管理人さんが帰ってくるまでの仮まとめです

節分だったのだ鬼ヤン
百合ヤン要素あり
ちゃんと男のヤンデレも出てきます
スピとかオカ板的な用語があるので、わからないときはググってください
下品な会話もあります



節分なんて一人暮らしの独身女には関係ない。
そもそもあれは小売業界が意図的に流行らせたもので、幼い頃あんな風習は我が家にはなかった。
しかし毎年販売される様々な恵方巻きはもちろん、それにかけたロールケーキなども美味しいので、別に廃れなくてもいい。

それよりも憎いのはバレンタインだ!あれこそお菓子業界が、己らの利益のためにでっち上げた忌まわしき風習だ。本場のヨーロッパではチョコなんか送らないし、ホワイトデーもない。
いや待てよ、それはそれで恋人がいない奴には酷か?いや、三倍返しがない分男に優しいのではないだろうか。
小めんどくさい事を考えていると、高校時代からの親友である喪々実から「もうすぐ着くよ」と連絡が入り、この喪女の僻み全開の思考を終わらせた。

「喪子も待ってばっかりじゃなくて、たまにはカウンター行ってみたら?試すだけでもいいんだし」
喪々実は大学卒業前のクリスマスに彼氏ができ、それから一年経った去年のクリスマス、プロポーズされた。
「いや、喪々実に誕生日プレゼントでもらったボディーローションとスクラブ、すっごいよかったけど…自分でこういうとこ来て買うのはなんか、いいや…なんかわたしにはもったいないし」
「そんなことないって、こないだあそこのファンデ迷ってたし、『肌が弱いので一日様子を見ます』って帰ればいいんしさ、ね?」
喪々実は彼氏ができてから、急に可愛くなった。私もよく知る真面目で好青年な良夫と、ゼミで少しずつ仲良くなっていった。
お互いに入学式の後、慌ててドラッグストアでプチプラコスメを買ったような女子だった。腐女子の喪々実はグッズや円盤、同人誌に、私は食べ物と小説、好きなバンドやアイドルのライブにお金を使っていたから、服もお金はかけないようにしていた。
今でこそ、もう大人だから前よりはちゃんとしてるが私は少ない枚数で回そうとする方。
自分の買い物に行く喪々実はすっかり普通のおしゃれな女の子で、ヲタクの友達の勧めでコスプレも始めた。元々可愛い顔をしてるから、ツイッターを見ると結構褒められてるし、お誘いもある。
私と言えば相変わらずライブと読書、たまに帰省して、小さい頃地元の神社のお祭りで演奏していた雅楽や神楽を小学生に教える日々だ。

喪々実に教えられた言葉で切り抜け、地下でお高いチョコを買う。私はいつか彼氏ができても、自分用の高級なチョコはやめないだろう。
結局私は彼氏がいない喪女だから、節分はよくてもバレンタインが憎たらしいのだ。
いずれ、家族で子供と豆まきや恵方巻きを楽しむ女性達も羨ましくなるのかもしれない。その前になんとかしないと。カウンターでチークやリップもつけてもらった自分を見て、喪々実みたいにしてみることにした。

「あ、喪子ー!またいっぱい買ったね」
相変わらずよく食べるなーなんて軽口を叩き合いながら、お互い目当てのチョコに並ぶ。
「体が喪々実より大きいからねw動く為には大量にエネルギーが必要なんだよ」
「10cm違うって言っても、165ならそんなデカいってほどでもないでしょ
ていうか、喪子って昔からたくさん食べるのに細いからそこだけは羨ましい!」
「そこだけかよ」
「うーん…喪子は背もあって細いし、かっこいい系?てか一緒にコスしよー絶対男装似合うから」

無事にチョコを買い終え、喪々実がスマホを見ると彼氏の着信。今夜会えないかと、誘われているようだった。
「…あ、ごめんね。今話したんだけど、喪子も一緒に行かない?良夫も友達連れてくるっていうし…」
「え…」
どうしよう。私に気を使ってるだけだよね。
「いやいや、ジャマしちゃ悪いから」
「でも、良夫の友達も来るよ?」
「気使わなくていいって、私みたいなの連れて来られても友達も困るだけだから気にせず行ってきて?」
「だからそんなことないって」
「そういう気は使わなくていいから、ね?」
その後、近くのカフェで時間までお茶をして喪々実と別れた。

