今は亡き耳かきコリッの避難所

その日、王は静かにほの青いヴェールの天蓋ベッドで目を覚ました。
まだ目覚めぬ王妃を横に、上体を起こして庭園からそよぐ新鮮な朝の空気を胸一杯吸い込むと、
鮮やかな緑が目に沁みるのを楽しみつつ感慨深げに呟いた。
「遂に今日か………」
この一週間、王は動物性の蛋白質を全く口にしていない。
とは言っても何も彼の血糖値やコレステロール、体重に問題がある訳では無く、むしろ若い時の
逞しさこそやや衰えはしたものの、均整のとれた体格やつやと血色の良い顔は健康そのものだった。
耳掃除。
そう、彼はこの生涯最高の道楽のために一週間という準備期を用意していたのだ。
他国の王侯貴族がやれ狐狩りだの後宮だの、はたまた自家用セスナだのといったものに
現を抜かす中、この国の王は即位して以来は公務一筋に打ち込み、貧困に喘ぐ民が全くいない
国作りに全てを捧げてきた。
そんな彼を気遣ってか、側近たちはあれこれとリフレッシュのための娯楽を提案してきたが、
王はいつも首を横に振り、その経費を全て民のために回せと拒んできた。
しかしそんな王がある日、たった一つだけとせがんだ道楽、それが耳掃除であった。
熊笹と松葉、柏の葉のエキス。田七人参を初めとする漢方薬。海草のサラダに亜鉛とマグネシウム、
ビタミンCのタブレット。そして日本の高野豆腐などを作った精進料理御膳。
一見、味気なさ過ぎるとも思える食生活であったが、これらは全て代謝を高めるためのもの。
それから公務の休憩ごとに定期的に全身のリンパ腺と足裏を専属看護婦が優しく手で揉んでやり、
軽い運動と半身浴でしっかりと汗をかく。
寝る時は高電界を発生することで全細胞を刺激し、新陳代謝を最大限に高める健康機器を
ベッドに装着してから、毎晩21時には就寝する。
これをくり返し、耳掃除を我慢するというのはかなりの気力を要したが、一国の主が
それしきのこと耐えなくてどうするかと乗り切った。

「それでは陛下、失礼します」
看護婦の一人が耳垢水をゆっくりとバスタブに浸かり、すっかり石鹸で肌を磨き終えた
王の両耳に優しく優しく順番に注ぎ込む。
そのままの姿勢で待つこと10分、王は目を閉じると頑固な耳垢の塊が耳垢水でふやけ、
そして剥離するさまをひたすら想像していた。
「お時間でございます」
それからシャワーで全身の石鹸分を洗い落とすとすぐさま純白のタオル地のバスローブに
着替えて、耳鼻科医の待つ診療台へと喜び勇んで向かった。
「それでは治療を開始します」
医師はひんやりとした純銀製のロウトのような器具で耳道の中を押し広げると、まずは
ファイバースコープで80インチの画面にその様子を表示してみせた。
「おお………」
その場にいた者全てから感嘆の声が漏れ、王と耳鼻科医は顔を見合わせて思わず
満面の笑みを浮かべた。
辛うじてマッチ棒が一本通るか、という穴を残して暗褐色の粘着物が外耳道の
側壁に厚く堆積しているのを実際に目にすると、急に耳の奥が痒くなってしまう。
しかしそこはグッと堪えてまずは耳のツボ刺激、そして耳のみぞを丁寧にギャンディーミントの
エッセンスをしみ込ませたウエットティッシュで拭いていく。
まずはロジウム製の細い耳掻きで入り口ぐるりをカリカリ。
心持ち冷やしておいたのは心憎い演出だが、今まさに待ち望んでいた耳掃除が始まったと
思うと、思わず王は両足の爪先をピィン、と伸ばしてしまった。
先端が触れた瞬間の、グジュッ、といういかにも半固形のものが金属の先端と接触して
まとわりつく音がここまで近く聞こえるなんて。
そしてそれをティッシュに盛って王に見せる看護婦。
そこからどんどん耳掻きを奥へ掘り進めるが、一掬いごとに焦茶色の粘土のような半固形物を拭う。
この固さが一週間分の我慢への御褒美といってもいいだろう。
外耳道を進む先端、喉の奥も圧迫するような錯覚が面白い。

細い金属製のワイヤーのような耳掻きが耳の毛に触れるたびにえも言われぬくすぐったさが
あるのだが、丁度それが終わると奥の固まりを始末しようということになり、耳垢水を点耳することに。
「ほらここです、この塊が栓になってて力で剥がすと怪我をしてしまいます」
と、スコープ画面で説明する医師はそれからすぐに看護婦に指示を出す。
美肌効果があると言われる温泉の多くにも含まれる洗浄成分の重曹をグリセリンでカドを取って
水で薄めたこの液体、いつ耳に入れても冷たく感じるものだ。
ゴボッ、とプールで潜水した時と同じ音がする。
両耳そうしてからは、暫くリフレッシュメントということで、両足の裏をマッサージして貰いながらの
しばしのティータイムとなる。
泉水で入れた発色鮮やかで菫の香り高いウヴァ紅茶に、贅沢な山鳥のローストとチーズのサンドの
濃厚な味わいを暫く楽しむ。
「うむ、旨い」
久方ぶりの肉の味をよく咀嚼して飲み込む。
皿に盛られていたかなり多めに作ったはずのサンドイッチが全部なくなってしまう頃、
いよいよノズルによる吸引開始だ。
冷たい金属の吸引ノズルがシュウウウウウウ、と音を立てて中に挿入されたかと思うと、
液体を吸い込む派手な音がする。
そして、耳の奥の何かがゆっくりと剥がれる感触。

ガボッ……………

心地よい低音が確かに感じられた。
耳の奥で肌が、久しぶりに新鮮な外気に触れた清涼感、視界すら変わりそうだ。
ピクッ、と王の肩が震えたのを察してゆっくりと耳鼻科医が真直ぐに、そして
ゆっくりと耳掻きを抜いてみると、先端にはこれまで蓋をしていたと思われる平たい塊。
体積としては錠剤と同じぐらいか、黒褐色のそれを王に見せる。
「おお………」
思わず感嘆の声が漏れた。
こちらの耳も、ともう片耳を吸引して貰う。
結果、この日の収穫は大匙一杯程度の耳垢が除去できた。
取り除かれた耳垢を見つめて、もう終わりかとちょっと寂し気な顔の王だったが、
まだ終わりではないという。
最後に竹でできたしっかりとした耳掻きで、耳道をまるでマッサージするように
シャッ、シャッ、と手前に刺激して貰う。
あと1ミリでも力を加えれば痛いと感じるぐらいの加減に爪先をよじらせる。
「ああ………」
最後に綿棒にごく薄い消毒液をしみ込ませたもので仕上げる。
「如何ですか、王様」
深い眠りから目覚めたように、国王は微笑むと、
「最高だ」
とだけ答え、耳に残る感触の余韻を楽しんでいた。
空は国王の気持ち同様澄み渡っていた。

このページへのコメント

王様の人徳で皆が気持ちのいい耳掃除をしてくれる。
いいなぁ・・・・。

2
Posted by りぼん 2014年10月15日(水) 13:30:31 返信

一週間我慢してからする耳掃除は格別ですよね!王様、羨ましいなあ。

1
Posted by かな 2013年06月23日(日) 12:24:07 返信

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