最終更新: nano69_264 2012年02月06日(月) 22:18:20履歴
954 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:41:38 ID:.G9uKuaY [2/16]
955 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:42:22 ID:.G9uKuaY [3/16]
956 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:42:55 ID:.G9uKuaY [4/16]
957 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:43:36 ID:.G9uKuaY [5/16]
958 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:44:16 ID:.G9uKuaY [6/16]
959 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:44:48 ID:.G9uKuaY [7/16]
960 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:45:19 ID:.G9uKuaY [8/16]
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962 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:46:29 ID:.G9uKuaY [10/16]
963 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:46:59 ID:.G9uKuaY [11/16]
964 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:47:33 ID:.G9uKuaY [12/16]
965 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:48:05 ID:.G9uKuaY [13/16]
966 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:48:38 ID:.G9uKuaY [14/16]
967 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:49:14 ID:.G9uKuaY [15/16]
コージの学校生活は、中三の四月で終わってしまった。
いずれはそうなるという予感はあったのだ。早かれ遅かれ、そうなるだろうと。
自分は虐めの対象だという自覚もあった。それでも辛うじて友人はいた。学校にも逃げ場はあった。
ある事件で、コージの家庭が崩壊するまでは。
コージは一人、家を出て街を歩く。
学校へ行くわけではない。行く当てなど無い。ふらふらと歩き、昼食は適当に買う。金だけはある。
朝起きると、ダイニングのテーブルの上にお金が置いてあるのだ。コージはそれを取ると、家を出る。
この数日、父母の姿は見ていない。
部屋の様子を見ている限り、母は一応深夜には帰ってきているようだ。父は四月が終わる前に何処かへ行ってしまった。
そのまま家にいても良いのだが、気が滅入るだけなので家を出る。
そして学校に、既にコージの居場所はない。
だから、彼は一人で街を歩く。
もしも学校へ行けば、コージは格好の標的だろう。
誰もが認める、暇つぶしに虐める相手として。
「手抜き工事」
「欠陥工事」
それが今の彼の渾名。皆が彼をそう呼ぶ。
三月までは、ただの「コージ」と呼ばれていたはずなのに。
四月の事件以来、皆は彼を「テヌキコージ」「ケッカンコージ」と呼ぶ。
そしてコージは今日も、いつもと同じように一人で図書館へ入る。
いつもと同じように、彼女に会う。
「また、来たんや?」
「うん。ここが一番静かだから」
「そやね」
街を歩いていたコージは、車椅子の女の子と知り合いになった。
女の子は、コージのことを知らない。
コージも、女の子のことを知らない。
だから二人は、友達になった。
名前だけは知っている。
彼女の名は八神はやて。
「なんでコージ君は、学校行かへんの?」
「はやてちゃんだって、行ってないじゃないか」
「あたしは、足がこれやから……」
自分よりマシだ。とはコージは言わない。
他人には他人の事情がある。
人の事情に安易に口を出してはいけない。コージはそう教えられている。
「僕が学校へ行かないのは、虐めがひどくなったからだよ」
コージはそれを口にしない。
「なんで、虐められてるん?」
そう聞かれるなら、答えることは出来る。
理由はいじめっ子達に聞いてくれ、と。
「何で虐めが酷くなったん?」
それには答えられない。いや、答えたくない。
父が、ビルを造った責任者だったから。
あの日、突然亀裂が入って壊れてしまったビルを造った人だから。
そのビルの中には、人が沢山いたから。
「あり得ない。なんで、あんなことが……」
父の呟きは、まさに当を得ていた。
それは、起こるはずのない事故だったのだ。
ジュエルシードさえ海鳴に落ちなければ。
二人の魔法少女の戦いの舞台とならなければ。
高町なのはのせいではない。
フェイト・テスタロッサのせいでもない。
二人は、誰一人殺していないのだ。
確かに二人の行動で町は破壊された部分がある。
それでも、誰も死んでいない。
二人の行動では誰も死んでいないのだ。
ただ、たまたま別の理由で死んだ者がいるだけ。
道路が割れた。
ビルが壊れた。
何故割れた、何故壊れた。
あり得ない。
ならば、手抜き工事に違いない。欠陥工事に違いない。
責任者は必要だ。スケープゴートは必要だ。
ついでに、死んだ者に対する責任も取らせよう。
自然死? 別原因? 犯罪?