一人になってから、近くをぶらぶらしたがどこか気が晴れなかった。
今日試したファンデを買って帰ろうかとも思ったけど、やっぱり私なんかが着飾っても喪々実と同じにはなれない気がした。
コスメフロアを挙動不審にうろうろした後、値下げされた恵方巻きとお惣菜を買って帰った。
家に着いてもまだもやもやしたまま。家の近くのスーパーでお酒を買ったら、レジで小さな味付きの豆のおかしをもらった。どうして私のところにだけ福は来ないんだろう。
喪々実はそんなつもりじゃないって分かってるのに、カウンターに行ってみるのを勧めるのも、今日良夫の友達と4人で飲もうとしたのも全部上からのお節介に思えてしまう。
コスプレに誘うのも、私と遊ぶのも、結局は全て、私を引き立て役にする為だったんだろうか。
「違うよ、喪々実はそんな子じゃ…」
悔しい。なにが?先に脱喪されたから?違う。
「良夫が悪いんだ!3年から知り合ったくせに!もさかった時は話したこともなくて、ちょっと可愛くなりだしてから…あんな奴、結婚とかないでしょ」
ずっと親友だった喪々実を取られたくないのか、それとも、私…
ドン!っと、アパートの通路で何か重いものがぶつかるような音がした。

慌ててチェーンをつけたまま覗くが、何もない。変な事には関わらないのが一番と、すぐに鍵をかけて戻る。
喪女を拗らせ、お酒に酔っただけだ。デパ地下で買ったおいしい恵方巻きでも食べて元気になろう。
テレビをつけて一本開けた後、方位を確かめ大きな恵方巻きに齧り付く。その時だった。
「喪子おぉぉ!やっと会いに来れた!迎えにきたよおぉぉ!」
「……」
これは幻聴だ。だいぶ酔っている。食べたら寝よう。
私は心の中で、年収が2倍になりイケメンハイスペ彼氏ができて今年はいい席に当たりまくること、石原さとみになりたいと願った。
「石原さとみ?可愛いけど俺喪子の顔好きだから無理!」
目の前に和服を改造したようなコスプレの男が現れた。恵方巻きを咥えたまま、私は固まる。
「イケメンハイスペ彼氏って俺でいいよね!力は神クラスの鬼だし、結構な数の配下の妖怪いるし」
額を見ると一本の角が生えている。よくできたコスプレだ。あ、これは幻覚、いや夢か?それにしても、ビールの味もリアルだし、この恵方巻きもとてもおいしい。私は幻覚を無視して、恵方巻きを食べ続ける事にした。そうしなければ願いが叶わない。
「あー卑猥だー恵方巻き食べてる喪子マジでエロいわー」
なんて下品な幻覚だ。これは明晰夢だと気付き、鬼男の鳩尾に拳を沈めた。これで奴は消滅するはず。
「なに、喪子俺の事忘れちゃった?ひっどいなー嫁が薄情で泣きそ…」
鬼男を夢から消すはずが、私の拳など蚊に刺されたかのように、楽しそうに私を抱きしめていた。
その顔は私が高校時代にハマっていたV系バンドのボーカルに少し似ていて、いや、更にイケメンで、額の角や紅色の和風のペイントみたいなのも、長髪も似合っている程。
抱きしめる腕も、着流しから覗くが胸も逞しく、やっぱりこれは夢だと実感する。
「このアパート全員豆撒かないから入るの楽だったよー…しっかし、こんなでかい恵方巻き食べちゃって色気より食い気で俺が苦労しそう」
これくらい特大のぶっといの咥えられるなら俺のも…とか言いながら、私の頬をつんつんする。
「ふっざけんなコスプレ野郎!イケメンだからって調子に乗ってんじゃねーぞ!こっちは色々ナーバスなのになんでこんなふざけた夢見なきゃいけねーんださっさと休ませろ!」
男を手当たり次第に叩き、蹴りまくるが一向に消滅しない。
「明晰夢にこんなオプションいらねー!っつーか恵方巻き落ちただろうが弁償しろよクソ痛いコスプレ野郎!」
「え?俺の恵方巻きが食べたい?」
「言ってねーよさっさと去ね!」
テーブルの上にあった豆菓子の袋を開け、男に投げつけるが効かない。
「もう寝たい?疲れたの?酒も結構飲んでるねー…」
暴れ続ける私をベッドに下ろすと、それはそれはイケメンな笑顔でおやすみと囁いた。

