吉原遊郭Wiki - 吉原遊郭事件簿 江戸時代
吉原遊郭を舞台に起きた事件(江戸時代)を紹介します。

権八辻斬り事件(1679年)

鳥取藩の平井権八は、藩内で殺人事件を起こし江戸へ逃走。強盗などをして食いつないでいるうち、吉原で最高級花魁の小柴と出会い見初める。金のない権八は小柴の座敷へ上がりたいばかりに辻斬りを重ね、盗んだ金をもとに小柴のもとへ通うようになった。だが、辻斬りは100件以上におよび、ついにお尋ね者に。大阪で自首したものの小柴のことが忘れられず、藤沢で脱走すると一目散に吉原へ向かい、小柴にこれまでの自らの悪行を白状した上で別れを告げた。その後、権八は処刑され死体は3日3晩晒されたのだが、小柴はそれを追うように権八の墓の前で自害して果てた。

紀伊国屋文左衛門の小判事件(1687年ごろ)

当時材木商として、江戸市中で多発する火事の後の木材需要をテコに大儲けしていた紀伊国屋文左衛門。吉原の大門を1日閉じさせすべて貸し切るなどして、遊びまくる日々を過ごしていた。そんな彼にとって目の上のたんこぶだったのが、同じく材木商の奈良屋茂左衛門。熾烈なライバル争いを繰り返しているうち、ある日奈良屋が吉原で雪を見る宴を催しているという情報を得、目の前で空から小判を空からばらまいた。すると遊女らは小判ほしさに大パニック。奈良屋の宴は台無しとなった。

吉原百人斬り事件(1696年)

享保7年5月、吉原遊郭に足繁く通っていた下野佐野の百姓次郎左衛門は、目をかけていた遊女八橋にすげなくあしらわれたことで劣等感を逆撫でされ逆上。八橋を殺害しただけでなく、その他大勢の人(60人前後)を巻き添えにしたという。歌舞伎に、この事件を題材にした「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」という演目がある。

腹上死事件(1852年)

勢喜(せき)長屋と呼ばれる局見世で遊女を買った男が、事が終わった途端急に苦しみだし、そのまま頓死。身元につながるようなものは一切見つからず、太股の内側の阿亀(おかめ)の彫り物だけが唯一の手がかりとなった。結局、引き取り手が現れず浄閑寺に葬られたが、その後、男の親類が阿亀の彫り物を根拠に男の身元を確認した。男は、神田明神下にある御小納戸頭取朝比奈甲斐守の屋敷で馬屋の晩をしていた清助(43歳)と判明。親類は彼のために浄閑寺に石塔を建立した。
▲ページトップへ