否。
ビルの欠陥が直接の死因だ。罪など押し付けてしまえ。
遺族に責任など無い。加害者などいない。
放置などしていない。殴打などしていない。
無責任な遺族などいない。逆上した知り合いなどいない。
そこにいるのは、欠陥建築、手抜き工事によって家族や知り合いを殺された不幸な被害者達だけ。
それで全て丸く収まるではないか。
ならば、一部の者が犠牲になればいい。どうせ、手抜き工事は事実なのだ。ビルが壊れたのは現実なのだ。
「どう考えても、あり得ないんだ」
「あれは事故じゃない。手抜き工事でもない」
「何かの、誰かの仕業ですよ」
関係者は皆そう言った。
直接工事に関わった者達はそう言った。
だが――
「木があったんだ。でかい木が」
「そんなもの、誰が見たんだよ」
「あったんだよ、俺は見たんだよ」
「医者行ってこい」
「ふざけんな、俺は見たって言ってんだろうが」
「……ありゃ集団幻覚だよ、ある種のガスが検知されたそうだ」
「それこそふざけんなだろ、ガスなんか吸ってないだろう、あんたも俺も!」
「吸ったんだよ」
「吸ってないっ!」
「上が吸ったって言ってんだ。吸ってなきゃ、労災も保険も見舞金も一切おりねえぞ、ついでに仕事もクビだ。それでいいんだな?」
それが全てだった。
彼らが見たものは、見てはいけなかったもの。
そこに何があったかを決めるのは、そこにいた彼らではなくて、そこにいなかった人々だということ。
何故そうなるのか、コージにはわからない。
やがてコージの父を信じる者はいなくなった。
コージの家には塀がある。
「殺人ビル建設業」
「金も命も取ります」
「欠陥ビルなら我が社にお任せ」
そんな落書きだらけの塀が。
そんな落書きをする人たちが、父を信じるわけがない。それはコージにもわかる。
だから、はやても父を信じないかも知れない。
だから、コージは虐めに荷担する相手が増えた理由を話せない。
だから、逃げ場所が無くなった理由は話せない。
だから、学校へ行かなくなった理由は話せない。
「色々あるのさ」
そう答えると、はやてはもう追求しない。
そこで二人は、静かに本を選び始めるのだ。
「そしたら、またな」
「じゃあね」
昼を過ぎた頃にそう言って別れる。
そして二人が出逢って一週間ほど過ぎた頃。
「あのなあ」
「なに?」
何故か言いづらそうに、はやては続ける。
「今から、家帰ってご飯食べるん?」
「うん」
家には誰もいない。だから、コージは母に貰ったお金を持ってコンビニへ行く。
朝はパンを買った。お昼はお弁当を買う。晩はきっと、カップ麺とお弁当を買う。
コージはこの数日母の顔を見ていないが、気にするのは止めていた。
顔を合わせても、怒鳴りつけられるか殴られるだけ。
母も既に、母であることをやめている。
もしかすると、わかりやすくなっただけで、もっと前から母をやめていたのかも知れなかった。
「だれか、家で待ってるん?」
コージは素直に首を振った。
「それやったら、一緒に食べへん? ウチで」
「え、いいの?」
「あたしも一人やから」
「じゃあ、コンビニに……」
「ちゃうちゃう。行くんやったらスーパーや」
「え?」
「ご飯作るよ?」
「作るの? 買うんじゃなくて?」
「うん。あたし、ご飯作れるよ?」
結論はあっさりとしたものだった。
二人は話し合い、コージは幾ばくかの金をはやてに渡すことにした。
それは単なる材料費であり、多くも少なくもない適正な金額だった。
後にコージは気付く。
その行為が、間違っていたことに。
コージが個食を選んでいれば、何も起こらなかった。
それでも、コージははやてと共に食事を摂ることを選んだ。
「あれ、ケッカンコージじゃん」
「あ、人殺しだ」
「何で学校来ないんだよ、お前」
「あ、やべ。今度おめえの学校が壊れるんじゃね?」
「それで来ないのかよ、こいつ。うわ、最低」
「さっすが、人殺しの家は違うなぁ」
「車椅子があるぞ」
「女連れかぁ、すげぇ」
「人殺しが女連れかぁ」
「あいつも人殺しじゃね?」
「いやいや、コージがあいつの足壊したんだろ?」
「さすがケッカンコージ」
いつの間にか夕食まで共にするようになった頃、買い物帰りの二人は別の集団と行き会う。
コージの同級生と、その兄たち。数を見れば、兄たちがメインで同級生がそれについて行っているだけだとわかる。
しかし、コージはその連中全員に見覚えがあった。
何度も会ったことがある。
何度も虐められたことがある。
中学生を虐めて喜ぶ高校生や社会人がそこにいる。
「なんなん? あの人ら?」
顔をしかめるはやて。
コージは慌ててその場から去ろうと、はやての車椅子を強く引く。
「どしたん?」
「いいよ、あんなやつら」
だが、逃げられるわけもなく。
「おーい、テヌキコージちゃん、何してんだよ、こんなところで」
「誰これ」
「彼女?」
「ショーガイシャじゃん、ショーガイシャ」
「なんなん、あんたら」
「あ、ショーガイシャが喋った」
「え、喋れるの? スゲ」
「なあ、これ、乗せろよ」
連中の一人が車椅子を掴んだ。
「何言うてんの」
「いいじゃん、降りてよ、ちょっと乗せてよ」
非常識、とはやては感じるが、それが通じる相手ではない。
いや、それどころか。
別の一人の手がはやて自身に伸びる。
身体か浮いた、と感じた次の瞬間、はやての身体が宙に浮いていた。
「やめっ……!」
