少し未来の話
「いらっしゃいませ!」
満面の笑み、とまではいかないが、はにかむ程度に微笑んでテーブルのお客様に声を掛ける。
男のお客様、三人。年は、見た感じ近い。
以前なら、それこそ接客云々の前に殴っていただろう。しかし、今は違う。深呼吸して、気持ちを落ち着けて、心構えをきちんとしてからなら、こうやって接客も可能になった。
女性相手ほど満足な接客ではないけれど、それでも次第点だ。
距離は、女性相手より一歩分だけ下がった状態で、お冷やを出す。
注文はすぐ決まり、戻ろうとする前に、お客様の一人に声を掛けられる。
なんだろう。まさか、無意識ながらまだ顔が強張っていたか。
しかし、そうではなかった。どこか緊張した様子で、口ごもりながら、いつもありがとう、と言ってくれた。
その言葉に、嬉しくなる。男性恐怖症で、まともな接客もできなかった自分が、今ではお礼を言われるなんて。
これも、すべて――。
一瞬、その人を視界の端に探しながら、男の人相手には精一杯の微笑みを浮かべて、お客様に向き直る。
「こちらこそ、ありがとうございます」
伊波まひる、十七才。
男性恐怖症は、飛躍的改善の一途を辿っていた。
バイトを終え、制服に着替えながら伊波は微笑む。それは嬉しそうに。
あのお客様は、料理を運んだ時も、精算の時も、伊波に礼を言ってくれた。律儀な人だ。
でもなにより嬉しかったのは、また来るという一言だった。
病気が治ってきたから、接客ができる。まともな接客だから、お客様もまた来てくれる。なんて嬉しいスパイラルだろう。
だけど、何より嬉しいのは――。
着替え終わり、鞄を持ってスタッフ専用の出入り口に向かう。
途中、他のスタッフに挨拶をして、そうして。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「…いえ、構いませんよ」
待ち合わせをしていた小鳥遊は一足先に着替え終わっていたようで、伊波が謝ると間があったものの気にしてないと返される。流石は女系一家、唯一の男手。
どちらからともなく歩きだしながら、手をつなぐ――までは、やはりいかない。対面したまま会話はできても、気安く触れ合えるほどには、病気は治っていなかった。
長い間伊波を悩ませてきた、男性恐怖症。老若問わず、果ては無機物にまで拳を向けてしまう程重症だったそれに、小鳥遊は辛抱強く付き合ってくれた。
そう、付き合う。
病気にだけじゃなく、伊波個人に、同情じゃない、恋情として。
両思いだと発覚した時の事を思い出すと、それだけで気絶しそうになる。今も、顔が熱くて堪らない。
伊波は、小鳥遊の服の袖を控え目につまんで歩く。万が一指が触れてしまわない様に、慎重に。
本当は、触れたいけれど。でも、我慢。
袖を、その先の手をじっと見つめていると、不意に小鳥遊が口を開いた。
「伊波さん、随分ご機嫌ですね」
「え、分かる?」
小鳥遊の言葉に、伊波はぱっと表情を明るくする。
実はね、今日ね、と先程のお客様の事を話した。この喜びを分かち合いたくて。みんな、小鳥遊のおかげだと。
しかし。
話し終えると、小鳥遊はむっつり黙り込んでしまった。ぴりぴりしているのが見て分かる。
今の話に、怒らせる要素はあっただろうか。ひょっとして、伊波が気付かなかっただけで接客に問題があって、それを見ていたのだろうか。
少し前の幸せだった気持ちが急速に萎む。じわりと涙が込み上げてきて、慌てて道路に視線を落とす。泣きそうだと、気付かれたくない。
「…………です」
「、え?」
聞き逃してしまった。
顔を上げると、小鳥遊は睨む様な眼差しで、伊波を見つめていた。
やっぱり、怒ってる…。
堪えていた涙が浮かぶ。ごめんね、そう言う前に、小鳥遊の手が伊波の手を掴んだ。
すぐさま反対の手で殴りそうになるが、抱きしめられてそれも敵わなくなる。
今度は別の意味で泣きそうだった。気絶こそしないものの、心臓はどきどきするし顔は熱いし、言葉が出てこない。離れようにも、片手は掴まれ、もう片手は背中に回されてしまった。
「伊波さん、しばらく男の接客はやめませんか?」
「な、なんで…っ」
せっかく、接客できるようになってきたのに。
なにより、接客をする事で男性に慣れ、治療の向上にも繋がると提案したのは、小鳥遊なのに。
顔を見ようにも、しっかり密着しているのでそれどころではない。
分かるのは、小鳥遊は伊波がすっかり納まる程、しっかりした体格で男の人の体なんだという事くらい。
「他の男に、笑わないでほしいんです」
言って、離れると、頬を両手で挟み、そのままキスをした。
真っ正面からの、手どころか唇での触れ合い、ヤキモチの告白に。
伊波は、全身を茹でダコの様に赤くしながら、気絶した。
こんな状態の伊波を放っておける筈もなく、しかし伊波家に送る訳にもいかず。
小鳥遊は自分の家に運び、お姫様抱っこを姉妹にからかわれ、更にどうやってか撮影したキスと抱っこの写真を相馬に見せられ、それを見てしまった伊波は羞恥の限界から久々に相馬を叩きのめした。
そうして、しばらくの間。伊波は他のスタッフに不思議そうな顔をされながらも、男性相手の接客を控えたのだった。
