内藤新宿、大木戸、四谷四丁目の歴史を追います。

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はじめに

宿場町、内藤新宿の成り立ちから発展と紆余曲折。花街大木戸と現四谷四丁目付近を中心に時系列で追います。
言及するエリアは筆者の関心の都合にて年を負うごとに狭く偏りが出てきますのでご了承願います。


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宿場の役割

  • 宿場の役割の第一は、幕府や藩御用の人、物の輸送を支えるものであって、二義的に一般の民生用に活用することができるようになっていた。(徳川)家康は五街道におおむね2里(約8km)の感覚をもって宿場を設置し、幕府や藩御用の役人や物資をリレー式に宿駅から宿駅へ運搬させた。(中略)そのために宿場は、人足や馬を常駐常備させて、幕府や藩の御用に備えなければなら(なかった)。(中略)宿場は、幕府や藩御用の通行人のために、宿泊所や休憩所を提供する義務があった。*1
  • 宿場が幕府などの御用を請けた場合の運賃収入はどうなっていたのであろうか。この場合、運賃は2種類に分かれている。第一は無料である。将軍が発行する朱印状や、老中や京都所司代、大阪町奉行、駿府町奉行などが発行する証文を下付されているものに対して、宿場はそこに書かれている人馬の数だけ、無料で提供しなければならない。第二は「御定賃銭」(おさだめちんせん)と言われるもので、有料ではあるが幕府が定めた公定運賃によって、人や物を運ぶもので、市場相場の二分の一程度であったという。大名の御用は一般的に御定賃銭で行われたという。(中略)一般旅行者や寺社、商人などが宿場の人馬を使う場合は、通行人と宿が相対でとりきめた賃銭で行われた。この賃銭を「相対賃銭」(あいたいちんせん)と言った。*2
  • こうした宿場の料金制度は、1635年に始まる参勤交代制の確率や、武家、公家および特定寺社の特権的通行量が多くなると、伝馬負担がだんだん過重になって来て、宿場の財政を圧迫し(た)。(中略)宿場の財政を立て直し、強化するために一番有効なのは「相対賃銭」の客を増やすことである。すなわち宿場に遊びに来たり、宿泊をする一般の旅行客を増やして、客が宿場に落とす金を増やし、宿場全体の収入を上げるのである。(中略)その結果、宿場は遊興の町へと傾斜せざるを得なかったのである。*3

1654年(承応3年)

理性寺 開山 1654年(承応3年)説

  • 「御府内備考続編」によれば、当寺は承応3年(1654)、大久保越中守忠辰、忠陰兄弟が両親の忠当夫妻を開基として、その菩提のために創立したものです。
寺名は、夫妻の法名、法真院殿・理性院殿に因んで法真山理性寺としました。
創立にあたっては、内藤新宿四谷大木戸(現新宿区新宿1丁目付近)に、大久保家下屋敷の名義をもって草創し、後に老中久世大和守広之の許可により、境内地として使用することになったと伝えられています。
 *4

1660年(万治3年)

理性寺 開山 1660年(万治3年)説

  • 「名:理性寺 / 宗旨:日蓮宗 / 開山:日充 / 開山年月:万治3年 / 所在:永住町」
(「四谷区沿革誌」(東京市四谷第四尋常小学校・東京市四谷高等小学校 編輯・武藤市蔵 出版・1911年11月刊)「仏閣一覧表」より)*5
  • 理性寺は、永住町十三番地に在り。即ち大木戸の通りなり。法真山を号す。日蓮宗越後本成寺末。開山は日充聖人。萬治三年の創立にして。久世三郎右衛門の開基なり。*6

1698年(元禄11年)〜

宿場町 内藤新宿 開創

  • 当時、江戸の日本橋を出て最初の宿場は、東海道は品川宿、中山道は板橋宿、奥州街道・日光街道は千住宿であった。品川、板橋、千住は江戸から2里の距離にあったが、高井戸までは江戸から四里の道のりがあった。*7
  • 「日本橋と高井戸宿の中間にもう一つ宿場町があればいい。それも、品川宿や千住宿や板橋宿のような息抜きのできれば申し分ない」
というマーケティング的発想から、浅草安倍川の喜兵衛(のちに高松喜六と改名)という人物が、財力と実行力のある有力者4人に呼びかけ、幕府に5,600両という多額の献金を行い、幕府はふたつ返事で承諾。1698年(元禄11年)に宿場開創の許可を得る。*8
  • 浅草安倍川(現、元浅草四丁目)の名主高松喜兵衛が中心になって、同じ浅草の町人市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛の5人が、新宿1−3丁目の甲州街道すじに宿場設立の願いを幕府に申し出た。この人たちは、浅草の吉原娼家に関係があったろうといわれている。権利金として5,600両(今の相場で15億円位)という大金を納めるのが条件であったが、これは太宗寺門前町のにぎわいの様子から判断して、将来そこを宿場にすれば、江戸近郊の遊興地としても発展させうるという十分な予測と計画をもった申請であったのだろう。*9
  • 幕府は、街道の宿場が財政的に困窮している折でもあり、商人が自ら宿場を設置して、御用の運搬を引き受け負担軽減を図りたいというのだから渡りに船であった。*10
  • 新しい宿場として線引された一帯は、内藤家の敷地内に含まれていた。幕府は内藤家に命じて、必要な分の土地を返上させた。*11
  • 開発時の宿場は、現在の伊勢丹のある新宿通りと明治通りの三丁目交差点からJR四ツ谷駅辺りまでの一帯に当たった。*12

