二日酔いの朝に
いつもの気だるい朝、見慣れた室内に異変があった。
自分の見ている光景が信じられず、佐藤は半ば呆然と己の頬を引っ張った。
「む」
痛い。しかしこれは誰がなんと言おうと絶対に夢だ。
佐藤は頑固に現実逃避をはかった。
「ん……」
逃げたい現実そのものである張本人が寝返りをうった。床が固くて寝苦しいのか、少し苦しそうだ。
佐藤の思いをよそに、彼女は悪戯でも仕掛けたくなるような無防備さだった。
八千代は私服を着たまま、佐藤の隣で横になっている。ブランケットをめくると、下の着衣にも乱れはないようだ。強いて言えば、スカートがめくれて脚が見えているくらいか。
触れたら柔らかそうだな、と邪な感情が首をもたげてきて、佐藤は慌ててブランケットから飛び出した。
八千代から出来る限り距離を取ってから、佐藤はため息をついた。
――なぜ八千代が俺の部屋で眠っているんだ。
しかも隣で。床で。
佐藤は昨夜からの記憶を脳内検索した。バンド仲間達と飲んでいたのは覚えている。
帰る途中、バイトを終えてた相馬と出会った。既に酔っていたこともあって、相馬の口八丁に流され二人で軽く飲み直した。
「……」
そこから記憶がない。
佐藤は頭を抱えた。多分、いや間違いなく相馬だ。今のこの状況は奴が作り出した罠に違いない。
動揺する佐藤の姿にほくそ笑みながら、一眼レフを構え、シャッターチャンスを狙っている相馬がどこかにいる。と佐藤は決めつけた。
悪の同僚は面白さ追求の為になら何でもやるとはいえ、洒落にならないことはしない。基本的には世話好きで優しいのが相馬だ。だが何故だろう、信じきれない何かがあの男にはあった。
おそらく八千代は相馬に呼び出されて、酔った佐藤を介抱するように頼まれたのだろう。それでこの状況になるのは謎だが、そこは相馬が上手く誘導したのだと佐藤は思った。
このアホ娘を騙すのは鳥が空を飛ぶより簡単だ。
冷静になればカラクリは解ける。感覚からいっても八千代とは何事もなかった。ここまで考えると、佐藤は現実を受け入れた。
煙草はないかと見回すと、八千代の腕の中にそれを発見し、佐藤は短く舌打ちをした。理由は分からないが、彼女は大事そうに煙草の箱を抱えこんでいる。
こんなことになったのは相馬のせいだ。八千代に煙草を奪われたのも奴が悪い。お節介め。理不尽に相馬を責め立てながら、佐藤は脱力して壁に寄りかかった。
こうして佐藤が動揺するのも、正しい現実を導き出し落胆するのも、相馬にはお見通しだと思われた。
「う……ん」
「……わざとかコラ」
八千代は夢を見ているのだろうか、身動ぎをしては艶めかしい吐息をもらす。その度に佐藤は息を飲み、それから渋面になった。彼女の見ている夢はたやすく想像がつく。
どうせあの店長の夢だろう。雛に餌を運ぶ親鳥のように、せっせと飯を食わしているのが眼に浮かぶようだ。そこに佐藤の入り込む余地はない。
この後の予定は決まりきっていた。
幸福な夢から目を覚ました彼女はけろりとしながら、佐藤の具合でも尋ねる。二日酔いで気分が悪いだけだといえば、八千代は安心して帰る。
後ろ姿を見送りながら、佐藤は虚しい気分に襲われるに違いない。
それなのに佐藤は八千代から目が離せないでいた。
腕を伸ばせば届きそうな位置に、八千代は少しまるまった姿勢で眠っている。口元に軽く握られた指が押し付けられていて、時折ぴくりと動いていた。
寝乱れた長い髪を引っ張って、お前はアホか、いやアホだったな。俺は男だぞ、このバカ! 鳥! と怒鳴りつけてやりたい。