目が覚めると、見たことがない和室にいた。
「また夢?」
「夢じゃないよ」
声の方を向くと、私の横たわる布団の上で、先程の男が酒を飲んでいた。
「またお前か!お前はもういいんだよ!この世界の支配者は私だ!」
「俺の嫁は強欲だなぁ…まぁ目覚めて10年強だし、100年待ってくれれば日本なら…」
「ちげーよ!これは私の夢なんだよ…なんなんだよお前は」
どうせ夢だから、布団に寝転がったまま鬼の飲んでいた酒に手を出す。かなりきつい。
「夢から覚めないから聞くけど、お前は何なの?つーか飲みやすい酒ちょうだい。」
「あれ覚えてない?喪子がじいさんに連れられて奉納する神楽の練習してたじゃん。
11,2才かなぁ、そこの神社の奥から山に入ると公にしてない社あっただろ。年に一回、神楽踊る子供の中で大きい奴だけ連れてって大人と一緒に祭礼してたところ。」
うちのおじいちゃんは地元の神社の氏子会長だ。その頃はまだ会長ではなかったが、私はおじいちゃんに連れられて他の小さな子供達と神楽を練習し、年に数回奉納していた。
そんなことはあっただろうかと、子供の頃の記憶を辿る。
「…そんなことあったけど、黒歴史っていうか、凄く怒られた嫌な思い出なんだけど」
「お前大人が社の中掃除してるの勝手に入って、開けるなって言われた木箱開けて、その中の漆塗りの一回り小さい箱の紐、開けようとしたの覚えてるか?」
「細かいところは忘れたけど、家族に凄く怒られて、おじいちゃんが神主さんと他の人に土下座して私は神社に泊まらせられた…」
ここまで話すと、その時の頃が数珠繋がりに蘇ってくる。
「そう!他の大人には何ともなくてよかったって全然怒られなくて、おじいちゃんはそれから前より氏子会の活動熱心になったお陰で今は会長で…泊まってる時、あそこは神社の神様の力で悪い鬼を封印してるって、昔話聞かされたんだ…」
ならばこの目の前にいるのが、あの時の…
「なーんだ、脳は全部覚えてるっていうし、節分だから鬼関係の記憶引っ張り出してこんな夢見てるのか」
「ちょっとぉ、これ覚えてない?神主にそのときの絵巻物見せられて『この鬼、髪赤くて背も高くて美形!かっこいい!好き!』って言ったのは?」
「はぁ?言うわけないし。だいたい絵巻物の絵柄でり○んとち○おとジャ○プ読んでる小学生がイケメンって思うわけないじゃん。」
「でも言ったの!神主に『この鬼に食べられたり切り刻まれなければ結婚できる?』って聞かれてうんって即答したじゃん!」
「えー…言ったかもしれないけど、ぶっちゃけ覚えてないし無効でしょ」
持ってきてもらった梅酒を口に運ぶと、これまた明晰夢だけあってアルコールも梅の香りもリアル。
「大体あんたみたいな目鼻立ちハッキリで彫りの深い現代的なイケメンは昔の人にとってはイケメンじゃないし」
「だから喪子にかっこいいってきゃーきゃー言われてさ、すっげー嬉しかったの俺」
「知らないよそんなの。小学生の『結婚する』なんて大人は約束に数えないから無効なの!」
「無効じゃないってば!大人に見つかりそうになって結び直したけど、漆塗りの箱の紐、一回解いたじゃん、あれでもう封印解けちゃってるの!」
「そんなこと言われたからってどうにも…まぁ夢だしいいよ。この家あんたの?使用人みたいな人もいるみたいだし、今晩だけこの家の奥様になるよ」
数秒の間を置いて、両手を握られる。
「本当に?本当に嫁に来てくれる?ずっとじゃダメ?」
「いや、だってこれ私の夢だし…現実だったら、会ったばっかりって言うか…いきなり部屋に知らない人が入って来て、目が覚めたらそいつの家に連れて来られて…なんて拒絶しかしない」
鬼は悲しそうに眉を下げ、唇を噛んだ。初めは混乱してたけど、慣れてくるとやっぱりこいつ美形だ。
「まぁあなたは私が昔好きだったバンドの人に顔が似てるしかっこいいから、結構楽しかったよ。またそのうち、夢に出てきてよ。」
そう言うと私は、布団に入り直して目を閉じた。この布団の肌触りも、凄く気持ちがいい。明晰夢初体験、何も思い通りにはならなかったけど楽しかった。