内藤新宿の活況

  • この頃、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道の千住宿は、日帰りもできる江戸近郊の手軽な行楽地・繁華街として繁盛していた。喜兵衛らは、これら先行した三宿の繁栄ぶりを見て、新宿にも一大行楽地・繁栄街を作り出し、狙い通りに遊興の客が集まれば、投資した資金も、短期のうちに回収できると見込んでいたに違いない。浅草商人は、伝馬町や高井戸宿の負担軽減という大義名分のもとに、じつは江戸近郊に一大遊興地を創って、利益を得ることを図ったと思われる。*13
  • 甲州街道は材木や農産物などの荷馬車が往来し、新宿追分で合流(分岐?)する青梅街道はもともと産業道路として農産物や青梅縞と称する織物の運搬などで地方産業の振興に貢献した。加えて、多摩地方で産する石灰は江戸城造成の必需品で、そのための専用荷馬車がしきりと往来した。連日、馬とたくましい男たちの往来で賑わうようになる。となると男たちを相手にする脂粉の香をただよわせた女たちが活躍することになる。*14
  • 喜兵衛らが造成した敷地には、様々な人が地主になって移り住んできた。糠屋(馬の飼料を扱った店)、古着屋、股引屋、煙草屋、餅屋、古金屋、うどん屋、足袋屋、荒物屋、手習師匠、豆腐屋、古道具屋、酒屋、木材屋、水菓子屋などであるが、中心になったのは、旅籠屋(はたごや)と茶屋であった。*15
  • 高松喜六と名を改めた喜兵衛は、商人や商店を仕切り、その売上の中からマージンを吸い上げ成功をした。*16
  • 高松喜六は新宿の名主となり代々子孫は現在の新宿2丁目に住み、本陣(江戸時代の宿駅で、大名等の身分の高い人がとまった、公認の宿舎。*17)を営み、それが明治まで続いた。初代喜六は新宿発展の基礎を築いた恩人とされ、四谷二丁目の愛染院にある墓は、新宿区の文化財になっている。*18

旅籠屋と茶屋(飯盛女と茶屋女)

  • 宿場は追分から大木戸に向かって、上町、仲町、下町と呼ばれていたが、52軒の旅籠屋はそれぞれの町に平均して立地していた。*19
  • 一般の旅行者が宿泊するところには旅籠屋と木賃宿があった。旅籠屋と木賃宿との違いは、食事が付いているか付いていないかの違い。旅籠屋では夕食と朝食を出し、店によっては昼食の弁当を出すところもあった。*20
  • 旅籠屋には、宿場から2つの義務が課せられていた。ひとつは、幕府などの御用があった場合は、宿場の指示により旅籠を御用宿として提供すること。もうひとつは、役銭(雑税)を宿場に納入することであった。旅籠屋から徴収された役銭は宿場の運営費にあてられた。*21
  • 旅籠屋には、飯盛女を置くことが許されていた。幕府は宿場で遊女を置くことを禁止していたが、旅客に給仕する女性として飯盛女を、幕府の許可を得た上で置くことを認めていた。*22
  • (飯盛女が)宿屋の女中で旅人たちの食事の世話をする係というのは表向きで、客の求めに応じて一夜の枕をもかわす娼婦もかねていた。*23
  • 飯盛女は遊女と変わることはなく、旅籠屋は飯盛女を抱えることで繁盛し、宿場も潤っていたのである。*24
  • 茶屋は旅籠屋でないため、旅客を宿泊させることはできず、飯盛女を置くことが許されない。しかし、実際は茶屋女という名目で、遊女商売をしていた者が多かったようである。茶屋にも、宿場から役銭の納入が義務づけられていた。*25

1716年(亨保元年)

私娼町を「岡場所」と総称

  • 幕府公認の色里、吉原遊郭に対して、非公認の「岡場所」(あるいは「島」*26)といわれる遊び場所がいたるところに存在した。内藤新宿は親しみやすいということで活況を呈した。*27
  • 四谷大通りをさらに西に行き、大木戸を越えるとそこは内藤新宿で街道沿いにずらりと旅籠屋や茶屋が軒をつらねていた。(中略)ここは大木戸から下町、仲町、上町と続いており、宿の客引き女たちが「おいであれ。おいであれ」「うちは安いよ」と黄色い声の競演だった。中には通行客の袖をつかんで離さない女もおり半ば強引に引っ張り込んでいた。当時の文献によると(注:出典不明)、内藤新宿の旅籠屋は52軒あり、飯盛女とよばれる女は150人前後で客の求めに応じて夜のお伽ををした。ただここの女郎は別名「馬糞女郎」というように、さっきまで裏山で芋を掘っていた垢抜けない女が呼び出されたりするので男をとろけさすような色気には欠けていた。遊び代は10匁(約660文)からいろいろあり、高いのでは3両2分なんて目ん玉の飛び出すようなのもあった。*28

圧力:吉原から幕府への取締り願い

  • この頃、江戸で遊女商売をすることが認められていたのは、遊郭として認知されていた吉原だけであった。しかし、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道の千住宿、甲州街道の内藤新宿では、客に給仕することが建前の飯盛女が、実際は遊女商売をしていて、大変な賑わいを見せていた。このことは、吉原にとって、大変困ったことであって、客や遊女を横取りしてしまう、江戸四宿は、憎き商売敵となっていたのである。このため、吉原は幕府に対して度々江戸四宿での遊女商売を取り締まるよう願い出ていた。*29

1717年(亨保2年)

  • 前年8代将軍徳川吉宗が就任、この年に江戸町奉行に大岡忠相が着任。亨保の改革の一貫のひとつで、江戸郊外宿場の遊女商売の取り締まりが強化されていく。*30

1718年(亨保3年)内藤新宿 宿場許可取消:内藤新宿廃宿 とそれ以降

江戸郊外宿場でに遊女商売の取り締まり強化

  • 幕府は旅籠屋が置くことができる飯盛女の数を、1軒の旅籠屋で2名までに制限する「覚」を下知した上で、江戸四宿を次々に厳しく取り締まっていった。*31

1718年(亨保3年) 内藤新宿 宿場許可取消:内藤新宿廃宿

  • 「新しい宿場で、甲州への旅人の人数も少ないから」というのが幕府の廃宿の表向きな理由であったが、実際は旅籠屋の飯盛女や茶屋の茶屋女がみだりに客を引き入れ、風紀の乱れが目に余って、幕府から目を付けられたことがことが原因とされる。*32
  • 「風紀の乱れ、目に余るものとしてお取り潰し」という幕府の断が出る。*33
  • 内藤新宿の旅籠屋は、2階部分の取り壊しを命じられて客を泊める部屋を失い、事実上営業が不可能となった。かつて繁栄していた宿場町は、裏寂しい街道沿いのまちへと変質していったのである。*34

見せしめの標的?

