない顔を晒しながら走り続けた。


中川「はぁ…はぁ…う…うぁ…」


そしてそこに辿り着いてしまったなら、
もう抑えることなど、できない。


中川「うう…うあ…あぁぁぁ…………。
   うあああ…あぁぁぁああああああああ〜〜〜〜っ!!」


頑張った。
何をしたわけでもないけど、
今日一日、私は、今までの人生で一番頑張った。


中川「あ…あ…あっ…。
   もう、いいよね? いいんだよ、ね…。
   ああ…あぁぁぁぁあああああああああ〜〜〜〜〜っ!!!」


もう、いいよね。
泣いても、いいんだよね。


中川「うう…うぁあ…あああぁぁぁ………」


どれだけ泣き喚いても、涙は枯れない。
明日も明後日も彼のことを想って、私は泣いてしまうんだろう。
そして、こんなつらい思いをさせられていても、
私の一日はまだ、終わってくれない。
少し落ち着いた私は、とある場所に向かってまた、歩き出した。

自分でも思いもしなかった場所に向かって。

…………………

まるであの日の再現だ。
心に傷を負った者がなんとなく歩を進めた先が、
この『グッディーズ南末次店』。
ただ、辿り着いたのが北原さんでもなければ、
偶然ぶつかるのが私であるわけでもない。

時刻は10時半。
すべての作業が滞りなく終わっているのであれば、
誰も残っていない可能性もある。
別にそれならそれでいいと思っていたから、
落胆する要素は何もないけれど…。

中川「…あ…」

休憩室の電灯が点いている。
さて、鬼が出るか、蛇が出るか…。

…………………

小春「え、あれ?
   お疲れ様です中川さん…」

休憩室にいた影は、
鬼でも蛇でもない可愛らしい小動物と…。

佐藤「あれ、どったの、こんな時間に。
   なんか忘れ物あった?」

そして、邪魔者と。

中川「そうなんですよ〜!
   携帯忘れたと思って戻ってきたんですけど、
   直前でバッグの中で見つけちゃって、
   …ついでに顔だけ見せようかなって」

佐藤「あはは、そうなの。
   俺もあるある。
   部屋の鍵も財布も何もかも忘れちゃって、
   その上ここに戻ってこようとしたらバイクが動かなくて…」

中川「…それ、どうやってしのいだんですか」

邪魔者なりにたまに役に立つね、この人。
一気に毒気とか肩の力とかが抜けた。
とても、ありがたい。

小春「………」

小春ちゃんは、何かを言いたげ。
でも、佐藤さんがいる以上、
迂闊なことは言えないという感じの沈黙。
だからここは…。

中川「佐藤さん、何か手伝いましょうか?」

佐藤「ううん、大丈夫。
   もうあと出るだけだから」

うん、分かってて聞いた。

中川「じゃあ小春ちゃん、
   一緒に帰ろ?」

小春「っ…は、はい」

一瞬小さな身体を強張らせた彼女。
明らかに前回の意味不明な私の告白が尾を引いている。

でも、私にはこの子が必要だ。
分かり合えるのは、世界に彼女しかいない。
…そういう気がする。

…………………

中川「うぁ〜〜さっぶ〜〜い!!
   まったく、季節ってのは少しぐらい容赦してくれないもんかね…」

小春「一人一人に配慮してたら、
   世界中で天変地異が起こっちゃいますよ」

中川「そりゃそうだけどさぁ…」

私の今の発言の真意を、
小春ちゃんはきっと汲み取れていないだろうな。
言うなれば、もう既に色んな意味でグロッキーな私に、
これ以上冷や水を浴びせないでおくれ、ってことなんだけどさ。

小春「で、佐藤さんに嘘まで吐いて、
   どうしてこの店に戻ってきたんです?」

中川「…なかなかどうして鋭いね、流石だわ…」

この子の眼力はもう、
他の追随を許さない領域に達しているのかもしれない。
北原さんだけでなく、同性の私の機微にまでしっかりと気づいていたんだ。
そしてすぐにそれを指摘するという直球勝負。
尾を引いてると思ったけど、そうでもないのかな。

小春「北原さんとご飯食べて来たんですよね。
   なんか、あったんですか?」

中川「う〜ん…あったっちゃあ、あったんだろうね………」

小春「…なんですか、それ」

『話を聞いて』オーラを纏いながら再登場した私に、
いざ聞いてみたら煮え切らない返答。
小春ちゃんもさぞヤキモキしているに違いない。
でもちょっとだけ待って。
心の準備ってものが必要だから。

小春「………言ったんですか?
   北原先輩に…」

中川「………」

マウンド上の小さな剛腕投手は、
私の胸元に唸るような剛速球を遠慮なく投げ込んでくる。
しかもテンポがいいもんだから、こちらに考える暇を与えない。
どこぞの弱小球団が欲しがりそうな逸材だな。
現実なら…チアガールとして。

小春「先輩は…何て………」

中川「…言えなかった」

小春「…え…」

『言えなかった』で、いいだろう。
だって私は、伝えられなかったんだから。
自分の想いを…何も。

中川「店長がもうすぐ復帰してくるのは知ってる?」

小春「え…はい。佐藤さんからさっき聞きました。
   それで北原先輩はあまり来る必要がなくなるだろうってことも。
   …あとついでに、またみんなで飲みに行きたいとも言ってました」

中川「どうせまたはた迷惑な飲み会にしかならないんだろうけどねぇ。
   体のいいストレス解消だよ。
   私たちは逆にそれを溜め込む羽目になるんだしさ」

小春「ふふっ。ほんと、そうですね」

楽しい雑談で場を繋ぎ続けられたら、
お茶を濁し続けられたら、どんなにいいことか。
でもそれじゃ、意味がない。
ここに来た意味が。
だから………。

中川「北原さんは、小木曽さんとまた連絡を取ってるんだって」

小春「………。
   そうですか…」

中川「で、ことあるごとに、
   『2人のおかげだ。2人が助けてくれたから』、みたいなこと言うんだよ?
   流石に温和な私もエキサイトしそうになったよ。
   人の気も知らないでねぇ」

小春「………」

中川「あまりにも素直な北原さんがそこにいたから…。
   何も言えなくなっちゃった。
   今まで随分つらい思いしてて、
   やっと前を向けるようになったところで、
   私なんかが困らせちゃいけないように思えた」

小春「………」

小春ちゃんは、何も言わずに聞いていてくれる。
目論見通りと言えば聞こえは悪いけれど、
この距離に…救われてる。

中川「何がしたかったんだろうね。
   声高々に宣言しといてさ。
   ごめんね、小春ちゃん」

小春「いえ…気にしてませんから」

中川「…ありがと」

これで一応、報告義務は終了。
自分で自分に課しただけのものだったけどね。

小春「…中川さん。
   この前、私に聞きましたよね?
   …北原先輩の事が好きかどうか」

中川「うん、聞いたね」

小春「その質問の答え、見つからなかったんです。
   見つけたくなかったんです。
   親友が好きになった人ですし…。
   それに、自分の心に踏み込まれたくないからって、
   あんなに他人に冷たく当たる人を、
   私は認めるわけにはいかなかった」

中川「………そうだよね」

小春「でも、そうじゃないんだって。
   ちゃんと理由があったんだって理解してからは…。
   人間としては、北原先輩の事をものすごく好きになっていました」

中川「………」

小春「私、恋したこと、ないんですよ。
   だから、この感情をそうだと決めつけることができなかったんですよ」

中川「………」

小春「でも、私が北原先輩を想う気持ちは、
   中川さんのそれと…すごく似てるんだって今、そう思いました」

中川「…小春ちゃん…」

私にはもうとっくに分かっていた、小春ちゃんの答え。
似てるって言ってもらえて光栄だけど、
私はあなたほど真っ直ぐじゃなかった。
いつもどこか抜け道を探していた。

今日だってそうだ。
心から彼を応援できないから制約を立てて、
あたかも小春ちゃんと同次元にいるかのように見せかけた。
だから同じのようで、同じではない。
なのに………。

小春「…どうしてなんでしょうね…。
   美穂子も…中川さんも、私も、北原先輩も…。
   ただ大事な人を、大事に思ってるだけなのに…。
   どうしてこんなにうまく、いかないんでしょうか…」