それから、細かいところは覚えていないが何度かあの鬼には夢で会った。
大きな日本家屋や庭園は見て回るだけで楽しかった。最近は鬼や妖怪達と夢の中で酒盛りをしている。綺麗な着物を着せられて、周りからちやほやされるのも悪い気はしない。
おかしな夢だが、楽しいのなら気にする必要もないだろう。
金曜の夜、同僚の女性達と食事をし、二軒目に行くか解散かの相談。最近は夢で酒盛りをしているせいか、さほど飲みたいと思わなくなった。
ふと、カウンター席の男二人連れに目を奪われる。角こそ生えていないが、夢の中で会う鬼にそっくり。
「喪山さん?何見てるの?」
「あ、あの人?すっごいかっこいい…○○のボーカルに似てない?名前なんだっけ」
「わかる!私、お姉ちゃんがバンギャだったから、V系って言われてた頃から好きだったんだよねー」
「うん、私もその人に似てると思って、つい…」とだけ呟き、俯いた。
こんな偶然があるんだろうか。きっとこれは運命の相手に違いないと思う程おめでたくもない。
みんなが似てると言うなら、高校の頃好きだった芸能人に似てるのは間違いないのだが。しかし引き寄せの法則!なんて思い込み、あの男性に声を掛けられるのを期待する程身の程知らずでもない。

その日の晩、また夢で鬼に会った。
「喪子、もう初対面じゃないし嫁に来てくれるよね?」
「…今日、飲み屋でお前にそっくりな男に会ったんだけど」
「あーそれ俺!喪子に夢じゃなくて現実でも真剣に考えてもらおうと思って」
訳がわからない。夢で会う男にそっくりな人を見つけたんじゃない、偶然目ざとく見付けただけ。その上で、こんな夢見るなんていくら喪女でも痛すぎる。
「もうこんな夢は見たくない。確かに、夢でお前と過ごすのは楽しいけど…現実で彼氏ができなきゃ意味がない。
頭がおかしくなる前に、自分に都合がいいだけの気持ち悪い妄想みたいな夢はやめる!お前も消えろ!もう二度と出てくるな!」
そう叫ぶと、見慣れた時計の液晶画面が青白く光っていた。

それから一月、もう変な夢を見る事もなくなりいつもと変わらない暮らしを送っていた。確かにあの夢を見続けた日々は楽しかったが、現実を生きる私にはこれでいい。
今日は喪々実と服を買い、ランチしなかまら脱喪に向けて最近合コンに行ったり、ライブで知り合った男の人と次のライブに行く事を話す。夢でああ叫んだ事で、現実で一歩踏み出す決心が付いたんだ。
先週おじいちゃんが転んで頭を強打した時は心配したが、どこも悪くなくてぴんぴんしてる。お母さんも趣味の絵で入賞し、再来週は表彰式で上京する。私は今こんなに恵まれてる。

トイレから戻ると、喪々実が真っ青な顔をしていた。
「…今良夫の弟から電話があって、運転中に土砂崩れが起きて病院運ばれたって」
「うそ…良夫君は?」
「わかんない!弟もこれから病院に行くって」
店内で泣き始める喪々実を宥めていると、母から着信が入るが出れる状況じゃない。
しばらくして、喪々実は落ち着きを取り戻した。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった彼女をトイレに行かせ、スマホを見ると母からメールが入っていた。
「リア山さんのおばあちゃんと奥さんが車で事故に遭いました。
宮司さんのお母さんと奥さんと娘さん達、禰宜さんの奥さんが揃って食中毒にかかりました。
女手が足りないので来週のお祭りの手伝いに来てもらえない?」
良夫の事故といい、こうも偶然が重なると気味が悪い。
「もーこ♪」
聞き覚えのある声がした。
「なんで…あなた、前にバルにいた…私の名前…」
「言ったじゃん、夢じゃないって。おじいちゃんと神主と、約束はしたしね」
「約束って…」
唇が、指先が震える。現実に存在する人が、夢の中で私に意思を伝えるなんて、あり得ない。この人は、おかしい人。あの夢も、偶然。
「喪子聞いて!」
喪々実が急ぎ足で戻って来る。その顔は安心したように綻んでいる。
「良夫は無傷で友達も軽い打撲だけなんだって!
あれ、この人?」
「あ、すみません。たまたま見付けたから、ご挨拶を。それじゃあ喪山さん、この次はよろしくお願いします」
この次、とは何を意味しているのか。何食わぬ顔で人間の様な姿をして、現代の洗練された服を着て、当たり前の様に店から出て行く男を睨みつけるしかできなかった。