  • 内藤新宿の廃宿は、吉宗と大岡越前の売春防止に対する意思が堅固であることを、世に知らしめようとしたためだと言われている。では何故、江戸四宿の中で、内藤新宿が見せしめの標的にされたのであろうか。内藤新宿より先に開宿、遊興ののまちとして栄えていた品川宿などは、最盛期には1,500人以上の飯盛女を抱え、吉原に対抗する大歓楽街として賑わっていた。(中略)品川宿などはすでに100年の歴史があり、幕府の交通政策上も重要であったからだとされる。これに比べ、内藤新宿の歴史は20年と浅く、もともと幕府が設置した宿ではなく、商人の請願宿駅であった。つまり幕府にとって交通政策上の影響が少なかったために、内藤新宿が見せしめの俎上にあげられたと思われる。*35

他地域の宿場町の困窮

  • 「無賃」あるいは「御定賃銭」で請けなければならない御上の交通が増えるにつれて、宿の財政は次第に困窮することになっていった。そして御上の貨客の運搬が宿にとって過重な負担となれば、それはおのずと、宿周辺の助郷村(増加する交通量に対処するためには宿場の常備人馬では賄いきれず、周辺の村落から人馬の補助を仰がねばならなかった(中略)。それが助郷村である(以下略)*36)にも転化され、助郷村も疲弊することとなった。*37

1764年(明和1年)

中山道の百姓一揆「伝馬騒動」の発生

  • 幕府は助郷村を増やし、宿や既存の助郷村の負担を軽減させようとしたところ、新たに指定を受ける村の反発は相当なものとなった。1764年中山道では、助郷村指定に反発する百姓一揆(「伝馬騒動」という)が、起こり、(中略)幕府は助郷村の指定を撤回するという事態が起こっている。*38

江戸三宿への財政状況の事情聴取と飯盛女の規制緩和

  • 幕府は1764年に、品川宿、板橋宿、千住宿の名主を呼び出し、宿の財政状況について事情聴取をしている。その結果、品川宿では、旅籠屋が当時80件であったが、飯盛女の定数を一挙に3倍に引き上げ、宿場全体で飯盛女の数を500名まで認めさせたのである。板橋宿では、7軒の旅籠屋に対して飯盛女を150人まで、千住宿では、23軒の旅籠屋に対しても、飯盛女を150人まで認めた。*39
  • 幕府は自らの人貨の運搬量を減らすこともできず、宿への財政支援もままならないまま、宿の飯盛女を増やすことによって、宿場を遊興のまちとして繁栄させ、そこから上がる利益で宿場の財政を潤そうとしたのである。幕府は遊女商売で宿場が遊里化することを危惧しつつも、暗に遊女商売を黙認する形となった。背に腹は代えられず、苦肉の策を取ったのである。*40

幕府の方針転換による内藤新宿再興に向けた動き

  • こうした幕府の動きの中で、廃宿以来、経済活動が止まり、灯の消えたようになっていた内藤新宿は、新宿再興に向けて幕府に働きかけた。幕府が方針を転換して、飯盛女の規制を緩和し、旅籠屋での遊女商売を暗黙のうちに認める措置をとった以上、内藤新宿だけを風紀紊乱(ふうきびんらん)を理由に、宿再興を拒否することもできなかったのではないか。*41

1772年(明和9年・11月16日安永に改元) 内藤新宿の復活

  • 五代目高松喜六の請願が入れられて、宿駅再開の許可を得ることになった。毎年16両1分を年貢として支払い、冥加金155両を上納することで、宿場の営業を再開することとなった。この際、飯盛女も板橋や千住宿と同数の150人まで置いて良いとされ、助郷村も角筈、代々木、幡ヶ谷、烏山、船橋、下祖師谷、給田など現在の世田谷区内の村々を中心に33ヶ村が指定された。実に廃宿から54年ぶりの復活であった。復活した内藤新宿は、当時の元号を取って、「明和の立ち返り駅」と呼ばれた。*42

1772年〜1789年(安永〜天明期)

岡場所としての人気と評判

  • 「九蓮品定」より
ランク場所
上品上生之部新吉原、馬道
上品中生之部品川宿、一ツ目、回向院前
上品下生之部深川仲町、土橋、赤城、麻布水川
中品上生之部深川表櫓、深川裏櫓、深川裾継、四谷新宿、芝神明地内、南品川宿、牛込行願寺
中品中生之部深川佃、同新大橋、深川新地、深川石置場、八幡御旅所、築立新地、市ヶ谷八幡、三田同朋町、大根畠、浅草柳下、上野山下
中品下生之部三十三間堂、音羽町、深川入船町、市谷愛敬、赤坂田町、三田新地、谷中いろは、麻布藪下、板橋宿、浅草どぶ居、世尊院門前、根津、千住宿
下品上生之部朝鮮長屋、音羽裏町、品川三丁目、萬福寺門前、本郷、大橋六間堀、麻布市兵衛町、赤坂田町
下品中生之部安宅長屋、直助長屋、麻布藪下、浅草どぶ店、本郷丸山、三田同朋町、三田新地、浅草堂前、深川網打場、高稲荷、四谷鮫ヶ橋
下品下生之部市谷ぢく谷、佃こんにやく嶋、本所入江町、吉田町、吉岡町、音羽鼠坂、世尊院門前、品川鈴森、井野堀
ランク外類抜新大橋袂、三嶋門前
  • 「九蓮品定」は安永・天明年間に活躍した狂歌師・戯作者の蓬莱山人帰橋作。江戸の岡場所七十か所の特色を挙げて簡単な比較を加えたに掲載されている。*43
  • 1774年(安永三年)に蓬莱山人帰橋は「九蓮品定」を中心に組みたてた遊里案内記「婦美車紫鹿子」を発刊。その中で四谷新宿を「芝、品川、三田、あるひは深川、所々より入込、いまだ風俗きわまらず、大ていは品川をまなぶ、しかし人がらおよばず」と評している。*44

