小鳥遊家浴場事情
小鳥遊宗太にとって、姉三人の存在は頭痛の種である。
それでも長女・一枝や三女・梢の攻撃的なスキンシップ等に比べれば、次女・泉の依存じみた頼り方はまだマシだと考えていた。
その日、珍しく泉が部屋に訪れてきた時も、普段のように部屋の掃除を頼みに来たのだと宗太は思っていたのだが。
「あのね、宗ちゃん……。一緒にお風呂に入って欲しいの……」
と言う泉の言葉を聞いて、『その認識は改める必要があるかもしれない』と、遠のく意識の片隅でそんな思考が掠めていくのは止められなかった。
「…………」
「……宗ちゃん?聞こえた?」
「……ハッ!?」
泉の予想外の要求によって、遥か彼方の海洋で先輩魚の群れと回遊していた宗太の意識が体に戻ってくる。暫し沈黙していたであろう自分の様子を心細げに窺っていた泉に向かって、宗太はとりあえず当たり前の事を進言してみた。
「あのさ、泉姉さん。風呂ぐらい一人では入れるだろ?」
「でもね、宗ちゃん。私この前お風呂の中で寝ちゃったでしょ?あれで、一枝姉さんが怒っちゃって……。『一人で入浴するな。誰かの目の届くような時に入れ』って……」
言われて、その時の騒動を思い出す。一枝に怒鳴られているにも拘らず、『編集さんが追いかけてくる夢見た……』などとずれた事言ってたなぁ、とまで考えてから宗太は反論する。
「だったら別に俺じゃなくても良いじゃないか」
「だって……、今家には宗ちゃんしかいないし……」
「……あー」
しかしその反論も、泉の返答によって一瞬で切り捨てられた。
「そう言えば一枝姉さんは内地に行っちゃってるし、なずなは今日から塾の集中合宿?って言うやつに行ってるんだったっけ……」
加えて、もう一人の姉はちょっと前から姿が見えなくなっていた。またぞろ、何処かへ飲みに行ってしまったのだろう。
ならば今日の所は諦めてくれないか、と宗太は言おうとしたが、泉の生態を考えてその言葉を口にすることを止めた。
この、いつもは部屋に引き篭もり気味の姉が折角風呂に入る気になっているのに、今入浴させなかったらきっとまた暫らくは篭りっきりなるに違いない。
ならば――――。
「まったく。しょうがないなぁ」
「宗ちゃん……、じゃあ?」
溜息を一つついて動き出した宗太を見て、泉の顔が綻ぶ。
「泉姉さんは先にお風呂場に行っててよ。俺は準備してから行くから」
「うん……。ありがとうね、宗ちゃん」
そう言って泉はずりずりと這いながら宗太の部屋を後にした。
泉が部屋を出て行った後、宗太は今着ていた部屋着から濡れても良いような服に着替え、手足を拭くための自分用のタオルを持ってから浴室へと足を運んだ。
脱衣所では、さっきまで泉が着ていた黒を基調とした部屋着には少々不向きな服が脱ぎ散らかされていた。宗太は軽く溜息を一つついてから、まだ温もりが残るそれらを分別して洗濯籠に入れた。
そうして片付け終わった後に、眼鏡を外し、袖と裾を捲り上げてから浴室の戸を叩く。
「泉姉さん、入るよ」
「うん。いいわよ宗ちゃん」
許可を貰ってから戸を開く。その先では、
「じゃあ、よろしくね」
プラスチック製の椅子に座った泉がこちらを向いて待っていた。その体にはタオル一枚巻いておらず、体格に比例してたわわに実った乳房や髪の毛に反比例して申し訳程度にしか生えてない恥毛などが宗太の視界に飛び込んできた。つまりはどこも隠していない状態だった。
想定外の事に宗太の動きが止まる。そんな宗太の方を訝しげに見ながら、泉は言う。
「あら……。どうして服を着ているの……?」
「どうして、はこっちの台詞だ」
姉の余りにピンボケな言動に、もはや溜息すら出ない。
「当たり前だろ。一緒に入る訳ないじゃないか。そんな歳じゃないんだから」
元から入浴の手助けだけをするつもりだ、と言う宗太を珍しく不満げに見やりながら、
「……それなら、頭から洗ってくれる……?」
泉は宗太に自分を洗うようにお願いした。そして、その言葉どおりに宗太に向けて頭を下げる。
どうやら、このまま洗えと言いたいらしい。