止めようとしたコージはその場から押しのけられ、地面に転がされる。
その隣に投げ出されるはやて。
一人が車椅子に乱暴に座った。
別の一人がそれを押す。
歓声を上げる連中。彼らにとっては車椅子は補助道具ではない、ただの遊具だ。
「あかん! 返して!」
はやての訴えにも意味はない。
立ち上がりかけたコージの胸元を一人が蹴り飛ばした。
それでもうコージは動けない。胸元を抑えうずくまっている。
はやてはすぐに両手を使ってコージの元へ這う。
「コージ君!? コージ君!」
振り向いて、連中へ激高の言葉を投げかけようとしたとき、はやての視界いっぱいに車椅子が映る。
「ひっ!」
頭を抱えて横に転がったはやての姿に笑う一同。
車椅子を動かしていた、連中で一番の年嵩の少年が一人で声高に笑っていた。
少年ははやてを追いかけるように車椅子を動かし始めた。
はやては為す術無く、転がりながら逃げるしかない。
少年達は狂ったように笑い続けている。
「みっともねぇなあ。死ねよ、お前。何で生きてんの?」
「やめて……お願いやから……」
「なにそれ。日本語? 日本語喋れよ、うぜえ」
「知ってる。大阪語って言うんだろ」
「ギャハッ、大阪語かよ、なにそれ」
「お願いや……やめて……お願い……」
涙を流しながら訴えるはやてに対して、連中に何の感慨が湧くわけもなかった。
彼らにとって、そこにいるのは虐めて楽しい相手、助けを乞うみっともなく弱い者に過ぎない。
自分たちを抑圧するのは強い者。自分たちが抑圧するのは弱い者。
彼らの世界観は、ある意味ではひどくシンプルでわかりやすい。
故に、不必要なまでに強靱でもある。彼らの世界観は、そう簡単には壊れない。
外部からの圧倒的な衝撃か、あるいは世界観の持ち主そのものの消失か。それだけのものをもってしても、壊れない場合もある。
実に厄介な代物なのだ。
しかし、連中の手は止まった。
「メシ行こうぜ、飯」
良心、そんな生易しい代物ではない。彼らの嗜虐欲を止めるのは、本能に根付いた別の欲だけ。
それが食欲であることに、はやては感謝するべきだっただろう。
性欲であれば嗜虐を加速することもあるのだから。
しかし、今のはやてにそれがわかるわけもない。
それがわかるには、まだしばらくの猶予がある。
連中の姿が消え、ゆっくりと起きあがるコージ。
顔の半分を覆い、シャツの胸元にも広がっているのは蹴られた衝撃による吐瀉物。
よろよろと、今にも倒れそうな足取りでコージは車椅子に近寄った。
そのまま無言で、車椅子をはやての傍まで寄せる。そして、はやてに手を伸ばした。
はやてを車椅子に引き上げようとして、バランスを崩したコージは尻餅をついた。
その拍子にはやてはコージの胸元へ頭を落としてしまう。
シャツに広がる吐瀉物がはやての顔にぺしゃりとへばりつく。
「は……」
奇妙に息が漏れる。
「ひ……」
それははやても同じだった。
「ははは……」
「ひっはっはは……」
数時間前の自分たちなら口を揃えて言っただろう。
「気持ち悪い」
そんな笑い声が二人の口から漏れていた。
しばらく、笑いは止まらなかった。
笑うのを止めれば泣いてしまうから。泣いてしまえば、もう止められないから。
だから、二人は笑っている。
笑いは、なかなか止まらなかった。
結局、その日ははやてを自宅まで送ってすぐに別れることになった。
翌日、コージは図書館とも八神家とも違う方向へと歩く。そして一人で一日を過ごす。
その次の日も。また、その次の日も。
はやてと顔を合わせたくない。連絡は取らない、連絡も来ない。
一度だけ、はやてからと思われる電話がかかってきたことがあるが、コージが誰何した直後に電話は切れた。
会いづらい。
はやてと会うことで、無様だった自分を思い出したくない。はやてに無様だった自分を思い出させたくない。
だから、次にはやてを見かけたのは単なる偶然だった。
はやてと一度買い物へ行った八百屋の近くを通りかかったのは、はやてに会うためではなかった。
それでもその時、はやてはそこにいた。
八百屋の前を、車椅子で通りがかるはやてがいた。
連中に囲まれた中央で、俯いた姿で。
ニヤニヤ笑いに囲まれた、憔悴しきった顔で。
コージは思わず身を隠す。そして、連中がいなくなってから店へと顔を出した。
はやてと数回訪れた店の主人は、コージの姿をはやてとセットで覚えていたようだ。
「高校のボランティアサークルなんだって?」
連中はそう自分たちを説明していたのだろう。
それなら、はやてと一緒にいる名目は付く。
「大変だったね」
何が、とコージは尋ねる。
八百屋の主人は一瞬首を傾げるが、それでもコージに説明する。
はやてが、うっかり階段から落ちたのだと。
そのために、顔に痣を作ってしまったのだと。怪我をしているように見えるのもそのせいだと。
心配したボランティアグループが、はやてにくっついているのだと。
「そうですか」
コージは静かに答えた。
嘘とわかりきっていても、とりあえずそう答える。
階段から落ちた痣など、あるわけない。
痣はあるのだろう。階段から落ちたことが理由でないにしろ。
怪我をしているのだろう。階段から落ちたことが理由でないにしろ。
痣と怪我の理由など、心当たりはありすぎるほどにある。
なにしろ、はやては自分と違って逃げられないのだから。
「だけど怪我はしてても、はやてちゃんも元気みたいで良かったね」
元気?