1789〜1817年頃(寛政〜文化期)


四谷大木戸の様子:「江戸名所図会 巻之3」(画・長谷川雪旦)*45


四谷内藤新宿の様子:「江戸名所図会 巻之3」(画・長谷川雪旦)*46
左上の「和國屋」という店の前には魚売りらしき人の姿も見られる。右下のお店は味噌おろし屋。右上の男2人は餅つきをしている*47

1808年(文化5年)

  • 旅籠屋総数50軒、引手茶屋80軒とある。宿場だから娼家とはいえないので旅籠屋といい、遊女とはいえないから飯盛女といった。また、吉原のように遊女を世話する引手茶屋とはいえないのに、このころでは吉原同様引手茶屋といわれ、しかもその数は品川宿より多かった。江戸四宿で引手茶屋があるのは品川と新宿だけである。*48

1828年(文政11年)

  • この年成立の「新編武蔵風土記稿」によると、内藤新宿の広さは東西約980メートル、南北約109メートルで、738軒の建物があった。*49

1849年(嘉永2年)〜1962年(文久2年)頃


1849年(嘉永2年)〜1962年(文久2年)頃の大木戸周辺(「江戸切絵図 四ツ谷絵図」より)
*50
*51

1857年(安政4年)


歌川広重「名所江戸百景」四ツ谷内藤新宿(魚屋栄吉板)*52

1861年(文久元年)


歌川広景「江戸名所道外尽四十九 内藤志ん宿」(辻岡屋文助板)*53

1862年(文久2年)頃


内藤新宿:追分(左)〜大木戸(右)付近*54

1871年(明治4年)

  • 廃藩置県

1872年(明治5年)

政府「芸娼妓解放」「人身売買禁止」を示達

正確には、人身売買や奴隷制度といった、先にお金を払う(前借を払う)ことで、一定期間労働を強いる制度を禁止したもので、芸娼妓のみに適用されたものではなく、売娼の存在は黙認するもであったことに注意。
[その背景]
明治維新以降、1872年(明治5年)「マリアルス号」事件を契機に、海外から日本の遊郭における人身売買に対する指摘、批判を受ける。文明国であることを国際社会にアピールするに不都合であるため、
  1. 人身売買・・・つまりは奴隷と、年期制度を禁止が内容。この場合の年期というのは前借を払うことにより、一定年数、労働を強いる制度
  2. 弟子奉公の限度を七年と定める
  3. 修行を目的としない奉公の限度を一年とする
  4. 年季奉公は前借を無効として解放する
とした。(松沢呉一「前借と自由廃業の解説-「白縫事件」とは? 番外」「マリアルース号と娼妓解放」の項・2016年)

本法律の原文は「人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件 (明治5年 太政官布告第295号 )」参照。
*55

その他

  • 9月 江戸時代の内藤家の屋敷が大蔵省の農事試験所となる

1873年(明治6年)

  • 12月 「娼妓渡世規則」「貸座敷渡世規則」発布。
貸座敷営業の復活が認められている。以降、「貸座敷」は女性を寄寓させるだけの「場所提供」の営業であるとのタテマエがとられた。娼妓と貸座敷は相互に独立の営業主体である、ということだ。*56

1874年(明治7年)

  • 6月から東京都で検黴(梅毒の検査)を「娼妓規制」の義務として実施。各遊郭に医者を派遣。検査は週1回。内藤新宿は木曜に実施(月曜は新吉原、火曜根津、水曜品川、金曜千住、土曜板橋)。*57

1875年(明治8年)

  • 内藤新宿の貸座敷業者37軒、娼妓186人に鑑札が与えられる。貸座敷が抱える娼妓の数は1人〜9人で、全体的に2〜3人の娼妓を抱えている小規模の貸座敷が多かった。娼妓の年齢は、最若年者は15歳で(15歳未満の者には、鑑札は与えられない)10代が3分の1を占め、20代前半が2分の1で、24歳までの娼妓が全体の8割を占めていた。*58

1877年前後(明治10年前後)


理性寺周辺地図
地図で見る新宿区の移り変わり 四谷編(東京都新宿区教育委員会発行・1983年刊)掲載「豊嶋区第八第区 四小区永住町図」より

1879年(明治12年)

  • 大蔵省の農事試験所であった旧内藤家の屋敷が宮内省所管「植物御苑」となる。

1890年(明治23年)

四谷永住町に関して

四谷永住町 もと田安邸、柳生邸、諸士宅地、寺院構地等なりしか明治初年新に町名を加ふ其意義 何に出るを知らす町内に麹屋横町及び大木戸と唱ふる所あり
(看雨隠士 (村田峰次郎) 編著「東京地理沿革誌」(出版者:稲垣常三郎 ・1890年(明治23年)4月刊)*59

1895年(明治28年)

  • 待合茶屋遊船宿貸席料理屋飲食店及芸妓ニ関スル取締規則(警視庁令第8号)

1897年(明治30年)

  • 芸妓屋銘酒店等先例ナキ地ニ認許セサル件
  • この頃の内藤新宿の風景

[写真キャプション]明治30年ごろの内藤新宿。電信は通ったが電燈や都電はまだである。乗物は人力車が主で通りには遊女屋が並ぶ(「東京府地誌略」より)*60

1900年(明治33年)

  • 娼妓取締規則(内務省令第44号)発布
  • 貸座敷引手茶屋娼妓取締規則(警視庁令第37号)発布
    • 警視庁令第1条「貸座敷引手茶屋ノ営業ハ警視庁ニ於テ指定シタル貸座敷営業指定地ニ限ルモノトス」(原則、貸座敷を主要交通路に面しては設置出来ない)
*61
 

