今は亡き耳かきコリッの避難所

耳掃除、という行為ほど人による頻度が極端に開きやすい行為は珍しい。
1学期の期末試験を数週間前に控えた理学部生物班の部室。
と、扇風機をブン回しにしながら寒天培地に植え付けたワイルドストロベリーの
成長点がどうなっているのか覗こうかという頃、ぞろぞろと7時間目の授業を終えた
下級生が集まって来る。
「おー、来たな。ん、松尾って水泳だったん?」
水着袋が目についたので声をかけると、無言で松尾はこくんと頷いた。
まだ1年だというのに生物班一の巨漢である松尾は、文字どおりの坊主頭で
いつものほほんと掴み処がない。
友好的ではあるが無口というキャラは、マシンガントークで校内でも有名な自分には
どう接していいか分からなかったが、不思議とすぐに打ち解けた。
お洒落みたいなものには無頓着で、のてのてとした仕種に反して自分と同じ特進コース、
しかも国公立理数系狙いというギャップといい、どうも底が知れない男だ。
自分よりも目が細いので、表情から心境を窺い知ることが難しいのも、外国人からしたら
大いに困惑するだろうと思う。
「桜田さん、成長してましたか」
「ん、カビずに済んだよ〜、塩素で洗って滅菌箱で処理したからね」
他の後輩とそんな会話を交わしつつ、ふと隣にいた松尾の耳が目に入った。
「あ゛っ!!」
日本語でどう表記していいものか、とりあえず僕は小さな声を上げた。
「えー……?」
何ごとか、と言った様子でこっちを向く松尾、しかし僕の表情は固まっていた。
松尾の耳の穴から間違い無く何かが出ていた、それは確かだ。
「松尾!!ちょっとこっち来ぇ!!」
有無を言わさず僕は松尾の腕を掴むと生物準備室に連れ込んで、 バタンと鉄の扉を締めた。
3年が顔色を変えて1年を人目のつかない場所に連行した、それだけで部室は騒然とした。
ここは自由闊達な校風ではあるが厳然としたタテ社会である私立の男子校、
すわ、何かの不始末に対する突然のリンチか、誰もがそう思ったことだろう。
案の定、扉のダイヤ硝子越しに数人が覗いているのが分かる。

僕は声を小さく、
「松尾、おとなしく話を聞いてくれ。一つ聞くが、お前耳掃除って好き?」
予想通り首を横に振る松尾、耳を改めるとやはり茶褐色の何かが顔を出している。
僕は冷静にそれを伝え、周囲に知れると体面が悪いだろうから理由を告げなかった事を詫びた。
そして、自分は徐に鞄から自宅用とは別に使っている耳掻きを取り出すと、左耳に
ポケットティッシュを一枚詰めてから膝に松尾の頭を乗せてペンライトで覗き込んだ。
「ぬ」
何ということだ、外耳道が竹の耳掻き1本通せないぐらいに老廃物が溢れているではないか。
こいつ、入学して間もなくあった聴覚検査をパスできたのであろうか。
それ以前に同級生なり家族なりが発見しなかったというのが驚きである。
そしてそれが長く泳いでいたせいで水にふやけてしまったのだろう、まあそんなことは
どうでもいい、僕は耳掃除マニアとして高まる鼓動を必死に抑えた。
何故こんな、どう見ても相撲部とった少年に胸を踊らせなければならぬのか、日常に
潜む理不尽を抱えたまま、まずは半球形に窪んだところから掘り進めよう。
ニチャッ………。
いや、敢えて言うなら『ニ』には濁点が付くだろう、確かに嫌な接触音がする。
しかし僕は一瞬手を止めただけにとどまり、怯むことなく掘り続けた。
ニッチャリニッチャリ、水分の少ない手で石鹸を泡立てている時のような音を立てて、
掬ってはティッシュに取り、掬ってはティッシュに取りを続ける。
月の模様の陰の部分そっくりの色の老廃物は、耳掻きのさじ部分に掬っても掬っても
山盛りで取れていく。
と、いよいよ外耳道に差し掛かり、ここから先は崩落というか、下手に力を加えると
その分だけ奥に押し込めてしまう危険性があるのが分かった。
ああ神経を使う、こんなことならいっそのこと、鉛筆キャップのようなものでも
差し込んで、数回くるくると回して抜いたら、茶褐色のマカロニに抜けるのではないか。
そんなくだらない空想すらしてしまうが、実際にやったら圧力で抜けないか、それこそ
奥に押し込めるだけになりそうだ。

