徐々に遠ざかっていくアスピドケロンの姿は既に米粒のように小さい。
それが見えなくなるまで、いつまでもいつまでも船の甲板上から見つめ続ける少女。
そしてその少女を同じ甲板上で少し心配そうに観察する少女がもう一人。
「ちゃんとバイバイできた?」
「うん……またいつか会おうねって」
「今からでも追いかけられるけど……ルルーテは帰りたい?」
「ううん……大丈夫。もうわたしは街には帰れないから。それに、レイナと――おねぇちゃんとも約束したから」
「そっか!でも……いつかまた会いに来ようね!」
「……うん!!」
アスピドケロンに背を向け、振り返りざまに満面の笑みを浮かべるルルーテ。
目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
彼女にしか分からぬ様々な想いが溢れているのだろう。
それでも笑ってみせたのは、レイナを心配させたくないとの気持ちからだろうか。
そんな彼女に応えるように、負けじと満面の笑みを返すレイナ。
仲睦まじげな姉妹のように見える二人だが、その出会いはつい先程の話なのだ。
巨大な亀を思わせる魔物がそのまま街となった海獣都市『アスピドケロン』
その暴走を止めるため街から生贄として捧げられたルルーテを、そうとも知らずに助け出したレイナ。
ルルーテの命を救い、アスピドケロンの暴走を止めることを条件に、レイナは自らが船長を務めるバルバーム海賊団の一味へ、ルルーテが加わるよう提案。
これをルルーテは承知し、見事にレイナは約束を果たした形だ。
「改めてよろしくね!バルバーム海賊団へようこそ!!」
「こちらこそ!レイナおねぇちゃん!」
――フンフンッ……
「きゃぁあ!?なになに!?」
ルルーテの太もも辺りに急に冷たい何かが触れ、その場を飛びのく。
「こら!驚かせちゃダメだよ、パピー!」
「……スンッ!」
「その子はパピー。私の大事な家族。ルルーテのことが気に入ったみたいね」
「わぁ……よろしくね、パピー!」
「ウォン!!」
「さーて、そろそろ帰ろうか!」
「バルバームへ行くの?」
「そうだよ!村のみんなが私たちの稼ぎを待ってるからね!」
「へぇ……わたし、アスピドケロンの外は初めてなんだ」
「ふ〜ん……じゃあ、いろいろお話しよう!どうせバルバームまではけっこうかかるしね!」
「聞かせて!レイナちゃん達のことも、バルバームのことも!」
「こら!お姉ちゃんでしょ!大人の女に向かって失礼だよぉ?」
「そ、そうだったね!おねぇちゃん!」
どうみてもルルーテより更に幼く見える女の子に対する呼び方としては相応しくないかもしれないが、これも船長命令では仕方のないことなのである。
「よしよし……じゃあ何から話そうかな……」
「おねぇちゃんはずっとバルバームで暮らしているの?」
「違うよ!じゃあそこから話そうか……!」
――――――
――――
――
「ま、待ってくれ!君は……」
その男は、大陸から見て極東に位置する孤高の島国『アルジア』の出身。
「何か用かい?」
その女は、流浪の村『コーク』に住んでいた、狼の血を引くガルム族。
コークがマリーヴィアの近くを通りがかった際に二人は出会い、瞬く間に結ばれ、男はすぐに父親になり、女は母親となった。
二人の間に生まれた娘は『レイナ』と名付けられた。
「パパ、お帰り!!」
「おぉ!?いいパンチだな、レイナ!ママにも負けてないぞ!?」
「何言ってんだい……またぶっ飛ばされたいのかい?」
父親は仕事のためアルジアとマリーヴィアを行ったり来たりの生活だったため、母親はレイナと共にコークを出てマリーヴィアに移り住んだ。
快活でしっかりものだった母親の影響を受け、よく似た性格に育つレイナ。
アルジアから帰ってくる父の土産話を聞きながらじゃれあうのが一番の楽しみだった。
その様子を見て母親は常々思っていたようだ。
父親の職業柄仕方のない事だとは理解しつつも、彼には少しでも長くマリーヴィアに留まってもらい、レイナと自分、家族との時間を大切に過ごしてほしいと。
そんなやりとりが度々あり、寂しさからか夫婦喧嘩に発展することもままあった。
その場合、決まって母親は父親に決闘を申し込み、暴力を持って決着させる。
戦いはいつも母親の圧勝だった。
子供の教育上、あまり良い方法だとは思えないが、レイナの目には勇ましい母親の姿がキラキラと輝いて見えていたことだろう。
父親は勝負に勝つことこそなかったが、どれだけ打ちのめされても絶対に諦めない姿勢だけは貫いていた。
その根気に負け、結局母親が折れる形となることもしばしば。
勝負に負けて試合に勝つ。
そんな父親の姿もまたレイナにとっては関心の的なのであった。
こうしてすくすくと成長していったレイナ。
彼女が七歳を迎えた頃、彼女の人生に大きな転機が訪れる。
ついに家族全員でアルジアに移り住むことが決まったのだ。
家族みんなで過ごす時間が増える。
これには家族全員が心から喜んだ。
しかし、それは叶うことの無いまま夢と消えることとなる。
アルジアへと向かう航行の最中、大きな嵐に遭遇してしまった一行。
高波に煽られて船は損傷し、瞬く間に沈んでいく。
三人連れ立って海に飛び込むも、激しい潮の流れに揉まれ、散り散りになってしまった。
「ん……っぷは……マ、ママ!?パパぁ!?」
一人で荒波の中をもがき続けるレイナは、浮かんでいた木材に必死にしがみつき、いつまでもいつまでも両親を呼び続けた……
――ペシペシ
「んぁ……?」
「おい!?お嬢ちゃん、大丈夫か……?」
頬を軽く叩かれた衝撃で目を覚ましたレイナ。
おぼろげな視界ではあったが、自分の目の前に見覚えのない男の顔があることはわかった。
「え……うっわぁ!?」
――ドンッ
物凄い勢いで後退りする彼女だったが、その背に硬い何かが当たる。
振り返ると、それは太い木を交差させて設置された手すり。
「ここって……何で!?」
立ち上がり周囲を見渡すと、無限の広がりを見せる大海原。
ここでやっと自分が大きな船の甲板上にいることを認識することができたレイナ。
――数日後
再び所変わり、ここは海賊の村『バルバーム』
海で両親と生き別れたあの日、気を失ったまま海を漂い続けていたレイナを救ったのはこの一帯を縄張りとする海賊の船だった。
そのまま海賊達に保護され、村に連れてこられたレイナは、特に何をするでもなく、ただただボーッとするだけの日々を過ごしていた。
ここに連れてこられるまでの間、船の上では海賊の男達が聞きもしていないことを色々と話していた。
彼らが見つけたのは、船の残骸と、漂流していたレイナ一人だけだったこと。
レイナに対して悪意は抱いておらず、彼らの村で保護するつもりであること。
そしてバルバームのこと。
バルバームは海賊達の根城ともなっていた小さな村で、元々は島流しにされた犯罪者やならず者達が集まり作った小さな集落に過ぎなかったが、近年、著しい発展を遂げ、今では人口も文化レベルも大陸の立派な街と肩を並べる程にまで成長している。
その理由は海賊の生業に起因する。
時折、海で見かけていた帝国軍船。
海賊達は、彼らの大陸での傍若無人っぷりを知るや否や、その船を積極的に襲うようになる。
そうして資源や技術を奪うことで、著しい発展を遂げることに成功したのである。
当然、帝国も安全な海上ルート確保のため、これに対処しようと躍起になっているようだが、バルバームは村の外の者にその存在が知られないよう、特別な結界によって隠されている村であるため、今もこうして平穏な暮らしを営むことが出来ていた。
「ウォン!」
「ん?どうしたのパピー?お腹空いた?」
海賊は悪い奴。
いくら自分を助けてくれたとはいえ、こうした世間一般的な印象を拭い切ることはできなかった。
真っ向から拒絶するでもなく、ただし自分からは決して近づかない。
そんな微妙な距離を保ちつつ、村の中心的存在とも呼べる彼らに心を開くことのできないレイナ。
当然、そんな彼女が村に馴染めるはずも無かった。
ただ、パピーだけは例外だった。
「スンスン……スン……」
「ごめんねぇ。さっきお昼ご飯食べちゃったから何も持ってないんだ」
「クゥン……」
パピーとはバルバームの村で飼われている不思議な雰囲気を持った狼の名だ。
飼われているといっても明確な飼い主がいるわけではなく、村人達みんなで世話しているといった方が正しいかもしれない。
パピーは村に連れてこられたレイナを初めて見た瞬間から彼女に対して興味を抱き、進んですり寄っていっては懐くようになった。
レイナが狼系のガルムのハーフであることから、同胞であると考えているのだろうか。
そのわけはパピーしか知らない。
少なくともレイナ自身は、言い表しようのない不思議な繋がりを感じていた。
「相変わらず仲が良いなぁ!」
「あ……えっと……」
「おっと……そんなに警戒しないでくれよ。そろそろおやつの時間だろ?コイツもお腹を空かせてると思って持ってきたんだ。もちろん嬢ちゃんの分もあるぜ?」