1901年(明治34年)

9月当時の四谷永住町に関して

●四谷永住町
◎位置
四谷永住町は。四谷区の西隅に在りて。其の東は○(おそらく「塩」の旧字の「鹽」)町3丁目と屈曲してその界を交え。西は大木戸を越て豊多摩郡と相接し。
南は路を隔てて同郡の一部に対し。北は牛込区に隣れり。其の地の中間は凹谷にして。近年まで古池ありたり。当地は一より三十六に至る。其の中十二、十四、十五、二〇を缺(欠)く。
(東陽堂発行グラフ雑誌「風俗画報」の臨時増刊「新撰東京名所図会」(陸書房刊・第11編 明治30年12月25日発行〜第43編 明治39年8月1日発行)掲載より)

◎町名の起源
四谷永住町は。其の過半は舊(旧)田安家の邸址。其の地は柳生但馬守の下屋敷幕府諸士の宅地と寺院と構地なりしを。明治の初年(1868・69年)に之に併合し。祝して以て此名を附せり。

◎麹屋横丁
(略)

◎景況
当町は寺院を除くの外。新開の市街たるを以て。居住者も一定せざれども。龍昌寺横町より西に入りし所には。木賃宿多く。大木戸近傍には商店等あり。西北の方には大抵官吏等の邸宅なり。久米彌氏の邸は二番地に。猪俣牛乳商店は一番地に在り。

●理性寺
理性寺は、永住町十三番地に在り。即ち大木戸の通りなり。法真山を号す。日蓮宗越後本成寺末。開山は日充聖人。萬治三年の創立にして。久世三郎右衛門の開基なり。
(以下略)
※以上、東陽堂発行のグラフ雑誌「風俗画報」の臨時増刊「新撰東京名所図会」(陸書房刊・第11編 明治30年12月25日発行〜第43編 明治39年8月1日発行)より

理性寺周辺の様子


*62
  • 描いたののは「風俗画報」の報道画家であった山本松谷。
まだ写真技術が報道においての活用に追いついていない時代、取材現場の最新の様子はこのような報道画を用いられていた。

山本松谷

1870−1965 明治-大正時代の画家。
明治3年11月9日生まれ。東京へでて滝和亭(たき-かてい)にまなぶ。明治27年グラフ誌「風俗画報」の絵画部員となり,20年間に表紙,口絵,挿画など1300点をえがき,報道画家として名を知られる。日本画「野路の雨」「富岳」などの作品もある。昭和40年5月10日死去。94歳。高知県出身。名は茂三郎。別号に昇雲,小斎。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
[参考推薦書籍]山本駿次朗著「報道画家 山本松谷の生涯」(青蛙房刊・1991年)

1902年(明治35年)頃


*63
右は大木戸、左は秋葉神社辺りまで。追分までたどって行くと、貸座敷が約50軒確認出来る。○印が貸座敷を示している。

1903年(明治36年)頃


「四谷区全図」(1903年(明治36年)発行)*64
  • 甲州街道の四谷見附〜追分間に、市電の前身、市街地鉄道が敷かれる。

1905年(明治38年)

内藤新宿の凱旋門

  • 11月〜12月 日露戦争が終わると、凱旋軍を迎えるため沿道の凱旋門が建てられた。(中略)11月・12月は東京市内及び近郊で凱旋門の建設ラッシュが起こった。(中略)内藤新宿では町内の有志が募金を募り、東京市街鉄道(のち東京市電)新宿二丁目停留場前(現太宗寺前付近)に凱旋門を建設した。*65


新宿凱旋門
(M.38[1905],12.) 着/手彩色
蔵/中野区歴史民俗資料館
町内の有志の募金2200円を投じて建てられたもの。木製で屋根は朱塗、周囲は200個の電灯で装飾されており、大きさは高さが約6.4m、間口が約8.2mあり、路面電車の軌道を跨ぐ形で建てられている。その独特の建築様式は、東京の凱旋門の中でも異彩を放っている。*66


新宿凱旋門
(M.38[1905],12.) 着/モノクロ
蔵/新宿歴史博物館*67

凱旋門:神垣とり子さんの証言

  • 田辺茂一とも交流のあった、1899年(明治32年)に貸座敷「住吉楼」の娘として生まれた神垣とり子さんが寄稿した「内藤新宿の思い出」(四四会・1966年9月)に、凱旋門が出来た6歳当時の風景が描かれている。
戦争に勝ったお祝に凱旋門が二丁目の太宗寺から西寄りの所に出来た。杉のアーチで色電気がついて綺麗だったが私は、一寸がつかりした。といふのは、明治三十六年にアメリカへ洋行していた知り合いがハンカチーフを送ってきて、そのうすい箱の表紙に「パリの凱旋門」の画がはつてあつた(。)凱旋門といふのはそういうものだと思つていたのに、只杉の葉つぱで出来ていたので、がつかりしたのだ。長唄のお師匠さんの二階から、手にとるように見えるので「一等席」で見物しているみたいでよかった。*68

(晩年の神垣とり子)*69

凱旋門の位置


(凱旋門と住吉楼を赤丸で囲む)*70

1906年(明治39年)

  • 5月 (旧内藤家屋敷「植物御苑」)新宿御苑は明治35年から4年の歳月をかけて明治39年(1906)5月に完成し、明治天皇の御臨席のもとに日露戦争の戦勝祝賀を兼ねた開苑式が催された(新宿御苑の誕生)*71

1909年(明治42年)


(伊藤正之助著「携帯番地入東京区分地図」(新美社・1909年11月刊)赤坂四谷區より)
永住町(大木戸近辺)[左]〜荒木町[右]。理性寺を赤丸で示す。*72

1910年(明治43年)

