※注【2.「無題」の続きです】
昔の夢を見ていた。
目を開けると見慣れすぎて特にどうとも思わない天井が、今日に限ってぼやけていた。
目頭から熱い涙が米神を伝い髪を湿らせる。
どうしてこんな夢を見るのだろうか。
「今更。」
「今更、なんです。」
「いえ、夢が…、昔の夢を見てたみたいで。」
「どんな夢だったんですか?」
喪子の目元を拭いながらヤン男は尋ねる。
変わり映えのしない毎日を送っているとおのずと夢は昔のことの内容が多くなってくる。
座敷に幽閉されている喪子がそんな夢を見るのはむしろ当然だ。
喪子は体を起こした。
「義弟がいるのは知っているでしょう?」
「喪子さんの父親の再婚相手の連れ子でしたっけ。」
「そうですね私ヤン男さんに一言もそれについてお話ししたことありませんけど確かにそうです。」
「それこそ今更でしょう。」
真顔でのたまわれ喪子は気後れするも促され話を続ける。
「初めて会ったときは、こっちの様子を伺ってるっていうか。これからやっていけるのかなって不安でしたね。」
「喪子さんはひとりっこですから、急に弟なんか増えると戸惑うのはわかります。」
「でも何がきっかけだったか忘れましたがそれからは本当の兄弟みたいになって。」
「一緒にお風呂に入ったり、お姉ちゃんと結婚するーとか言われたり?」
「あー、そんなこともありまし…、」
あまりにも自然にカマをかけられたので喪子はつい乗せられてしまった。
ヤン男が微笑んでいる。
目は笑っていないが。
瞳に少しの光もなくなり絵具で乱暴に塗りつぶしたような黒目がちなそれと薄く笑んだ小さめの口元。
ひどくちぐはぐなその表情に何度恐怖と痛みを与えられてきたのだろうか。
喪子は拳を固く握りしめる。
「まあ。今回は許して差し上げます。」
「へ…?」
「だってもう喪子さんは私のモノなんですから。もうどこにも行くことはないのですから。」
喪子に着けられた首輪を愛しそうに撫でる。
柱に繋がれた細い鎖は嫌味なほどにぶく光っていた。
「ねえ、私より義弟さんと居るほうが楽しいですか?」
「ううん。ヤン男さんと一緒に居る方が楽しい。」
「ねえ、義弟さんと私、どちらが大切ですか?」
「ヤン男さんに決まってるじゃないですか。」
「そうですよね。その言葉が嘘だとしても私は嬉しいですよ。」
ああ、こちらのことは全てヤン男はお見通しなんだなと思うと
喪子はリミッターが限界地を超え何故か愉快になり笑いを零す。
だがヤン男への返答を誤らなかった自分に拍手喝采を送りたい。
「喪子さんは私の傍にいて、私だけを見てればいいんです。」
「ハイ。…今日は、何だかヤン男さん甘えん坊ですね。」
赤子が母親に縋り付くようにして喪子に抱きつくヤン男の頭を撫でてやる。
見た目と反して己の中に鬼を飼う青年に喪子はここ最近少なからず情を抱き始めているのは事実だった。
絆されたのだろうか。
真実今でも喪子は外の世界を渇望していた。
いつかヤン男も理解してくれるだろう――。
障子から漏れる朝日はきっとなんでもない喪子に笑いかけた。
そろそろ庭の掃き掃除でもしようか。
思い立ったが吉日、ヤン男は庭の片隅にぽつんと建っている小さな蔵のなかから熊手や塵取りなんかを取り出して早速作業に取り掛かる。
祖父母から受け継いだ日本家屋は広くて趣があり、そういうものを好むヤン男にとって良い住居であったが手入れがなんとも面倒くさい。
しかし元々まめな性格のヤン男はこういうことは苦にならなかったし、特に頭を使わずに黙々と体を動かすことで喪子に対する様々な心配事
――その多くはヤン男の被害妄想であるが――を忘れることができた。
季節は初夏に向かっているが枯葉というものは本当にどこからともなくやってきてヤン男に面倒を掛けさせる。
「秋だと…、少しくらい枯葉があった方が情緒があっていいのですが。」
「ほーんと、嫌になるよね。」
呟いた独り言に返事があったことに驚き声のした方に振り向く。
「僕、掃除とか苦手なんだ。」