満面の笑み、とまではいかないが、はにかむ程度に微笑んでテーブルのお客様に声を掛ける。
男のお客様、三人。年は、見た感じ近い。
以前なら、それこそ接客云々の前に殴っていただろう。しかし、今は違う。深呼吸して、気持ちを落ち着けて、心構えをきちんとしてからなら、こうやって接客も可能になった。
女性相手ほど満足な接客ではないけれど、それでも次第点だ。
距離は、女性相手より一歩分だけ下がった状態で、お冷やを出す。
注文はすぐ決まり、戻ろうとする前に、お客様の一人に声を掛けられる。
なんだろう。まさか、無意識ながらまだ顔が強張っていたか。
しかし、そうではなかった。どこか緊張した様子で、口ごもりながら、いつもありがとう、と言ってくれた。
その言葉に、嬉しくなる。男性恐怖症で、まともな接客もできなかった自分が、今ではお礼を言われるなんて。
これも、すべて――。
一瞬、その人を視界の端に探しながら、男の人相手には精一杯の微笑みを浮かべて、お客様に向き直る。
「こちらこそ、ありがとうございます」
伊波まひる、十七才。
男性恐怖症は、飛躍的改善の一途を辿っていた。
バイトを終え、制服に着替えながら伊波は微笑む。それは嬉しそうに。
あのお客様は、料理を運んだ時も、精算の時も、伊波に礼を言ってくれた。律儀な人だ。
でもなにより嬉しかったのは、また来るという一言だった。
病気が治ってきたから、接客ができる。まともな接客だから、お客様もまた来てくれる。なんて嬉しいスパイラルだろう。
だけど、何より嬉しいのは――。
着替え終わり、鞄を持ってスタッフ専用の出入り口に向かう。
途中、他のスタッフに挨拶をして、そうして。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「…いえ、構いませんよ」
待ち合わせをしていた小鳥遊は一足先に着替え終わっていたようで、伊波が謝ると間があったものの気にしてないと返される。流石は女系一家、唯一の男手。
どちらからともなく歩きだしながら、手をつなぐ――までは、やはりいかない。対面したまま会話はできても、気安く触れ合えるほどには、病気は治っていなかった。
長い間伊波を悩ませてきた、男性恐怖症。老若問わず、果ては無機物にまで拳を向けてしまう程重症だったそれに、小鳥遊は辛抱強く付き合ってくれた。
そう、付き合う。
病気にだけじゃなく、伊波個人に、同情じゃない、恋情として。
両思いだと発覚した時の事を思い出すと、それだけで気絶しそうになる。今も、顔が熱くて堪らない。
伊波は、小鳥遊の服の袖を控え目につまんで歩く。万が一指が触れてしまわない様に、慎重に。
本当は、触れたいけれど。でも、我慢。
袖を、その先の手をじっと見つめていると、不意に小鳥遊が口を開いた。
「伊波さん、随分ご機嫌ですね」
「え、分かる?」
小鳥遊の言葉に、伊波はぱっと表情を明るくする。
実はね、今日ね、と先程のお客様の事を話した。この喜びを分かち合いたくて。みんな、小鳥遊のおかげだと。
しかし。
話し終えると、小鳥遊はむっつり黙り込んでしまった。ぴりぴりしているのが見て分かる。
今の話に、怒らせる要素はあっただろうか。ひょっとして、伊波が気付かなかっただけで接客に問題があって、それを見ていたのだろうか。
少し前の幸せだった気持ちが急速に萎む。じわりと涙が込み上げてきて、慌てて道路に視線を落とす。泣きそうだと、気付かれたくない。
「…………です」
「、え?」
聞き逃してしまった。
顔を上げると、小鳥遊は睨む様な眼差しで、伊波を見つめていた。
やっぱり、怒ってる…。
堪えていた涙が浮かぶ。ごめんね、そう言う前に、小鳥遊の手が伊波の手を掴んだ。
すぐさま反対の手で殴りそうになるが、抱きしめられてそれも敵わなくなる。
今度は別の意味で泣きそうだった。気絶こそしないものの、心臓はどきどきするし顔は熱いし、言葉が出てこない。離れようにも、片手は掴まれ、もう片手は背中に回されてしまった。
「伊波さん、しばらく男の接客はやめませんか?」
「な、なんで…っ」
せっかく、接客できるようになってきたのに。
なにより、接客をする事で男性に慣れ、治療の向上にも繋がると提案したのは、小鳥遊なのに。
顔を見ようにも、しっかり密着しているのでそれどころではない。
分かるのは、小鳥遊は伊波がすっかり納まる程、しっかりした体格で男の人の体なんだという事くらい。
「他の男に、笑わないでほしいんです」
言って、離れると、頬を両手で挟み、そのままキスをした。
真っ正面からの、手どころか唇での触れ合い、ヤキモチの告白に。
伊波は、全身を茹でダコの様に赤くしながら、気絶した。
こんな状態の伊波を放っておける筈もなく、しかし伊波家に送る訳にもいかず。
小鳥遊は自分の家に運び、お姫様抱っこを姉妹にからかわれ、更にどうやってか撮影したキスと抱っこの写真を相馬に見せられ、それを見てしまった伊波は羞恥の限界から久々に相馬を叩きのめした。
そうして、しばらくの間。伊波は他のスタッフに不思議そうな顔をされながらも、男性相手の接客を控えたのだった。
2010年06月05日(土) 00:35:34 Modified by kakakagefun