  • 7月14日 四谷荒木町に映画館「四谷第四福宝館」がオープン。
    • 同月6日に創立した明治の4大映画業社のひとつとされる合資会社福宝館(社長 田畑建造)が経営。「四谷第四福宝館」をかわきりに東京に8館の映画館を建設。その建設の指揮を執ったのが営業部長の小林喜三郎。*73
    • 福宝館の定員はいずれも三五〇人くらい(小林喜三郎談)*74
    • 小林喜三郎は、のちに四谷大木戸の理性寺跡地に1917年(大正6年)元日オープンする「大国座」という芝居小屋で初期に興行を行う。*75

1912年(大正元年)頃


永住町を中心に(13番地に理性寺)東に愛住町[右]まで。
(四谷区全図(1912年(大正元年))より)


永住町の地形が良く表された地図。理性寺を赤丸で囲む。
※「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会・1912年(大正元年)11月7日発行)より。
  • 大正の初期には、甲州街道の大木戸から追分まで約1kmの両側に江戸時代以来の宿場を思わせる妓楼53軒が町屋の間に点在していて、異様な光景であった。妓楼はみな2階あるいは3階建ての高楼に瓦屋根、土蔵造りで、壁の上部には漆喰細工の飾り絵が画かれていた。妓楼は板塀などを巡らしていて、大きな暖簾を潜ると、格子をはめた部屋に娼妓が長襦袢1枚に冬は内掛を羽織り、立膝をして、朱羅苧(しゅらお/朱漆を塗ったもの)の煙管(きせる)で煙草を吹かし、客のお見立てを待っていた。これを「張り店」と言っていた(。)*76

1914年(大正3年)

  • 理性寺、現在の杉並区永福3-56-29に移転。
  • 大正三年頃・・・四谷見付から大木戸あたりまでは賑やかな商店街で、大木戸から北方は遊廓が沢山並んでおりました。・・・午後四時頃帰ってまいりますと、非常に多くの肥車がやってきます。東京中の肥車は千住、品川、新宿と三方に分かれてやってくる。この肥車の行列がつづき、それを避けて通るのに困ったことを覚えております。全く東京の肛門のようなところだと思いまして黄門隠士と名づけたこともあります。またその頃の遊廓には皆のれんがかかっておりまして、ちょうどお湯屋が並んでいるような形でした。私が子供をつれて塩町辺りまで散歩に行くと、「お父さん、お湯屋がたくさんあるね」とのぞいてみたりするので困りました。*77

1916年(大正5年)

  • 「張り店」と呼ばれる遊郭は、娼妓が(店先に出て)品物のようにして遊客を待っていたが、これは娼妓自身の人権問題もありその他色々の事情から(警視庁から禁止を命ぜられ)大正5年を境にして写真陳列(顔見せ写真)に代えられた。*78

1917年(大正6年)

四谷大木戸 理性寺跡地に、芝居小屋「大国座」オープン

  • 元日、 四谷大木戸 理性寺跡地に、芝居小屋「大国座」オープン。*79
 *80

大国座 創設時に関して

  • 華々しい初日にふさわしい「三番叟」「黒子組助六」「乗合船」が出揃い観客を圧倒させ一段と雰囲気を盛り上げた *81
  • 大国座当初の興行師は、明治末年ギャング映画「ジゴマ」で当たりに当てた小林喜三郎であったが、余り手をひろげすぎて破産し、他の者に大国座を委ねてしまった。*82
  • 小林喜三郎は浅尾工左衛門一座による連鎖劇(芝居のなかで、その一部を映画の場面へと転換し、舞台上の出来事とスクリーン上の出来事を連結させて交互にみせるもの。*83)を興行していた。*84

小林喜三郎*85

この頃の大木戸から追分の様子

  • それが皆二階或は三階の高廈(著者注:高い大きな家のこと)高楼に板塀などを巡らしていたので、昼間は至って陰気な町並であった。之が夜になると俄然活況を呈し、大きな暖簾を潜ると店先の格子をはめた一室に、遊女が長襦袢一枚に冬なら裲襠(うちかけ)を羽織り、立て膝をして朱羅苧(著者注:しゅらお/朱漆を塗ったもの)の長煙管で煙草を吹かし乍ら、遊客の「お見立て」を待っていた。之を「張り店」と言い、江戸以来の伝統にならっていたが、之は全く人間の売り物を陳列する制度で、売れ残った女はいつまでも晒し物になって、恥ずかしい思いをするから、勢い客を取る競争をする・・・*86

1918年(大正7年)

  • 2月18日 四谷大木戸、理性寺跡地の劇場「大国座」漏電から火災を起こして消失。*87
  • 3月 警視庁より大木戸から追分にかけて点在していた貸座敷(妓楼)53軒に対して新宿2丁目の牛屋の原跡地への移転命令が出される。*88
  • 6月8日 劇場「大国座」再び開場。経営は建設工事を請け負っていた吉原組が吉原組興行部を立ち上げ、「二流芝居」を銘打って、大衆演劇に特化することで人気の劇場に。*89

牛屋の原跡地

  • もとは耕牧舎という牧場。芥川龍之介の実父が1888年(明治2年)から経営し、6000坪の牧場内に600坪の牛舎があった。臭気等の影響で1913年(大正2年)に警視庁から移転命令が出され(同年「廃業」という記述もあり。*90)、以降跡地はしばらく空き地になっていて、子供たちの遊び場、盆踊りや消防の出初式が行われたりしていた。*91

1919年(大正8年)頃

  • 貸座敷(妓楼)、少しずつ牛屋の原へ移転と営業を開始。*92

1920年(大正9年)

  • 指定地制度の確立
  • 3月 新宿1丁目の貸座敷から火災発生。近くにあった貸座敷も類焼。
*93

1921年(大正10年)

  • 3月までに甲州街道(現新宿通り)沿いにあった貸座敷(妓楼)53軒の移転が完了。*94

新宿大火

  • 3月 花園神社前の俵屋の倉庫から出火。強い北西の風にあおられて火は燃え広がり、新宿2丁目にも達し、移転完了したばかりの貸座敷すべてを焼き尽くし、大宗寺の手前で鎮火。全焼家屋650戸余。*95

1922年(大正11年)