良夫は車がだめになったが、面倒な手続きなどを終えればすぐに仕事にいけるそうで、車も保険で新車が買えるらしい。
不幸中の幸いだったね、と話し今日はそのまま解散。
「ねえ喪子?さっきの知り合い、かなりイケメンだったね」
「あー、そうだね…」
「喪子が高校の時好きだったバンドの人に似てるよね」
「うん」
「彼女いないなら、あの人とかいいんじゃない?」
親友でも、あんなこと話せない。
「あんなイケメン、私なんか相手にするわけないじゃん。しかも、お洒落だしお金持ってそうだし…あ、ほら、バス来たよ」
いつもこのパターンだ。喪々実が前向きな提案をしてくれても、私はいつも自分で話を終わらせてしまう。
「喪子はもっと前向きに自信持たなきゃだめだよ!じゃあまたね」
もっと早く、アドバイスに従って前進してればよかったのかな。いつまでも高校の頃みたいな、二人だけの関係が続くと思ってる間に、喪々実は大人になっていた。

まだ夕方と呼ぶには少し早い。コーヒーを飲んで帰ろう。
休日はいつも混雑しているチェーン店の一角は、今日は客足もまばらだった。端っこの席の座り、深呼吸。あれはきっと幻覚だ、私は疲れてる。
「喪子」
びくん!と肩が揺れ、体が震える。
この男は、実在する。確認するかの様に、その腕に触れるが、決して通り抜けることはなく、体温も、服の感触もある。
「分かってくれた?」
反対の腕で手を掴まれた。逃げたいのに、大きな声が出ない。
「誰も信じてくれないもんね?」
体が自由になると、腕を振り解き俯いて次の言葉を待った。
「最後まで話してなかったけど、喪子があの紐を一旦解いた時点で、封印は解けてた。明らかに生娘ってくらい小さい子だったし、喪子一人くらいならどうにかなったけど、力も弱まってた。それに5年前に辞めた権宮司、あの神社と血縁はない奴が厄介だった。」
大人達は私は外の箱を開けただけだと思っていたので、封印が解けた事は誰も知らなかった。宮司さんとその家族は、霊感の違いは全くない。しかし権禰宜さんは霊能力があり、それ故一般の家庭から神職に就いた。
私はすぐに大人に本殿に移され、結界の中に入れられ、儀式を行われてすぐにも連れていけない。そういえば、お酒を掛けられたり、意味の分からない呪文の様なものを言わさたり、あの時は意味の分からない事をさせられた。
そこでこの鬼は、権禰宜の夢に現れた。
社を立派に建て替え、今よりも手厚く祀れば災いを起こさず、この神社と所縁ある者には利益を与えよう。それを聞き入れなければ、大きくなったら私を連れて行く。
これが、権禰宜さんに伝えた事だった。
俄かには信じられず、宮司に話すことができなかった権禰宜を次の晩は苦しめ、宮司と私の祖父、母に権禰宜と同じ夢を見せた。その後氏子会の年長者達と話し合い、奥の社は建て替えられお告げの通りに祀られているらしい。