不可思議な言葉に顔を上げたコージに語りかけるのは、配達帰りと思しき店員。
ミニバンを店横に止めながら、何を思い出したのか笑っている。
「さっきあの子見かけたんだけど、ボランティアの兄ちゃん達と追いかけっこしてたよ」
訂正。
はやては逃げようとしたのだ。
無謀にも。
愚かにも。
コージの中の何かが、その光景を笑っていた。
認めたくない何かが、その無様を嗤っていた。
別の何かは、ほくそ笑んでいた。
これで連中は、はやてに執着するだろう。安いプライドを傷つけられれば、連中は無駄と思えるほどの粘着性を発揮する。
相手が強者でなければ、だ。
離れよう。とコージは思った。
自分はもう用済みなのだ。しばらくの間は目をつけられることもないだろう。
連中には新しい玩具がある。
それでも気が付くと、はやての家に近づいていた。
視界に映る家に、心が不思議と惹かれている自分を感じる。
まるで、治りきっていない傷痕を眺めるように。
乾ききっていない瘡蓋を剥がすように。
潰れた膿跡を観察するように。
それは病的な好奇心。加虐と被虐の入り交じった精神の悪戯。
そこで何を見るというのか、それはコージにも説明できない。
いや、何が見えると思っていたのか。何を、見たかったのか。
はやての姿は見えない。連中の姿も見えない。
何も見えなくとも、翌日からは日課のように、はやての家へとコージは通った。
まるで、誰かに引き寄せられるかのように。
毎日のようにはやての家で見かける野良猫のせいだ。
何故か、コージはそう確信していた。
そして六月が訪れ、それは起こった。
いつものように忘我で眺めているコージは、大きな音で我に返る。
いや、音がした原因はわかっている。コージには見えていた。その音を発したものが。
二階のベランダから、玄関ポーチへと投げ捨てられた車椅子。
落下地点にいたらしい野良猫が逃げ出すのが見える。
猫を追うようにポーチの床面を削り砕いた車椅子は、無惨にひしゃげて玄関脇へと転がった。
その動きが止まったと同時に、ベランダから顔を出す男。
男は、身体をベランダから出し、顔を室内に向けている。
「これでおめえ、勝手なこと出来ないだろ?」
それほどの大きさはなくとも、声だけがハッキリと聞こえた。
コージは何が起きたかを理解した。
簡単なことだ。
獲物が逃げられなくなった。それだけのこと。
ならば。
自分の取るべき行動は決まっている。
振り向いて、この場を去ること。
自分は何も見ていない。
何も聞いていない。
八神はやて。誰だ、それは。
「あれ、コージじゃね?」
そんな言葉も聞こえないふりをして。
コージは駆けだした。
ここにはいたくない。だって、自分には関係のない場所だから。
自分とは関係のない人たちのいる場所だから。
「何やってんだよ、お前」
追いつかれ、回り込まれ。
正面から思いっきり殴られた、腹を。
逃げられるわけもなく、数人に追いつかれ、殴られた。
ゲロを吐くほど殴られて、その場にうずくまると力任せに引きずられた。
必死に暴れると、地面に押し付けられ、殴られた。
吐ける物が無くなるまで、殴られた。
気が付くと、見覚えのある部屋にいた。
いや、見覚えなんて無い。
自分が覚えているのは、キレイに整頓された部屋。
今いるのは、薄汚れた、掃除一つされていない部屋。
そして部屋の隅にいるのは、見知った顔。
いや、違う。
自分が覚えているのは、よく笑う可愛い女の子。
今そこにいるのは……
コージは考える。
この状況は何か。知らない。
異様な光景なのか。違う。
そうだ、当たり前の光景じゃないか。
もう六月に入って三日目だ。充分に温かい。
自室で裸で過ごす女の子がいても良いだろう。
ああ。随分顔色が悪いね。
部屋が暗いからそう見えているだけだろう。
怪我をしていないか? 顔の痣は、殴られた痕じゃないのか。
八百屋が言っていたじゃないか。階段から落ちたんだろう。
手足の傷は何だ、ほら、自分にも手のひらに同じ傷痕があるだろう。まるで、煙草を押し付けられたような痕が。
はやては自炊している。その時に火傷したんだろう。
何故怯えているんだ。
恐い夢でも見たんだろう。
どうしてあんなに汚れているんだ。
風呂が壊れているんだろう。
部屋が臭くないか。
連中の匂いだろう。
何も起こっていない。はやての身には、特筆すべき事は何も起こっていない。
コージは自分に言い聞かせる。
嘘でもいい。自分が信じられるのならそれでいい。
自分は悪くない、なぜならはやての身には何も起こっていないのだから。
軟禁されていたぶられている少女などいない。いようはずがない。
少なくとも自分の前にはいない。自分には関係ない。
泣くことすら諦めた表情の少女などいない。
男達の吐き出した汚れをその身にこびりつかせた少女などいない。
破瓜の血が茶黒く乾いたシーツの上で膝を抱えて震えている少女などいない。
膝を抱えた手の指が数本、あらぬ方向へ曲がっている少女などいない。
自分を見て、新たに怯えている少女などいない。
男達に煽られ、ゲロを吐きながらズボンを脱いでいる自分などいない。
少女にのしかかろうとしている自分などいない。
ヤって見せたら家に帰って良いぜ、などと笑う男達などいない。
ここには、誰もいない。
ここにいるのは、はやてを気遣う自分しかいない。
そうだ。自分ははやてを気遣っている。
犯せと言われたから犯すのではない。
犯さなければ、もっと酷い目に遭わされるとわかっているから犯すのだ。これは、はやてを守るため。
自分の身を守るためではない。
逃げようとしたことなどない。
はやてを見捨てたことなどない。
自分は間違っていない。
悪いのは連中。
はやては被害者。
自分ははやてを守る者。
沢山守るために、少しだけ傷つける。それは仕方のないこと。
きっと、はやてならわかってくれる。
だって、はやては優しいから。だから、わかってくれる。
だから、怯えないで。
僕を見ないで。そんな目で僕を見ないで。
僕は悪くない。悪くないから。仕方のないことなんだから。