新宿遊郭の誕生

  • 大火の後、2月までに貸座敷(妓楼)53軒が焼け跡から再建し、開業。*96

大木戸 花街 二業指定

  • 地元有志が土地発展の策として花街を誘致することで指定がなされた。
  • 同年、森ヶ崎、尾久、駒込、新井、大塚、十二社に指定が下りる。
*97
(後の「三業地」指定時期は確定出来ておらず。)

遊郭と花街

  1. 花街は一般には(料理屋・待合茶屋・置屋で構成される)三業地を指し、遊廓とは別。ただし、遊郭、花街の両者はもともと出所は同じであり、のちのちまで茶屋では芸妓と娼妓が重なることもあった。
  2. 花街は広く遊廓と三業地を合わせて呼ぶことがあったが、それは飽くまで俗称として。
  3. ただし、内実としては枕芸者が中心の花街も多く、私娼の一形態とも言える。赤坂、新橋は別格ですから、いわゆる「転び」という枕芸者はいなかったらしいが、他の地域では限りなく私娼に近い芸者がいて、やっていることは同じでも、遊廓の公娼とは別。芸妓という商売は公的でも、この場合の売春は私的。これは物理的重なりや制度的重なりではなく、内実の重なり。
  4. 芸妓は茶屋で客を接待し、そこから客は娼妓に引き渡される。つまり本来芸妓は娼妓の前座であり、明治以降も「芸娼妓」という言葉があるように両者はワンパックにされ、制度としては別でも、もともと遊廓に付随するのが狭義の花街である。
  5. そこに重なりはあるが、明治以降、これが分離されていき、芸妓と娼妓の地位の逆転も起きます。いつの間にか前座が偉くなっていき、別物として発展していくということも起こった。[詳細]
  6. もとはと言えば芸妓は娼妓の前座であり、盛りたて役だった。つまりは芸妓は娼妓に至るまでの場を盛り上げるたいこ持ちであった。男芸者から始まって女芸者が出てくるのですが、明治以降は、表向きは、売春するところとしないところで区別され、芸妓は芸をするところまでが仕事。
  7. 法律も別。業態としても、芸妓は派遣業で、置屋に所属し、お座敷が仕事場。娼妓はお座敷に出ることもあれど、貸座敷に所属し、客を自分の部屋に招き入れる。
(以上、松沢呉一氏からのFacebookでのコメントより 2017.1.31.)

  • 明治以降の近代化政策の中で、人身売買禁止、「売春を業とする『遊郭』」を一定地に集中させる囲い込みが行われ、
「飲食店で客をもてなす酌婦、歌。舞踊・三味線などの芸をもって宴席に興を添える芸妓ーーとの分離が推し進められたことである。貸座敷の営業する土地区画を指定することで達成された芸姑と娼姑と分離の帰結、それが「娼姑」を本意とする遊郭、そして「芸姑」を本意とする狭義の「花街」の成立であった。」*98
  • 著者(加藤政洋氏)が「狭義の『花街』」と記しているように、「花街」と「遊郭」が重なるグレーゾーンは引き続きあったと思われる。

花街:二業地・三業地

  • 近代東京の花街は、芸姑屋(芸姑を抱え、見番の呼び出しに応じてこれを派遣する)と料理屋(料理の調理・提供を本業としつつ、客室に芸姑を呼び寄せて客を遊ばせる)の二業、これに待合(料理を取り寄せ、芸姑を呼んで客を遊ばせる)を加えた三業の分業制をとり、その営業を許可された地域をそれぞれ二業地、三業地と称した。*99

1923年(大正12年)

  • 3月9日 四谷大木戸、理性寺跡地の劇場「大国座」再び漏電火災で全焼。7月に地鎮祭を行い、8月に基礎工事を完了したところで、9月1日の関東大震災により工事が中断。*100

関東大震災

  • 9月1日 震災。新宿では旭町の豆腐屋から出火し、旭町の一部、新宿2、3丁目、角筈1丁目の一部を焼いたが、「新宿遊郭」は無事だった。
  • 震災で新吉原、洲崎、玉ノ井、亀戸などの遊郭、私娼街が全滅。商売敵が消えた新宿遊郭は思いもかけず繁盛する。*101

新宿遊郭の町並み

  • かつての妓楼と変わってモダンな建物とになったのであるが、しかしその外観はやはり異様であった。家の表には大きな目隠しがあり、窓には赤、青、黄、緑、橙といった色ガラスがはめ込まれてあった。大きな家の2階の窓には朱塗りの欄干がついて、庇(ひさし)のしたには鈴蘭のような形をした電球の笠が吊り下げられていた。遊郭の一帯は一種独特の町並みを形成していた。*102

1924年(大正13年)

  • 1月22日 四谷大木戸、理性寺跡地の劇場「大国座」三度目の開場式。*103
  • 4月8日夜の部 劇場「大国座」、4月興行で守田勘弥、沢村宗之助(初代)一座を招き満員の好況を続ける。興行6日目「壺坂霊験記」の山場で、沢村宗之助が舞台を中断し、その後楽屋で39歳の若さで急死。*104

昭和初期:1926年〜(大正15年/昭和元年〜)


昭和初期の東京の花街分布図*105

四谷大木戸の範囲

区域ーーー四谷区永住町36、7番地に亙る一廊で、市街電車・乗合自働車とともに新宿線の「大木戸」停車場下車、山手劇場横を北に入れば直ぐ。省線新宿駅表口からは電車線路に沿ふて約10町。*106[参考:1.2キロメートルが11町(大辞林 第三版)]

1929年(昭和4年)

  • 1月 四谷大木戸、理性寺跡地の劇場「大国座」が、枡席だった座席を椅子席に改装、株式会社山手劇場として、新国劇の沢田正二郎一座を迎えたこけら落とし公演を行う。*107
  • 9月 四谷大木戸の元「大国座」、松竹に賃貸することとなり、洋画封切館、新宿松竹座となる。映画の他に東京松竹歌劇団(現・OSK日本歌劇団)の実演劇場としても営業。*108