宗太は頭痛を堪えるように眉間を押さえた後、諦念を滲ませつつシャワーのヘッドを持って蛇口をひねる。出てきたお湯の温度を確かめてから、泉に声をかけた。
「いくよ、泉姉さん」
「うん、来て……」
了承を得て、上からシャワーを浴びせる。瞬間、泉の体が震えたが、宗太は意に介さずに壁ぎわに置いてあるシャンプー類の入った籠を手繰り寄せる。
一旦シャワーをホルダーに戻し、籠の中からマジックで『泉用』と書かれた、まわりの物より一際大きめの容器のシャンプーを取出す。そしてそれを手の平に出し両手で泡立ててから、その手を泉の頭に乗せた。
指を立て、しゃかしゃかと頭皮を揉み解すように動かす。思いの外、泡立ちが悪い。不審に思った宗太は泉に質問を投げ掛ける。
「あのさ、泉姉さん」
「なぁに?宗ちゃん」
「風呂に入るのはどれくらいぶりなの?」
「そうねぇ……、一週間は入ってなかったかしら……」
締切に追われててそれどころじゃなかったし、と何ともなしに言う姉に、またしても頭痛を覚える。
「まったく……、泉姉さんはどうしてそうなのさ。綺麗なのにもったいない」
泉に限らず小鳥遊家の女性陣は、身内の贔屓目を抜きにしても並以上の容姿であると宗太は思っている。もっとも、その強烈すぎる個性が災いして異性との付き合いが長続きしないわけなのであるが。
そんな事を考えながら手を動かしていると、
「ねぇ、宗ちゃん……」
突然泉が話し掛けてきた。
「何?泉姉さん」
「私、宗ちゃんから見ても綺麗なの?」
「……ごめん、質問の意味がわからないんだけど」
「だって宗ちゃんって、小さくて可愛いものが好きなんでしょう?私は大きいから、宗ちゃんから見たらあんまり良くは見られてないんだって思ってたから」
今の言葉は意外だった、と。
そう言われて宗太は心外だ、と思った。確かに宗太の価値観から言えば、小さいものこそ珠玉だ。だからと言って、審美眼がそこまで偏っているかと言われると、答えはNoだ。
しかし、姉に向かって綺麗だなんて言ってしまったのは、思い返すと確かに恥ずかしいものがある。
なので宗太は泉の言葉に返事をしない代わりに、頭を洗う手の速度を速めた。
「きゃ……、ちょっと宗ちゃん……、強過ぎ……」
泉の弱々しい抗議も黙殺し、頭皮、次いで腰付近まである長い髪まで一気に洗っていく。
「あっ……、宗ちゃん……、もっと優しく……」
暫らくして宗太の腕の動きが止まる。せかせかと腕を動かしていた所為か服のあちこちにシャンプーの泡が飛び散っていたが、本より汚れて良い服を着ていたのでその辺は意に介さずにお湯が出っ放しのシャワーを手に取り、泡塗れの泉の頭を流しにかかる。
シャワーによって、泉の髪から泡と汚れが流れ落ちていく。続いて、籠からコンデショナーを手に取り、今度はさっきよりもゆっくりとした手つきで髪に指を通していく。
「はぁぁ…………。上手ねぇ、宗ちゃん。他の誰かにもこんなことしてるのかしら……?」
「そんな訳あるか。つーか泉姉さん、少し口を閉じててくれないかなぁ」
「あら……、どうして?」
ぐ、と言葉に詰まる。
流石に面と向かって、漏れ聞こえてくる口調が妙に艶かしいから、とは言えない。
(梢姉さんにだったら言えるだろうけど)
そもそも梢とだったら一緒に風呂に入るというシチュエーション自体が発生しないと思われるのだが、そこには気付かないでおく。
などとやっている内に、頭髪の洗浄は完了した。
したのだが。
一向に泉に動く気配が見られない。
「どうしたの?」
「……か、髪が重いの……」
どうやら髪が水を含みすぎて重くなっているらしい。流石にこれには呆れてしまった。
「いつもはどうしてるんだよ」
「変ねぇ……。徹夜続きで体力が落ちているのかしら……。宗ちゃん、髪の毛を纏めてもらえる?」
「いや、それは流石にやり方がわからないんだけど」
「大丈夫、やり方は教えてあげるから……。タオルを一枚持ってきてちょうだい……」