静かに寄り添う二人に話しかけてきた海賊団の船員だと思われる若い男。
その手には干し芋の入った紙袋が握られていた。
「隣いいかぃ?一緒に食べないか?」
「う、うん……」
こうしてたまに話しかけてくる村人も少なくないが、重苦しい空気とレイナの暗い表情に耐えきれず、いつもすぐにその場を離れて行ってしまう。
恐らくこの男もすぐに……
「ほら、パピー。オマエも食え」
「スンスン……ワォン!」
「ははは!やっぱりオマエはこっちの方がいいよな!」
観念したようにポケットから干し肉を数切れ取り出すと、パピーに与える男。
この村にレイナが来る以前からこうしておやつの時間を楽しんでいたのだろう。
それを思うと、唯一の友達が取られてしまったような、少し悔しい気持になる。
「ほら?嬢ちゃんも、干し芋。あ、干し肉の方が良かったか?」
「いや……私は……」
「……嬢ちゃんを見てると、この村に来たばかりのパピーの姿を思い出すなぁ」
「……パピーを?」
「あぁ。三カ月くらい前だったかな。パピーも嬢ちゃんと同じように、俺達に拾われてここに来たんだ」
「この子も海を漂流してたの?」
「仕事中に見かけた難破船にコイツだけが残ってたんだ。詳しくはわからねぇけどな。だが、コイツも今の嬢ちゃんみたいに暗い顔してたぜ?毎日何かを探すようにフラフラとな」
「おじさん達はいつもそんなことをしてるの?」
「そうさ!この村に住んでいる三割くらいの人間が、ここに生きる希望を求めてやってきたり、海で遭難したり、嬢ちゃんみたいに漂流してたヤツらさ。俺も含めてな」
「そうなの!?」
「海賊って言うと聞こえは良くないけどな。でも、やってることは間違ってるとは思わねぇよ?ここに連れてこられたときは俺も何されるか怖くて堪ったもんじゃなかったけどな。だが、すぐに考えは変わった」
男は話す。
行く当てのある人間は、保護したらそこまで送り届け、行き場のない人間は誰であろうと村で保護して生きる手伝いをする。
村の人間が普段食べている食料のほとんどは、海賊団からの施しによりもたらされたもので、食料に限らず、衣服、雑貨、その他もろもろ含め、ここでの生活は海賊達の支えがあってこそ成り立っているものだと。
「海賊なのに良い人なの……?」
「良い人……とは言えねぇだろうな。俺達は奴隷船や密輸船ばかり襲って稼いでいるわけだが、村のためとはいえやってることは盗人だ。良い人のすることじゃねぇよ」
「でも村の人たちはみんな感謝してるんでしょ?」
「まぁな。だが、心の中は後ろめたい気持ちでいっぱいだったり、俺達を軽蔑してるヤツもいるかもしれねぇ。それでも俺達は海賊を辞めるわけにはいかねぇんだ。少なくとも、今は生きるためにな」
「……生きるって……難しいんだね」
「あぁ。だから俺は進むことを選んだんだ。拾ってくれた恩を返したいって気持ちと、ここでの暮らしが好きで、守りたいって気持ちには嘘はなかったからな。それで海賊団に入れてもらった。悩んだまま立ち止まることをしたくなかったんだ」
「それで、おじさんの選んだやり方は正しかったのかわかった?」
「まだだ。俺はバカだからよ!いつか答えが出るかもしれねぇが、当分かかりそうだ。ははは!」
「そっか……」
レイナは男の話を全て理解することはできなかった。
良い事のように見えても、それは悪い事かもしれない。
義賊であっても、海賊であることに変わりはない。
自分が知らない価値観と世界。
わからなくとも、それは彼女の興味を強く引き付けた。
「こんにちは!」
「ワォン!」
「おぅ、レイナ!パピーもご機嫌だな!」
海賊の船員の話を聞いたことがきっかけに、徐々に船員達と打ち解けていったレイナ。
当時の暗さは完全に払拭され、村人達とも笑顔で言葉を交わせるようになった。
「ねぇ?船長さんに話があるんだけど」
「おやっさんにか?何の用だ?」
「うん。実はね……ここの海賊団に入りたいの!」
レイナが海賊へ向ける興味は次第にその形を具体的なものへと変えていった。
今日、その意志を直接、海賊団の船長に伝えるために港を訪れたのだ。
「いやぁ……驚いた。まさかそんなこと考えてたとはな」
「海賊に入るには、船長に許しを貰わないといけないんでしょ?」
「え?そりゃあ……まぁ、そうなんだが……無理だと思うぞ?」
「何で!?聞いてもいないのにそんなのわかんないじゃん!?」
「だってなぁ……ま、いいか。決めるのはおやっさんだ。俺がどうこう言っても仕方ねぇ」
「うん!」
「あっちのテントで飯食ってるはずだから行ってみな。ただし、おやっさんがダメだと言ったら諦めるんだぞ?」
「大丈夫だもん!!」
決してただの興味本位や、思い付きからの行動ではなかった。
助けてもらった恩を返すため。
そして、行方不明の両親を探すため。
説明すれば理解してもらえるはず。
その時のレイナはそう信じて疑わなかった。
「ダメだ……」
「何で!?」
「ダメなもんはダメだ!」
「だから何で!?」
「オマエの気持ちは嬉しいさ。だが気持ちだけで十分だ!親を探したいなら仕事の合間に俺達が探してやる!だから諦めて村で大人しくしてな!俺達は海賊だぞ!?オマエみたいな小娘に務まるような甘い仕事じゃねぇんだ!!」
レイナの話を聞くなりすぐさまこれを拒絶した船長。
自信のありようはともかく、まだ幼く、それも女の子であるレイナが自ら危険な場所へと踏み込むのを止める。
船長の判断は、世間的に見れば至極真っ当であると言えた。
それでもレイナは決して引き下がろうとはしない。
「私なら大丈夫だよ!自分の身は自分で守れるもん!!」
「そうやって簡単に言えちまうところがガキなんだ!無理だ!!」
「だったら決闘だ!それで私の力を証明してやる!!私が勝ったら海賊団に入れてよ!!」
「本気で言ってんのか?」
「船長が相手でもいい!!」
「おいおい……勘弁してくれ。オマエみたいな小娘とマジで立合ったとなりゃ俺が笑われちまう」
「じゃあ誰がやるの!?私は誰でもいいよ!」
「……どうやら本気みてぇだな。確認するぞ?決闘に負けたらきっぱりと今回の話は諦める!それでいいな!?」
「わかった!!」
「いつがいい?」
「いつでもいい!今からでも!!」
「よし……相手は用意してやる。今日の昼過ぎに村の広場で待ってな」
「うん!!」
言うまでも無く、この時のレイナの頭の中には母と父の決闘の光景が回想されていた。
女でありながらも果敢に父に挑み、いつも勝利を手にしていた憧れの母の姿。
今、その姿を自分に重ねているのだ。
「おい、レイナがおやっさんに決闘申し込んだってのはマジか?」
「レイナが突っかけたらしいぜ?船に乗せるかどうかを決めるらしいな」
船長との話を終えるとすぐに広場へと向かい、静かに集中力を研ぎ澄ませていたレイナ。
いつの間にかこの件の話を聞きつけた船員達が、勝負の行方を一目見ようと広場を囲むようにして集まりつつあった。
さらには、その様子を見て事情も知らない村人たちまでもが何だ何だと野次馬となっている。
「ん?もう来てたのか。どうやら待たせちまったようだな。随分と気の早いことだが、まだ約束の時間までは少しある。どうする?もう始めちまうか?」
「いつでもいいよ……!」
「よし。まずはオマエの相手を紹介しよう。うちの古株の一人で、まぁそこそこの腕利きだ。こいつに勝つことが出来ればオマエを俺達の船に乗せてやる」
「わかった!」
「おやっさん直々の頼みだから引き受けはしたが、本当にやっていいのかぃ?」
「好きにやれ」
見るからに屈強そうな男。
鍛えこまれた筋肉と、体のあちこちにある戦闘の傷跡が猛者の雰囲気を匂わせる。
軽口を叩いてはいるが、その眼光は決してレイナを侮ってなどいない。
下手な油断は命取りであることを体の芯まで理解していることは勿論、船長の目の前で、しかも自分の体格の半分にも満たないような少女に後れを取ったとなれば、どんな仕打ちが待っているとも知れない。
「二人とも、ルールを説明するぞ。互いに全力を出して構わん。ただし、相手を殺すのは無しだ。だが、殺されないことを理由に無駄な足掻きを続けるような真似は絶対に許さん。俺が決着だと判断した時が決闘終了だ。いいな?」
「あいよ……」
「うん……!」
「じゃあ始めるぞ……?」
広場中央に立つ二人を中心に、静かに固唾を飲んで見守る観衆。
片や身の丈と同等の長さを誇る大剣を構える海賊の男。
片や身の丈以上の斧を背負うガルムの少女。
体格差こそ圧倒的だが、得物の破壊力に差は見受けられない。
問題は果たしてそれを使いこなすことができるか……
「始め!!」
「てぃやぁああああ!!」
開始の合図と共に飛び出したレイナ。
策も無しにただ真っ直ぐに突っ込んだだけ。
「うぉお!?」
だがその速度は、人間の常識のそれではなかった。
巨大な斧を抱えたまま、まさか一瞬で間を詰められるなど想像もしていなかった男に動揺が走る。
「えぇい!!」
――ドッゴォオオオオン!!