1930年(昭和5年)頃

  • 指定地新設を取りやめる警視庁の方針が出される。ただし、品川遊郭では例外的に、1932年(昭和7年)に芸姑業だけが風紀上の理由から新規埋立地へ集団移転した。*109

1931年(昭和6年)頃


「遊郭Fuji楼」のキャプション →新宿遊郭「不二川楼本店」「第一不二川楼」「第二不二川楼」のいずれか?
酒井潔著「日本歓楽郷案内」(竹酔書房・1931年(昭和6)刊)より

1932年(昭和7年)


永住町地図。四谷大木戸、理性寺跡地に「松竹座」の文字が確認できる。東京市四谷区地籍図(内藤模型製図社・1932年8月)より。 ※実寸データ(4.3MB)


8月現在の永住町の土地所有者。「松竹座」の住所である永住町十三ノ一の所有者が吉原一郎(吉原組)であることが確認できる。項目は上から地番(住所)、地目(宅地)、面積(坪)、地価(円)、土地賃貸価格(円)、所有者住所、所有者氏名。*110

1933年(昭和8年)

  • 特殊飲食店営業取締規則 施行


四谷大木戸、理性寺跡地に「松竹座」の文字が確認できる。*111

1937年(昭和12年)

  • 四谷大木戸、理性寺跡地の劇場経営から吉原組興行部が手を引き、人手に渡ってしまう。*112

1938年(昭和13年)

  • 11月24日 四谷大木戸の藝妓80人がストライキを実施
================================
藝妓のスト
大木戸の花街●休み

戦時下跛行景気でどこの花街もホクホクのなかに廿四日四谷大木戸の藝妓衆八十人が事もあろうにストライキをおっぱじめて“お座敷なんか出ないわよ”とばかり柳眉を逆立てゝゐる?なんでそんな不●な事をときけば、はやる大きな待合が多勢の藝妓を独占して了ひ時時間が来ても小さな待合には藝妓が行わたらない、藝妓屋では折角他の待合からのお座敷がふいになる、お名ざしの藝妓の顔もつぶれる、独占したけれやそれだけの割増をと料理屋の二業組合へ花代三分値上げを要求したところ二業組合の方の返事に誠意がないので、總休みとなつたのだといふ、三業組合長の高橋恒太郎氏が仲に入ってゐるがまだ解決の見込はなく廿五日も引続て總休み、今夜も大木戸では藝妓あそびは出来ないらしい、戦時下らしくない戦時下の珍スト
================================
(読売新聞11月26日第二夕)

*113

1940年(昭和15年)


四谷大木戸、理性寺跡地に「新宿シネマ」の文字が確認できる。*114

1941年(昭和16年)


「大東京区分図三十五区之内四谷区詳細」(日本統制地図・1941年刊・大きさ49×70cm)より
  • 市電大木戸駅、現在の四谷四丁目交差点を中心に西は秋葉神社、東は塩町3丁目(現愛住町)あたり。
  • 理性寺跡に「新宿シネマ」の文字。
  • 新宿御苑の大木戸門から新宿通りを大木戸の交差点のある市電大木戸駅方向へ向かう途中、右手に「区役所」「水道局出張所」「水道ノ碑」「東京瓦斯(ガス)営業所」。現四谷区民センター。
  • 水道局と水道の碑があるのは、江戸時代から、羽村より飲料水を運んだ玉川上水が通っていて、大木戸は上水の水質、水量、上水内のゴミや異物の監視を行う、重要な水の関所、水番屋が設置されていた名残りか。*115
  • 水道の碑は現存。四谷区民センター内には、役所も水道局も残っている。
 4階 東京都水道局
 3階 東京都水道局新宿営業所
 2階 新宿区四谷特別出張所

1945年(昭和20年)

  • 四谷大木戸、理性寺跡地の劇場(映画館?)、5月まで細々と営業を続けていたが、太平洋戦争の戦災により消失。*116

晩年の元大国座(撮影年不明)*117

1946年(昭和21年)

  • 1月 連合国軍総司令部(GHQ)から「公娼制度廃止」の覚書が日本政府に出される。内務省は明治以来の公娼制に関する「娼妓取締規則」等の関連法規を廃止。*118

「赤線」の誕生:新宿2丁目も指定 [本項要検討]

  • 11月 警視庁は都内の集娼地域を指定し特殊飲食店として営業を認める。遊郭であった新宿2丁目は、吉原、洲崎などとともに、この指定地域に。この指定地域を赤線で囲んだことから、公認の私娼地域を総称して「赤線」地域と呼ぶようになり、一方、公認されないもぐりの私娼地域を「青線」と称した。*119

新宿の「青線」区域

  • 三光町、花園町一帯、新宿2丁目の小町通り、歌舞伎町東寄り一帯の3地域。*120

1949年(昭和24年)

「火災保険特殊地図」(新宿遊郭辺り)


【確認用マスターデータ】(1.7MB)
  • 現在の地図でエリアを確認するとこの辺り?




1953年(昭和28年)


「復興新宿区全図」(毎日新聞社・1953年)より

東京都電車案内図


「復興新宿区全図」(毎日新聞社・1953年)

1956年(昭和31年)

  • 5月 売春防止法 成立・公布

1958年(昭和33年)

  • 4月 売春防止法 完全施行適用
  • 新宿の赤線、青線は姿を消したが、売春は風俗営業に形を変えて、新宿2丁目の方から歌舞伎町へ進出し、東側から徐々に、歌舞伎町を変質させていくこととなった。*121

1981年(昭和56年)


大木戸交差点(四谷四丁目交差点)付近。7月12日 9:56撮影 撮影高度1,470m。自慢荘を赤で囲む。*122

1989年(昭和64年/平成元年)


  • 大木戸方面から高層ビルを望む(空中写真1989年7月撮影)*123
  • 上記画像からズーム。自慢荘、トルコ大木戸辺りを赤丸で囲む。


「ソープランド大木戸」
*124

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