管理人さんが帰ってくるまでの仮まとめです

美術館で会った人だろ


「子供が泣いてる」
 すぐ横で声がした。目をやると、ちゃんとブラシをかけてるのかと疑いたくなようなぼさぼさの髪に眼鏡、
それにだぶだぶのパーカー、よれよれのジーンズを着た女が正面を指差していた。
 指の向いている方向にあるのは、絵、というか、何だか青っぽい絵の具でグチャッと塗りたくったような、
よくわからないもの。額縁だけが高価そうで、何だか落ち着かない作品だ。
 改めて作品を見てみるけど、子供なんてどこにも描かれてない。人どころか風景すら存在しない。
 俺は女の方に振り向きながら、
「子供ってどこに」
と言いかけてやめた。女はいなくなってた。
 何だあれ? 変な奴。
 でも、もし彼女に『泣いている子供』が見えたのだとしたら、俺はその詳細を聞いてみたいと思った。

 美術館は俺が世界でいちばん好きな場所だ。
 静かだし、誰も俺の邪魔をしない。
 でも、あの変な女に会ってから、美術館に行く目的が変わった。あいつに会いたいから行くようになった。
 自分でも、初めて会ったモサい女が気になるなんて笑えるけど、とにかく俺の疑問を解消したかったんだ。
 それから1週間ほど、あの女とすれ違うことすらなくイライラした日々を過ごしていたが、ある日の夕方、
美術館からの帰り道でばったり出くわした。
 俺は迷わず声をかけた。
「あんた、美術館で会った人だろ?」
 立ち止まって訝しげに首を傾げた彼女が言った。
「覚えがありません」
「綺麗な額を指差して、子供が泣いてるって言ってただろ?」
 彼女の眉間に皺が寄り、あからさまに警戒されているのがわかる。
「知りません。貴方、誰ですか? 宗教の勧誘ならお断りですよ」
「ちげーよ! 俺はヤン。10日前に美術館で、あんたの横にいたんだ」
 俺が即否定すると、ほんの少し表情をやわらげた。
「そうですか」
 彼女はそれだけ言って、すたすたと歩いていこうとする。俺は必死で呼び止めた。
「ちょっと待ってくれよ! あの絵のどこに泣いてる子供がいたんだよ!?」
 背中を向けていた彼女は振り返って薄く笑い、何も答えないまま再び歩いていく。
 俺の足は動かなかった。

 それ以降、今度は会った道で待ち伏せるようになった。
 彼女は近所に住んでるのか、週末以外は毎日必ずここを通る。俺は会う度に声をかけた。
「美術館で会った人だろ?」
 その度に彼女は変な顔をするだけで通り過ぎていく。
 何でいつも知らん顔するんだよ!
 俺はムカついて後を追った。すると、あるアパートの一室に入っていくのが見えた。古い2階建てのアパートで、
今時珍しく風呂のガスが外釜になってる。彼女の住まいは2階のいちばん奥の角部屋だ。
 以来、俺は毎晩変な夢を見るようになる。
 気がつくと、俺は彼女のアパートの前に立っている。
 周りの風景はぼんやりしていて、アパートだけが存在感を醸し出しているから、
俺は彼女の部屋のベランダを見上げた。
 ベランダの窓が開く。彼女が顔を出す。ふと俺に気づいて笑った。
「何してるの、ヤン。上がっておいでよ」
 頷いて階段を登ろうとするけど、何故か階段は登っても登っても終わらない。息切れがしても階段は続く。
 これじゃあ彼女の部屋に行けないじゃないか!

 俺は、憤慨したところでいつも目を覚ます。

 そろそろ日課になりつつある。夕方、俺はまた彼女に声をかけた。
「美術館で会った人だろ?」
「知りません」
 彼女は俺を嫌ってそう言ってるのかと思ってたんだけど、どうも違うような気がしてきた。
 何度声をかけても、彼女が俺という人間を初めて見たという顔で接してくるからだ。もしかして、酷く物覚えが
悪いんじゃないだろうか?
 俺はイライラして言った。
「あんたが俺と仲良くしてくれないなら、美術館に火をつけるよ」
 ダサい眼鏡の奥にある黒い目が少しだけ大きくなる。いつも素っ気ないので、俺は嬉しくなった。
「ねえ、美術館に火をつけるよ」
 もう一度くり返すと、彼女はまた薄く笑った。
「放火予告ですか。…どうぞお好きに」
 そして、いつもと同じように立ち去った。