そしてとっとと、この悪夢のような状況から抜け出したい、と佐藤はやや荒んだ気持ちになった。
八千代を包むブランケットからは、たおやかな曲線を描く肩から足の先まで、女らしい身体のラインが見てとれて、居たたまれない。先程見たばかりの白い脚がちらちらと頭に過ぎる。
「八千代」
起きろと密やかに呼びかける。
しかし返ってくるのはかすかな寝息ばかりで、八千代が目を覚ます気配はない。
顔の前で掌をハの字に構え、佐藤は慎重に声をかけた。
「……朝だぞー起きろー」
いいや、いつまでも目を覚ますな。そのまま寝ていろ。起きるな、起きるなよ……。
呼びかける言葉とは裏腹に、佐藤は懸命に願っていた。
嫌な汗をかいて、鼓動が早いのが分かる。心の中までポーカーフェイスというわけにはいかない。動揺を誘うのはいつも八千代だ。そう思うと佐藤は妙に悔しい。
素直に認めるならば、自室に八千代がいるのはまぁまぁだった。胸の中に暖かいものが広がって、ちりちり切ない幸せを感じる。そこだけは相馬に感謝したい。
だがこれでは何もできないし、ただ寝顔をみているだけの生殺しでしかない。空腹なのに、好物を目の前にして味見すらできないとは。
「野郎、覚えてろ」
相馬への復讐を呟くと、八千代が何事かを返した。目覚めが近いのかもしれない。のん気な寝顔がいっそ憎らしい。
つねってやろうか。佐藤は不貞腐れながら考えた。つねれば八千代はたちまち目を覚ますし、起こせば多少楽になれる。
ならばつねってしまえ。
それは駄目だ。
つねろ派と眠らせておけ派の争いは膠着して、結論は永久に出そうにない。八千代が自然に目覚めるまで、佐藤は部屋の片隅でじっと固まっているだろう。
二日酔いの所為ばかりとは言えない。佐藤は朝から頭痛がしてきた。
自分の見ている光景が信じられず、佐藤は半ば呆然と己の頬を引っ張った。
「む」
痛い。しかしこれは誰がなんと言おうと絶対に夢だ。
佐藤は頑固に現実逃避をはかった。
「ん……」
逃げたい現実そのものである張本人が寝返りをうった。床が固くて寝苦しいのか、少し苦しそうだ。
佐藤の思いをよそに、彼女は悪戯でも仕掛けたくなるような無防備さだった。
八千代は私服を着たまま、佐藤の隣で横になっている。ブランケットをめくると、下の着衣にも乱れはないようだ。強いて言えば、スカートがめくれて脚が見えているくらいか。
触れたら柔らかそうだな、と邪な感情が首をもたげてきて、佐藤は慌ててブランケットから飛び出した。
八千代から出来る限り距離を取ってから、佐藤はため息をついた。
――なぜ八千代が俺の部屋で眠っているんだ。
しかも隣で。床で。
佐藤は昨夜からの記憶を脳内検索した。バンド仲間達と飲んでいたのは覚えている。
帰る途中、バイトを終えてた相馬と出会った。既に酔っていたこともあって、相馬の口八丁に流され二人で軽く飲み直した。
「……」
そこから記憶がない。
佐藤は頭を抱えた。多分、いや間違いなく相馬だ。今のこの状況は奴が作り出した罠に違いない。
動揺する佐藤の姿にほくそ笑みながら、一眼レフを構え、シャッターチャンスを狙っている相馬がどこかにいる。と佐藤は決めつけた。
悪の同僚は面白さ追求の為になら何でもやるとはいえ、洒落にならないことはしない。基本的には世話好きで優しいのが相馬だ。だが何故だろう、信じきれない何かがあの男にはあった。
おそらく八千代は相馬に呼び出されて、酔った佐藤を介抱するように頼まれたのだろう。それでこの状況になるのは謎だが、そこは相馬が上手く誘導したのだと佐藤は思った。