中川「…小春ちゃん?」

小春「どうしてこんなに、想いがどこにも伝わらないんでしょう…。
   どうして、どことも繋がらないんでしょう…。
   どう…して………」

中川「大丈夫?…小春ちゃん」

小春「胸が…痛いです……。
   やっぱり私、北原先輩の事が好きだったんですよ…。
   他人行儀で、臆病で、冷たいくせに、
   お節介で、厳しくて…優しい、先輩の事が…」

中川「…うん」

小春「今頃きづいても…どうしようも…ないじゃないですかぁ…。
   …ぐすっ………ひっく………」

なのに、この子は泣いてくれる。
胸が痛むのは、恋に破れたことに気づいたから…きっとそれだけではない。
友達のこと、私のこと、そして…、
今やっと前を向いて歩くことを決意した北原さんの背中を思って、
また、綺麗な涙を流してくれている。

勝つとか勝たないとか、
綺麗とか汚いとか、
本当はどうでもいいほど、些細なことなんだろうけど…。

中川「うん…ごめんね、小春ちゃん…ごめんね…」

小春「なんで…あやまるん、ですか?
   うぅ…ぐすっ………」

同じ速さで歩きながら、
私もひっそりと、涙をこぼした。
明日からは私にも、もちろん小春ちゃんにも、
新しい世界が待っている。
それは、『今日までの北原さん』がいない世界。

この想いが逝くのにどれだけの時間がかかるかは分からないけれど、
それでも必死に毎日を、過ごしていかなくちゃいけないんだ。

小春「でも北原先輩よかったですね…。
   もう一度…歩き出せて………」

中川「…やさしすぎるよ、小春ちゃん………」

たかが恋愛、されど恋愛。
私たちの激動の冬休みは、そんなチープな言葉で表してもいいくらい、
一人の不器用で優しい男の人によって埋め尽くされた。

季節を越えて、私たちもまた大切な誰かと、
巡りあう瞬間がいつか、くるのかなぁ…。




   ―January 29th―

いつか、きっと。

どれだけつらいことがあっても、
どれだけつらい思いをしても…。
その言葉を胸に人は、再び歩き出さなければならない。
でも…それはいったいいつになるのかな?
誰か教えてくれる?

苦しくて、切なくて、でも誰にも言えなくて…。
眠ろうとしても無理な話で、
もともと勉強なんてしてない試験の結果はさらに私を締め付けて。
自業自得な私がバイト先での労働に埋まろうとしても、
鮮明に彼の面影を蘇らせる結果になって…。

そんなことを繰り返して2週間。
彼からの連絡の類は一切ナシ。
思いを巡らせて煩わせて拗らせて…。
いつか彼の事を忘れられる日が来るんだろうか?
2週間でこの状態なら、2万年経っても忘れられそうにないんだけど。

そして休日の朝、バイトがある日は、
女子更衣室で小春ちゃんと顔を合わせるのが通例となっている。
もう彼女は二重の意味で『戦友』と言えよう。
憂鬱な気分を引っさげ、それでも開店時間になれば、
満面の笑みを嘘でもいいから浮かべなければならない。
今日も今日とて彼女も私も、
呪われたようにローテンションガールだ。

そして重たい身体を引きずりながら休憩室に向かう。
朝礼を経て、持ち場に向かい、
また長い戦いが始まる。

ガチャ………。

小春「あ………」

一足先に入って行ったはずの小春ちゃんが足を止める。
なんだろう、佐藤さんが血文字でダイイングメッセージを残して、
斃れてでもいたのだろうか。

中川「どしたの?小春ちゃん。
   そんなとこで止まっ………」


あ………。


北原「あ、2人とも久しぶり!
   今日からまた、たまに手伝うことになったから、
   よろしく頼むな」


…一目見るだけでこんなに嬉しい気持ちになるんなら、
私は一生、忘れられそうにないなぁ…。
ま、とりあえず…。


中川「お帰りなさい、北原さん」

北原「ああ、ただいま。
   それとその節はいろいろ、ありがとう」

…………………

ここから先は、地獄かもしれない。
一寸先は闇で、更にどこまで行っても闇かもしれない。
でもここは月明かりの真下、真冬の帰り道。
幸せは冬にやってくる、とでもいうのかな。

北原「いや〜久しぶりの立ち仕事は足に来るなぁ」

中川「前もそんなこと言ってませんでした?
   まだまだ若い身空で…。
   店長に怒られちゃいますよ?」

北原「いやいや、毎回思い知らされるよ、自分は若くないってさ。
   たまにはちゃんと運動もしなきゃだなぁ…」

小春「それなら私、テニスでも教えましょうか?
   全身運動なんでちょうどいいんじゃありません?」

北原「それはいいアイデア…いや、やっぱ遠慮しとく。
   とんでもないスパルタに遭いそうだから…」

小春「…普段先輩が私の事どう思ってるか、分かった気がします」

中川「ま〜ま〜小春ちゃん、おさえておさえて」

どういうことなんだろう、この楽しい楽しい帰り道は。
わけがわかんない。
まるで、時間が『懇親会』に巻き戻ったみたいな、
遠慮のない、息苦しさもない、そんな暖かい時間。
頭や口はきっちりそこに適応してても、
心の方はそうはいかない。

小春「い〜ですよ別に!
   どうせ先輩運動神経悪いところを見られたくないだけですよね?」

中川「あ〜ありそうそれ!
   この人自分のカッコ悪いところ隠しそうだし!」

北原「本人が何も弁解してないのに、
   本人の前で話を勝手に展開するのはやめてくれ…」

北原さんは、言った。
『試験が終わったから』と。
『就職活動が始まっても、週一くらいなら顔を出せる』と。
でも私たちが知りたいのは…。

小春「でも図星ですよね?
   運動系の部活とか入ってたことなかったんじゃないですか?」

北原「やってなかったってことは、ない。
   それ以上のこともそれ以下のことも言わないけどな」

中川「この言い方はあれでしょ?
   どうせ小学校の時にスイミング行ってた…とかでしょ?
   そんな昔のことを言われたってねぇ〜」

北原「それこそ図星だちくしょう!!」

でも私たちが知りたいのは、
『グッディーズに顔を出せる理由』でもなければ、
こんな他愛もない雑談話でもない。

小春「いつもえばりくさってる先輩がスポーツで情けなくなってる姿、
   見てみたい気もしますけどね〜」

中川「あ、じゃあさ、落ち着いたらあそこ行かない?
   駅前にできたスポーツ複合施設みたいの。
   あそこでこの男の醜態を衆目に晒そうよ」

北原「邪悪な計画が聞こえるけど、
   聞かなかったことにさせてもらうな」

そうじゃなくてさ。

小春「決まりですね。
   では来週の土曜のバイト上がりに…」

いやいや、予定が決まるのはいいんだけど…。

中川「北原さん、逃げちゃダメだからね」

あのことをちゃんと聞かないことには、
この楽しい雑談も、重荷にしか思えないわけで…。

北原「あ〜分かったよ!
   お前らがどれだけ的外れか、ちゃんと証明してやるからな!」

つまり私が言いたいのはですね?

小春「あ、そういえば北原先輩」

北原さん、あなた…。


小春「…小木曽先輩とは、どうなったんですか?」


………小春ちゃん、あんたすごいわ。
我慢できなくなったのか、
それとも誰かを思いやってのことなのか。
いずれにしろ、これで劇的に局面が進む。
気合の踏込みだ。

メールで聞くのも電話で聞くのも簡易すぎて気が引けた。
個別に聞くのも、北原さんにとっては二度手間だろう。
だからある意味賢い選択だと言える。
小春ちゃんの方に視線を向けると、
その表情は戦地に赴くような悲壮感を漂わせていた。
でも、そうまで思いつめてでも…。

これを聞かないと何も始まらない。
何も進まないし、何も………終わらない。
そんな、絶対の一手。
私にはできない力技。
その謗りはどういうものになるかは、すぐに分かる。

北原「………そうだな」

私たちは、固唾をのむ。
期待をすれば、惨めになる。
そしてそれは、誰かの不幸を望む行為だ。
だから、何も考えないようにして待つ。
…雑念を振り払えていないことを、自覚しながら。

1秒が1分にも1時間にも感じる。
…漫画かよ!
そんな軽やかな自分へのツッコミはすぐに掻き消える。
彼の………。


北原「雪菜とは…だめになった」


切なさを湛えた、返事によって。

…………………

私は、知っている。
どんなに楽しい時間でも、終わりが来る。
今日のこの時間がそれに該当するかはさておき、
後ろ髪を引かれる思いがあったとしても…。
そんなこと、時の流れの前には関係ない。
ただ、事実だけを残して進んでいく。

北原『理由は…。
   う〜ん…今はまだ上手く話せないな。
   でも俺、大丈夫だからさ』

そんな風に言われてしまうと、私たちもこれ以上追及できない。
『大丈夫』…その言葉を鵜呑みにしてしまってもいいのだろうか。

北原『二人とも本当にありがとう。
   それと………ごめんな』

『ごめんな』。
謝ってもらうことなど何もない。
それでも北原さんは私たちに贈るものとして、この言葉を選んだ。
その真意は…計り知れない。
どうしたらいいのかも、わからない。

喜んでいいのか、
悲しんでいいのか、
それとも………。

重くなった空気を振り払うように、
そのあとの北原さんは気丈に、
そしていつも以上に明るく振る舞っていた。
しかし私たちは、ノっていけない。
そりゃあそうだ。
どれだけあなたのことで我々が頭を悩ませたか知ってる?