ゲロを吐きながら、下半身を露出させながら、はやてにのしかかりながら、稚拙に腰を振りながら。
僕ははやてを守っているんだよ。
だから、泣かないで。そんな目をしないで。
部屋の隅で、何かが光った。
立ち上がる四つの影に、部屋にいる者達は何事かとざわめく。
その中でただ一人、はやてだけがその意味を理解した。いや、理解させられた。
「皆、殺してぇ!」
彼女が理解したのはただ一つ。
力を手にしたこと。
だから力を振るった。
自らが得た力を。自らの思う方向へと。
烈火の刃は鮮血に染まる。鉄騎の大槌は骨を砕く。獣の牙は肉を噛み千切る。
癒し手は怨嗟と血臭に囲まれながら、はやてを癒す。
「はやて……ちゃん……?」
僕は、君を……
言いかけたコージが最後に見るものは、迫り来る刃の切っ先。
著者:野狗 ◆NOC.S1z/i2
955 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:42:22 ID:.G9uKuaY [3/16]
956 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:42:55 ID:.G9uKuaY [4/16]
957 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:43:36 ID:.G9uKuaY [5/16]
958 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:44:16 ID:.G9uKuaY [6/16]
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960 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:45:19 ID:.G9uKuaY [8/16]
961 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:45:54 ID:.G9uKuaY [9/16]
962 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:46:29 ID:.G9uKuaY [10/16]
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967 名前:野狗 ◆NOC.S1z/i2 [sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:49:14 ID:.G9uKuaY [15/16]
コージの学校生活は、中三の四月で終わってしまった。
いずれはそうなるという予感はあったのだ。早かれ遅かれ、そうなるだろうと。
自分は虐めの対象だという自覚もあった。それでも辛うじて友人はいた。学校にも逃げ場はあった。
ある事件で、コージの家庭が崩壊するまでは。
コージは一人、家を出て街を歩く。
学校へ行くわけではない。行く当てなど無い。ふらふらと歩き、昼食は適当に買う。金だけはある。
朝起きると、ダイニングのテーブルの上にお金が置いてあるのだ。コージはそれを取ると、家を出る。
この数日、父母の姿は見ていない。
部屋の様子を見ている限り、母は一応深夜には帰ってきているようだ。父は四月が終わる前に何処かへ行ってしまった。
そのまま家にいても良いのだが、気が滅入るだけなので家を出る。
そして学校に、既にコージの居場所はない。
だから、彼は一人で街を歩く。
もしも学校へ行けば、コージは格好の標的だろう。
誰もが認める、暇つぶしに虐める相手として。
「手抜き工事」
「欠陥工事」
それが今の彼の渾名。皆が彼をそう呼ぶ。
三月までは、ただの「コージ」と呼ばれていたはずなのに。
四月の事件以来、皆は彼を「テヌキコージ」「ケッカンコージ」と呼ぶ。
そしてコージは今日も、いつもと同じように一人で図書館へ入る。
いつもと同じように、彼女に会う。
「また、来たんや?」
「うん。ここが一番静かだから」
「そやね」
街を歩いていたコージは、車椅子の女の子と知り合いになった。
女の子は、コージのことを知らない。
コージも、女の子のことを知らない。
だから二人は、友達になった。
名前だけは知っている。
彼女の名は八神はやて。
「なんでコージ君は、学校行かへんの?」
「はやてちゃんだって、行ってないじゃないか」
「あたしは、足がこれやから……」
自分よりマシだ。とはコージは言わない。
他人には他人の事情がある。
人の事情に安易に口を出してはいけない。コージはそう教えられている。
「僕が学校へ行かないのは、虐めがひどくなったからだよ」
コージはそれを口にしない。
「なんで、虐められてるん?」
そう聞かれるなら、答えることは出来る。
理由はいじめっ子達に聞いてくれ、と。
「何で虐めが酷くなったん?」
それには答えられない。いや、答えたくない。
父が、ビルを造った責任者だったから。
あの日、突然亀裂が入って壊れてしまったビルを造った人だから。
そのビルの中には、人が沢山いたから。
「あり得ない。なんで、あんなことが……」
父の呟きは、まさに当を得ていた。
それは、起こるはずのない事故だったのだ。
ジュエルシードさえ海鳴に落ちなければ。
二人の魔法少女の戦いの舞台とならなければ。
高町なのはのせいではない。
フェイト・テスタロッサのせいでもない。
二人は、誰一人殺していないのだ。
確かに二人の行動で町は破壊された部分がある。
それでも、誰も死んでいない。
二人の行動では誰も死んでいないのだ。
ただ、たまたま別の理由で死んだ者がいるだけ。
道路が割れた。
ビルが壊れた。
何故割れた、何故壊れた。
あり得ない。
ならば、手抜き工事に違いない。欠陥工事に違いない。
責任者は必要だ。スケープゴートは必要だ。
ついでに、死んだ者に対する責任も取らせよう。
自然死? 別原因? 犯罪?