言われるままに脱衣所からタオルを持ってきて、泉の言うとおりに髪の毛を纏め上げる。その際に、髪で隠れていたあちらこちらが露わになるたびに、宗太は視線のやり場に困る事になった。
「ふぅ……。ありがとうね、宗ちゃん」
泉の主観では満面の、傍から見れば儚げと称した方がしっくり来る笑顔で礼を言う。椅子に座ったままなので顔を合わせていると全部見えてしまうため、宗太は視線を横に逸らし、
「もう手助けはいらないだろ?」
姉に退室の許可を求めた。
「え……、体がまだよ……?」
「体くらいは自分で洗ってよ……」
逆に小首を傾げてとんでもない事を要求してきたので、天を仰いでその要求を突っぱねる。
「……そうね。残念だけど、今日はもういいわ。ありがとうね……」
再び謝辞を述べて、浴槽の縁に手をかけて立ち上がろうとする泉。しかし、次の瞬間、
「あっ……?」
重心が上に来てしまった為か、立ち上がった途端に泉の体のバランスが崩れてしまった。そして引力の導くまま頭から浴槽の中へと――。
「危ない!!」
そうはさせじと宗太の腕が伸びて、泉の頭と腰を抱え込む。平時であればこのまま転倒を防ぐ事が出来たであろうが、今回は場が悪かった。
先程流したシャンプーの泡が足元にまだ幾許か残っていた所為で宗太自身も踏ん張りが利かなくなり、結果。
「うわっ……!」
「きゃ……」
二人まとめて浴槽の中に飛び込んでしまった。
※ ※ ※
どうしてこうなってしまったのか。
先刻から宗太の脳裏を同じ言葉がリフレインしている。
浴槽に落ちた二人だったが、幸いどこも怪我をしておらず大事にはならずに済んだ。
その後、濡れたまま浴室を退出しようとした宗太を泉が呼び止めた。
『宗ちゃん?濡れたままでどこに行くの……?』
『いや、出るんだけど』
『駄目よ……。そのままじゃ風邪をひいちゃうわ……』
『大丈夫だって。すぐタオルで拭けば問題ないから』
『それでも体は冷えちゃうわ。……そうだわ。宗ちゃんもお湯に浸かって温まればいいのよ』
『いやいやいや。それはちょっとおかしくないか泉姉さん』
『でも……そうしないと宗ちゃんが風邪ひいちゃう……』
『いや、だから』
『ね……?』
『…………』
この会話中、泉はずっと宗太の服を掴んで放さなかった。あの細い体の何処に、と思えるくらいの力で掴む泉の姿に、この場で押し問答を繰り広げると最悪二人とも、良くても泉が確実に風邪をひくであろう事が容易く予見できたので、宗太は渋々折れた。
そして今。
宗太の濡れた服は浴室の片隅で丸められており、その中身である宗太自身は浴槽にどっぷりと浸かっている。そして泉はと言うと。
「温かいわねぇ、宗ちゃん」
宗太の胸に背を預け、右肩に頭を乗せて同じく浴槽の中で寛いでいた。
(本当にどうしてこうなったんだか)
最初の内はお互いに向かい合って浴槽に浸かっていたのだが、纏めた髪の所為で頭があっちこっちにゆらゆらと揺れる度、壁や縁にぶつかりそうになるので、泉が宗太にこうするよう頼んだのだ。
宗太としても、その都度水面付近を漂う双丘も頭の動きに同調して揺れ動く光景を何とか見ないようにしたかったので、その要求を受け入れた。
ちなみに、最初の内は視線を横に向けることで視界の外に置くことに成功していたのだが、泉が泣きそうな顔で『何でこっちを見てくれないの……?』と言ってきたので、やむなく正面を向く羽目になってしまっていたのだった。
現状を整理して深々と溜息をつく。
宗太のその溜息を寛ぎの表現と解釈した泉が、
「ほら……、こうした方が良かったでしょ……?」
と、宗太の方を向いて笑顔で言う。泉の言葉に、もう反論しても無駄と悟ったか、
「そうだね」
と宗太も答える。この体勢でも、視線を泉の方に向けるとさっきまで正面でその存在感を示していた物体を、今度は上から覗き込む事になってしまうので、おいそれとは視線を動かせない。
かと言って露骨に視線を逸らせば、その気配を敏感に察してなのか泉が話し掛けてきて、視線を自分に向けさせようとしてくる。
(あー、もうどうすりゃ良いんだよ。て言うか、泉姉さんキャラが違くないか!?)