それでも、笑顔は絶やさない。
声はいつものトーンを保つ。
必死にこの浮足立った空気に食らいつく。
今は普通がいいし、普通でいい。
『この先』のことなんて、考えない方がいい。
…北原さんのことを大事に思うのならば。

小春「今日も送っていただいて、ありがとうございました!」

ふと気づくと、もうそんな場所。
小春ちゃんはまた、少し眠れなくなってしまうんだろう。
卒業式を近くに控えた優等生にそんな重荷を背負わせて、
…ついでに私にも背負わせて、
はぁ〜あ…本当に罪な人だなぁ。

中川「お疲れ、また明日ね」

北原「俺は…また来週かな?
   じゃあな杉浦」

小春「………せんぱいっ!!」

振り返りかけた私たちの意識を一瞬で戻す、
元気な呼び声。


小春「…来週バイト終わったら、思いっきり遊びましょうね〜!
   あと私も信じてます!
   絶対大丈夫ですよ!!
   …ではでは、おやすみなさい!!


北原「あ、ああ、おやすみ!杉浦!」


こうかは、ばつぐんだ。
何度も北原さんを救ったであろう彼女の真っ直ぐさが、
羨ましいくらいのタイミングで、優しく彼の胸に届いた。
これがあるから、
私はいつまでたっても彼女への劣等感を拭えないんだよな…。

今度こそ踵を返した北原さんの表情は、
案の定少し、柔らかく見えた。

…………………

同じ季節に、何度も繰り返した帰り道。
同じ身体から、同じ白い息が弾んでは空に消える。
でも今の私は、1つ前の私でも、2つ前の私でもない。
北原さんだってそうだ。
決断に迷ってこの道で体調を崩した彼は、もういない。

中川「この電柱によっかかってたんですよ北原さん!
   あの時はほんとどうなることかと…」

北原「正直このあたりの記憶はもうあやふやなんだよな…。
   死にそうになってたのは感覚として残ってるんだけど」

中川「死にそうになってたね〜。
   あの状態になるまでおくびにも出さないなんて大したもんだよ」

北原「そうかな…でもまぁ、今だから言えることかもしれないけど、
   …あの瞬間があって、よかったかな」

中川「え、それってどういう…。
   あ、北原さん待って!」

『あの瞬間があってよかった』。
どういう心境でこの言葉を北原さんは、
あの電信柱の影に置いて行ったんだろう。
すぐにまた歩き出した北原さんに追いついて、
真意を問う。

北原「あれがあったから…やっと、雪菜と向き合えた」

中川「あ………」

吐く息は、白く。
遠くから見れば、同じ。
でも、その言葉にどれだけの想いが込められているのか…。

北原「俺はこの3年間ずっと、彼女から逃げ続けてきた。
   でも、逃げ切れなかった。
   あまりにも自分が弱すぎたから…」

中川「………」

北原「そんなスパイラルの中に、俺は雪菜を付き合わせてしまってた。
   だから、どういう決着になろうともさ、
   きちんと向き合わないといけない…って、
   熱に浮かされながら、やっと決心がついたんだ」

中川「…よかったん、だよね…」

北原「ああ…よかった…」

今にも泣き出しそうな彼に、
ただ横にいることしかできない自分が恨めしい。
けど、私は、横にいる。
私にだけ聞かせてくれている話を、
一言一句漏らさずちゃんと受け止める。

北原「何度かメールして、
   大学で実際会うようになって…。
   他愛もない話に終始して、これじゃダメだって思って。
   つい一週間前まではそんなんだったんだけどな」

中川「仕方ないよ…誰でも怖いと思うよ?
   そういうのって」

北原「ありがと。
   でも、それでも…。
   とうとう元には戻れなかった」

中川「………」

喜んでも、いけない。
悲しんでも、いけない。
最愛の人の一つの長い旅の果ての光景を、
汚しちゃ、いけない。
だからただ、聞く。

北原「今の俺は…。
   …雪菜が好きになってくれた俺とは違うんだなぁって。
   そういう風に、思うようになってさ」

中川「うん…」

北原「2人でいるとさ。
   どこにいても、どんな会話をしてても、つらい過去が付き纏う。
   それに目を瞑ろうとして、
   実際問題、イブの日は失敗したわけだし」

中川「……うんうん」

北原「単純に考えると、それって致命的だろ?
   普通の会話だって、きつい時があるんだから」

中川「…そうだねぇ」

北原「顔を合わせて、会話を重ねて…。
   リハビリみたいな感覚で、
   そのうち大丈夫になるかなとも思ってたけど、今の俺にはもうダメだった。
   雪菜も…そうだったと思う」

中川「………」

北原「それに、昔の俺に戻りたいとも思わなかった。
   …こんな俺でも、認めてくれる人がいたから」

中川「…小春ちゃんと…私かな?」

北原「正解」

心に保険をかけるのは、もうやめる。
ほら、そうすればちゃんと正解を導き出せるじゃない。

北原「一番大きかったのは…。
   前に聞いただろ?
   どうして俺の事を応援できるのか、ってさ」

中川「うん、聞かれた。
   あんとき私なんて答えたっけ?
   確か…」

北原「今の俺の事が、好きだから…って」

中川「復唱しないでよ!
恥ずかしくて死にたくなるから!!」

北原「あぁごめんごめん!
   深い意味でとらえてないから!」

中川「(…それはそれでちょっと切ないんですけど………)」

北原「まぁでも・・・その言葉が、すべてだった。
   そう言ってくれたから、
   俺も今の自分を好きになろうと思えた。
   今の自分のまま、生きていこうってさ」

中川「北原さん………」

北原「だからもう、雪菜とは一緒にいられないんだ。
   もう、昔の俺はいないんだから」

中川「………」

喜んでも、いけない。
悲しんでも、いけない。
なのに…今の私の心は、喜びに染まっている。
あの日、私が放ったイタチの最後っ屁は、
彼の鼻腔に確かに届いていたんだ。

そして同時に、悲しみにも染まっていく。
北原さんの未来を、邪魔してしまった形。
自分で立てた制約、
『北原さんを困らせない』を…
破ってしまったことになるからだ。

でも最早そんなことは、過ぎたことで些末なこと。
そして重要なのは、これからどうするか。
彼だって、未来に向かって歩き出そうとしている。
ならば私もそれに倣うだけ。
喜びも悲しみも振り払った上で、
彼を引き続き応援していくだけだ。

北原「思い出せないなぁ…昔の自分。
   でももう、いいんだよな…」

中川「北原さん…」

北原「もう、いいんだよな…」

何度も何度も自分に言い聞かせるように、
彼は『もういい』という言葉を繰り返す。
それは裏を返せば、
今回の件を全然まだ消化しきれていない証拠で、
『別れ』という結果を、受け入れられていない証拠で…。



なら私は…彼の為に何ができる?