反射的に後ろに跳ぶことで、間一髪レイナの振り下ろしを回避する男。
本来、彼の頭に振り下ろされるはずだった斧は大地を穿ち、硬い岩盤をもお構いなしに深々と突き刺さっている。
「冗談じゃねぇぞ……!?」
あんなものをまともに喰らってしまえば命の保証なんて言っていられない。
男の表情は先程までの冷静さを完全に失い、焦りと驚きに染まっている。
「流石はガルムだな……まぁ、ひよっこでもこれくらいはやってのけるだろ……」
戦いを見詰める面々の中、ただ一人冷めた目でレイナを見据える船長。
だが、当然自分の部下が負けるとは思っていない。
初手の衝撃で場の空気こそ味方につけたレイナだが、戦いはそう単純なものではないことをこの男は熟知していた。
「ふぅ……マジで驚いたぜ。これは気が抜けねぇな」
船長に次いで、冷静さを取り戻したのはレイナと対峙する船員の男だった。
自身の経験が危険信号を発しているのを感じる。
だがしかし、この手の相手に勝つための術は知っている。
「来なよ、レイナお嬢ちゃん。まだ始まったばかりだぜ?」
「言われなくたってぇ!!」
観衆達の予想に反し、相手を圧倒している様子のレイナ。
だが、戦闘が開始されてから時間が経過する程に、その違和感に皆が気付き始める。
船員は手を出すこともせず、じっくりとレイナの動きを観察しつつ回避に専念。
一撃も有効打を受けることの無いまま、既に開戦から五分以上が経過しようしていた。
「くっそぉ!!逃げてばっかりでずるいぞ!!」
「攻撃だけが戦いじゃねぇんだぜ?にしてもすげぇスタミナだな」
ここまでの戦況を鑑みるに、腕力、脚力、体力はガルムの血を持つレイナが勝っているように思えるが、彼女の表情からはそんな優位性は感じられず、逆に徐々に焦るような、不安の表情を浮かべ始めている。
「よし……大体わかったぜ。今度はこっちから攻めさせてもらう。覚悟しなよ?お嬢ちゃん」
「ふんっ!今さら何だ!!もう私の方が強いのはわかってるんだから!!」
「そうかい!?」
声と共に、真っ直ぐと大剣を突き出す男。
レイナの研ぎ澄まされた反射神経はこれを楽々と捉え、意図も容易く回避。
そのまま身を翻し、勢いをつけて男を叩き切ろうと斧を握る手に力を込める。
「これで……!」
「甘いぜ!!」
「わ!?なに!?!?」
肩口を足で抑え付けられた途端、振り回そうとしていた腕に力が伝わらなくなった。
それはレイナが知るはずのない戦いのための技術。
「おらよっ!!」
「わわっ!?」
体勢を崩しながらも、カウンターをなんとか躱したレイナ。
「覚えときな。強いだけじゃ勝てないんだぜ?」
「くそぉ……!!」
経験の差。
リーチの差。
それは身体能力で勝るレイナを少しずつ追い詰めていく。
焦りは呼吸を乱し、体力を瞬く間に奪っていく。
それでも何とか凌ぎ続けてはいるが、次第に男の攻撃はレイナの動きを捉え始めていた。
「ちっ……しつこいにも程があるぜ!!」
「うぅ!!」
「よく頑張ったよ。遊び半分だったが俺にとってもいい経験になった。もっと強くなったらまたやろうぜ?」
「ま、まだ終わってないんだからぁ!!」
この時点で、大勢は誰の目から見ても明らかだった。
観衆の中には、船長から発せられる決着の合図を待つ者も多かったことだろう。
「せやぁあ!!」
それでもレイナは諦めない。
「このぉ!やぁ!!」
決死の想いで斧を振り続けるも、握力の衰えた攻撃は簡単にいなされてしまい、遂に喉元に男の剣の切っ先が突き付けられた。
「おやっさん!これで決着ってことでいいんだよなぁ?」
「くぅ……」
「あぁ。この勝負……」
「ウォン!!!!」
「パピー!?」
決着の合図を寸断する咆哮。
目にも止まらぬ速さでレイナと男の間に割って入ったパピー。
「はぁ?なんでオマエが出てくるんだよ!どっかいけってんだ!」
「グルルルルル……!!」
男に対して明らかな敵対心を感じる。
鋭い牙を?き出しにして威嚇するパピー。
決闘の様子を見て、レイナがいじめられていると勘違いしたのだろうか。
「お、おやっさん!?どうすんだこれ!?」
「ウォン!」
「うん!行くよパピー!!」
「あっ!?てめぇ!!」
隙を突き、パピーの背に跨ったレイナ。
瞬く間に男の間合いから離脱し、体勢を整える。
「おい!いいのかよ、おやっさん!?」
「アイツを手懐けたのも……いや、アイツの信頼を勝ち取ったのもレイナの力ってわけだ。そいつらは二人で一人前なんだよ」
「そんな決闘ありなのかよ……まぁ、犬っころが一匹増えたところで大して恐くねぇけどな!」
「パピー……アイツをやっつけるよ!!」
「ウォン!!」
レイナを乗せたまま目まぐるしく男の周囲を旋回するパピー。
その動きはもはや目で追うことすら難しいものだった。
「くっそ……ちょろちょろと!!」
大剣を大きく振り回して自分の間合いを死守しようとするが、少しずつ目の慣れてきた彼は、パピーの背にいたはずのレイナがいつの間にか居なくなっていることに気が付く。
「あ、あれ?」
「当たれぇ!!」
「上か!?」
死角になっていた頭上から斧を振り下ろすレイナだが、ギリギリのところで勘付かれ、再び間合いを取られる。
だが……
「ガルルルル……!」
「な!?パピー!?てめぇ!!」
後ろに跳んだ男の裾を咥え込み、動きを封じたパピー。
着地したレイナは、踏ん張る脚でそのまま地を蹴り、男の懐へと飛び込んだ。
「ありがとう、パピー!いっくよぉおおおお!!」
「ちょ、待て!!俺の負けだ!!おい――」
「カッキーーーーーーーーンッ!!!!」
レイナが斧腹をぶつける様にして男をひっぱたくと、彼はそのまま港を飛び越え、海へと落ちていった。
「はんっ……大したもんだ。レイナ、パピー。オマエ達の勝ちだ」
「やったぁあああ!!私達の勝ちだよ、パピー!!」
「ウォオオオオオン!!」
こうして正式に海賊団に入団することが認められたレイナ。
当然、これからのパピーの居場所もレイナの隣である。
「レイナ!飯はまだかぁ〜!?」
「今日の上りは上々っと……そろそろ肉も仕入れとかないといけないか……」
「お〜い!レイナ〜!!」
「わかってるよ!ちょっと待ってってば!!」
レイナにとって、海賊団での日々は想っていたのとは少し違ったモノだった。
男衆しかいなかった海賊団の中で、母直伝の料理や、父譲りの金勘定のスキルを発揮していった彼女は、すぐに一団にとって必要不可欠な存在となっていき、幼くも船の生活を支える母親役のような不思議な立ち位置へと収まっていった。
レイナの成長はそれだけに留まらず、船上での戦闘でも、リーチ差を埋める巨大斧とパピーとの素早い連携により次々と戦果をあげていく。
こうして船長を含め、船員達の信頼を瞬く間に厚くしていった結果、船長が船を降りることを決めた時には、次代の船長の座を任されることになった。
本来ならば、最も若く、最も新入りであるレイナが船長を務めることに、船員からの不満の一つでも出そうなものではあるが、そんな声を上げようとは誰も思わなかった。
この話を聞くだけでも、どれほど彼女が努力を重ねてきたかが少しは理解できるだろうというものだ。
「そろそろ目的の海域?」
「おぅ、レイナ。見てみろよ?ここらにはまだ手付かずの船が山ほど沈んでるんだぜ!?」
「宝の山だぁ〜!って……そろそろ船長って呼んでよね!!」
船内に残されているお宝目当てに、沈んだ船をサルベージしようとバルバームから少し離れた海域にまで足を伸ばしていた一行。
海賊団結成以来、こうした行為は初めてではなかったが、いつもとは違う海域での仕事はどうしても緊張が伴う。
船内はいつもよりもほんの少しだけピリピリしているように感じられた。
この空気を敏感に察していたレイナも周囲の警戒を怠ることはせず、パピーもまた同じくである。
「んん……?あんなところに島なんてあったっけ??」
波で少し船が流されでもしたのか、いつの間にか遠くに島が見えていた。
この距離でも視認できるサイズとなると、島の中でも相当巨大な部類に入るだろう。
とはいえ、特別興味を惹かれるものでもなかったため、レイナは再び作業に戻る。
「……あれ?え!?何で!?!?」
先ほどの違和感がとてつもない異常であることに気が付き驚愕する。
