傾いた太陽を右手に見ながら、俺の運転する車はウィーン中心街へ向けて走っていた。

「実に貴重な体験だったよ」

「いろいろすみません…」

苦笑する麻理さんに、恐縮する以外どうしろと。

「いや、皮肉じゃないんだ。インパクトは確かに強烈だったが、なんというかな…生の冬馬かずさを見れた、というか、生の北原春希が見れたというか」

「はは…」

俺も一括りですか、そうですか。

「…外見はひどくクールに見えたのに、エキセントリックで、でも驚くほど可愛い人なんだな」

ええまあ、寂しいと死んじゃうタイプで…とは口には出さず。

「それに、北原と旧知ということで、どうやら私は若干嫉妬されてたようにも感じた」

ふふ…っと、麻理さんが実に楽しそうに笑った。俺の口から語られた女性にはもれなくかずさの嫉妬がついてきます。なんてことも口には出せない。

「若くてあんな美しい女性に嫉妬されるなんて、私もまだまだ捨てもんじゃないな」

麻理さんもまだ十分若いじゃないですか、ってこともやっぱり口には出せないわけで。この言葉への切り返しはすでに経験済みだ。

だから俺は、終始曖昧な笑みを顔にへばりつけ、適当に相槌を打つしかなかった。日本人だよな、俺って…。

「…それに、最後の質問の答え、あれには正直まいった」

「…っ」

言葉を呑んだ。俺にとってはまいったどころの話ではなく、終生忘れ得ぬものになった、かずさの答え。

それは30分前の応接室で───

…………………………………

「将来の夢?」

「ええ、この先叶えたい夢とか、目標のようなものがあれば、お聞かせください」

「夢…夢か…そうだな…」

ソファーに置いた俺の手に、かずさがの手が被さってきた。

「かずさ…?」

俺をじっと見つめる瞳の奥にあったのは、凪いだ湖の水面で煌めくような、静かで、透明で、純粋で、真っ直ぐで、俺の心の奥底にまで染み入ってくるような光だった。

そうしてかずさの口から零れ落ちたのは、暴れまくって熱を放出し、少しだけ緩んだ心の隙から、ポロリと漏れた本音のようなものだった。

「春希を…春希を幸せにしてあげたい…」

全く予想外の答。いや、最も予想してしかるべき答えだったのかもしれない。

「春希があたしを救ってくれたように。幸せにしてくれたように。でもあたし、なんにもできないから…春希を幸せにしてあげられること、なに一つできないから…。だから、ピアノを弾くだけ。春希が望んでくれる限り、弾き続けたい…それだけ、かな…」

「かず…さ…」

ひどい不意打ちに、息が詰まった。魂ごと撃ちぬかれ、俺は指一本動かすことができなくなってしまった。

馬鹿野郎…なに言ってんだよお前…

俺だって、俺だってお前と一緒にいられることが、なにより幸せなんだ。だからここにいるんじゃないか。二人で生きていこうって決めたんじゃないか…。

そう声を上げたかった。けど声を出したら、全てが溢れてしまいそうで。

だからこみ上げるものを抑えるのに、ただ黙って全力を注ぐしかなかった。

…………………………………

「…本当に北原のことを愛しているんだな、彼女」

かわすこともできた。適当に濁すことだって。でも今は、それをしたくなかった。かずさの想いを真正面から受け止めたかった。だからはっきりと。力強く。挟持にかけて答えた。