中川「北原さん…。
   一つだけ、生意気なことを言ってもいい?」

北原「ん?…あぁ、いいよ。
   でも…生意気なこと?」

中川「そう、生意気なこと。
   『お前に言われるまでもねぇよ!』って、
   怒られるかもしれないけど」

北原「ふ〜ん…いいよ、どんどん言って」

中川「北原さん、全然今回のことまだ整理できてないよね。
   まぁねぇ…ついこの前の出来事だから仕方ないけどね」

北原「……そうだな……」

中川「でもこのままじゃ、一生忘れられないかもよ?
   また『フリ』だけになっちゃうかもよ?」

北原「…そうかな…一生?」

中川「うん、もしかしたら」

人生経験の及ばない私が、
こんな説教じみた問いかけをしていいのかどうかは分からない。
でもさ…。
もう、放っておけないんだよ。
縛りがなくなったのなら、
素直に、私の力で彼を救いたくなるじゃん?

だから、どう見てもどう考えても平気じゃない北原さんに、
私は偉そうな講釈を続ける。

中川「今の自分を好きになるってのはすごくいいことだと思う。
   けど、北原さんは、過去の自分を見ないように必死だよね?
   それは、違うと思う」

北原「………」

中川「過去の自分もしっかりと受け入れてあげなきゃ。
   でないと、一生苦しむかもしれない。
   過去を無き物になんて、誰にもできないんだから」

北原「………」

中川「最後にもう一度だけ、
   ちゃんと過去と向き合った上で…さよならしようよ。
   今の北原さん、
   クリスマスの時とか、熱出した時とおんなじ顔してるよ」

北原「…否定したいけど…」

中川「けど?」

北原「否定する材料が見当たらない…。
   …じゃあさ、最後にもう一度だけ教えてくれないか?」

中川「なんです?」

北原「…俺は…どうしたらいいと思う?」

中川「そうねぇ…」

北原さんは、身体を壊した時と同じ質問を私にぶつけた。
これこそ、彼がまだ迷える子羊である証拠だ。
もしかしたら彼の人生を左右する重大な分岐点で、
私なんかが簡単に道案内をしていいものだろうか。
でももう、ここで引き返すわけにもいかない。
ここ数週間酷使し続けた脳みそに、
『これが最後だよ』と、フル回転の指令を送る。

その結果私が導き出した答えは、
数分前には脳内に欠片もなかった発想のものとなった。

中川「う〜ん………そうだ!
   私、昔話が聞きたいな!」

北原「…は?昔話?………いつの?誰の?」

中川「もちろん北原さんのだよ〜。
   時期はそうだなぁ…冬馬さんと出会ってから、学園祭までの話!」

北原「それだったら…休憩室でしたよな?」

中川「いやぁ、あの時は説明口調の事実の羅列だったじゃない。
   こうこうこういうことがありましたよ、ってな感じのさ。
   それじゃ、楽しくないじゃん」

北原「いや、楽しいとか楽しくないとかは…」

中川「北原さんは実際は楽しかったでしょ?その時はさ」

北原「そりゃ…まぁ…」

中川「でも今は、その時のことも全部つらいものとして捉えてるでしょ?
   だからいっそ、もう一度ちゃんと思い出してみようよ。
   あの時北原さんが感じてたさ、
   何て言ってたっけ?えっと…そうだ!」


『今まで味わったことのないくらい楽しい世界』


中川「そこに、もう一度戻って、
   その時のことを思い出して、
   北原さんの言葉で喋ってみてよ。
   …何か、変わるかもよ?」

北原「…そういうもんなのかな?
   うん…やってみてもいいけど…」

釈然としないながらも、
彼は私の提案を受け入れた。
もちろんうまくいく保証のない、
思いつきの提案であることは自分が一番わかっている。

でももう、賽は投げられた。
この先私にできることは、
彼が久しぶりに戻った夢の世界に、一緒におじゃますることだけだ。

…………………

北原「まったくの一目ぼれだったんだよ。
   ついでに初恋?
   だからどうしたらいいのか分からなくてさ」

中川「意外だね〜。
   北原さんなら相手の事を知ってから好きになりそうなイメージがあるんだけど…
   まぁでも恋なんて、そんなもんだよね」

ここは彼が3回目の春を迎えた、高校の教室の中。
隣の席で眠ったり上の空だったりした黒髪の美少女の事を、
ハラハラした心境で見守っていた初々しい日々のこと。

北原「その時俺、軽音楽同好会なんて似合わない同好会に所属してたもんだから、
   なんだろう、若気の至りとしか言いようがないんだけど、
   1曲作ろうって気になって…」

中川「冬馬さんのことを想って?
   いや〜北原さんも暴走した時があったんだねぇ」

北原「いやはや、お恥ずかしい」

不器用で伝える術を知らなかった初心な彼は、
その思いの丈を曲にしたためるという、
どこぞの青春ドラマにありがちな行動に出たらしい。
…らしくなさすぎて、笑っちゃうんですけど(笑)

…………………

北原「でも学園祭がもうすぐそこって時期になって、
   ボーカルの女の子とバンドの男どもが恋愛沙汰で揉めに揉めてさ…。
   部長にはクールに突き放した態度を取ってたけど、
   内心はすげぇ焦ってたなぁ。
   せっかく曲、書いてたのになぁ…ってさ」

中川「進学校でもそんなことあるんだねぇ…。
   今の若い子たちの貞操観念ってどうなってんだろうね?」

北原「中川さんも十分若いじゃんか…」

ここは夏の名残が少しだけある、第一音楽室の窓際。
自らの上達のスピードの遅さに辟易しながらも、
それでも真夏のマンツーマン指導に報いるために、
必死でギターを鳴らし続けた青春の日々のこと。

北原「で、ピアノ伴奏つけてくれてた奴と最後のセッションのつもりで、
   WHITE ALBUMって曲を弾いてたらさ、
   突然女の子の声が窓から聴こえてきて…。
   気づいたら屋上への階段駆け上がって扉を開けてたよ」

中川「…それが小木曽さんだったってわけね。
   いや〜眩暈するほどの素敵な偶然だこと。
   それで?」

北原「それで再び変なやる気が漲っちゃって。
   …ついでに引っ込みもつかなくなって…」

引っ込みがつかなくなった北原さんは、
小木曽さんの勧誘を無事に(?)成功させた。
しかし他のパートの目処が立たずに苦肉の策で取った行動が、
隣の音楽室のピアノの君に、窓伝いに直接会いに行くという愚行。

中川「馬鹿だね〜」

…………………

北原「でもさ、あいつひどいんだぜ!
   腹蹴飛ばされたり、スネを爪先で蹴られたり…。
   …蹴られてばっかだな、俺」

中川「へぇ〜そうなんだ…。
   なんか私の知ってる『冬馬』のイメージとはどんどん離れてく。
   でも今考えたら、完全に愛情の裏返しだったんだよね〜このこの!」

北原「俺の胸に今去来してるのはそんな甘ったるい感覚じゃなくて、
   思いっきり蹴られた痛みだけなんだけどな…」

さっきまでいたのは、とある事情で『冬馬』の実子専用と化した第2音楽室。
そして今は、誰かさんが変装をしてまでアルバイトをしていたスーパーの前。
恋心云々は取りあえず脇に置いて、
惚れ込んだピアノの実力の持ち主に何とかメンバーになってもらうために、
あの手この手を使って粘り強く交渉を続けた日々のこと。

北原「最終的には小木曽家の持つ不思議なパワーに助けられたって感じだったな。
   俺一人だけだったら到底無理だったよ」

中川「それはどうかなぁ?
   冬馬さん、最終的にはどんな形でも北原さんを助けてた気がするけど」

北原「いやいやそれはないと思う。
   あんときのかずさはもう何て言うか捻くれてて天邪鬼で…」

それ絶対あんたのせいじゃんっていうツッコミは、
あまりのノロケぶりに言う気も失せてしまった。
なるほど、この瞬間から始まるわけね。
どうしようもなくなった三角関係…ってのが。
でも、北原さんの口調は相変わらず躍ってるし、
楽しかったんだろうなぁ…ちょっと羨ましいな。

…………………

中川「え、嘘でしょ?
   自分の家に地下スタジオ?
   しかも音響機材も高級な楽器も完全完備って…」

北原「最初に通された時は俺も度肝抜かれたよ。
   そこでしばらくマンツーマンで指導を受けることになったから、
   嫌でも上達していくよな。
   …独学でも努力でなんとかなると思ってた自分が恥ずかしかったよ」