作業に集中していたとはいえ、遠くに小さく見えていた島が明らかに大きく、否、距離が詰まっていた。
こんな短時間でそこまで流されるような波は出ていない。
つまりは動いているのは船ではなく、島の方であるという事実が見えてくる。
「皆ぁ!大変!!島が近づいてきてる!!」
「あぁ?何だって??」
「島だよ!!あの島がこっちに近づいてきてる!!」
「島だぁ?……おぉ!?ハハハ!こりゃ縁起が良い!」
船員達に緊急事態を直ちに知らせたレイナだが、事態を把握しても慌てているのはレイナ一人だけ。
中にはレイナよりも早く島の存在に気づいていながら、笑みを浮かべて様子を見守る者さえいるようだ。
「な……なんで?」
「そういえば、レイナはアレを見るの初めてだったか?あれはアスピドケロンだ」
「アス……アスピ……?」
海獣都市『アスピドケロン』
巨大な亀の様な生物の背に人々が暮らす、移動する海上都市。
「航海中にアスピドケロンを見ると、その船は幸運に恵まれるってな。昔から言われてる迷信だ。今日の仕事は期待できるんじゃねぇか!?ハハッ!」
「あれって生き物なの!?」
ひとまず危険はない事を悟って胸を撫で下ろしつつも、レイナの興味は尽きない。
まだまだ幼い彼女の知らない広き世界。
そこにはまるでお伽話の様な話がいくらでも存在しているのだ。
アスピドケロンの登場に、活気立つ船上。
話を聞いた船員達も続々と甲板に集まってきていた。
だが、その顔はみるみるうちに青ざめていくこととなる。
「なぁ……ちょっと早すぎやしないか?前に見た時はもっとゆっくり進んでいたような……」
「あぁ……しかも、こっちに真っ直ぐ突っ込んできてやがる……このままじゃ……」
「「…………逃げろぉおおおおおおおお!!」」
急いで錨を引き上げ、帆を張って船を走らせる一同。
アスピドケロンはもう船の目と鼻の先まで迫っており、我を忘れたように怒り狂った顔が恐怖を煽り立てる。
「取り舵いっぱぁああああい!!」
アスピドケロンとの衝突コースから逃れようと、船首がゆっくりと左を向く。
躱しきれるか微妙なタイミング。
「おい!あそこ見ろ!アスピドケロンの顔の横!」
船の運命が間も無く決まるという最中、船員の一人がアスピドケロンを指差す。
波飛沫と船の揺れでしっかりと確認することはできなかったが、人間大の光る玉のようなものが宙に浮いているのが辛うじて見て取れた。
「バカ野郎ぉ!こんな時に何言ってんだ!!」
「す、すまん!!」
「……あれ……何だろ?」
我に返った船員達が再び忙しなく手を動かし始めるが、レイナだけは光の玉から視線を逸らさなかった。
「やべぇぞ、レイナ!避けられねぇ!!」
「そのまま直進!!」
「はぁ!?テンパってんじゃねぇぞ!?」
「あの子を助けないと!!」
「あの子って……誰のこと言ってんだ!?」
「あの光の玉!女の子が捕まってる!!」
「何だとぉ!?」
彼女の野生譲りの視力だけが捉えていた。
玉の中にぼんやりと浮かぶ、光る人影。
涙しながらに祈りを捧げる少女の姿を。
「前進!!早く!!!!」
「ぐ……ちっくしょう!どうなっても知らねぇぞ!?」
押し寄せる高波の中、前進を続ける船。
激しい揺れと、甲板にまで登ってくる海水の勢いで船員が次々と海面へと投げ出される。
「レイナぁ!こ、これ以上は無理――うわぁああああ!」
「コラぁ!船長って呼べぇ!!って、誰も残ってないの!?」
ただ一人、マストにしがみ付いて足を踏ん張り続けるレイナ。
その時、光の玉がアスピドケロンの眼前にふわりと躍り出る。
「なになに!?」
アスピドケロンが大きな口を開けた途端、光の玉は水泡のように弾け、中から女の子が放り出されるのが確認できた。
「ダメぇええええ!!」
「ウォン!!」
「パピー!?」
もう間に合わない。
諦めかけたその時、パピーが船の錨を引きずりながらレイナの傍に寄ってきた。
「おぉ!!それだ!!!!」
パピーから錨を受け取り、肩に担いだまま船首へと駆け出すレイナ。
船から投げ出された船員達は、荒れ狂う海面からなんとか顔を出し、その様子を見守る。
「いっけぇええええええええ!!」
レイナの手から勢いよく放たれた錨は、放物線を描きながら少女の元へと駆ける。
「早く捕まってぇええ!」
少女はその声に反応した。
反射的に伸ばされた手が錨の鉤を確かに掴んだ。
「やった!!」
「「おぉおおおおおおおおおお!!」」
物凄い速さで船の元へと引き返す錨。
それを離すまいと必死にしがみ付く少女は、辛くもアスピドケロンの口元から逃れることに成功し、そのまま船腹付近の海へと落ちた。
「わわわわっ!?落ちちゃった!!」
「ウォン!!」
「おぉ!ありがと、パピー!!」
慌てるレイナの足元に駆け寄ったパピーの口には大きな網が咥えられていた。
その網で少女を急ぎ海から掬い上げ、容体を確認する。
「ぷはぁっ…ハァ…ハァ…」
「生きてるー!?生きてたら寝てないで手伝ってー!せっかく助けたんだから!」
――――――
――――
――
「――という訳でね?見事、ルルーテを救い出した我ら海賊団!!そして、そして、こここそ我らがアジトのバルバームだぁ!!」
「わぁ!!ここがお姉ちゃんたちの村なんだね?」
半日程の航海。
アスピドケロンとルルーテとの邂逅を経て帰り着いたバルバームの村。
帰りの航海中、延々と続くレイナの話を聞き続けたルルーテだったが、その表情は明るい。
目の前で激しく繰り返される喜怒哀楽を心から楽しみ、様々な希望を胸に抱くこととなったその船旅は、ルルーテにとってとても充実したものとなったことだろう。
ルルーテの様子に、レイナも自分のこと以上に喜んでみせた。
「じゃあ、あとはよろしくね!!報告は後で聞くから!!」
「おぃ、レイナ!雑用押し付けて先に帰る気か!?」
「船長でしょ!!私はルルーテに村を案内してあげないといけないの!!」
「へぃへぃ……後で俺達にも話聞かせろよな!?」
「わかってるよー!じゃあ、いこっか?ルルーテ!パピー!」
「うん!レイナお姉ちゃん!」
「ウォン!!」
その仲睦まじい光景に、船員達の顔もついほころぶ。
船長という肩書を背負いながらも、やはりレイナもまだ少女。
初めて同年代の友を得たことがたまらなく嬉しいことは聞かずとも理解できた。
「そういえばルルーテのこと、全然聞いてなかった……ねぇ!?今度はルルーテの話を聞かせてくれる?」
「え〜……あんまり面白い話はできないよ?」
「いいのいいの!教えて!ルルーテのこと、もっともっと!」
「じゃあ、どこから話そうかなぁ……」
この時点ではまだルルーテが自分より年上であったことを知らずにいたレイナ。
それを知ったところで、レイナが先輩風を吹かせてルルーテを妹分にすることに変わりはないわけだが、狼を連れた怪力少女船長と強大な魔力を操る右腕ルルーテ。
この義姉妹の名がバルバームを飛び出し、海を越えて大陸中に轟くことになるのは、そう遠くない未来のことである。
それが見えなくなるまで、いつまでもいつまでも船の甲板上から見つめ続ける少女。
そしてその少女を同じ甲板上で少し心配そうに観察する少女がもう一人。
「ちゃんとバイバイできた?」
「うん……またいつか会おうねって」
「今からでも追いかけられるけど……ルルーテは帰りたい?」
「ううん……大丈夫。もうわたしは街には帰れないから。それに、レイナと――おねぇちゃんとも約束したから」
「そっか!でも……いつかまた会いに来ようね!」
「……うん!!」
アスピドケロンに背を向け、振り返りざまに満面の笑みを浮かべるルルーテ。
目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
彼女にしか分からぬ様々な想いが溢れているのだろう。
それでも笑ってみせたのは、レイナを心配させたくないとの気持ちからだろうか。
そんな彼女に応えるように、負けじと満面の笑みを返すレイナ。
仲睦まじげな姉妹のように見える二人だが、その出会いはつい先程の話なのだ。
巨大な亀を思わせる魔物がそのまま街となった海獣都市『アスピドケロン』
その暴走を止めるため街から生贄として捧げられたルルーテを、そうとも知らずに助け出したレイナ。