「これは…、可愛いお客様が現れましたね。いらっしゃい。」
十歳前後と見受けられる少年はへらりと笑う。
幼さのせいか、見ようによっては女の子とも見まごう程。
少年の半ズボンからは可愛らしい小さな膝小僧が見えていた。
勘の良いヤン男はすぐにこの少年が喪子の義弟なのだろうとピンときた。
知らず知らず熊手を握る手に力が入る。
ヤン男はこの招かざる客を集めた枯葉と共にゴミ袋へ一緒に捨ててやりたかった。
***
清潔そうな白いソックスに包まれた足を縁側からぶらぶらさせながら少年はヤン男にもらったラムネを美味しそうに飲んでいる。
この少年は言わずもがな喪子を取り返しに来たのだろう、さてどうしたものか。
ヤン男が思案に耽る中呑気にも少年は瓶の中のビー玉をなんとかして取り出そうと奮闘している。
「あんまり遅いとご両親が心配しますよ。」
「ん?だいじょーぶ。別に心配なんかされないし。」
「それは…、」
「お姉ちゃんの所に行くって言ったの。」
きた。
「ボクのお姉さん?こんなところで道草してたらお姉さんに会えませんよ。」
「なーに言ってるの?わかってるくせに。」
少年が上目でヤン男を睨みつけるがあくまでもヤン男は大人が子供特有の
よくわからない言い分を聞いてあげるかのような態度で接する。
「そうですか、大変ですねえ。君のお姉さん、あっちにいるんじゃないですか?」
ヤン男の指差す先には門があった。
言外に帰れと言っているのである。
少年の薄い唇は笑みを浮かべていたが、それがひきつった。
「…なに、舐めてんの?いいからとっとと俺の喪子出せっつってんの。」
「なんのことやら。子供の言うことはわかりかねます。」
「あっそ。なら勝手にやらせてもらうから。」
蹴るようにしてスニーカーを脱ぐと少年は立ち上がる。
二対になっている靴はばらばらな場所へ投げ出された。
喪子が軟禁されている座敷はこの家の入り組んだ廊下の一番奥だ。
子供なら自分に近い扉から順ぐりに開けていくのが当然だろう。
わかる筈がないとヤン男は高を括るが少年の向う足取りはしっかりと喪子のいる場所へと向かっている。
これはひょっとするとひょっとするかもしれない…、
「ねえあなた。そんなに喪子さんに会いたいんですか?」
「さっきからそう言ってるじゃん。お前頭悪いの?」
最後の余計な一言を聞かなかったふりをし、やれやれといった風に、
「しょうがないから喪子さんに会わせて差し上げます。」
「…ほんと!?だったら最初からそう言ってよ!もー、僕お兄さんのこと誤解しちゃうでしょー。」
「こちらです。ついて来てください。」
「何言ってんですかー?喪子はお前なんかより俺を選ぶね。ねー。オ・ネ・エ・チャン!」
「いや待って。そんな、だって選ぶとか、選ばないとかそういうの…、」
急すぎる展開にしどろもどろになっている喪子をよそに二人の口論は激化していく。
「喪子さんはあなたのような小僧よりも私と居る方が楽しいと仰ってましたが?」
小僧とは言っていない。
思わずヤン男の本音が飛び出したのだろう。
負けじとヤン弟も言い返す。
「は。どうせてめえが無理やり言わせたんだろ。あーやだやだ大人げねえ。お姉ちゃんは俺と結婚の約束してんだよ。」
「子供の口約束でしょうに。」
両者膠着した状態が続く。
勝利の軍杯はどちらに上がるのだろうか。
最初にアクションを起こしたのはヤン弟である。
喪子の服の裾を少女めいた小さな両手で握り今にも泣きそうにヤン弟は縋るようにして喪子を見上げる。
「お姉ちゃんは僕を見捨てないよね?そんな束縛サディスト野郎なんかよりも、僕を選ぶでしょ…?」
ヤン男はそのしなやかな細い指を喪子の頬に添え強制的にヤン男の方へと向かせ耳元で低く囁いた。
「また私に酷いことされたいんですか?ねえ…?こんな豹変俺様小僧などより、私を選びますよね。」
ああ神様仏様…、この際悪魔でも構わないので助けてください。
どうしようもないこの状況で喪子は祈ることしか出来なかった。