管理人さんが帰ってくるまでの仮まとめです

 資格試験の勉強に熱中していた喪子は、外の喧噪に気づいて、ふっと顔を上げた。
 テーブルの正面に端整な顔立ちのヤンがいる。小学校の時に同じクラスになって以来、
腐れ縁とも言うべき長さの付き合いであり、今はひとり暮らしをしている喪子の隣人だ。
「どうしたの?」
 ヤンが何とはなしに開いていた雑誌を閉じて尋ねた。
「何か外が騒がしいなと思って」
「ああ、今日は近くの球場でお祭りやってるらしいから、それかな」
 言われてみれば、喧噪は歓声のようでもあり、微かに音楽らしきものも混じっている。しかし、
『近くの球場』と言っても1キロは離れた所にあるのだ。
 おそらく風向きのせいで音が届いているのだろう。
「随分遠くまで聞こえて来るものなんだね」
 喪子のため息混じりの言い分に、ヤンは「そうだね、ちょっと耳障りだね」と静かな声で返した。

 元々ひきこもり気味だった喪子は学生時代から人付き合いもほとんどせず、休日も家で読書か
DVD観賞、時々ゲームといった生活をしていた。ひとり暮らしを始めたのは、親が外に出ない喪子に
煩く鬱陶しくなったのが原因だった。
 今でこそ実家の仕送りで生活しているが、資格取得できれば家で仕事ができるようになると言って
猛勉強中の喪子は、更にひきこもり度が増して近所付き合いどころか寝食も忘れる勢いである。
 さすがに空腹が限界を超えて食料調達のために家を出た喪子は、近所のスーパーでヤンに再会した。
「久し振り」
 喪子を見てヤンはそう言った。おそらく実家を出て半月くらい経っているので、納得して、
「久し振り」
と喪子は答えた。話によると、ヤンは近くの大学に院生として通っているのだそうだ。
 そのうえ、たまたま喪子が住むアパートの隣人だったこともそこで知った。安いアパートを探していたら、
偶然喪子の部屋の隣が空き部屋だったのだという。
「ヤンはもっと良い所に住みそうなのに」
 ヤンの実家は相当裕福で、息子のために環境を整える事もそれほど苦にならなさそうな様子だっただけに、
喪子は驚いた。
「別に荷物が多い訳でもないから狭くても問題なくて」
 ヤンは軽く肩をすくめた。
 実のところ、ヤンは家柄も良く文武両道を地で行くタイプであり、本来なら喪子とは縁遠い人物である。それが、
初めて同じクラスになった時、同じ文庫本を読んでいた事から話すきっかけが出来、映画や音楽の趣味が
近かったことも重なって、休日には借りてきた
新作のDVDを一緒に観たり、対戦ゲームで遊んだりするようになった。
 喪子が勉強で分からない所があれば丁寧に教えてくれたし、ひとりでいることが苦痛でない喪子が鬱陶しがらない
程度の距離感で構ってくるヤンの存在を、喪子も憎からず思っている。
 喪子の買い物カゴの中身を見たヤンは、それの大半がカップ麺や総菜であるのに対し、
「こんなのばっかり食べてると体壊しちゃうよ。僕が美味しいの作ってあげるから返して来よう、ね?」
と言ってカゴを取り上げ、以来、喪子の食事を全面的に世話してくれるようになった。
「めんどくさくない?」
 喪子の質問に、ヤンは笑って答えたのだった。
「全然」
 外から聞こえる祭の喧噪は喪子の集中力を削った。
「まあ、少し休憩のつもりでいようよ」
と言って、ヤンは冷蔵庫で冷やしてあった麦茶をグラスに注いで喪子に渡した。
 それから急に何かを思い立ったように玄関に向かう。
「ちょっと買い物に行ってくるね」
「そう、気をつけて」
「大丈夫だよ。行って来ます」
 ヤンはにっこり笑って家を出た。

 玄関の鍵を喪子から預かっている合い鍵で閉めると、ヤンは金属製の階段を下りていく。
 向かった先はスーパーではなく、近くに秘密で借りている倉庫だ。倉庫の中には
たくさんの宝物―――例えば喪子がなくしたシャープペンシルであったり、喪子が部屋で悪戯書きした
紙切れであったり、隠し撮りした喪子の写真であったり―――と、幾つかの物騒なものがあった。
「今日はこれかなあ」
 ヤンが手に取ったのは手斧。喪子が一生懸命勉強しているのを邪魔するものを排除するには充分だろう。
「ああ、あとこれと…これもいる」
 空のスポーツバッグにそれらを詰め込むと、ヤンはその足で『近くの球場』に向かった。

「ただいま」
「ああ、おかえり」
 喪子は再び勉強を始めている。顔を上げることはなかったが、それだけ熱心だということだ。
「外暑かったよ。汗かいたからシャワー浴びてくるね」
「わかった」
 ヤンは服をゴミ箱に捨て、シャワーで丹念に全身を洗った。
 浴室を出ると、喪子はようやく顔を上げて、
「髪、もうちょっと拭いた方がいいよ。水が垂れてる」
と言い、ヤンの頭を軽く指差した。
「ありがとう、喪子ちゃん」
「ヤンが風邪引いても、上手く看病できないかもしれないから、念のため」
 喪子の言い分にヤンは笑った。
「ねえ、そろそろお昼にしようよ。暑いから素麺にしようと思うんだけど」
「揖保の糸なら食べる」
「ちゃんと買ってあるって」
 ヤンは手早く素麺を茹で、薬味と一緒に運んできた。
「夏って感じだね」
 喪子は機嫌良く言い、ふたり向かい合って手を合わせると、それぞれに薬味を入れて素麺をすすった。
「このつゆ美味しい」
「それ、昨日作っといたんだ。気に入ってくれた?」
「うん」
 ヤンは嬉しそうに「また作るよ」と言った。。
「そういえば、何か外が静かになった気がする」
 喪子が首を傾げる。
「風向きが変わったんだよ、たぶんね」

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