ルルーテの命を救い、アスピドケロンの暴走を止めることを条件に、レイナは自らが船長を務めるバルバーム海賊団の一味へ、ルルーテが加わるよう提案。
これをルルーテは承知し、見事にレイナは約束を果たした形だ。
「改めてよろしくね!バルバーム海賊団へようこそ!!」
「こちらこそ!レイナおねぇちゃん!」
――フンフンッ……
「きゃぁあ!?なになに!?」
ルルーテの太もも辺りに急に冷たい何かが触れ、その場を飛びのく。
「こら!驚かせちゃダメだよ、パピー!」
「……スンッ!」
「その子はパピー。私の大事な家族。ルルーテのことが気に入ったみたいね」
「わぁ……よろしくね、パピー!」
「ウォン!!」
「さーて、そろそろ帰ろうか!」
「バルバームへ行くの?」
「そうだよ!村のみんなが私たちの稼ぎを待ってるからね!」
「へぇ……わたし、アスピドケロンの外は初めてなんだ」
「ふ〜ん……じゃあ、いろいろお話しよう!どうせバルバームまではけっこうかかるしね!」
「聞かせて!レイナちゃん達のことも、バルバームのことも!」
「こら!お姉ちゃんでしょ!大人の女に向かって失礼だよぉ?」
「そ、そうだったね!おねぇちゃん!」
どうみてもルルーテより更に幼く見える女の子に対する呼び方としては相応しくないかもしれないが、これも船長命令では仕方のないことなのである。
「よしよし……じゃあ何から話そうかな……」
「おねぇちゃんはずっとバルバームで暮らしているの?」
「違うよ!じゃあそこから話そうか……!」
――――――
――――
――
「ま、待ってくれ!君は……」
その男は、大陸から見て極東に位置する孤高の島国『アルジア』の出身。
「何か用かい?」
その女は、流浪の村『コーク』に住んでいた、狼の血を引くガルム族。
コークがマリーヴィアの近くを通りがかった際に二人は出会い、瞬く間に結ばれ、男はすぐに父親になり、女は母親となった。
二人の間に生まれた娘は『レイナ』と名付けられた。
「パパ、お帰り!!」
「おぉ!?いいパンチだな、レイナ!ママにも負けてないぞ!?」
「何言ってんだい……またぶっ飛ばされたいのかい?」
父親は仕事のためアルジアとマリーヴィアを行ったり来たりの生活だったため、母親はレイナと共にコークを出てマリーヴィアに移り住んだ。
快活でしっかりものだった母親の影響を受け、よく似た性格に育つレイナ。
アルジアから帰ってくる父の土産話を聞きながらじゃれあうのが一番の楽しみだった。
その様子を見て母親は常々思っていたようだ。
父親の職業柄仕方のない事だとは理解しつつも、彼には少しでも長くマリーヴィアに留まってもらい、レイナと自分、家族との時間を大切に過ごしてほしいと。
そんなやりとりが度々あり、寂しさからか夫婦喧嘩に発展することもままあった。
その場合、決まって母親は父親に決闘を申し込み、暴力を持って決着させる。
戦いはいつも母親の圧勝だった。
子供の教育上、あまり良い方法だとは思えないが、レイナの目には勇ましい母親の姿がキラキラと輝いて見えていたことだろう。
父親は勝負に勝つことこそなかったが、どれだけ打ちのめされても絶対に諦めない姿勢だけは貫いていた。
その根気に負け、結局母親が折れる形となることもしばしば。
勝負に負けて試合に勝つ。
そんな父親の姿もまたレイナにとっては関心の的なのであった。
こうしてすくすくと成長していったレイナ。
彼女が七歳を迎えた頃、彼女の人生に大きな転機が訪れる。
ついに家族全員でアルジアに移り住むことが決まったのだ。
家族みんなで過ごす時間が増える。
これには家族全員が心から喜んだ。
しかし、それは叶うことの無いまま夢と消えることとなる。
アルジアへと向かう航行の最中、大きな嵐に遭遇してしまった一行。
高波に煽られて船は損傷し、瞬く間に沈んでいく。
三人連れ立って海に飛び込むも、激しい潮の流れに揉まれ、散り散りになってしまった。
「ん……っぷは……マ、ママ!?パパぁ!?」
一人で荒波の中をもがき続けるレイナは、浮かんでいた木材に必死にしがみつき、いつまでもいつまでも両親を呼び続けた……
――ペシペシ
「んぁ……?」
「おい!?お嬢ちゃん、大丈夫か……?」
頬を軽く叩かれた衝撃で目を覚ましたレイナ。
おぼろげな視界ではあったが、自分の目の前に見覚えのない男の顔があることはわかった。
「え……うっわぁ!?」
――ドンッ
物凄い勢いで後退りする彼女だったが、その背に硬い何かが当たる。
振り返ると、それは太い木を交差させて設置された手すり。
「ここって……何で!?」
立ち上がり周囲を見渡すと、無限の広がりを見せる大海原。
ここでやっと自分が大きな船の甲板上にいることを認識することができたレイナ。
――数日後
再び所変わり、ここは海賊の村『バルバーム』
海で両親と生き別れたあの日、気を失ったまま海を漂い続けていたレイナを救ったのはこの一帯を縄張りとする海賊の船だった。
そのまま海賊達に保護され、村に連れてこられたレイナは、特に何をするでもなく、ただただボーッとするだけの日々を過ごしていた。
ここに連れてこられるまでの間、船の上では海賊の男達が聞きもしていないことを色々と話していた。
彼らが見つけたのは、船の残骸と、漂流していたレイナ一人だけだったこと。
レイナに対して悪意は抱いておらず、彼らの村で保護するつもりであること。
そしてバルバームのこと。
バルバームは海賊達の根城ともなっていた小さな村で、元々は島流しにされた犯罪者やならず者達が集まり作った小さな集落に過ぎなかったが、近年、著しい発展を遂げ、今では人口も文化レベルも大陸の立派な街と肩を並べる程にまで成長している。
その理由は海賊の生業に起因する。
時折、海で見かけていた帝国軍船。
海賊達は、彼らの大陸での傍若無人っぷりを知るや否や、その船を積極的に襲うようになる。
そうして資源や技術を奪うことで、著しい発展を遂げることに成功したのである。
当然、帝国も安全な海上ルート確保のため、これに対処しようと躍起になっているようだが、バルバームは村の外の者にその存在が知られないよう、特別な結界によって隠されている村であるため、今もこうして平穏な暮らしを営むことが出来ていた。
「ウォン!」
「ん?どうしたのパピー?お腹空いた?」
海賊は悪い奴。
いくら自分を助けてくれたとはいえ、こうした世間一般的な印象を拭い切ることはできなかった。
真っ向から拒絶するでもなく、ただし自分からは決して近づかない。
そんな微妙な距離を保ちつつ、村の中心的存在とも呼べる彼らに心を開くことのできないレイナ。
当然、そんな彼女が村に馴染めるはずも無かった。
ただ、パピーだけは例外だった。
「スンスン……スン……」
「ごめんねぇ。さっきお昼ご飯食べちゃったから何も持ってないんだ」
「クゥン……」
パピーとはバルバームの村で飼われている不思議な雰囲気を持った狼の名だ。
飼われているといっても明確な飼い主がいるわけではなく、村人達みんなで世話しているといった方が正しいかもしれない。
パピーは村に連れてこられたレイナを初めて見た瞬間から彼女に対して興味を抱き、進んですり寄っていっては懐くようになった。
レイナが狼系のガルムのハーフであることから、同胞であると考えているのだろうか。
そのわけはパピーしか知らない。
少なくともレイナ自身は、言い表しようのない不思議な繋がりを感じていた。
「相変わらず仲が良いなぁ!」
「あ……えっと……」
「おっと……そんなに警戒しないでくれよ。そろそろおやつの時間だろ?コイツもお腹を空かせてると思って持ってきたんだ。もちろん嬢ちゃんの分もあるぜ?」
静かに寄り添う二人に話しかけてきた海賊団の船員だと思われる若い男。
その手には干し芋の入った紙袋が握られていた。
「隣いいかぃ?一緒に食べないか?」
「う、うん……」
こうしてたまに話しかけてくる村人も少なくないが、重苦しい空気とレイナの暗い表情に耐えきれず、いつもすぐにその場を離れて行ってしまう。
恐らくこの男もすぐに……
「ほら、パピー。オマエも食え」
「スンスン……ワォン!」
「ははは!やっぱりオマエはこっちの方がいいよな!」
観念したようにポケットから干し肉を数切れ取り出すと、パピーに与える男。
この村にレイナが来る以前からこうしておやつの時間を楽しんでいたのだろう。