 自分は気が狂ってるんじゃないかと思う。
 何で俺は彼女にこだわるんだろう。何で毎晩夢に見るんだろう。
 思い悩んでいたある晩、夢に変化が現れた。
 俺はまた同じ流れで階段を登ろうとしてやめる。階段がダメならベランダに行けばいいじゃないかと気づいたんだ。
 ベランダの方に回ってみると、彼女の部屋のベランダを覆うような形で木が生えている。あの木を登れば
彼女の部屋に行けるんじゃないか?
 俺の手には、バットが握られていた。

 目が覚めた時、俺は天啓を受けたと感じた。
 彼女が覚えてくれないなら、嫌っていうほど俺の存在を教え込めばいい。
 どうしてこんな簡単なことに気づけなかったんだろう。俺は自己嫌悪と嬉しさでどうにかなりそうだった。
143: 美術館で会った人だろ 後 10/07/08 18:57 ID:hzVgkMOE(4/5) AAS
 夕方、俺は彼女に声をかけず、路地の陰で通り過ぎるのを待った。
 彼女がアパートに帰ると、俺はそっと様子を窺った。アパートの造りからして、
広くても1DK。彼女が部屋に入るまで電気が消えているので、間違いなくひとり住まいだろう。
 持参した金属バットを落とさないように木に登った。物騒だが、カーテンは閉まってなかった。
 彼女はというと、まさか覗かれてると思ってないからか、着ていた服を脱ぎ捨てて部屋着と思しき
スウェットに着替える。俺はそれを一部始終、瞬きも忘れて見つめていた。
 着替え終わった彼女は床に座ってテレビを観ていたが――漏れてくる音からするとバラエティ番組?――、
笑うでもなくつまらなさそうな顔でテレビを切る。不意に立ち上がると、ベッドに転がっているぬいぐるみと
棚から箱状のものを持ってきて、また床に座った。
 箱から出てきたのはオセロだ。ぬいぐるみを差し向かいに置いて、白と黒のコマを並べる。
 まさかと思ったら、そのまさかだった。彼女はぬいぐるみ相手にひとりオセロを始めたのだ。
――ひとりでやって何が面白いんだ?
 俺には理解不能だったが、それでも彼女は真面目に手を考えているようだ。
 オセロの相手くらい俺がしてやるのに!
 他にも言いたいことはたくさんあった。
 子供が泣いてる絵のこと、夢にまで出てくること、彼女が気になって気になって仕方ないこと、
――もしかしたら、好きなのかもしれないこと。それ以外にもたくさん。
 俺はそっとベランダに降り立って、金属バットを振りかぶり、窓ガラスを叩き割った。

 澄んだ音が響いて、彼女が顔を上げる。こっちを驚いた顔で見ている。
 ああ、そうだ。俺は彼女のいろいろな表情が見たいんだ。驚いたり、笑ったり、怒ったり、拗ねたり。
 そういう顔をもっと見せてくれよ。
 彼女はぽかんとしていたが、やがて口を開いた。
「……どちらさまですか?」
 やっぱり覚えてない。俺は土足で部屋に上がり込んだ。
「俺はヤンだよ。毎日毎日、夕方にあんたを待ち伏せてる不審者」
「不審者を自称する人は初めて見ました」
 ふざけて言ったのに大真面目に返される。俺は大事なことを思い出して尋ねた。
「ねえ、俺、あんたの名前知らないんだけど」
「喪子です」
 この状況で名乗り合うのは奇妙だと思ったが、ちゃんと答えてくれたことが嬉しい。
「俺、あんたのこと、毎晩夢に見るんだよ。美術館で会ってから、変になっちゃったんだ」
「……それで窓を割って不法侵入を?」
 喪子は理解できないと言いたげに眉を寄せた。それでも、俺は目的を遂行するためにまず金属バットを捨てた。
 ずかずかと歩いて喪子に近づくと、上腕を掴んでぐいっと持ち上げる。
「あんたが俺を覚えてくれないから、もう二度と俺のこと忘れられないようにするよ」
 びっくりしたのか、喪子は俺の手をふりほどこうとしたけど放す訳がない。そのままベッドまで引きずっていって押し倒す。
「あの…、何する気ですか?」
 喪子が震える声で言ったので、俺はにっこり笑って答えた。
「いいことする気に決まってるでしょ」

Menu

メニュー

【メニュー編集】

どなたでも編集できます