仕方がないので中央の孔を次第に注意深く広げつつ、常に円錐の形になるように
掘り抜いていくことにした。
こうしてみると外科医といった人種(耳鼻科医の事は頭にない)はよくもまあこんな
作業に何時間も集中できてしまうものだと感心する。
自分には、理系に進んでなおかつ偏差値が足りていても目指す気にはなれない。
厚く体積した老廃物の感触が続く。未だピンクの皮膚には当たっていない。
「痛かったら言ってね?」
「あー……うん」
円錐でいうと底面の円周をなぞるように削っていく。
さすがに彫刻刀で木の板を削るようにはいかず、米粒ぐらいの塊になってはコロコロと
取れる感じでその都度ティッシュに取っていく。
平面に近くなってから、また中央の穴を慎重に広げる。
「あ」
「!!どうした、痛かったか!?」
「………開いた」
松尾が不思議そうな表情をしている。
先端を見ると、奥を塞いでいた黒褐色の層が塊になって取れている。
自分のように気味を帯びた灰色とは明らかに違う、それでいて重たく苦い異臭。
「ほら」
「ああ」
採取した大物には珍しく松尾が嬉しげな顔をする。
長期間空気に触れた外耳道の爽快感はきっと、今この気温で食べるレモンシャーベットのそれだろう。
それから最後に優しく綿棒で残りを絡め取って右耳終了。
しかしその頃になるともう準備室の外はざわざわと騒がしくなってしまっていた。
ここで開放すると、松尾の不名誉にもなるし、第一県内からやんちゃ坊主がわんさと
集まったこの学園のこと、じっと観察しているわけもなく、事故の危険性も高い。
「おーい、何やってんだお前らー?」
まずい、顧問の先生がノックしだした。
僕は松尾に説明することの承諾を取ると、クラブ全員にこれまでの経緯を話した。
採取された膨大なサンプルに驚く後輩達、とりあえず続きは保健室でやろうという話に。
保健室の先生も呆れて苦笑したものの、綿棒の予備を貸してくれて作業続行。
もう蒸れていたせいか、さっきの右耳よりも耳掻きの通りがやけにいい。

油断すると奥の奥まで通ってしまいそうなだけに慎重に掘り進めていく。
「すごいね、これ。いきなり綿棒使うと何本必要になるんだかわかんないよ」
東京で教育を受けたらしい訛りの少ない言葉で笑う保健室の先生。
最後に綿棒で外耳道を刺激する度に、喉の奥から小さく声を出す松尾にみんな笑い出す。
どうしてこれまでこんな気持ちのいい習慣を知らなかったのだろう。
全ての作業が終わり、ペンライトで中を照らして傷がないことを確認すると、
僕は医者で改めて耳洗浄をして貰うよう勧めた。
こうしてその日の作業は終わった………が。
夏休みが明け、語学研修から帰国した僕を待っていたのは、
「耳ぃ……」
と呟きながら、またしてもこん限り耳掃除をさぼり倒した松尾の姿であった。
松尾は今何をしているのだろう。
聞けばとある国立大学の理系に無事進んだらしいが、順調に行けば自分と違って
そろそろ結婚して子供もいる頃だろう。
耳掃除は彼の愛妻に譲るとしよう、そんなことを思い出した。

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