それを思うと、唯一の友達が取られてしまったような、少し悔しい気持になる。
「ほら?嬢ちゃんも、干し芋。あ、干し肉の方が良かったか?」
「いや……私は……」
「……嬢ちゃんを見てると、この村に来たばかりのパピーの姿を思い出すなぁ」
「……パピーを?」
「あぁ。三カ月くらい前だったかな。パピーも嬢ちゃんと同じように、俺達に拾われてここに来たんだ」
「この子も海を漂流してたの?」
「仕事中に見かけた難破船にコイツだけが残ってたんだ。詳しくはわからねぇけどな。だが、コイツも今の嬢ちゃんみたいに暗い顔してたぜ?毎日何かを探すようにフラフラとな」
「おじさん達はいつもそんなことをしてるの?」
「そうさ!この村に住んでいる三割くらいの人間が、ここに生きる希望を求めてやってきたり、海で遭難したり、嬢ちゃんみたいに漂流してたヤツらさ。俺も含めてな」
「そうなの!?」
「海賊って言うと聞こえは良くないけどな。でも、やってることは間違ってるとは思わねぇよ?ここに連れてこられたときは俺も何されるか怖くて堪ったもんじゃなかったけどな。だが、すぐに考えは変わった」
男は話す。
行く当てのある人間は、保護したらそこまで送り届け、行き場のない人間は誰であろうと村で保護して生きる手伝いをする。
村の人間が普段食べている食料のほとんどは、海賊団からの施しによりもたらされたもので、食料に限らず、衣服、雑貨、その他もろもろ含め、ここでの生活は海賊達の支えがあってこそ成り立っているものだと。
「海賊なのに良い人なの……?」
「良い人……とは言えねぇだろうな。俺達は奴隷船や密輸船ばかり襲って稼いでいるわけだが、村のためとはいえやってることは盗人だ。良い人のすることじゃねぇよ」
「でも村の人たちはみんな感謝してるんでしょ?」
「まぁな。だが、心の中は後ろめたい気持ちでいっぱいだったり、俺達を軽蔑してるヤツもいるかもしれねぇ。それでも俺達は海賊を辞めるわけにはいかねぇんだ。少なくとも、今は生きるためにな」
「……生きるって……難しいんだね」
「あぁ。だから俺は進むことを選んだんだ。拾ってくれた恩を返したいって気持ちと、ここでの暮らしが好きで、守りたいって気持ちには嘘はなかったからな。それで海賊団に入れてもらった。悩んだまま立ち止まることをしたくなかったんだ」
「それで、おじさんの選んだやり方は正しかったのかわかった?」
「まだだ。俺はバカだからよ!いつか答えが出るかもしれねぇが、当分かかりそうだ。ははは!」
「そっか……」
レイナは男の話を全て理解することはできなかった。
良い事のように見えても、それは悪い事かもしれない。
義賊であっても、海賊であることに変わりはない。
自分が知らない価値観と世界。
わからなくとも、それは彼女の興味を強く引き付けた。
「こんにちは!」
「ワォン!」
「おぅ、レイナ!パピーもご機嫌だな!」
海賊の船員の話を聞いたことがきっかけに、徐々に船員達と打ち解けていったレイナ。
当時の暗さは完全に払拭され、村人達とも笑顔で言葉を交わせるようになった。
「ねぇ?船長さんに話があるんだけど」
「おやっさんにか?何の用だ?」
「うん。実はね……ここの海賊団に入りたいの!」
レイナが海賊へ向ける興味は次第にその形を具体的なものへと変えていった。
今日、その意志を直接、海賊団の船長に伝えるために港を訪れたのだ。
「いやぁ……驚いた。まさかそんなこと考えてたとはな」
「海賊に入るには、船長に許しを貰わないといけないんでしょ?」
「え?そりゃあ……まぁ、そうなんだが……無理だと思うぞ?」
「何で!?聞いてもいないのにそんなのわかんないじゃん!?」
「だってなぁ……ま、いいか。決めるのはおやっさんだ。俺がどうこう言っても仕方ねぇ」
「うん!」
「あっちのテントで飯食ってるはずだから行ってみな。ただし、おやっさんがダメだと言ったら諦めるんだぞ?」
「大丈夫だもん!!」
決してただの興味本位や、思い付きからの行動ではなかった。
助けてもらった恩を返すため。
そして、行方不明の両親を探すため。
説明すれば理解してもらえるはず。
その時のレイナはそう信じて疑わなかった。
「ダメだ……」
「何で!?」
「ダメなもんはダメだ!」
「だから何で!?」
「オマエの気持ちは嬉しいさ。だが気持ちだけで十分だ!親を探したいなら仕事の合間に俺達が探してやる!だから諦めて村で大人しくしてな!俺達は海賊だぞ!?オマエみたいな小娘に務まるような甘い仕事じゃねぇんだ!!」
レイナの話を聞くなりすぐさまこれを拒絶した船長。
自信のありようはともかく、まだ幼く、それも女の子であるレイナが自ら危険な場所へと踏み込むのを止める。
船長の判断は、世間的に見れば至極真っ当であると言えた。
それでもレイナは決して引き下がろうとはしない。
「私なら大丈夫だよ!自分の身は自分で守れるもん!!」
「そうやって簡単に言えちまうところがガキなんだ!無理だ!!」
「だったら決闘だ!それで私の力を証明してやる!!私が勝ったら海賊団に入れてよ!!」
「本気で言ってんのか?」
「船長が相手でもいい!!」
「おいおい……勘弁してくれ。オマエみたいな小娘とマジで立合ったとなりゃ俺が笑われちまう」
「じゃあ誰がやるの!?私は誰でもいいよ!」
「……どうやら本気みてぇだな。確認するぞ?決闘に負けたらきっぱりと今回の話は諦める!それでいいな!?」
「わかった!!」
「いつがいい?」
「いつでもいい!今からでも!!」
「よし……相手は用意してやる。今日の昼過ぎに村の広場で待ってな」
「うん!!」
言うまでも無く、この時のレイナの頭の中には母と父の決闘の光景が回想されていた。
女でありながらも果敢に父に挑み、いつも勝利を手にしていた憧れの母の姿。
今、その姿を自分に重ねているのだ。
「おい、レイナがおやっさんに決闘申し込んだってのはマジか?」
「レイナが突っかけたらしいぜ?船に乗せるかどうかを決めるらしいな」
船長との話を終えるとすぐに広場へと向かい、静かに集中力を研ぎ澄ませていたレイナ。
いつの間にかこの件の話を聞きつけた船員達が、勝負の行方を一目見ようと広場を囲むようにして集まりつつあった。
さらには、その様子を見て事情も知らない村人たちまでもが何だ何だと野次馬となっている。
「ん?もう来てたのか。どうやら待たせちまったようだな。随分と気の早いことだが、まだ約束の時間までは少しある。どうする?もう始めちまうか?」
「いつでもいいよ……!」
「よし。まずはオマエの相手を紹介しよう。うちの古株の一人で、まぁそこそこの腕利きだ。こいつに勝つことが出来ればオマエを俺達の船に乗せてやる」
「わかった!」
「おやっさん直々の頼みだから引き受けはしたが、本当にやっていいのかぃ?」
「好きにやれ」
見るからに屈強そうな男。
鍛えこまれた筋肉と、体のあちこちにある戦闘の傷跡が猛者の雰囲気を匂わせる。
軽口を叩いてはいるが、その眼光は決してレイナを侮ってなどいない。
下手な油断は命取りであることを体の芯まで理解していることは勿論、船長の目の前で、しかも自分の体格の半分にも満たないような少女に後れを取ったとなれば、どんな仕打ちが待っているとも知れない。
「二人とも、ルールを説明するぞ。互いに全力を出して構わん。ただし、相手を殺すのは無しだ。だが、殺されないことを理由に無駄な足掻きを続けるような真似は絶対に許さん。俺が決着だと判断した時が決闘終了だ。いいな?」
「あいよ……」
「うん……!」
「じゃあ始めるぞ……?」
広場中央に立つ二人を中心に、静かに固唾を飲んで見守る観衆。
片や身の丈と同等の長さを誇る大剣を構える海賊の男。
片や身の丈以上の斧を背負うガルムの少女。
体格差こそ圧倒的だが、得物の破壊力に差は見受けられない。
問題は果たしてそれを使いこなすことができるか……
「始め!!」
「てぃやぁああああ!!」
開始の合図と共に飛び出したレイナ。
策も無しにただ真っ直ぐに突っ込んだだけ。
「うぉお!?」
だがその速度は、人間の常識のそれではなかった。
巨大な斧を抱えたまま、まさか一瞬で間を詰められるなど想像もしていなかった男に動揺が走る。
「えぇい!!」
――ドッゴォオオオオン!!