否。
ビルの欠陥が直接の死因だ。罪など押し付けてしまえ。
遺族に責任など無い。加害者などいない。
放置などしていない。殴打などしていない。
無責任な遺族などいない。逆上した知り合いなどいない。
そこにいるのは、欠陥建築、手抜き工事によって家族や知り合いを殺された不幸な被害者達だけ。
それで全て丸く収まるではないか。
ならば、一部の者が犠牲になればいい。どうせ、手抜き工事は事実なのだ。ビルが壊れたのは現実なのだ。
「どう考えても、あり得ないんだ」
「あれは事故じゃない。手抜き工事でもない」
「何かの、誰かの仕業ですよ」
関係者は皆そう言った。
直接工事に関わった者達はそう言った。
だが――
「木があったんだ。でかい木が」
「そんなもの、誰が見たんだよ」
「あったんだよ、俺は見たんだよ」
「医者行ってこい」
「ふざけんな、俺は見たって言ってんだろうが」
「……ありゃ集団幻覚だよ、ある種のガスが検知されたそうだ」
「それこそふざけんなだろ、ガスなんか吸ってないだろう、あんたも俺も!」
「吸ったんだよ」
「吸ってないっ!」
「上が吸ったって言ってんだ。吸ってなきゃ、労災も保険も見舞金も一切おりねえぞ、ついでに仕事もクビだ。それでいいんだな?」
それが全てだった。
彼らが見たものは、見てはいけなかったもの。
そこに何があったかを決めるのは、そこにいた彼らではなくて、そこにいなかった人々だということ。
何故そうなるのか、コージにはわからない。
やがてコージの父を信じる者はいなくなった。
コージの家には塀がある。
「殺人ビル建設業」
「金も命も取ります」
「欠陥ビルなら我が社にお任せ」
そんな落書きだらけの塀が。
そんな落書きをする人たちが、父を信じるわけがない。それはコージにもわかる。
だから、はやても父を信じないかも知れない。
だから、コージは虐めに荷担する相手が増えた理由を話せない。
だから、逃げ場所が無くなった理由は話せない。
だから、学校へ行かなくなった理由は話せない。
「色々あるのさ」
そう答えると、はやてはもう追求しない。
そこで二人は、静かに本を選び始めるのだ。
「そしたら、またな」
「じゃあね」
昼を過ぎた頃にそう言って別れる。
そして二人が出逢って一週間ほど過ぎた頃。
「あのなあ」
「なに?」
何故か言いづらそうに、はやては続ける。
「今から、家帰ってご飯食べるん?」
「うん」
家には誰もいない。だから、コージは母に貰ったお金を持ってコンビニへ行く。
朝はパンを買った。お昼はお弁当を買う。晩はきっと、カップ麺とお弁当を買う。
コージはこの数日母の顔を見ていないが、気にするのは止めていた。
顔を合わせても、怒鳴りつけられるか殴られるだけ。
母も既に、母であることをやめている。
もしかすると、わかりやすくなっただけで、もっと前から母をやめていたのかも知れなかった。
「だれか、家で待ってるん?」
コージは素直に首を振った。
「それやったら、一緒に食べへん? ウチで」
「え、いいの?」
「あたしも一人やから」
「じゃあ、コンビニに……」
「ちゃうちゃう。行くんやったらスーパーや」
「え?」
「ご飯作るよ?」
「作るの? 買うんじゃなくて?」
「うん。あたし、ご飯作れるよ?」
結論はあっさりとしたものだった。
二人は話し合い、コージは幾ばくかの金をはやてに渡すことにした。
それは単なる材料費であり、多くも少なくもない適正な金額だった。
後にコージは気付く。
その行為が、間違っていたことに。
コージが個食を選んでいれば、何も起こらなかった。
それでも、コージははやてと共に食事を摂ることを選んだ。
「あれ、ケッカンコージじゃん」
「あ、人殺しだ」
「何で学校来ないんだよ、お前」
「あ、やべ。今度おめえの学校が壊れるんじゃね?」
「それで来ないのかよ、こいつ。うわ、最低」
「さっすが、人殺しの家は違うなぁ」
「車椅子があるぞ」
「女連れかぁ、すげぇ」
「人殺しが女連れかぁ」
「あいつも人殺しじゃね?」
「いやいや、コージがあいつの足壊したんだろ?」
「さすがケッカンコージ」
いつの間にか夕食まで共にするようになった頃、買い物帰りの二人は別の集団と行き会う。
コージの同級生と、その兄たち。数を見れば、兄たちがメインで同級生がそれについて行っているだけだとわかる。
しかし、コージはその連中全員に見覚えがあった。
何度も会ったことがある。
何度も虐められたことがある。
中学生を虐めて喜ぶ高校生や社会人がそこにいる。
「なんなん? あの人ら?」
顔をしかめるはやて。
コージは慌ててその場から去ろうと、はやての車椅子を強く引く。
「どしたん?」
「いいよ、あんなやつら」
だが、逃げられるわけもなく。
「おーい、テヌキコージちゃん、何してんだよ、こんなところで」
「誰これ」
「彼女?」
「ショーガイシャじゃん、ショーガイシャ」
「なんなん、あんたら」
「あ、ショーガイシャが喋った」
「え、喋れるの? スゲ」
「なあ、これ、乗せろよ」
連中の一人が車椅子を掴んだ。
「何言うてんの」
「いいじゃん、降りてよ、ちょっと乗せてよ」
非常識、とはやては感じるが、それが通じる相手ではない。
いや、それどころか。
別の一人の手がはやて自身に伸びる。
身体か浮いた、と感じた次の瞬間、はやての身体が宙に浮いていた。
「やめっ……!」