ここは稀代の天才ピアニスト『冬馬曜子』邸の地下にある音楽スタジオ。
そこでひたすら課題曲を弾けるようになるために、
とんでもないスパルタ指導に遭いながらも、
歯を喰いしばってついていった日々のこと。

北原「そのうちにその中に雪菜も加わる日が来て、
   そこからはあっという間だったかなぁ…。
   楽しい日々って、一瞬だよなぁ…そう思わないか?」

中川「今思いついたように言ってるけど、
   その言葉、結構使い古されてる常套句だよ?」

北原「いいじゃん別に!同意してくれよ!
   体力的には限界をとうに超えてたし、
   細かいことはあんまり思い出せなくなってるけど、
   とにかくまぁ…楽しかった。それだけは間違いない」

中川「そうだろうね。
   今、『楽しかった』って顔してるもんね、北原さん」

タイムリミットが押し迫る言わば極限状態の中でも、
当の本人たちは笑いながら、楽しみながら演奏を続ける。
お互いにとってお互いの存在の意味が微妙に移ろいながらも、
目標に向かって進むことはブレなかったから、
急造ながらも最高の準備を持って、3人は本番に臨むことになるんだ。

北原「それでとうとう本番の日になるんだけど…」

中川「あ、待って、北原さん!
   私ひとつどうしても気になってることがあるんだけど…」

北原「え、なに?」

…………………

中川「あはははははは〜〜〜!!!
   いやぁ〜北原さんやっぱり最高だわ!
   『届かない恋』?
   分かりやすい男だねぇ〜ほんとに」

北原「笑うな!人の一大決心の末の傑作を!」

中川「ねぇ、歌詞は?どんな感じ?
   小春ちゃんはDVD観たって言ってたけど、
   私何も知らないんだよね〜。
   実はすっごく興味あったんだ!」

北原「ただの片想いの歌だよ。
   でも、後にも先にもそれ一回きりだな、
   あんな風な雲を掴むような苦悩はさ。
   でも今思えばあれも…いい思い出だよな」

脇道に入って私たちが小休止に向かったここは、
進学校に通う優等生が、勉強や雑務以外の用途に初めて使った大学ノートの上。
ただの殴り書きが延々続いたり、
とある一節に赤丸が施されてあったり…。
同じ大きさの紙が何枚も重なって左端を糊で留めただけの物質が、
なんだかこの過去への旅の全てを象徴しているようにも思える。

そしてそれは…。
好きな人のことを思って、ああでもないこうでもないと頭を悩ませる。
北原さんにとって、間違いなく至福の瞬間だった日々のこと。

中川「まるでラブレターだね。
   どうなの?率直な気持ちは。
   届いてほしかったの?届かなくてもよかったの?」

北原「………どうなんだろうな………。
   どっちを言っても嘘になる気がするし、本当な気もする」

中川「ふぅん、なるほど…」

私はこの時点で、北原さんがきっと気づいていないことに気づいてしまった。
自分じゃない女の子への想いが詰まったラブレター。
こともあろうにそれを読まされる形になった、小木曽さんの気持ち。
もしもそのことが、小木曽さんを焦らせる遠因になったんだとしたら…。
………。

………なんてね。
そこまでは流石に分からないや。

北原「身体を壊してまで曲を演奏できるところに上げてくれたかずさの為にも、
   これだけは絶対完成させないと、って思った。
   1日しかないのにさ、すごいよな。
   この時からかな。『やってやれないことはない』って思い始めたの」

中川「北原さんの超人的なエネルギーの根源を垣間見た気がする…。
   とは言っても、北原さんも見事に身体壊したけどね。
   ちょっと改めた方がいいんじゃない?
   『やってやれないことはない、でものちに身体は壊す』ってさ!」

北原「ロマンの欠片もないよそれ…」

とにかく、この曲を携えて、3人はステージに上がることになる。
そこから見た景色は、いったいどういうものだったのか。
もうすぐ、その幕が上がる。

…………………

中川「嘘でしょ…?この混雑…。
   武道館とか代々木体育館のノリじゃんこんなの!」

北原「それは言い過ぎだと思うけど…。
   引き入れた相手が相手だったからなぁ…。
   噂が噂を呼んで気づけばこんな状態だった」

中川「北原さんは怖気づいた?それとも武者震い?」

北原「カッコつけて言うわけじゃないけど、
   どっちかって言うと後者かな。
   この3人ならなんだってできるって、
   ………本気で思ってた」

ここは、峰城大付属高校軽音楽同好会の最果ての地、
体育館のステージの、すぐ脇。
部長やその親友からものすごく心配されながらも、
不安に思うことなど何もなかった瞬間のこと。

…そしてここから先はたぶん…。
この3人が、本当の意味で3人でいられた、最後の時間。

北原「ステージに上がって歓声を浴びても正直あんまり関係なかったな。
   なんだろう、他人事って言うと違うかもしれないけど。
   …でも、できるって信じてた…この3人なら」

中川「すごい信頼だね。ちょっと羨ましいな。
   私の周りの信頼なんてさ、本当に吹けば飛ぶようなものばっかでさ〜」

北原「いやいや、そんなことないって」

中川「…そうかな」

会場のうねりとは真逆に、
落ち着いた心境で彼らは演奏を始める。
冷静に、でも心は熱く。
どの分野でも必要なメンタリティに容易く達することができていたのも、
やっぱりこの3人だったからなのだろう。

中川「『WHITE ALBUM』!
   この季節にはぴったりだけど、
   学園祭の時期だと尚早過ぎやしないかい?」

北原「でもまぁ、この3人を結びつけた大事な曲だし。
   知ってる曲ってことで観てる皆もちゃんと反応してくれたし」

中川「まぁそう考えると…やらない方が不自然か」

オープニングチューンとしては少し穏やか過ぎる感はある。
それでも、ボーカルの可憐な雰囲気に似合いの曲調だということ。
そしてキーボードの美しい少女が、
誰も予想していなかったサックスなんかを吹き出したこと。
もうこの2つで十分にお釣りがきた格好だ。

中川「北原さんは置物みたいな感じだけどね〜」

北原「うるせぇ!それでよかったんだよ!
   …かずさの凄さを、分かりやすくみんなに知ってもらえるんだからさ」

中川「ギタリストじゃなくて、プロデューサーだね」

そして最初の曲が終わり、MCの時間。
時間もなくて、さらに経験もない、
それでも小木曽さんは慣れた感じでオーディエンスに語りかける。
その一挙一動に呼応するように沸き起こる歓声。
…ライブバンド冥利に尽きる瞬間を、
彼らはデビュー戦にして味わってしまったというわけか。

中川「で、次の曲は…。
   ………『SOUND OF DESTINY』!?」

北原「おっ、その反応は原曲を知ってるね。
   どうせ中川さんも言うんだろ?
   ギソロがあるのになんて無謀な挑戦を試みたんだ…って」

中川「ううん!私理奈大好きなの!
   ますます観たかったなぁ〜。
   うまくいったの?…愚問だね。
   そのドヤ顔がちょっと腹立つわ〜」

北原「俺が人生で一番カッコ良かった瞬間だよ」

そう、私はファンだから終盤に激しいギターソロがあることを知っている。
ボーカルの圧倒的な知名度と存在感。
キーボードの光り輝くマルチな音楽的才能。
そして、超絶難しいギターのソロプレイ。
演奏もバランスも、
何もかもがうまくいくパーフェクトタイムを体感しながら、
いよいよライブはフィナーレへ向かっていく。

中川「そんで最後に、『届かない恋』かぁ…。
   正直どうだった?
   オリジナルに対しての盛り上がりは」

北原「もう何をやっても受け入れてもらえる無双状態に入ってたな…。
   だからって何をやってもよかったってわけじゃない。
   この曲を演ることに意味があったんだからさ」