反射的に後ろに跳ぶことで、間一髪レイナの振り下ろしを回避する男。
本来、彼の頭に振り下ろされるはずだった斧は大地を穿ち、硬い岩盤をもお構いなしに深々と突き刺さっている。
「冗談じゃねぇぞ……!?」
あんなものをまともに喰らってしまえば命の保証なんて言っていられない。
男の表情は先程までの冷静さを完全に失い、焦りと驚きに染まっている。
「流石はガルムだな……まぁ、ひよっこでもこれくらいはやってのけるだろ……」
戦いを見詰める面々の中、ただ一人冷めた目でレイナを見据える船長。
だが、当然自分の部下が負けるとは思っていない。
初手の衝撃で場の空気こそ味方につけたレイナだが、戦いはそう単純なものではないことをこの男は熟知していた。
「ふぅ……マジで驚いたぜ。これは気が抜けねぇな」
船長に次いで、冷静さを取り戻したのはレイナと対峙する船員の男だった。
自身の経験が危険信号を発しているのを感じる。
だがしかし、この手の相手に勝つための術は知っている。
「来なよ、レイナお嬢ちゃん。まだ始まったばかりだぜ?」
「言われなくたってぇ!!」
観衆達の予想に反し、相手を圧倒している様子のレイナ。
だが、戦闘が開始されてから時間が経過する程に、その違和感に皆が気付き始める。
船員は手を出すこともせず、じっくりとレイナの動きを観察しつつ回避に専念。
一撃も有効打を受けることの無いまま、既に開戦から五分以上が経過しようしていた。
「くっそぉ!!逃げてばっかりでずるいぞ!!」
「攻撃だけが戦いじゃねぇんだぜ?にしてもすげぇスタミナだな」
ここまでの戦況を鑑みるに、腕力、脚力、体力はガルムの血を持つレイナが勝っているように思えるが、彼女の表情からはそんな優位性は感じられず、逆に徐々に焦るような、不安の表情を浮かべ始めている。
「よし……大体わかったぜ。今度はこっちから攻めさせてもらう。覚悟しなよ?お嬢ちゃん」
「ふんっ!今さら何だ!!もう私の方が強いのはわかってるんだから!!」
「そうかい!?」
声と共に、真っ直ぐと大剣を突き出す男。
レイナの研ぎ澄まされた反射神経はこれを楽々と捉え、意図も容易く回避。
そのまま身を翻し、勢いをつけて男を叩き切ろうと斧を握る手に力を込める。
「これで……!」
「甘いぜ!!」
「わ!?なに!?!?」
肩口を足で抑え付けられた途端、振り回そうとしていた腕に力が伝わらなくなった。
それはレイナが知るはずのない戦いのための技術。
「おらよっ!!」
「わわっ!?」
体勢を崩しながらも、カウンターをなんとか躱したレイナ。
「覚えときな。強いだけじゃ勝てないんだぜ?」
「くそぉ……!!」
経験の差。
リーチの差。
それは身体能力で勝るレイナを少しずつ追い詰めていく。
焦りは呼吸を乱し、体力を瞬く間に奪っていく。
それでも何とか凌ぎ続けてはいるが、次第に男の攻撃はレイナの動きを捉え始めていた。
「ちっ……しつこいにも程があるぜ!!」
「うぅ!!」
「よく頑張ったよ。遊び半分だったが俺にとってもいい経験になった。もっと強くなったらまたやろうぜ?」
「ま、まだ終わってないんだからぁ!!」
この時点で、大勢は誰の目から見ても明らかだった。
観衆の中には、船長から発せられる決着の合図を待つ者も多かったことだろう。
「せやぁあ!!」
それでもレイナは諦めない。
「このぉ!やぁ!!」
決死の想いで斧を振り続けるも、握力の衰えた攻撃は簡単にいなされてしまい、遂に喉元に男の剣の切っ先が突き付けられた。
「おやっさん!これで決着ってことでいいんだよなぁ?」
「くぅ……」
「あぁ。この勝負……」
「ウォン!!!!」
「パピー!?」
決着の合図を寸断する咆哮。
目にも止まらぬ速さでレイナと男の間に割って入ったパピー。
「はぁ?なんでオマエが出てくるんだよ!どっかいけってんだ!」
「グルルルルル……!!」
男に対して明らかな敵対心を感じる。
鋭い牙を?き出しにして威嚇するパピー。
決闘の様子を見て、レイナがいじめられていると勘違いしたのだろうか。
「お、おやっさん!?どうすんだこれ!?」
「ウォン!」
「うん!行くよパピー!!」
「あっ!?てめぇ!!」
隙を突き、パピーの背に跨ったレイナ。
瞬く間に男の間合いから離脱し、体勢を整える。
「おい!いいのかよ、おやっさん!?」
「アイツを手懐けたのも……いや、アイツの信頼を勝ち取ったのもレイナの力ってわけだ。そいつらは二人で一人前なんだよ」
「そんな決闘ありなのかよ……まぁ、犬っころが一匹増えたところで大して恐くねぇけどな!」
「パピー……アイツをやっつけるよ!!」
「ウォン!!」
レイナを乗せたまま目まぐるしく男の周囲を旋回するパピー。
その動きはもはや目で追うことすら難しいものだった。
「くっそ……ちょろちょろと!!」
大剣を大きく振り回して自分の間合いを死守しようとするが、少しずつ目の慣れてきた彼は、パピーの背にいたはずのレイナがいつの間にか居なくなっていることに気が付く。
「あ、あれ?」
「当たれぇ!!」
「上か!?」
死角になっていた頭上から斧を振り下ろすレイナだが、ギリギリのところで勘付かれ、再び間合いを取られる。
だが……
「ガルルルル……!」
「な!?パピー!?てめぇ!!」
後ろに跳んだ男の裾を咥え込み、動きを封じたパピー。
着地したレイナは、踏ん張る脚でそのまま地を蹴り、男の懐へと飛び込んだ。
「ありがとう、パピー!いっくよぉおおおお!!」
「ちょ、待て!!俺の負けだ!!おい――」
「カッキーーーーーーーーンッ!!!!」
レイナが斧腹をぶつける様にして男をひっぱたくと、彼はそのまま港を飛び越え、海へと落ちていった。
「はんっ……大したもんだ。レイナ、パピー。オマエ達の勝ちだ」
「やったぁあああ!!私達の勝ちだよ、パピー!!」
「ウォオオオオオン!!」
こうして正式に海賊団に入団することが認められたレイナ。
当然、これからのパピーの居場所もレイナの隣である。
「レイナ!飯はまだかぁ〜!?」
「今日の上りは上々っと……そろそろ肉も仕入れとかないといけないか……」
「お〜い!レイナ〜!!」
「わかってるよ!ちょっと待ってってば!!」
レイナにとって、海賊団での日々は想っていたのとは少し違ったモノだった。
男衆しかいなかった海賊団の中で、母直伝の料理や、父譲りの金勘定のスキルを発揮していった彼女は、すぐに一団にとって必要不可欠な存在となっていき、幼くも船の生活を支える母親役のような不思議な立ち位置へと収まっていった。
レイナの成長はそれだけに留まらず、船上での戦闘でも、リーチ差を埋める巨大斧とパピーとの素早い連携により次々と戦果をあげていく。
こうして船長を含め、船員達の信頼を瞬く間に厚くしていった結果、船長が船を降りることを決めた時には、次代の船長の座を任されることになった。
本来ならば、最も若く、最も新入りであるレイナが船長を務めることに、船員からの不満の一つでも出そうなものではあるが、そんな声を上げようとは誰も思わなかった。
この話を聞くだけでも、どれほど彼女が努力を重ねてきたかが少しは理解できるだろうというものだ。
「そろそろ目的の海域?」
「おぅ、レイナ。見てみろよ?ここらにはまだ手付かずの船が山ほど沈んでるんだぜ!?」
「宝の山だぁ〜!って……そろそろ船長って呼んでよね!!」
船内に残されているお宝目当てに、沈んだ船をサルベージしようとバルバームから少し離れた海域にまで足を伸ばしていた一行。
海賊団結成以来、こうした行為は初めてではなかったが、いつもとは違う海域での仕事はどうしても緊張が伴う。
船内はいつもよりもほんの少しだけピリピリしているように感じられた。