止めようとしたコージはその場から押しのけられ、地面に転がされる。
その隣に投げ出されるはやて。
一人が車椅子に乱暴に座った。
別の一人がそれを押す。
歓声を上げる連中。彼らにとっては車椅子は補助道具ではない、ただの遊具だ。
「あかん! 返して!」
はやての訴えにも意味はない。
立ち上がりかけたコージの胸元を一人が蹴り飛ばした。
それでもうコージは動けない。胸元を抑えうずくまっている。
はやてはすぐに両手を使ってコージの元へ這う。
「コージ君!? コージ君!」
振り向いて、連中へ激高の言葉を投げかけようとしたとき、はやての視界いっぱいに車椅子が映る。
「ひっ!」
頭を抱えて横に転がったはやての姿に笑う一同。
車椅子を動かしていた、連中で一番の年嵩の少年が一人で声高に笑っていた。
少年ははやてを追いかけるように車椅子を動かし始めた。
はやては為す術無く、転がりながら逃げるしかない。
少年達は狂ったように笑い続けている。
「みっともねぇなあ。死ねよ、お前。何で生きてんの?」
「やめて……お願いやから……」
「なにそれ。日本語? 日本語喋れよ、うぜえ」
「知ってる。大阪語って言うんだろ」
「ギャハッ、大阪語かよ、なにそれ」
「お願いや……やめて……お願い……」
涙を流しながら訴えるはやてに対して、連中に何の感慨が湧くわけもなかった。
彼らにとって、そこにいるのは虐めて楽しい相手、助けを乞うみっともなく弱い者に過ぎない。
自分たちを抑圧するのは強い者。自分たちが抑圧するのは弱い者。
彼らの世界観は、ある意味ではひどくシンプルでわかりやすい。
故に、不必要なまでに強靱でもある。彼らの世界観は、そう簡単には壊れない。
外部からの圧倒的な衝撃か、あるいは世界観の持ち主そのものの消失か。それだけのものをもってしても、壊れない場合もある。
実に厄介な代物なのだ。
しかし、連中の手は止まった。
「メシ行こうぜ、飯」
良心、そんな生易しい代物ではない。彼らの嗜虐欲を止めるのは、本能に根付いた別の欲だけ。
それが食欲であることに、はやては感謝するべきだっただろう。
性欲であれば嗜虐を加速することもあるのだから。
しかし、今のはやてにそれがわかるわけもない。
それがわかるには、まだしばらくの猶予がある。
連中の姿が消え、ゆっくりと起きあがるコージ。
顔の半分を覆い、シャツの胸元にも広がっているのは蹴られた衝撃による吐瀉物。
よろよろと、今にも倒れそうな足取りでコージは車椅子に近寄った。
そのまま無言で、車椅子をはやての傍まで寄せる。そして、はやてに手を伸ばした。
はやてを車椅子に引き上げようとして、バランスを崩したコージは尻餅をついた。
その拍子にはやてはコージの胸元へ頭を落としてしまう。
シャツに広がる吐瀉物がはやての顔にぺしゃりとへばりつく。
「は……」
奇妙に息が漏れる。
「ひ……」
それははやても同じだった。
「ははは……」
「ひっはっはは……」
数時間前の自分たちなら口を揃えて言っただろう。
「気持ち悪い」
そんな笑い声が二人の口から漏れていた。
しばらく、笑いは止まらなかった。
笑うのを止めれば泣いてしまうから。泣いてしまえば、もう止められないから。
だから、二人は笑っている。
笑いは、なかなか止まらなかった。
結局、その日ははやてを自宅まで送ってすぐに別れることになった。
翌日、コージは図書館とも八神家とも違う方向へと歩く。そして一人で一日を過ごす。
その次の日も。また、その次の日も。
はやてと顔を合わせたくない。連絡は取らない、連絡も来ない。
一度だけ、はやてからと思われる電話がかかってきたことがあるが、コージが誰何した直後に電話は切れた。
会いづらい。
はやてと会うことで、無様だった自分を思い出したくない。はやてに無様だった自分を思い出させたくない。
だから、次にはやてを見かけたのは単なる偶然だった。
はやてと一度買い物へ行った八百屋の近くを通りかかったのは、はやてに会うためではなかった。
それでもその時、はやてはそこにいた。
八百屋の前を、車椅子で通りがかるはやてがいた。
連中に囲まれた中央で、俯いた姿で。
ニヤニヤ笑いに囲まれた、憔悴しきった顔で。
コージは思わず身を隠す。そして、連中がいなくなってから店へと顔を出した。
はやてと数回訪れた店の主人は、コージの姿をはやてとセットで覚えていたようだ。
「高校のボランティアサークルなんだって?」
連中はそう自分たちを説明していたのだろう。
それなら、はやてと一緒にいる名目は付く。
「大変だったね」
何が、とコージは尋ねる。
八百屋の主人は一瞬首を傾げるが、それでもコージに説明する。
はやてが、うっかり階段から落ちたのだと。
そのために、顔に痣を作ってしまったのだと。怪我をしているように見えるのもそのせいだと。
心配したボランティアグループが、はやてにくっついているのだと。
「そうですか」
コージは静かに答えた。
嘘とわかりきっていても、とりあえずそう答える。
階段から落ちた痣など、あるわけない。
痣はあるのだろう。階段から落ちたことが理由でないにしろ。
怪我をしているのだろう。階段から落ちたことが理由でないにしろ。
痣と怪我の理由など、心当たりはありすぎるほどにある。
なにしろ、はやては自分と違って逃げられないのだから。
「だけど怪我はしてても、はやてちゃんも元気みたいで良かったね」
元気?
