「寂しくなるなあ」武美が言った。「明後日にはもういないんでしょ?」 
 「明日の午後に飛行機に乗る。明後日の昼に向こうに到着する予定だ」 
 「海外かあ……しかも遺跡をめぐる旅だなんてロマンだねえ」 
 「小波さんだけで行かれるのですか?」神田奈津姫が言った。 
 小波と武美の湯飲みが空になっていたことに気付き、お茶を注いだ。 
 「いえ、霧生さんと一緒です」 
 「その、霧生さんというのは」 
 「考古学者の娘なんですよ」 
 「霧生って、もしかして新聞に載ったことのある――その娘さんとはどういうご関係なのかしら」 
 「付き合ってるんですよ」 
 「どんな人なの?」武美がテーブルに身を乗り出しながら尋ねた。くりっとした丸い目の輝きから興味深々だということが読み取れた。 
 「そうだなあ」小波は腕を組んで考えた。 
 「正直な性格だよ。悪い点を見過ごせないタイプというべきかな。ずばずば言ってくる」 
 「ほかには?」 
 「素直で活発。でも意外と早とちりだったりする」 
 「美人?」 
 「美人だ」 
 武美は両手を口元に重ね合わせた。「ふうん。小波さんの恋人、一度見てみたいなあ」 

 背後の可愛らしいうさぎの掛け時計に目をやった。午前零時をすっかり回っていた。 
 小波は折りたたんでおいた茶色のロングコートをとって羽織り、二人に玄関先まで送ってもらった。 
 「それじゃ俺はこれで。わざわざお別れ会を開いてくださってありがとうございます。眠っているカンタ君にも宜しくと伝えてください」 
 「どうかお元気で」 
 「小波さん、バイバイ!」 
 小波は店を背にして歩き出した。しかし七、八歩を進んだところで身体を反転させた。 
 店の明かりに向かって歩を戻した。そして二人の前までやって来た。 
 「小波さんどうしたの?」武美が訊いた。首を傾げていた。 
 「言い忘れていたんだ」 
 小波はポケットに入れていた手を引き抜いて言った。 
 「皆には今までお世話になりました。本当にありがとうございます」 
 言い終わると小波は深々と礼をした。わずかな沈黙のあとに正面からぱんぱんと音が鳴った。小さい拍手だったが温か味を感じた。 
 小波は身体を起こした。視線の先に、二人が柔らかに微笑みながら小波を見ていた。 
 「私は貴方に何度も救われました。そのご恩は忘れませんよ」奈津姫が言った。 
 「小波さんがこの街に来てくれて最高に楽しかったよ」 
 武美はそう言うと、店から一歩前に前進した。そして手を差し出した。小さくてあどけなさを感じさせる形だった。 
 小波は何を意味しているのか分からず、武美の顔と手を交互に呆然と見つめていた。 
 「お別れの握手しようよ。ぎゅっと強く」 
そういうことか――小波は、手をコートの裾にこすりつけてから差し出された手を握った。ぎゅっと強く。 
 店内の明かりがまるでスポットライトのように三人を照らし、冬の名残を感じさせないほどの熱に包まれていた。 


 霧生夏菜の家は商店街を抜けてから二十分もかからなかった。 
 小波は玄関に入った。リビングの明かりが暗い通路に漏れている。 
 脱いだ靴を揃え、なるべく足音を立てないように注意を払いながら向かった。 

 夏菜は部屋のダブル・ソファに腰かけていた。テーブルの上に何か薄いものが複数散らばっていた。 
やがて小波の姿を認識したのか「おかえりなさい、小波さん」夏菜が言った。「楽しめた?」 
 「まだ起きてたんだ」小波が言った。「楽しんで来たよ。充分」 
 小波はコートをソファの横にかけると彼女の横に腰を下ろした。 
そして先程からテーブルの一部を占めているものを見た――写真だった。 
 「全部バイト先で撮ったものなんだ」夏菜が言った。 
 「店長は写真が大好きでさ。昼休みとかにみんなを集めて撮るんだ」 
 「私、実は映るのってそこまで得意じゃないから、最初は馬鹿馬鹿しく思ってたんだけどさ」 
 「慣れってのは恐ろしいね。いつの間にか写真が苦手じゃなくなってた」 
 小波は裏返しになっている一枚を抜きとって見た。 
 店外で撮られたものだ。スタンドガラスの前で様々なポーズを取っているウェイター達がいて、一番端にウェイトレス姿の夏菜がいた――笑っている。 
 「私が明後日に出発することを言ったらすぐに現像してくれたんだ」 
 「『俺達のことを忘れんなよ。いつでも帰って来いよ』って言われて」 
 「嬉しくなって、つい泣き出しちゃった」 
 夏菜は散らばっている写真を掻き集めると、それらをしっかりと束ねて封筒にしまった。 
 「ついに……この日が来ちゃったね」夏菜が言った。 
「ねえ、小波さん」 
 「何だい?」 
 突然、夏菜が視界をさえぎって小波の唇を塞いだ。小波はその一瞬において時間が完全に止まった錯覚に陥った。 
 「キスって……こういうものだったんだ……」 
 夏菜は小波の胸に身体を預けた。小波は服越しでも彼女の体温を感じた。長い黒髪からはシャンプーの甘い香りがした。 
 自分の心音が誇張されて聞こえた。血液が全身をめぐっているのがはっきりと分かった。 
 不意に小波の奥底から湧き上がるものがあった。何かが激しく揺れた。 
 小波は夏菜の肩に手を伸ばすと、彼女はその手を握った。 
それから二人はお互いに背中に腕をまわし、唇を重ねた。そして空気を求めてごく自然に離れた。 
 初めての経験に頬を赤らめていた。瞳を潤ませ、息遣いも荒くなっていた。 
 「夏菜さん、いいかな」小波は訊いた。 
 「初めてだから、その――」それから一つ間をおいて言った。 
 「私に……女を教えて」 