などと苦悩する宗太の事に気付かぬ風に、
「……ふふっ」
と、唐突に泉が微かに笑い声と思しき吐息を零した。
「何か面白かった?」
今の一連の会話の何処に笑い所があったと言うのか、と言わんばかりに宗太が尋ねる。
「あぁ、違うの……。今のは面白いからじゃなくて……嬉しかったから笑ったの」
「嬉しい?」
「そう。ほら……、私ってこうだから、一枝姉さんや梢ちゃんみたいに宗ちゃんとスキンシップを取る機会なんて今までなかったでしょ?」
泉の思わぬ言葉に、
(あの二人のあれは、そんな好意的なもんじゃないって……)
と、心底そう思う宗太。そんな宗太を他所に泉は言葉を続ける。
「私はそんな二人が羨ましくって……。それで、今日こうやって宗ちゃんと触れ合う事が出来て……」
「それが嬉しい、って?」
「うん……。…………姉さんたちが宗ちゃんとスキンシップを取りたがるのも分かるわ……」
「?……分かる、って何が?」
ただのストレス発散とかじゃないのか、とすぐに思いついたが、そうは口にせず泉に説明を求める。
「宗ちゃんは温かいから……、触れて気持ち良くなりたいのよ、二人とも……」
「……百歩譲って、今までそんな理由であんな事を繰り返してきたと言うんならもっと手段を考えてくれって言いたいよ」
泉の言葉を聞き、思わずそう口走る。
と、泉の体がもぞもぞ動いているのが感じ取れた。何となく嫌な予感がする。
「どうしたの?」
「ん、もうちょっと深く座ろうと思って……」
深く座るという事は背を預けている側に腰を動かすという事で、今泉が背を預けているのは宗太の胸であって、つまりは泉の腰が――。
「ちょっ、泉姉さん!?」
「あっ、宗ちゃん、急に動かないで……」
「泉姉さんも動かないで!!」
「でも……ちょっと疲れちゃったから楽な姿勢をね……」
「でもじゃなくて……っ!」
姉の思わぬ行動にパニックを起こしかける。そこに拍車をかけるように、
「ちょっと泉姉ー?一枝姉に、一人で風呂に入っちゃ駄目って言われてたんじゃ、なか、った、っけ……」
さっきは姿が見えなかった、もう一人の姉である三女・梢が闖入してきた。顔が赤く染まっている所を見ると、やはり外で飲酒をしていたようである。
脱衣所には泉の衣服しか置いてなかったので、宗太もいるこの光景は予想外だったからか、戸を開けてそのままの状態で動きが固まってしまっている。宗太にしてみても、ここで梢が現れるとは思っていなかった為、思考が一旦フリーズしてしまった。
「…………」
「…………」
「……あら。おかえりなさい、梢ちゃん」
梢と宗太が動きを止めるなかで、泉だけがいつも通りの応対をする。
先に復帰したのは梢だった。
「宗太、あんた!」
「ち、違うぞ梢姉さん。梢姉さんが考えているような状況じゃ」
梢の大声に、宗太が反射的に弁明する。しかし梢はそれには耳を貸さずに言葉を続ける。
「私と一緒にお風呂に入ってくれないくせに、泉姉とは一緒に入るってどういうことなの!?」
「そうくるのかよ!って脱ぐなー!」
「あら、梢ちゃんも一緒に入るの……?」
「泉姉が良いって言ったから私も入るもん!!」
「入るもん、じゃない!泉姉さんも変なこと言わないでくれよ!」
「ふふふ、賑やかで良いわねぇ……」
後日、梢の報告を受け、この日宗太が泉に対して取った行動は不在であった長女と四女の耳にも入ることとなった。
それによって、姉妹から宗太へ要求する事柄が増える事となった。
それは、すなわち。
「宗ちゃん。お風呂一緒に入って……」
「宗太ー。お風呂に入るわよ〜」
「お兄ちゃん。一緒にお風呂入ろ?」
「宗太。姉妹の中で扱いに差をつけるなよ。何が言いたいかは……分かるな?」
「勘弁してくれ……」
彼の苦難の日は続く。
それでも長女・一枝や三女・梢の攻撃的なスキンシップ等に比べれば、次女・泉の依存じみた頼り方はまだマシだと考えていた。