このアホ娘を騙すのは鳥が空を飛ぶより簡単だ。
冷静になればカラクリは解ける。感覚からいっても八千代とは何事もなかった。ここまで考えると、佐藤は現実を受け入れた。
煙草はないかと見回すと、八千代の腕の中にそれを発見し、佐藤は短く舌打ちをした。理由は分からないが、彼女は大事そうに煙草の箱を抱えこんでいる。
こんなことになったのは相馬のせいだ。八千代に煙草を奪われたのも奴が悪い。お節介め。理不尽に相馬を責め立てながら、佐藤は脱力して壁に寄りかかった。
こうして佐藤が動揺するのも、正しい現実を導き出し落胆するのも、相馬にはお見通しだと思われた。
「う……ん」
「……わざとかコラ」
八千代は夢を見ているのだろうか、身動ぎをしては艶めかしい吐息をもらす。その度に佐藤は息を飲み、それから渋面になった。彼女の見ている夢はたやすく想像がつく。
どうせあの店長の夢だろう。雛に餌を運ぶ親鳥のように、せっせと飯を食わしているのが眼に浮かぶようだ。そこに佐藤の入り込む余地はない。
この後の予定は決まりきっていた。
幸福な夢から目を覚ました彼女はけろりとしながら、佐藤の具合でも尋ねる。二日酔いで気分が悪いだけだといえば、八千代は安心して帰る。
後ろ姿を見送りながら、佐藤は虚しい気分に襲われるに違いない。
それなのに佐藤は八千代から目が離せないでいた。
腕を伸ばせば届きそうな位置に、八千代は少しまるまった姿勢で眠っている。口元に軽く握られた指が押し付けられていて、時折ぴくりと動いていた。
寝乱れた長い髪を引っ張って、お前はアホか、いやアホだったな。俺は男だぞ、このバカ! 鳥! と怒鳴りつけてやりたい。
そしてとっとと、この悪夢のような状況から抜け出したい、と佐藤はやや荒んだ気持ちになった。
八千代を包むブランケットからは、たおやかな曲線を描く肩から足の先まで、女らしい身体のラインが見てとれて、居たたまれない。先程見たばかりの白い脚がちらちらと頭に過ぎる。
「八千代」
起きろと密やかに呼びかける。
しかし返ってくるのはかすかな寝息ばかりで、八千代が目を覚ます気配はない。
顔の前で掌をハの字に構え、佐藤は慎重に声をかけた。
「……朝だぞー起きろー」
いいや、いつまでも目を覚ますな。そのまま寝ていろ。起きるな、起きるなよ……。
呼びかける言葉とは裏腹に、佐藤は懸命に願っていた。
嫌な汗をかいて、鼓動が早いのが分かる。心の中までポーカーフェイスというわけにはいかない。動揺を誘うのはいつも八千代だ。そう思うと佐藤は妙に悔しい。
素直に認めるならば、自室に八千代がいるのはまぁまぁだった。胸の中に暖かいものが広がって、ちりちり切ない幸せを感じる。そこだけは相馬に感謝したい。
だがこれでは何もできないし、ただ寝顔をみているだけの生殺しでしかない。空腹なのに、好物を目の前にして味見すらできないとは。
「野郎、覚えてろ」
相馬への復讐を呟くと、八千代が何事かを返した。目覚めが近いのかもしれない。のん気な寝顔がいっそ憎らしい。
つねってやろうか。佐藤は不貞腐れながら考えた。つねれば八千代はたちまち目を覚ますし、起こせば多少楽になれる。
ならばつねってしまえ。
それは駄目だ。
つねろ派と眠らせておけ派の争いは膠着して、結論は永久に出そうにない。八千代が自然に目覚めるまで、佐藤は部屋の片隅でじっと固まっているだろう。
二日酔いの所為ばかりとは言えない。佐藤は朝から頭痛がしてきた。
2010年06月05日(土) 00:36:35 Modified by kakakagefun