今は亡き耳かきコリッの避難所

仕事を辞めたのは一昨日のこと。
今更どんな業種かは言わないけど、行き過ぎたリストラのしわ寄せに耐え切れなくなった、
っていう説明のあとは想像に任せたい。
まあまあぎりぎりで進学校、と呼べそうな田舎の公立高校から都会の中堅私大の経済学部。
卒業と同時に前の職場に就職と、絵に描いたような平凡な自分に舞い込んできたのは、
1000万の宝くじ当選。
これが転職に踏み切る決め手になり、それで幾らか欲しいものの購入やローンの類の
残りを一気に清算してすっかり身軽になった。独り身は実に身軽でいいもんだ。
そして今、自分はJALの台湾直行便のエグゼクティヴシートに身を沈めている。
しかし肺炎どうこうで安いからと言っておきながら、エコノミー症候群はシートクラスに関係なく発生
すると聞いて慌てて搭乗前にポカリスエットやらエビアンをがぶ飲みする様は傍目に滑稽なはずだ。
出発前にシャワーも浴びた、念願のDVDレコーダにドラマの予約は済ませた、帰った時のベッドメイキングと
日持ちしない食料品の片づけも終わったといったことを一つ一つ機内で思い出して確認するのも何か
所帯じみていて、やはり自分は贅沢というやつとは無縁なのだろう。
勧められたワインも、飲まなければ折角の料金がもったいないし、かといって飲み過ぎれば
脱水症状でさっきのエコノミー症候群の危険も出るしで迷う、が唯一「何かわかんないけど
ムチャクチャ高いらしい」という記憶があるモンラッシェをチョイスした。
口に含むと白ワイン、という既存の先入観を根底から覆すような、まろやかさを通りこして
カスタードクリームでも口にしているのかと錯覚するような重い口当たりととこってり感にすっかり
圧倒されてしまい、他のワインもそこそこにミネラルウォーターにシフトした。
決してまずいわけではない、むしろかなり旨い部類に入るワインだったが欲張って飲み過ぎて
しまいそうな予感がしたからだ。
台北からはホテルが手配してくれた送迎車でそのままピストン輸送、1時間もしないうちに
ホテルに到着した。

アジアンテイストの部屋に案内され、よく冷えたウェルカムドリンクをぐいっと飲み干す。
南国の滋養で満たされた濃いオレンジ色のトロッとしたジュース、というかネクターみたいな
飲み物からは、マンゴーとバナナの味が感じられた。
ふう、と一息つくと、早くもまたシャワーを浴びてさっぱりしたくなり、シャワールームの
クリアブルーで統一されたアメニティを楽しむ。
入浴後、客室にどかっと盛られた珍しいウェルカムフルーツの山を確認すると、
夕飯を思いきってルームサービスにして貰い、済ませるなりそのままぐっすりと眠ることにした。
翌朝、いよいよこの旅行の目標をこなそうと、ホテルが用意してくれたワンデイ・プログラムを
利用することにした。
李、とだけ伝えられた担当セラピストがどんな人物なのか、ちょっとは気になっていたが、
ノックに返事をすると、ドアの向こうから顔を出したのはまだ20代前半の女性だった。
「こにちわ、私、今日のお客さぁまの担当の、李月麗とイます」
日常的に中国語を話す者特有の訛りのある日本語だが、漆黒の髪を後ろで綺麗に束ねて、
ポロシャツにキュロットパンツみたいな制服でぺこりとおじぎする。
「エト、じゃ最初ぉは、足の裏ぁをマサージ、します。ちょとこれから、マサジする
ための石を選んでください」
幾つかトレイに並んだ殺菌済みの石は、通常木で押す足裏マッサージのためのもので、
細いものや丸いものなどカーブが様々、それがつねつるに磨かれ加熱されてほんのりと熱い。
とりあえず、少し太いような格好のものを選ぶと、ミネラルウォーターをたっぷり飲んで早速開始。
「どですか、痛かったらゆてくださいね!?」
こちらを気遣うような口調だが、力が容赦なく入れられ、そのたびに悲鳴をあげる。
「あー、胃ぃデスネ。うん、胃ぃがお客さん弱てるよぉ。つらいこと一杯あった思います」
なるほどやっぱりそうか。

「私知ってます。日本の人、言いたいこと言えないし我慢ばかり。それぇでお金一杯でも、
私すごいつらい思います。ここ、脳の、あたぁまの中。痛い言います、頭使い過ぎ、
すごい疲れてます」
それから、その診断結果を漢方医のスタッフに手渡すと、
「じゃっ、これから体ぁのマサジ、しますからその間においしい朝ご飯とお薬できます」
微妙に日本語がヤバいが、一生懸命の仕事ぶりがとても好感が持てる。
というか、体全体がポカポカとしてきて、明らかに血行が良くなっているのが分かる。
クーラーをしているのにもかかわらず、だ。
ふくらはぎのオイルマッサージ、そしてよくテレビで週末、美川憲一辺りがやっている
アジアツアーの番組でありがちな、平行棒みたいなのに腕を乗せて上から背中の足踏みに移る。
肩、腰などどんどん揉み解され、時にはまた派手に悲鳴をあげるが、
「お客さぁん、やぱりすごぉいよ?肩すぅごい硬いデスネ!」
「やっぱり分かる?」
「分かるよォ、うん、でも平気平気、うちのセンセすごぉい人だから」
包み込むような優しい口調で答える李さんだが、とにかく痛い!
施術が終わってから、急にトイレに行きたくなった。
後で聞くと、最初に水を飲んだのはそういう体中の老廃物を代謝するためのものらしい。
すっかり体が軽くなったところで運ばれる中華粥などの薬膳料理。
何かの薬草の佃煮みたいなものとか、くこの実とかそんなものの中に帆立の貝柱等も
入って十分にボリュームがある。
切った青葱と松の実、ごま油を乗せていよいよ完成、からっぽの胃袋に一気に流し込む。
それから、さっきの診断からオーダーメイドで作って貰った漢方薬と、ところどころ
怪しい日本語によるアドバイスを渡される。
それからビーチに出たり規定の薬膳昼食を済ませたり、15時のおやつが済んで、
早めのシャワーが終わった頃。
「チョト今イですかぁ?」
ん、もうプログラムは終了したんじゃなかったんじゃ………?
「最後の仕上げ、まだ残ってます!」