その日、珍しく泉が部屋に訪れてきた時も、普段のように部屋の掃除を頼みに来たのだと宗太は思っていたのだが。
「あのね、宗ちゃん……。一緒にお風呂に入って欲しいの……」
と言う泉の言葉を聞いて、『その認識は改める必要があるかもしれない』と、遠のく意識の片隅でそんな思考が掠めていくのは止められなかった。
「…………」
「……宗ちゃん?聞こえた?」
「……ハッ!?」
泉の予想外の要求によって、遥か彼方の海洋で先輩魚の群れと回遊していた宗太の意識が体に戻ってくる。暫し沈黙していたであろう自分の様子を心細げに窺っていた泉に向かって、宗太はとりあえず当たり前の事を進言してみた。
「あのさ、泉姉さん。風呂ぐらい一人では入れるだろ?」
「でもね、宗ちゃん。私この前お風呂の中で寝ちゃったでしょ?あれで、一枝姉さんが怒っちゃって……。『一人で入浴するな。誰かの目の届くような時に入れ』って……」
言われて、その時の騒動を思い出す。一枝に怒鳴られているにも拘らず、『編集さんが追いかけてくる夢見た……』などとずれた事言ってたなぁ、とまで考えてから宗太は反論する。
「だったら別に俺じゃなくても良いじゃないか」
「だって……、今家には宗ちゃんしかいないし……」
「……あー」
しかしその反論も、泉の返答によって一瞬で切り捨てられた。
「そう言えば一枝姉さんは内地に行っちゃってるし、なずなは今日から塾の集中合宿?って言うやつに行ってるんだったっけ……」
加えて、もう一人の姉はちょっと前から姿が見えなくなっていた。またぞろ、何処かへ飲みに行ってしまったのだろう。
ならば今日の所は諦めてくれないか、と宗太は言おうとしたが、泉の生態を考えてその言葉を口にすることを止めた。
この、いつもは部屋に引き篭もり気味の姉が折角風呂に入る気になっているのに、今入浴させなかったらきっとまた暫らくは篭りっきりなるに違いない。
ならば――――。
「まったく。しょうがないなぁ」
「宗ちゃん……、じゃあ?」
溜息を一つついて動き出した宗太を見て、泉の顔が綻ぶ。
「泉姉さんは先にお風呂場に行っててよ。俺は準備してから行くから」
「うん……。ありがとうね、宗ちゃん」
そう言って泉はずりずりと這いながら宗太の部屋を後にした。
泉が部屋を出て行った後、宗太は今着ていた部屋着から濡れても良いような服に着替え、手足を拭くための自分用のタオルを持ってから浴室へと足を運んだ。
脱衣所では、さっきまで泉が着ていた黒を基調とした部屋着には少々不向きな服が脱ぎ散らかされていた。宗太は軽く溜息を一つついてから、まだ温もりが残るそれらを分別して洗濯籠に入れた。
そうして片付け終わった後に、眼鏡を外し、袖と裾を捲り上げてから浴室の戸を叩く。
「泉姉さん、入るよ」
「うん。いいわよ宗ちゃん」
許可を貰ってから戸を開く。その先では、
「じゃあ、よろしくね」
プラスチック製の椅子に座った泉がこちらを向いて待っていた。その体にはタオル一枚巻いておらず、体格に比例してたわわに実った乳房や髪の毛に反比例して申し訳程度にしか生えてない恥毛などが宗太の視界に飛び込んできた。つまりはどこも隠していない状態だった。
想定外の事に宗太の動きが止まる。そんな宗太の方を訝しげに見ながら、泉は言う。
「あら……。どうして服を着ているの……?」
「どうして、はこっちの台詞だ」
姉の余りにピンボケな言動に、もはや溜息すら出ない。
「当たり前だろ。一緒に入る訳ないじゃないか。そんな歳じゃないんだから」
元から入浴の手助けだけをするつもりだ、と言う宗太を珍しく不満げに見やりながら、
「……それなら、頭から洗ってくれる……?」
泉は宗太に自分を洗うようにお願いした。そして、その言葉どおりに宗太に向けて頭を下げる。
どうやら、このまま洗えと言いたいらしい。
宗太は頭痛を堪えるように眉間を押さえた後、諦念を滲ませつつシャワーのヘッドを持って蛇口をひねる。出てきたお湯の温度を確かめてから、泉に声をかけた。