「はい」

その時、麻理さんがどんな顔をしたのか、運転中の俺に窺い知ることはできなかったけれど。一瞬、息を呑む音が聞こえた気がした。

「北原も?」

「…命がけで」

それが、すべての答え。

憧れて、恋い焦がれて、けれど絶対に手の届かない存在だと思っていた。

うざいと言われ、近寄るなと言われ、それでも彼女から目を離すことができなかった。

そして、とうとう本当に俺から離れていくと知った時、自分の犯した罪の重さに震えた。

それでも彼女は、そんな俺のことを、ずっとずっと、強く強く想い続け、求め続けてくれていた…。

何もかも間違え続けた俺なんかのことを、5年もの間、ずっと…。

だからこそ俺は、俺の世界の全てと引き換えに、かずさを選んだ。

それが正しかったのか、間違っていたのかなんてどうでもよかった。今はただ、かずさへの愛しさが、俺の中で狂おしいほどに暴れまわっていた。

「命がけ…そうか。うん…そうか」

そういうと、麻理さんは「はあ…」と大きく息を吐いた。

「ま、誰も勝てんな…確かに」

「え?」

「なんでもない。にしても、いろいろ記事にし辛いのは確かだ」

「ですよね…」

されても困る。いろいろと。

「というわけで、北原春希くん、臨時のライターとしてうちに雇われる気はないか」

くんって。いや突っ込みどころはそこじゃなくて。

「本気…ですか?」

「冬馬曜子オフィスのweb上のパブリシティや、コンサートのポスターやパンフのコピー、ドイツ語、フランス語、英語版があったが、あれ、全部北原が書いてるだろ?」

「よく…分かりましたね。というか、どうやって手に入れたんです? 北米じゃあ手に入らないでしょう?」

「ネットオークションだ。冬馬かずさ関連のグッズ、マニアの間ではけっこう高値がついてるんだぞ。知らなかったか?」

知らなかった。そんなことになってたとは。というか、この人はそんなところにまで目をつけていたのか。

「まあ、彼女はあれだけの美女でもあるし…って、北原北原、そんな苦い顔するな。独占欲丸出しだぞ」

「え? あ? いや…」

「本当に似た者夫婦だな、お前達」

苦笑されてしまった。にしても…

芸術家といったってエンターティナーの一種であり、そういうマニアがいるのは決して悪いことではない。彼女の名声の一助になるのは間違いないからだ。マネージャーとしては、むしろ歓迎すべきことだろう。でも釈然としないのも確かなことで…。かずさのマネージャーという位置にいる今でさえ、本当は、あいつのことを誰にも見せたくない、俺の腕の中だけに仕舞っておきたい、というのも本音なわけで…。

「昔の通りよく書けてた。結局冬馬かずさをもっとも理解しているのは北原以外にいない。文章力も語学力も問題はない。ギャラは応相談、締め切りは2ヶ月後、言語はドイツ語、フランス語、英語、日本語、どれでもいい。まあできれば日本語か英語にしてくれたらありがたい。どうだ?」

「い、いや待ってください、そんな…」

「なにも珍しいことじゃない。お前だって知ってるだろ。力のある外注スタッフに頼るのは、この世界の常識だ」

「けど俺は…」

「少なくとも冬馬かずさを語らせたら世界一なのは間違いない。お前が書けば最良の記事になる。なら私としては当然の選択だ」

「しかし…」

「考えてみてくれ。まあ返事はできるだけ早く頼む、がな」

「…はい」

切り捨ててきた過去の自分。一生の仕事だと思っていた懐かしい日々。ほんの僅かな期間だったけれど、俺に期待を寄せてくれる人たちもいた。一緒に悩んで、一緒に苦労して、一緒に作り上げたものが確かにあった。けれど俺は、すべて投げ捨て、裏切った。だから今更そんなことが許されるんだろうか…。

━━━━━━

ホテル前についた頃、空はすでに茜に染まっていた。ロビーまで麻理さんを送り、その別れ際。一旦背を向けかけた麻理さんが、立ち止まり振り返った。

「なあ北原」

「なん…です?」

「その…なんだ、間違っていると思ったら、そう言ってくれ。私は事情をすべて把握しているわけでもないし、これはとんでもないおせっかいかもしれないけれど…」

ほんの少しの逡巡の後、麻理さんは再び語りだした。

「世の中というのは、けっこういい加減で、適当にできてるもんだ。お前は何でもかんでも四角四面に、杓子定規に捉えがちだけど、すこしくらい柔らかくてもいいんだ。…だから、なにもかも捨てることなんてないじゃないか。そりゃどうにもならないことだってあるだろう。でも、どうにかできることだって、けっこうあるはずだ。もちろん信念を持つことは大切かも知れない。でもそれに縛られたら、人生はひどく味気ないものになる。そうだろう?」

そこまで言って麻理さんは額に手を当て天を見上げ、自虐的な嘆息を一つ、吐いた。

「いや、すまん。踏み込み過ぎた…」

「麻理さん…」

「とにかく、これで切れてしまうのはなしだ。私だけじゃない。お前に繋がる世界が、まだ残っているはずだ。言ってること、分かるな?」

「ありがとう…ございます」

俺がばらばらに壊してしまった世界。けれどその欠片の幾つかをもう一度拾うことが、もし許されるなら…。

俺は一度大きく息を吸い、そして吐き出した。

「一つ聞かせてください。この話、最初から俺に振る積もりだったんじゃないんですか?」

「さて…どうかな」

「本当にあなたって人は………分かりました。かずさの記事、ぜひ俺にやらせてください」

俺の言葉に、麻理さんが穏やかに微笑んだ。この笑顔を買うためなら幻の宝の地図を差し出してもいいぐらいの、美しい笑顔だった。

「そうか、うん、分かった。引き受けてくれて私も嬉しい。じゃあ詳しい打ち合わせは後日メールと電話でな」

「もしお時間いただけるなら、この後すぐにでも…」

「今日のところは帰ってやれ。というか、すぐにでも飛んで帰りたいって顔してるぞ、お前」

「それは…」

「なんだ、その鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔は」

本当にこの人は器が違う。簡単に見透かされてしまった。

けど麻理さん、そのオヤジ臭い表現はやめておいたほうがいいですよ。なんてことをちょっと悔し紛れに心のなかで唱えておく。

「まあ、冬馬かずささんに…いや、北原かずささんによろしくな。時間があれば、私がNYにいるうちに、二人で遊びにでも来てくれ。もちろん、日本に帰ってからでもいい。じゃあな」

遠ざかる彼女の背に、俺は深々と一礼をした。それほどこの再会は意義深いものになったと思う。過去のこと、現在のこと、未来のことを、一度すべて考えなおしてみたくなった。

俺の歩んできた道を、俺の歩んでいくべき道を。

だから一刻も早く、かずさのもとへ帰らねばならない。


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