中川「そうだね…そうだろうね。
   …よかったね」

北原「ああ…よかった」

部長が作った下地に、
ギターのキャッチ―なフレーズと、
キーボードの煌びやかな音色、
そしてボーカルの透き通った声が心地よく絡んでいく。


北原「最高だったな…」


あいつがいて、雪菜がいて…俺がいて。


他には何も、いらなかったなぁ…。


…いらなかったのに、なぁ………。


そんな彼の心の声が伝わってくるような最高の瞬間を、
彼はまた反芻している。

そしてこの曲が終わるのと同時に、
同好会最初で最後のライブは、大盛況のもとに、幕を閉じた。

…………………

北原「気づいたら、終わってた。
   覚えてるのは…汗の感覚と、達成感と…2人の笑顔と」

中川「………」

北原「うん、これが全部。
   中川さんが知りたかったことの全部だ。
   うまく話せてたかな?どうだった?」

中川「うん…すごいね。
   あらためて聞くと」

北原「すごいって?
   バンドがか?かずさが?」

中川「…ううん、どれも違う…違わないけど、
   お互いがお互いを想う、気持ちの強さが」

北原「………」

北原さんは俯いて…少しだけ笑った。
もう決して戻れない時を懐かしんで、少しだけ。

中川「どうだった?北原さんの方は」

北原「うん、楽しかったような気がする。
   中川さんはやっぱりすごいな。
   理屈はちゃんとしてなくても、
   相手に必要なことを選んで助言できるんだな。
   …おかげで、ちゃんと思い出せたよ」

中川「理屈は…ってのがひっかかるけど、許してあげる!」

北原「そうだな…楽しかった…。
   久しく忘れてたなぁ…なんでだろうな…」

北原さんは、俯いた顔を極端に上げた。
もう声も届かない大切なメンバー達を、
夜空に思い浮かべているのだろうか。


北原「なんでだろうな…。
   ほんとにな…」


中川「………」


北原「なんで…俺は…」


違った。
彼に渦巻いているのは、激しい後悔と自己嫌悪。
自分が失った大切なもの大きさで空っぽになった心に、
負の感情が濁流となって押し寄せる。

けれどそれは、誰しもが経験すること。
大なり小なりはあるけど、私だって知っていること。
だから………。


中川「北原さん…いいと思うよ?」


北原「………え?」


話してる間に何駅か歩いた足が止まる。
あまり人気もない細い路地。
誂え向きと言えば、そうかもしれない。
私の方に向いた彼の顔は、
それはそれは見事な泣き顔だった。

私はただその泣き顔に、
ありったけの笑顔で、応える。


北原「…中川さん?」


中川「よくがんばったよ、北原さん。
   これ以上ないぐらいにさ。
   たいへんよくできました!」


北原「………ふっ、なんだよ、それ…」


ちょっとだけ笑みをたたえたその顔も、
やっぱり泣きそうな顔。
私が明るく努めたところで、
彼の心の靄が晴れることはない。
それでも少しは、楽になってほしいんだ。


中川「だから…いいと思うよ?」


北原「いいって…何が…」


中川「…泣いてもいいよ、北原さん」


北原「え………」


中川「ここには、誰もいません。
   あなたを責める人も、それを見咎める人も…」


北原「…中川さん…」


私は、案山子になる。
一緒にいる人間に直接的には何の利害ももたらさない、
でも外敵からはその人を守ってみせる、そんな存在に。


北原「…なに言ってだよ中川さん!
   男がそう簡単に人前で涙を流すなんて、そんな…」


中川「………」


ただ、この案山子の特徴的なのは、
外敵の侵入を阻むという天命を受けながらも、
表情だけは何故か満面の笑みというところ。


北原「そん、な………」


中川「………」


北原「あ…ああ…」


中川「………」


次の瞬間、北原さんは虚勢を張るのを完全にやめた。
私に一歩、二歩と近づき、そして………。


中川「あ………」


私を、ギュッと抱き締める。


北原「うあ…ああぁ…ああ〜〜〜〜〜っ!!!」


中川「…よしよし…」


私は今、北原さんに抱き締められている。
でもそれは熱い抱擁と言うより、
悪戯をした子供が、母親に許しを乞う姿のようで…。


北原「…なんで…なんで…。
   あんなに…楽しかったのに…。
   あんなに…ひっく…好き、だったのに………」


中川「そうだね…そうだね…」


北原さんの身体から、
温もりと同時に、悲しみや寂しさ、
そして今はもう離れた場所にいる二人への、
深すぎる愛情が伝わってくる。
中てられた私も、気づけば涙を流していた。


北原「うぐっ、うあぁ…ああぁぁぁ……。
   ああっ…ああああああああ〜〜〜〜〜っ!!!」


中川「いいよ…泣いていいよ…。
   よくがんばったよ…」


私にとっては役得のこの状況でも、
浮かれた感情は何一つ湧き上がってこなかった。
だって、一番大切な人の一つの恋愛がたった今…終わったのだから。

そして始まるのは、新たな戦い。
時間は止まらずに、ただ、残酷なまでに、事実だけを残して進んでいく。
北原さんはきっと、
傷ついてボロボロになった心を引き摺りながら、
また、日常と戦っていくことになるんだろう。

私は彼のそばで、
その戦いの一部始終を見ていたいと思う。
時には同じ涙を流しながら、
時にはそっと、迷う彼に手を差し伸べながら…
それが、私が私に課す、新たな戦い。


北原「ああっ、うっ、ふぐぅ…ああ…。
   うあ…ああぁぁぁあああ〜〜〜っ!!!!!」


この涙も、あの日の笑顔も、輝いた日々も、
すべてが、本当の意味でいい思い出になるその日まで…。


私は、そばにいるから。


そしていつか気づいてもらえるように、がんばるから。
忘れるためじゃ、意味ないから。


どれだけ泣き続けても、枯れない涙。
そのすべてを私なんかが受け止められるわけもないけど。
心まで凍てつくような残酷なこの季節に、
私の体温を少しでも頼りにしてくれれば、それでいい。


この涙が止まったら、私たちはまた歩き始めるだろう。
それぞれが先の見えない、明日に向かって。


私は少しだけそこに、思いを馳せる。
そして少しだけ、願いを込める。
再び歩き始めた私たちの道が、
どこかで重なり合って一つになることを。


いろんなことがあったし、
その過程で、いろんな人が傷ついていったけど…。
もう私は、この想いを曲げることはない。


いつか届くように。
同じ幸せを見つめられるように。
この想いを大切に温め続けていく。


私も、一緒に強くなるから。


だから、もうちょっとだけ待っててね、北原さん。


好きだよ、北原さん。


今は、言えないけど…。


大好きだよ…大好き………。




こうして…。


何年も何年もかけて、北原さんの季節が今、ひとつ終わった。
その最期を看取った私は、
北原さんとは違う、でも同じ涙を流しながらも考えてしまう。
見えない明日に向けて、
心が勝手にまた、無意味な皮算用を始めていく。


そんな自分が嫌いだから、
北原さんの胸に顔を擦り付けて思考を打ち消す。
抱きしめ返した手に、更に力を込める。
そう、今、考えていいことはひとつだけ。
…彼の心の、平穏だけ。


彼の心が、安らかな寝息を立てるその日まで、
…私の季節はまだ、終わらない。




   ―Epilouge―

小春「いきますよ〜先輩!!」

北原「おう!来い!!」

スパァン!!

ここは、南末次駅前に出来たスポーツの複合施設、
その名も『SPOTS(スポッツ)』。
スポーツとスポットの掛け言葉なんだろうけど、
あまりのネーミングセンスの悪さに、
私たち4人は最初、入り口を跨ぐのを躊躇ったほどだ。

しかしひとたび入ってしまえば、
非常に爽やかな感じのするエントランスの内装や、
目移りするほどの競技の種類の豊富さ。
そしてフィールドに出た瞬間の解放感やワクワク!!
一瞬で毒気を抜かされてしまった…チョロいにもほどがあるよね。

北原「くそっ」

パァン!

小春「いいですよその調子!」

スパァン!

前後左右に振られながらも、
持ち前の負けん気で食らいつこうとする北原さん。
でも所詮は相手の土俵。
敵うはずもなく…。

北原「ダメだ!休憩〜〜〜」

小春「あ〜!逃げた〜!
   私から1ポイント取るんじゃなかったんですか?」

北原「いや…ハァ…無理…次回に持ち越し…」

小春「何か進歩したかと思ったら前と何も変わらず。
   ほんと口だけですね、もうっ!」

ここは彼女の土俵、テニスコートの上。
このコートが彼らの汗を吸ったのは2度目だ。
最初に来たときはまだ、
汗をかいたまま外に出たら確実に凍える真冬だった。
というか、北原さんがそれで風邪をひいた。
まだ恋の傷も癒えぬうちに…弱り目に祟り目である。

弱り切った脳がどう情報を処理したのかは知らないが、
復活してバイトに来た北原さんが言った言葉が、

北原『杉浦!あったかくなったらもう一回行くからな!
   その時にリベンジだ!!』

…だった。
今日がその日だったのだが…。
北原さんは、たとえ身内の仇にあっても状況が悪くなれば、
『次回に持ち越し』と言うのであろうか。
見事な返り討ち且つ逃亡劇。

今日は、小鳥が気分よく囀る春の日。
絶好のスポーツ日和である。
この日を迎えるまでに、
私たちにはささやかながらいろいろな出来事があった。
では小さい順、どうでもいい順に紹介していきましょうか。

まずは、私たちの集まりの噂を聞きつけてついてきた、
相変わらず準社員の肩書きを捨てられない佐藤さん。
彼には、先月に待望の彼女ができた。
これについては以上!!