「いくよ、泉姉さん」
「うん、来て……」
了承を得て、上からシャワーを浴びせる。瞬間、泉の体が震えたが、宗太は意に介さずに壁ぎわに置いてあるシャンプー類の入った籠を手繰り寄せる。
一旦シャワーをホルダーに戻し、籠の中からマジックで『泉用』と書かれた、まわりの物より一際大きめの容器のシャンプーを取出す。そしてそれを手の平に出し両手で泡立ててから、その手を泉の頭に乗せた。
指を立て、しゃかしゃかと頭皮を揉み解すように動かす。思いの外、泡立ちが悪い。不審に思った宗太は泉に質問を投げ掛ける。
「あのさ、泉姉さん」
「なぁに?宗ちゃん」
「風呂に入るのはどれくらいぶりなの?」
「そうねぇ……、一週間は入ってなかったかしら……」
締切に追われててそれどころじゃなかったし、と何ともなしに言う姉に、またしても頭痛を覚える。
「まったく……、泉姉さんはどうしてそうなのさ。綺麗なのにもったいない」
泉に限らず小鳥遊家の女性陣は、身内の贔屓目を抜きにしても並以上の容姿であると宗太は思っている。もっとも、その強烈すぎる個性が災いして異性との付き合いが長続きしないわけなのであるが。
そんな事を考えながら手を動かしていると、
「ねぇ、宗ちゃん……」
突然泉が話し掛けてきた。
「何?泉姉さん」
「私、宗ちゃんから見ても綺麗なの?」
「……ごめん、質問の意味がわからないんだけど」
「だって宗ちゃんって、小さくて可愛いものが好きなんでしょう?私は大きいから、宗ちゃんから見たらあんまり良くは見られてないんだって思ってたから」
今の言葉は意外だった、と。
そう言われて宗太は心外だ、と思った。確かに宗太の価値観から言えば、小さいものこそ珠玉だ。だからと言って、審美眼がそこまで偏っているかと言われると、答えはNoだ。
しかし、姉に向かって綺麗だなんて言ってしまったのは、思い返すと確かに恥ずかしいものがある。
なので宗太は泉の言葉に返事をしない代わりに、頭を洗う手の速度を速めた。
「きゃ……、ちょっと宗ちゃん……、強過ぎ……」
泉の弱々しい抗議も黙殺し、頭皮、次いで腰付近まである長い髪まで一気に洗っていく。
「あっ……、宗ちゃん……、もっと優しく……」
暫らくして宗太の腕の動きが止まる。せかせかと腕を動かしていた所為か服のあちこちにシャンプーの泡が飛び散っていたが、本より汚れて良い服を着ていたのでその辺は意に介さずにお湯が出っ放しのシャワーを手に取り、泡塗れの泉の頭を流しにかかる。
シャワーによって、泉の髪から泡と汚れが流れ落ちていく。続いて、籠からコンデショナーを手に取り、今度はさっきよりもゆっくりとした手つきで髪に指を通していく。
「はぁぁ…………。上手ねぇ、宗ちゃん。他の誰かにもこんなことしてるのかしら……?」
「そんな訳あるか。つーか泉姉さん、少し口を閉じててくれないかなぁ」
「あら……、どうして?」
ぐ、と言葉に詰まる。
流石に面と向かって、漏れ聞こえてくる口調が妙に艶かしいから、とは言えない。
(梢姉さんにだったら言えるだろうけど)
そもそも梢とだったら一緒に風呂に入るというシチュエーション自体が発生しないと思われるのだが、そこには気付かないでおく。
などとやっている内に、頭髪の洗浄は完了した。
したのだが。
一向に泉に動く気配が見られない。
「どうしたの?」
「……か、髪が重いの……」
どうやら髪が水を含みすぎて重くなっているらしい。流石にこれには呆れてしまった。
「いつもはどうしてるんだよ」
「変ねぇ……。徹夜続きで体力が落ちているのかしら……。宗ちゃん、髪の毛を纏めてもらえる?」
「いや、それは流石にやり方がわからないんだけど」
「大丈夫、やり方は教えてあげるから……。タオルを一枚持ってきてちょうだい……」
言われるままに脱衣所からタオルを持ってきて、泉の言うとおりに髪の毛を纏め上げる。その際に、髪で隠れていたあちらこちらが露わになるたびに、宗太は視線のやり場に困る事になった。