この空気を敏感に察していたレイナも周囲の警戒を怠ることはせず、パピーもまた同じくである。
「んん……?あんなところに島なんてあったっけ??」
波で少し船が流されでもしたのか、いつの間にか遠くに島が見えていた。
この距離でも視認できるサイズとなると、島の中でも相当巨大な部類に入るだろう。
とはいえ、特別興味を惹かれるものでもなかったため、レイナは再び作業に戻る。
「……あれ?え!?何で!?!?」
先ほどの違和感がとてつもない異常であることに気が付き驚愕する。
作業に集中していたとはいえ、遠くに小さく見えていた島が明らかに大きく、否、距離が詰まっていた。
こんな短時間でそこまで流されるような波は出ていない。
つまりは動いているのは船ではなく、島の方であるという事実が見えてくる。
「皆ぁ!大変!!島が近づいてきてる!!」
「あぁ?何だって??」
「島だよ!!あの島がこっちに近づいてきてる!!」
「島だぁ?……おぉ!?ハハハ!こりゃ縁起が良い!」
船員達に緊急事態を直ちに知らせたレイナだが、事態を把握しても慌てているのはレイナ一人だけ。
中にはレイナよりも早く島の存在に気づいていながら、笑みを浮かべて様子を見守る者さえいるようだ。
「な……なんで?」
「そういえば、レイナはアレを見るの初めてだったか?あれはアスピドケロンだ」
「アス……アスピ……?」
海獣都市『アスピドケロン』
巨大な亀の様な生物の背に人々が暮らす、移動する海上都市。
「航海中にアスピドケロンを見ると、その船は幸運に恵まれるってな。昔から言われてる迷信だ。今日の仕事は期待できるんじゃねぇか!?ハハッ!」
「あれって生き物なの!?」
ひとまず危険はない事を悟って胸を撫で下ろしつつも、レイナの興味は尽きない。
まだまだ幼い彼女の知らない広き世界。
そこにはまるでお伽話の様な話がいくらでも存在しているのだ。
アスピドケロンの登場に、活気立つ船上。
話を聞いた船員達も続々と甲板に集まってきていた。
だが、その顔はみるみるうちに青ざめていくこととなる。
「なぁ……ちょっと早すぎやしないか?前に見た時はもっとゆっくり進んでいたような……」
「あぁ……しかも、こっちに真っ直ぐ突っ込んできてやがる……このままじゃ……」
「「…………逃げろぉおおおおおおおお!!」」
急いで錨を引き上げ、帆を張って船を走らせる一同。
アスピドケロンはもう船の目と鼻の先まで迫っており、我を忘れたように怒り狂った顔が恐怖を煽り立てる。
「取り舵いっぱぁああああい!!」
アスピドケロンとの衝突コースから逃れようと、船首がゆっくりと左を向く。
躱しきれるか微妙なタイミング。
「おい!あそこ見ろ!アスピドケロンの顔の横!」
船の運命が間も無く決まるという最中、船員の一人がアスピドケロンを指差す。
波飛沫と船の揺れでしっかりと確認することはできなかったが、人間大の光る玉のようなものが宙に浮いているのが辛うじて見て取れた。
「バカ野郎ぉ!こんな時に何言ってんだ!!」
「す、すまん!!」
「……あれ……何だろ?」
我に返った船員達が再び忙しなく手を動かし始めるが、レイナだけは光の玉から視線を逸らさなかった。
「やべぇぞ、レイナ!避けられねぇ!!」
「そのまま直進!!」
「はぁ!?テンパってんじゃねぇぞ!?」
「あの子を助けないと!!」
「あの子って……誰のこと言ってんだ!?」
「あの光の玉!女の子が捕まってる!!」
「何だとぉ!?」
彼女の野生譲りの視力だけが捉えていた。
玉の中にぼんやりと浮かぶ、光る人影。
涙しながらに祈りを捧げる少女の姿を。
「前進!!早く!!!!」
「ぐ……ちっくしょう!どうなっても知らねぇぞ!?」
押し寄せる高波の中、前進を続ける船。
激しい揺れと、甲板にまで登ってくる海水の勢いで船員が次々と海面へと投げ出される。
「レイナぁ!こ、これ以上は無理――うわぁああああ!」
「コラぁ!船長って呼べぇ!!って、誰も残ってないの!?」
ただ一人、マストにしがみ付いて足を踏ん張り続けるレイナ。
その時、光の玉がアスピドケロンの眼前にふわりと躍り出る。
「なになに!?」
アスピドケロンが大きな口を開けた途端、光の玉は水泡のように弾け、中から女の子が放り出されるのが確認できた。
「ダメぇええええ!!」
「ウォン!!」
「パピー!?」
もう間に合わない。
諦めかけたその時、パピーが船の錨を引きずりながらレイナの傍に寄ってきた。
「おぉ!!それだ!!!!」
パピーから錨を受け取り、肩に担いだまま船首へと駆け出すレイナ。
船から投げ出された船員達は、荒れ狂う海面からなんとか顔を出し、その様子を見守る。
「いっけぇええええええええ!!」
レイナの手から勢いよく放たれた錨は、放物線を描きながら少女の元へと駆ける。
「早く捕まってぇええ!」
少女はその声に反応した。
反射的に伸ばされた手が錨の鉤を確かに掴んだ。
「やった!!」
「「おぉおおおおおおおおおお!!」」
物凄い速さで船の元へと引き返す錨。
それを離すまいと必死にしがみ付く少女は、辛くもアスピドケロンの口元から逃れることに成功し、そのまま船腹付近の海へと落ちた。
「わわわわっ!?落ちちゃった!!」
「ウォン!!」
「おぉ!ありがと、パピー!!」
慌てるレイナの足元に駆け寄ったパピーの口には大きな網が咥えられていた。
その網で少女を急ぎ海から掬い上げ、容体を確認する。
「ぷはぁっ…ハァ…ハァ…」
「生きてるー!?生きてたら寝てないで手伝ってー!せっかく助けたんだから!」
――――――
――――
――
「――という訳でね?見事、ルルーテを救い出した我ら海賊団!!そして、そして、こここそ我らがアジトのバルバームだぁ!!」
「わぁ!!ここがお姉ちゃんたちの村なんだね?」
半日程の航海。
アスピドケロンとルルーテとの邂逅を経て帰り着いたバルバームの村。
帰りの航海中、延々と続くレイナの話を聞き続けたルルーテだったが、その表情は明るい。
目の前で激しく繰り返される喜怒哀楽を心から楽しみ、様々な希望を胸に抱くこととなったその船旅は、ルルーテにとってとても充実したものとなったことだろう。
ルルーテの様子に、レイナも自分のこと以上に喜んでみせた。
「じゃあ、あとはよろしくね!!報告は後で聞くから!!」
「おぃ、レイナ!雑用押し付けて先に帰る気か!?」
「船長でしょ!!私はルルーテに村を案内してあげないといけないの!!」
「へぃへぃ……後で俺達にも話聞かせろよな!?」
「わかってるよー!じゃあ、いこっか?ルルーテ!パピー!」
「うん!レイナお姉ちゃん!」
「ウォン!!」
その仲睦まじい光景に、船員達の顔もついほころぶ。
船長という肩書を背負いながらも、やはりレイナもまだ少女。
初めて同年代の友を得たことがたまらなく嬉しいことは聞かずとも理解できた。
「そういえばルルーテのこと、全然聞いてなかった……ねぇ!?今度はルルーテの話を聞かせてくれる?」
「え〜……あんまり面白い話はできないよ?」
「いいのいいの!教えて!ルルーテのこと、もっともっと!」
「じゃあ、どこから話そうかなぁ……」
この時点ではまだルルーテが自分より年上であったことを知らずにいたレイナ。
それを知ったところで、レイナが先輩風を吹かせてルルーテを妹分にすることに変わりはないわけだが、狼を連れた怪力少女船長と強大な魔力を操る右腕ルルーテ。
この義姉妹の名がバルバームを飛び出し、海を越えて大陸中に轟くことになるのは、そう遠くない未来のことである。
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