にっこりと笑う李さんの下げた手篭から出されたのは、何と針金みたいなものを
曲げて作ったような見なれない器具。
「こ、これは?」
「耳です。スキリしましょ」
えっ、と驚いていると、李さんはベッドに腰掛けて、
「どぞ、頭乗せてください」
と、中盤が三重県民のようなアクセントで促す。
「あ、はい……」
ちょっとドキドキしながら従うと、血の通った太ももの弾力と体温が妙に心地よい。
と、そこにひんやりと器具が差し込まれていく。
「痛かたら、言てくださいねー」
日中から相当ほてっていたのだろう、器具がまるで氷のように心地よいが、しかしすぐに
外耳道の粘っこい温もりのせいで何も感じなくなってしまった。
そこからくるん、と回してから、急にいたずらっぽい口調で
「抜きますよう?見ていてくださいねー」

ヌボッ…………

確かにそんな音がした。
何か、粘性を帯びた半固形のものが掬い取られる時特有の音だ。
「うわぁ、スッ………ゴいよぉ!!」
子供のように嬉々としてはしゃぎながら、李さんは器具の先端を見せてくれる。

!!!!!!!

飴色からかなり黒いこげ茶色にグラデートした物体が、まるで筒状に抜き取られている。
艶すらある臭い湿り気に思わず眉間に皺が寄るが、しかしそれとは裏腹に耳には
あの、器具の冷たさにそっくりのスカーッとした清涼感が広がる。

いや、それはそれとして何なんだこの取れ具合は。
底面にあたる部分は小指の爪程はあろうかというような平たい塊が剥離している。


「耳掃除しませんか?」
きょとんとして李さん。
これにはもう無言で頷くしかなかった。
「駄目よぉ、駄目駄目、よくしないとお耳から溢れてきちゃたら、どしますか!?」
と、真顔のまま右手で溢れる様をゼスチュアで表現するが、そんな仕種が妙に笑えた。
「笑うことじゃないですよ、琥珀になちゃうよぉ!」
本気なのか冗談なのかは分からないが、そのまま左耳に移る。
「あ、あのぉー」
「何デスか?」
「こういうの普通、お爺ちゃんとかやるもんだと思ってました」
「そですね。私、高校卒業して日本語学校行ったけど、今は台湾も景気悪いだから、
お爺ちゃんにこれ習いました!私、手先使うのうまいだから!」
それからクリクリと動かせて、

グヂャッ………

またしても灰色がかった山吹色から暗褐色の塊が。
「うわぁ……」
ついつい興味深く覗き込むと、それを器具から剥がしてティッシュに広げてみせてくれた。
巻いた紙のように広がるのが新鮮だ。
「これもですねー。こんなに溜めてちゃ聞こえないでしょう?」
それからそっと、竹の細長い耳掻きと綿棒、オリーブオイルで仕上げを行う。
しかしオリーブにしては妙に香りが青い。
「何か入ってるの?」
「ティーツリーの油です。スゴいです、SARSならないのこれ」
これも嘘かどうかわからないが、要は殺菌なんだろう。
ニキビにも塗ると翌朝には小さくなっているからいいそうだが、くせのある香りの
オイルはすっと冷たい感じがした。

優しく外耳道に『塗る』というよりは『上に置いていく』ようなソフトな感覚に、
トローリとまるで蝋燭の蝋になってしまったかのような錯覚を受ける。
空気が飴のように身を包み、意識がどんどん薄れる。
「あ、終わりました!それじゃ私、これで帰りますね!」
そう言い残して李さんは消えた。
「ん………」

帰りの機内。
コルク栓の小さなガラス瓶には『戦利品』が二つ。
帰国してから何を始めるかはまだ決めてない。
ただ、今なら何でもできそうな気が、根拠はないがしていた。

このページへのコメント

SARSならぬ、今なら新型コロナウイルスかな?

9
Posted by トヨタの5ナンバーサイズセダン 2020年02月04日(火) 01:33:40 返信

ダメよ、ダメダメ
耳かきしましょ

3
Posted by エレキテル 2014年10月16日(木) 03:37:18 返信

李さんみたいな、お嫁さん欲しいですね〜

疲れた時に膝枕で耳掃除してほしいな…

1
Posted by 風継 2012年12月17日(月) 16:27:01 返信

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

メンバーのみ編集できます