「ふぅ……。ありがとうね、宗ちゃん」
泉の主観では満面の、傍から見れば儚げと称した方がしっくり来る笑顔で礼を言う。椅子に座ったままなので顔を合わせていると全部見えてしまうため、宗太は視線を横に逸らし、
「もう手助けはいらないだろ?」
姉に退室の許可を求めた。
「え……、体がまだよ……?」
「体くらいは自分で洗ってよ……」
逆に小首を傾げてとんでもない事を要求してきたので、天を仰いでその要求を突っぱねる。
「……そうね。残念だけど、今日はもういいわ。ありがとうね……」
再び謝辞を述べて、浴槽の縁に手をかけて立ち上がろうとする泉。しかし、次の瞬間、
「あっ……?」
重心が上に来てしまった為か、立ち上がった途端に泉の体のバランスが崩れてしまった。そして引力の導くまま頭から浴槽の中へと――。
「危ない!!」
そうはさせじと宗太の腕が伸びて、泉の頭と腰を抱え込む。平時であればこのまま転倒を防ぐ事が出来たであろうが、今回は場が悪かった。
先程流したシャンプーの泡が足元にまだ幾許か残っていた所為で宗太自身も踏ん張りが利かなくなり、結果。
「うわっ……!」
「きゃ……」
二人まとめて浴槽の中に飛び込んでしまった。
※ ※ ※
どうしてこうなってしまったのか。
先刻から宗太の脳裏を同じ言葉がリフレインしている。
浴槽に落ちた二人だったが、幸いどこも怪我をしておらず大事にはならずに済んだ。
その後、濡れたまま浴室を退出しようとした宗太を泉が呼び止めた。
『宗ちゃん?濡れたままでどこに行くの……?』
『いや、出るんだけど』
『駄目よ……。そのままじゃ風邪をひいちゃうわ……』
『大丈夫だって。すぐタオルで拭けば問題ないから』
『それでも体は冷えちゃうわ。……そうだわ。宗ちゃんもお湯に浸かって温まればいいのよ』
『いやいやいや。それはちょっとおかしくないか泉姉さん』
『でも……そうしないと宗ちゃんが風邪ひいちゃう……』
『いや、だから』
『ね……?』
『…………』
この会話中、泉はずっと宗太の服を掴んで放さなかった。あの細い体の何処に、と思えるくらいの力で掴む泉の姿に、この場で押し問答を繰り広げると最悪二人とも、良くても泉が確実に風邪をひくであろう事が容易く予見できたので、宗太は渋々折れた。
そして今。
宗太の濡れた服は浴室の片隅で丸められており、その中身である宗太自身は浴槽にどっぷりと浸かっている。そして泉はと言うと。
「温かいわねぇ、宗ちゃん」
宗太の胸に背を預け、右肩に頭を乗せて同じく浴槽の中で寛いでいた。
(本当にどうしてこうなったんだか)
最初の内はお互いに向かい合って浴槽に浸かっていたのだが、纏めた髪の所為で頭があっちこっちにゆらゆらと揺れる度、壁や縁にぶつかりそうになるので、泉が宗太にこうするよう頼んだのだ。
宗太としても、その都度水面付近を漂う双丘も頭の動きに同調して揺れ動く光景を何とか見ないようにしたかったので、その要求を受け入れた。
ちなみに、最初の内は視線を横に向けることで視界の外に置くことに成功していたのだが、泉が泣きそうな顔で『何でこっちを見てくれないの……?』と言ってきたので、やむなく正面を向く羽目になってしまっていたのだった。
現状を整理して深々と溜息をつく。
宗太のその溜息を寛ぎの表現と解釈した泉が、
「ほら……、こうした方が良かったでしょ……?」
と、宗太の方を向いて笑顔で言う。泉の言葉に、もう反論しても無駄と悟ったか、
「そうだね」
と宗太も答える。この体勢でも、視線を泉の方に向けるとさっきまで正面でその存在感を示していた物体を、今度は上から覗き込む事になってしまうので、おいそれとは視線を動かせない。
かと言って露骨に視線を逸らせば、その気配を敏感に察してなのか泉が話し掛けてきて、視線を自分に向けさせようとしてくる。
(あー、もうどうすりゃ良いんだよ。て言うか、泉姉さんキャラが違くないか!?)