佐藤「おいっ!!もうちょっとあるだろ!!
   成り行きを紹介す」

そして次は…私。
なんとか2回生を繰り返さずに済みました。
2流大学のウチでもちょっと心配してたんだけど…。
とりあえずまぁ今回のことは深く反省して、
次の試験はちゃんと1日1時間ぐらいは勉強しようと思います!!

こんな心の声を聞かれたら、
北原さんにシバかれそうだな…。

小春ちゃんは無事に、
付属から大学に進学することができた。
学部も学科も北原さんと同じ。
努力で勝ち取った結果以外の何物でもないし、
私もその報告を聞いて心から喜んだのだが…。
ちょっとだけ羨ましいし、怖い気もするなぁ。
ま、これ以上はないものねだりになるね。

最後に、北原さん。
彼は就職活動のシーズンに、
早々に志望の出版社の内定を勝ち取って見せた。
『立ち直る』ということを、
形としてすぐに私たちに示してくれた。
本当にこの人は…すごいなぁ。

そしてそれ以外に報告すべき出来事は特になく、
今日に至りますというわけ。
誰と誰がどうなったとか、
誰と誰がどうみたいとか…。
そういったことは起こらず、日々は比較的穏やかに進んでいく。
まぁ毎日がドラマみたいだったら、
逆に疲れて困っちゃいそうだし、ちょうどいいね。

私と北原さんの関係も、何も、変わらず。
バイトの同僚。
友人。
相談相手。
何一つ変化なし。

それでもバイトが同じ時間で終わったらごはんぐらいは食べるし、
何もなくてもメールしたり電話したり。
そのうち9割が雑談系で、そのうち1割が連絡事項だったりする。
あれから、北原さんの口や文面から、
弱音の類を聞いたことはない。

中川「あ、北原さんお疲れ!あれ?2人は?」

北原「…いやほんとに疲れた…。
   なんなんだ?あいつらの体力は。
   キャッキャ言いながら今バスケットボールついてるぞ」

中川「…たぶんあの2人が『向いてる』人間で、
   私たちが『向いてない』んでしょうね〜」

北原「杉浦には予感してたけど、
   まさかこのタイミングで佐藤に劣等感抱くとは思わなかったよ…」

こういう弱音は、わかってるとは思うけど別ね。

北原「一応テニスやるシミュレーションとかはしてきたんだけどな…。
   ネットとかでもいろいろ調べてさ。
   まっっったく意味なかった」

中川「観るのと実際やるのは違うよね〜。
   ていうか今更そんなことに気づくなんて、
   普段どれだけ運動してないのって話なんだけど」

北原「お察しの通り、
   スポーツやる機会なんて皆無だったんだよ」

中川「…じゃあ慰めも兼ねてちょっと飲み物買ってきますね!
   北原さん何がいい?」

北原「う〜ん…アク○リアスよろしく!」

中川「了解!!」

そう言って私は自販機コーナーへ。
その人の為の行動であっても、
いざ誰かのもとを離れるという行為には寂しさが付き纏う。
想い人であれば、あるほどに。
だから私は見えなくなる前に、
もう一度だけその人を視界に入れようと振り向く。

あれから私は、北原さんの口や文面から、
弱音の類を聞いたことはない。

ただ………。

中川「あ………」

一人でいるときの北原さんが最近よく浮かべる表情。
それに彼は今、戻っている。
スペースごとに網が張られ、
そして四方を壁に挟まれた屋内であっても、
どこまでも遠くの空を見つめているような…。

時間がどれくらい彼の傷を癒したんだろうか。
そして、彼は今何を思っているんだろうか…。

…………………

至れり尽くせりのこの『SPOTS』。
マッサージルームや大浴場まで完備。
そして私と小春ちゃんは、大浴場で一汗かいて、
今女子更衣室でお着替え中。
男子はもう外で待ってる頃かな。

小春「南末次って峰城大学があるだけの地味な街なのに、
   オーナーさんは何を思ってここにこんな施設作ったんでしょうね。
   おかげで結構楽しめましたけど」

中川「う〜ん…そういえばそうだけど…。
   逆に言えばそれだけ『大学近く』ってのが大きいんじゃない?
   狙う年齢層はバッチリ当たってると思うし」

小春「それはそうかもしれませんけど…。
   交通の便もそれほどよくないし、
   絶対黒じゃなくて赤字だと思いますよ?」

我々日本人のしがちな、
自分には関係のない店の経営状態の心配。
そんな雑談で空いた時間を埋めながら、
私はまだ下着を、
小春ちゃんは早々にボタンホールにボタンを入れる作業をしていく。

中川「着替えるの早いね小春ちゃん…」

小春「そうですかぁ?
   …あ、そういえば私、
   中川さんに言わなきゃいけないことがあるんです」

中川「え?どうしたの藪から棒に」

小春「後悔しないようにって…言ってくれましたよね?」

言わなきゃいけないこと。
なんだろう、いい予感はしないな。
まさか………。


小春「北原先輩もそろそろ立ち直ってきてるみたいだし。
   ここらへんで私もちゃんと宣言しとこうかなと思うんです。
   …誰かさんみたいに」


まさかまさか………。


小春「中川さん、私…負けませんから!」


…やっぱし。


小春「この間、北原さんが私を介して美穂子に直接謝ったんですよ。
   そしたらなんか美穂子の想いがまた再燃したらしく…。
   そのあと私も美穂子に自分の想いを打ち明けて、
   喧嘩して一緒に泣いて…仲直りして」


…あれ、あれあれ?


小春「で、ちゃんとお互いの気持ちを認め合ったから、
   もう誰に気を遣わなくてもいい状態になったんです。
   だから…中川さんにも負けません!絶対!
   というわけで、お先に先輩のところに行ってきますね♪」


中川「え?あっ…」


早口でまくしたて、反撃の機会も許さず、
当人はもう更衣室を出て彼の許へ。
これはあれだ。
ひとつ前の季節に突然わけのわからない告白をして、
自分を困らせた相手への意趣返しだ。
その効果は覿面で、ここにはハトが豆鉄砲喰らったような顔をした
間抜けなホールチーフ一人だけが残されていた。下着姿の。

確かに正々堂々!の方が、後腐れなくて良さそうなんだけど…。
今のところ安心感よりも脅威の方が上回ってるんだよな。
スタイルだけは勝ってるかもと思っていたけど、
さっき見た感じだと彼女もなかなかどうして育ってきとるし…。
………オッサンか、ワシは。

それにしても…。
一難去ってまた一難。
人生まだまだ退屈しそうにはない。
そしてこのシナリオを書いた神様、今すぐここに来なさい。
スネにトーキックぶちかましてあげるから♪
はぁ〜あ…。
ゆっくり関係を深めていってる場合でもなさそうだなぁ…。

…………………

もう何度目になるだろうか。
小春ちゃんを無事に送り届けての、いつもの帰り道。
彼女ももう私たちと同じ大学生なんだけど、
それでもこの習慣が続くのは…妹属性の成せるワザ?