「全然、知らなかった」
「喪子の家の会社の業績が伸びてるのも、それでどんどん寄進したりして、孫があんなことしたじいさんが氏子会長になれたのもぜーんぶ俺のご利益な」
「そんなの神様じゃない、脅すなんて…」
私を見る目は、子供や小動物を見る様な慈しみを帯びていた。
「神様って色々じゃん、しかも人間に都合いいのばっかじゃないし。
権禰宜だって○○県のでかい神社の、訳ありだけど跡取り娘と結婚してやめたの。ちゃんと言った通りにしたからご利益。」
「違う!それはあの人の実力と、人柄が…」
「この世界は家柄がすっげー大事。実力知ってるの?
あいつは本物だったから、宮司と親戚がやりたくないやばい案件も、俺の祭祀も押し付けられてた。」
そして今でも、権禰宜だったあの人は10年に一度行う奥の社の祭祀を任されている。体面を気にするこの業界で、見合い相手の家に良い評判だけを伝えてもらうために。
「氏子の家の女の子はみんなやってたお正月の巫女の助勤、お前ら姉妹だけやらせてもらえなかったのに最近になって手伝いに呼ばれるのはなんでか分かる?
視えて、俺と意思の疎通が取れるあの男がいなくなったからお前の様子を確認する為。やばくなったらお前、それでもダメなら姉妹を差し出す為。
じいさんが居づらくならなかったのも商売繁盛したのも、孫が悪鬼に魅入られ神社と地域の為に、親と祖父母がいざという時は生贄に捧げる決心をしたからだって、知らなかったよね」
知らなかった。家族が私を犠牲にするつもりだった事も、私だけじゃなく姉と妹までも地域の為に生贄にしようとしてたなんて。涙と嗚咽が、自然と溢れてくる。
近くに他の客はいない。遠くから見れば別れ話かケンカ中のカップルに見えるだろう。
「お前なんか神様じゃない…」
「別に神様になったつもりもないし、さっきも言ったじゃん、人間の都合で動いてないって。
ネットで調べてみな?荼枳尼とか聖天みたいなリスクあるけど凄いご利益ある神様って扱いで、立ち入り禁止なのに来る奴意外にいるから」
笑い話のように語るが、それが、そして私の身に起きていることが本当なら、こいつにはやっぱり良心なんてないんだろう。
「ひどい…みんな、言われた通りにしたのに!やっぱり連れてくなんて、そんなの嘘付いてだましたんじゃない!」
溜息をつきコーヒーに口をつけるこの鬼に、人間の言い分なんて通じないのはわかってる。今だって、聞き分けのない子供に話しているのと同じようなものなんだろう。
「言う通りにすれば連れて行かない、なんて言った覚えもない。
今すぐ答えが出せないなら、妹かお姉ちゃんで手を打つ?」
「ふざけないでよ!それに、お姉ちゃんはもう結婚して子供もいるんだから生贄にはなれない」
「じゃあ妹で決定だね?喪子と違って、まだ生娘か微妙だけどこっちは構わないよ。生贄は生娘なんて人間の思い込み。昔は散々子供がいる女も喰ったし」
どうしろって言うの…そんな、もう選択肢は決まっている言葉が声に出る。
仮に妹かお姉ちゃんを犠牲にしたって、この鬼が満足する保証はない。おじいちゃんも両親も、みんななんとか無事で済んだって安心してる。犠牲になるのは、私の家だけじゃ済まない。
「私が犠牲になれば、いいのね…」
事態の大きさを把握もできない中、それでもただ、受け入れた。
私の手を握り、「絶対後悔させない。幸せにするよ」とごく普通のプロポーズのように囁いた。
「本当はすぐに来て欲しいけど、あと50年位なら天寿を全うしてからでも待つよ。
あ、もし喪々実ちゃんのことどうこうしたいなら、言ってくれれば手は打つから…」
人質は家族だけじゃなかった。
「何もしない!?言う通りにすれば、家族も、幼馴染とか友達も、喪々実も…」
頭に鬼の手が触れるが、つい咄嗟に振り払ってしまう。反射的に閉じた目を恐る恐る開くが、怒ってはいないようだった。
「喪子は優しいね…喪子が自分の意思で俺の所に来てくれさえすれば、みんな幸せにする。約束する」
「…わかった」
「じゃあ、明後日休みだよね。明日の夜、初夜、楽しみにしてるから」

きっとこれは悪い夢。いつか目が覚めて、今までと変わらない日常に戻れるんだから、何も恐れる事はない。




終わります
神社業界は全て洒落怖で読んだ知識の寄せ集めです

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