などと苦悩する宗太の事に気付かぬ風に、
「……ふふっ」
と、唐突に泉が微かに笑い声と思しき吐息を零した。
「何か面白かった?」
今の一連の会話の何処に笑い所があったと言うのか、と言わんばかりに宗太が尋ねる。
「あぁ、違うの……。今のは面白いからじゃなくて……嬉しかったから笑ったの」
「嬉しい?」
「そう。ほら……、私ってこうだから、一枝姉さんや梢ちゃんみたいに宗ちゃんとスキンシップを取る機会なんて今までなかったでしょ?」
泉の思わぬ言葉に、
(あの二人のあれは、そんな好意的なもんじゃないって……)
と、心底そう思う宗太。そんな宗太を他所に泉は言葉を続ける。
「私はそんな二人が羨ましくって……。それで、今日こうやって宗ちゃんと触れ合う事が出来て……」
「それが嬉しい、って?」
「うん……。…………姉さんたちが宗ちゃんとスキンシップを取りたがるのも分かるわ……」
「?……分かる、って何が?」
ただのストレス発散とかじゃないのか、とすぐに思いついたが、そうは口にせず泉に説明を求める。
「宗ちゃんは温かいから……、触れて気持ち良くなりたいのよ、二人とも……」
「……百歩譲って、今までそんな理由であんな事を繰り返してきたと言うんならもっと手段を考えてくれって言いたいよ」
泉の言葉を聞き、思わずそう口走る。
と、泉の体がもぞもぞ動いているのが感じ取れた。何となく嫌な予感がする。
「どうしたの?」
「ん、もうちょっと深く座ろうと思って……」
深く座るという事は背を預けている側に腰を動かすという事で、今泉が背を預けているのは宗太の胸であって、つまりは泉の腰が――。
「ちょっ、泉姉さん!?」
「あっ、宗ちゃん、急に動かないで……」
「泉姉さんも動かないで!!」
「でも……ちょっと疲れちゃったから楽な姿勢をね……」
「でもじゃなくて……っ!」
姉の思わぬ行動にパニックを起こしかける。そこに拍車をかけるように、
「ちょっと泉姉ー?一枝姉に、一人で風呂に入っちゃ駄目って言われてたんじゃ、なか、った、っけ……」
さっきは姿が見えなかった、もう一人の姉である三女・梢が闖入してきた。顔が赤く染まっている所を見ると、やはり外で飲酒をしていたようである。
脱衣所には泉の衣服しか置いてなかったので、宗太もいるこの光景は予想外だったからか、戸を開けてそのままの状態で動きが固まってしまっている。宗太にしてみても、ここで梢が現れるとは思っていなかった為、思考が一旦フリーズしてしまった。
「…………」
「…………」
「……あら。おかえりなさい、梢ちゃん」
梢と宗太が動きを止めるなかで、泉だけがいつも通りの応対をする。
先に復帰したのは梢だった。
「宗太、あんた!」
「ち、違うぞ梢姉さん。梢姉さんが考えているような状況じゃ」
梢の大声に、宗太が反射的に弁明する。しかし梢はそれには耳を貸さずに言葉を続ける。
「私と一緒にお風呂に入ってくれないくせに、泉姉とは一緒に入るってどういうことなの!?」
「そうくるのかよ!って脱ぐなー!」
「あら、梢ちゃんも一緒に入るの……?」
「泉姉が良いって言ったから私も入るもん!!」
「入るもん、じゃない!泉姉さんも変なこと言わないでくれよ!」
「ふふふ、賑やかで良いわねぇ……」
後日、梢の報告を受け、この日宗太が泉に対して取った行動は不在であった長女と四女の耳にも入ることとなった。
それによって、姉妹から宗太へ要求する事柄が増える事となった。
それは、すなわち。
「宗ちゃん。お風呂一緒に入って……」
「宗太ー。お風呂に入るわよ〜」
「お兄ちゃん。一緒にお風呂入ろ?」
「宗太。姉妹の中で扱いに差をつけるなよ。何が言いたいかは……分かるな?」
「勘弁してくれ……」
彼の苦難の日は続く。
2007年03月23日(金) 01:36:26 Modified by kakakagefun