中川「そういえば北原さん、
   美穂子ちゃんでしたっけ…小春ちゃんの友達の。
   あの子に謝ったらしいですね?」

北原「ああ…杉浦に聞いたのか。
   正直ずっと心にもやもやしたのがあってさ。
   だから、峰城大に無事に進学したって聞いたから、直接…」

中川「そうなんですね〜」

北原「その勢いで谷口さんにも電話してみたけど、
   番号変わっててさ…。
   あの子はたぶん、俺のこと許せないんだろうな。
   いちばん酷いこと、言っちゃったし」

中川「!」

ぐはァ!
なんて耳の痛い話題だ。
小春ちゃんは美穂子ちゃんにちゃんと筋を通した。
それに比べて私は、必要かどうかはさておき、
谷っちに何の償いも弁解もしてない。
なんてひどい女なんだろう私は…。

…という風な思考の流れになるはずだったんだろうな、本来は。
いやぁ、なんてタイムリーなんだろ。

中川「きたはらさ〜〜〜ん…」

北原「な、なんだ?
   いきなりその不気味な呼び方は…」

中川「私この間、谷っちとお茶しましたよ?2人で」

北原「………え」

そうなの。
私この間偶然谷っちに会ったの。街中で。
そんでお茶しようってなって…。

中川「彼女、グッディーズやめてからすぐに彼氏できたんだって。
   なんか嬉しそうに言ってたよ〜」

北原「………え」

中川「番号変わったのは単なる気分転換だって。
   北原さんに知らせないのは当然だよね〜。
   彼氏もいるのに、前に好きだっただけの男の番号なんて、
   残す必要ないもんね〜」

北原「………え、ええ?」

中川「というわけで、別に北原さんが気に病む必要はないと思うよ〜。
   彼女、それでなくても恋愛体質だったんだから」

北原「………マジかよ………。
   なんか、どっと疲れたよ…」

これもまた偶然の賜物でしかないんだけど、
私は、罪悪感を抱いていた彼女の幸せをこの目で確かめることができた。
…私自身が何をしたわけじゃないから、
申し訳ない感は少し残っちゃってるんだけどね。

でも…だから、これで本当に横並び一直線。
誰がそこから抜け出して彼のハートを射止めるか。
彼が時折見せる遠い目を、自分の方に向けさせるのは誰なのか…。
それはそれぞれの努力に大いにかかってくるのだろう。
頼むからここから先は、
爽快な読後感が残るシナリオにしてくれよ!神様!!

北原「………あっ、そうだ、中川さん」

中川「なんです?」

北原「あのさ、俺がバイト掛け持ちしてるのは知ってるよな?」

中川「ええ、どこでしたっけ…内定先の出版社の…」

北原「そうそう、そこで働いてると結構いろんなチケットとか、
   安く手に入ったり、タダで貰えたりするんだけど」

中川「ほうほう」

北原「直属の上司からコンサートのチケット貰ってさ」

中川「…仕事が完璧にできてさらに美人の女上司でしたっけ?」

北原「そうそう、って…なんで口調が突然とげとげしくなるんだよ」

中川「別にィ〜」

これ以上競争率を上げないでくれたまへ。
ただでさえ強敵・難敵揃いなんだから、さ。

北原「で、結構有名なバンドのドーム公演のチケットで、
   アリーナ席の前の方なんだけど…よかったら、一緒に行かないか?」

中川「………」

北原「…ん?なに?どうした?
   目ぇ見開いて…俺の顔、なんかついてる?」

中川「…なるほど、そういう話ですか」

北原「…?」

今私は、北原さんからなんとも嬉しいお誘いを受けた。
一般人はなかなか入手しにくい有名バンドのライブのプラチナチケット。
それを私なんかと消費してもよいとおっしゃる。
実に酔狂な申し出だ。

時間は、止まらずに、ただ事実だけを残して進んでいく。
しかし未来に思いを馳せることはできる。
望みを、祈りを、願いを…、
自分でも気づかないうちに抱いてしまっている。
でも、勘違いとそれとは違う。
だから…。

中川「なんなんですか〜北原さん!
   今更私の魅力に気づいて、モノで釣ろうなんて思ってるんですか〜?」

北原「なっ!
   ライブ誘っただけでいきなりそこまで曲解するかよ!」

中川「そうでないなら…さては!
   いろんな女の子に声かけて、片っ端から断られたんですね!
   可哀想に…」

北原「更なる曲解を上乗せするな!
   誰もほかに誘ってない!」

だから細心の注意を払って、北原さんにじゃれつく。
ゆっくりゆっくり、心の距離を無くしていく。
私は臆病だから。
それでも、この人のそばにいたいから。

中川「でもね〜もっとこっちのテンション上げてもらわないと、
   私だってヒマじゃないんだから」

北原「年中ヒマしてるじゃん中川さん!」

中川「ひどい!北原さん!今のは傷ついたわ!!
   私にだっていろいろあるのよ!!
   もう…小春ちゃんでもその美人の女上司さんでも誘ったらいいじゃない!!」

北原「へそ曲げないでくれよ…。
   …腑に落ちないところも多々あるけど、一応謝っとく」

こうやって、少しずつ少しずつ、
冗談や軽口を交えながら、2人の空気を拡げていく。
そしてアンタッチャブルなゾーンを、無くしていけたらいい。
いつの日か本当の意味で…。

中川「もう!完全に私の機嫌は損なわれなしたよ!
   相当下手に出てお願いしないとダメですからね!!」

北原「…いい性格になったね、中川さん…」

中川「もともとです!さぁ、早く!!」

北原「う〜ん…」

いつの日か本当の意味で、
理由がなくてもそばにいられるように。

北原「中川さん、是非ともわたくしと一緒に、
   ライブを観に行ってください。お願いします。
   …こんな感じでいい?」

中川「う〜ん…やっつけ感がすごいね…。
   誠意が感じられないわ」

北原「誠意って…クレーマーかよ!」

中川「やり直し〜」

北原「やれやれ…それじゃあ…。
   …ウホン。
   中川和美様、私のような下賤な者が、
   あなたさまのような高貴な…」

中川「スト〜〜〜〜ップ!!
   それじゃ主人と奴隷だよ!
   まったく…北原さんって極端にしか振る舞えないの?」

北原「そんなこと言ったって、やらされてるんだから…。
   …あ〜わかった、わかったよ!!」


楽しく、生きていけるように。
笑って、過ごせるように。
過去を思い出に、変えてあげられるように。


北原「俺は中川さんとライブに行きたいんです!!
   俺と一緒にライブに行ってください!!」


中川「合格♪
   やればできるじゃん!
   こちらこそ、お願いします♪」


わたし、頑張るから。
だから………。

季節は、春。
幸せは冬にやってきて、春に花咲く2人になる。
そんな季節に、なっていけばいいな。

いつもの帰り道。
春とはいえ、まだまだ朝晩は冷え込む。
それでも私は、季節のものではない温もりを、
彼の近くで、感じることが出来る。

春の強い風も、夏の暑さも、
秋の寂しさも、冬の寒さも…。

この人の隣でずっと、乗り越えていけたら、いいな。

ではまずは…誘ってもらったライブ、
全力で楽しんで参りたいと思います!!
それじゃあ、バイバイ♪

~fin~


あとがき

長々とすみません。
最後まで読んで下さった方、感謝しています。
本当に、ありがとうございます。
後編だけ凄まじい量になってしまい申し訳ないです。
ひとえに私の努力不足です。

もともと僕もWA2が大好きでのめりこんで、
そしてこのサイトの素晴らしいssに触発されたクチなんですが…。
完成されたストーリーからの後日談が僕には向いていないらしく、
サブキャラのifルートという、
逃げ道を行く結果となってしまいました。

それでもとりあえず形になったので、
ここにアップさせていただきます。
どんな意見でもいただけるだけでうれしいです。

以上です。
ありがとうございました。 .

このページへのコメント

いろいろリスペクトやオマージュは技術不足ながらちりばめています。
その一つに気づいていただけてうれしいです。
そうですね、このあとは下手したら三角、四角という可能性もありそうですが、
ドラマにはなりそうにないかなという直感があるので、ここで結ばせていただきました。
3人とも春希の過去は知っているわけで、似たような失敗もしないだろうと…。
コメントありがとうございます。

0
Posted by boragi 2014年06月01日(日) 15:31:22 返信

中川さんをヒロインに据えたSSですが、良かったです。中編のプレゼントを渡す所は「雪が解け」リスペクトでしょうか。後編ではボロボロになった春希を励まし支える中川さんはかずさや雪菜に負けないヒロインになれたと思います。この後は小春との三角関係になりそうな雲行きですが、ICルートのようなドロドロな結末にはならない気がしますね。ICルートが嫌いな訳ではありませんが。

0
Posted by tune 2014年06月01日(日) 01:22:06 返信

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