 夏菜は濡れにくかった。そのために小波は前戯に多くの時間をかけた。 
 濃密な愛撫に彼女の下半身が潤いはじめると、小波は先端を彼女の入口にあてがった。 
 「入れるよ」 
 先端が彼女の中に埋もれた。小波は夏菜に痛い思いをさせないようになるべく慎重に進むことを意識した。 
しかし夏菜は異物感に対する不安感に戸惑い、身を強張らせていた。 
いっそのこと早く終わって欲しいと夏菜は思った。時間の流れがとても遅く、重たく感じた。 
やがて小波の先端が女性特有の薄い壁に接触し、小波は夏菜を見た。 
 夏菜は小波は意図を理解したのか、返事をする代わりに首を振った。 
 「力、抜いて」 
 小波はそう言うと、これ以上の侵入を拒んでいるにも関わらずに奥に力強く突き入れた。 
 「――」 
 途端に夏菜の下腹部に鈍い痛みが走った。千切れるような痛みだった。不安定な呼吸が始まった。筋肉が硬直していくのを感じた。 
シーツを握って、下唇を強く噛みしめて、痛みに耐えようとした。 
 目も固く瞑ったが、それでも涙がにじみ溢れて睫が濡れていくのを感じた。 
 「大丈夫?」小波は心配するように言った。 
しかし夏菜は声を発することが出来なかった。代わりに小波の両腕を掴んで爪を立てた。 
 小波は鋭い感覚を受けながら、彼女が落ち着くのを待った。 

しばらくして夏菜の息遣いは幾分穏やかなものとなった。 
 「すこし……楽になったかな……」夏菜が言った。体の奥底から絞り出したような声だった。 
 「無理しなくていいから」小波が言った。 
 「ううん……動いても、平気だよ」 
 夏菜は小波を見つめた。彼女の瞳は何とも言えなくなるような艶やかさを宿らせていた。 
その瞳に意識を取り込まれ、再び小波は動き始めていた。 
 「う……あ……」夏菜が苦しそうに呻いた。 
しかし小波は枷が外れたのか一心不乱に腰を打ち付けていた。様々な知覚はシャットアウトされた。 
 徐々にペースが速くなると、それに伴って一気に絶頂も近くなった。 
 「小波さん……来て……」 
 夏菜は小波の首に手を回した。そして抱きつくような格好になった。 
 不意に彼女の匂いが小波の鼻孔をくすぐった。体内の熱が一箇所に集約した。 
 「夏菜さん……!」 
 小波は夏菜の奥に射精した。自分の熱が放出されて、さあっと身体が冷えていくのを感じた。 
 「小波さん……好き」 
 夏菜はそう言い残すと小波の肩にうなだれた。耳元ですやすやと寝息を立てていた。 
 一気に疲労感が押し寄せて来たのかもしれない――小波もそれは同じで脱力し、夏菜を押し倒したような体制で眠った。 

 小波は激しい倦怠感と虚脱感を感じながら目を覚ました。 
カーテンの隙間から陽が差し込んでいた。今何時だろう――テレビの横にある置き時計を見た。大体九時を過ぎたところだった。 
 夏菜を起こさないように気を付けながら自身を引き抜き、落ちてあったタオルケットで彼女の体を覆った。 
ふと小波は彼女の処女を貫いた時のことを思い出した。乱れ様を思い出した。 
 無性に彼女に触れたくなり、身を屈めて彼女の唇にキスをした。触れる程度の軽いキスだった。 
すると夏菜はゆっくりと目を開けた。 
 「起こしちゃった?」小波が訊いた。 
 夏菜は何も言わない。光を受けて目を細めていた。 
 何度か瞬きをしてようやくピントが合ったのか、夏菜は小波を見て微笑んだ。 
 「私、女になれたんだ……」 
 夏菜は下腹部をさすった。それはタオルケット越しでも分かった。 
 「痛む?」小波が訊いた。 
 「ちょっとだけね」 
 「途中から自分勝手でごめん」 
 「ふふ、気にしてないよ。それより小波さん。お昼、買い物に行かないか? 今日でこの街も見納めだし」 
ね?――と言って夏菜は微笑んだ。小波もつられて頬が緩んだ。 
 小波と夏菜は互いに見つめ合うと再びキスをした。今度は自分から離れようとせずに長く、情熱的なキスだった。 .

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