不可思議な言葉に顔を上げたコージに語りかけるのは、配達帰りと思しき店員。
ミニバンを店横に止めながら、何を思い出したのか笑っている。
「さっきあの子見かけたんだけど、ボランティアの兄ちゃん達と追いかけっこしてたよ」
訂正。
はやては逃げようとしたのだ。
無謀にも。
愚かにも。
コージの中の何かが、その光景を笑っていた。
認めたくない何かが、その無様を嗤っていた。
別の何かは、ほくそ笑んでいた。
これで連中は、はやてに執着するだろう。安いプライドを傷つけられれば、連中は無駄と思えるほどの粘着性を発揮する。
相手が強者でなければ、だ。
離れよう。とコージは思った。
自分はもう用済みなのだ。しばらくの間は目をつけられることもないだろう。
連中には新しい玩具がある。
それでも気が付くと、はやての家に近づいていた。
視界に映る家に、心が不思議と惹かれている自分を感じる。
まるで、治りきっていない傷痕を眺めるように。
乾ききっていない瘡蓋を剥がすように。
潰れた膿跡を観察するように。
それは病的な好奇心。加虐と被虐の入り交じった精神の悪戯。
そこで何を見るというのか、それはコージにも説明できない。
いや、何が見えると思っていたのか。何を、見たかったのか。
はやての姿は見えない。連中の姿も見えない。
何も見えなくとも、翌日からは日課のように、はやての家へとコージは通った。
まるで、誰かに引き寄せられるかのように。
毎日のようにはやての家で見かける野良猫のせいだ。
何故か、コージはそう確信していた。
そして六月が訪れ、それは起こった。
いつものように忘我で眺めているコージは、大きな音で我に返る。
いや、音がした原因はわかっている。コージには見えていた。その音を発したものが。
二階のベランダから、玄関ポーチへと投げ捨てられた車椅子。
落下地点にいたらしい野良猫が逃げ出すのが見える。
猫を追うようにポーチの床面を削り砕いた車椅子は、無惨にひしゃげて玄関脇へと転がった。
その動きが止まったと同時に、ベランダから顔を出す男。
男は、身体をベランダから出し、顔を室内に向けている。
「これでおめえ、勝手なこと出来ないだろ?」
それほどの大きさはなくとも、声だけがハッキリと聞こえた。
コージは何が起きたかを理解した。
簡単なことだ。
獲物が逃げられなくなった。それだけのこと。
ならば。
自分の取るべき行動は決まっている。
振り向いて、この場を去ること。
自分は何も見ていない。
何も聞いていない。
八神はやて。誰だ、それは。
「あれ、コージじゃね?」
そんな言葉も聞こえないふりをして。
コージは駆けだした。
ここにはいたくない。だって、自分には関係のない場所だから。
自分とは関係のない人たちのいる場所だから。
「何やってんだよ、お前」
追いつかれ、回り込まれ。
正面から思いっきり殴られた、腹を。
逃げられるわけもなく、数人に追いつかれ、殴られた。
ゲロを吐くほど殴られて、その場にうずくまると力任せに引きずられた。
必死に暴れると、地面に押し付けられ、殴られた。
吐ける物が無くなるまで、殴られた。
気が付くと、見覚えのある部屋にいた。
いや、見覚えなんて無い。
自分が覚えているのは、キレイに整頓された部屋。
今いるのは、薄汚れた、掃除一つされていない部屋。
そして部屋の隅にいるのは、見知った顔。
いや、違う。
自分が覚えているのは、よく笑う可愛い女の子。
今そこにいるのは……
コージは考える。
この状況は何か。知らない。
異様な光景なのか。違う。
そうだ、当たり前の光景じゃないか。
もう六月に入って三日目だ。充分に温かい。
自室で裸で過ごす女の子がいても良いだろう。
ああ。随分顔色が悪いね。
部屋が暗いからそう見えているだけだろう。
怪我をしていないか? 顔の痣は、殴られた痕じゃないのか。
八百屋が言っていたじゃないか。階段から落ちたんだろう。
手足の傷は何だ、ほら、自分にも手のひらに同じ傷痕があるだろう。まるで、煙草を押し付けられたような痕が。
はやては自炊している。その時に火傷したんだろう。
何故怯えているんだ。
恐い夢でも見たんだろう。
どうしてあんなに汚れているんだ。
風呂が壊れているんだろう。
部屋が臭くないか。
連中の匂いだろう。
何も起こっていない。はやての身には、特筆すべき事は何も起こっていない。
コージは自分に言い聞かせる。
嘘でもいい。自分が信じられるのならそれでいい。
自分は悪くない、なぜならはやての身には何も起こっていないのだから。
軟禁されていたぶられている少女などいない。いようはずがない。
少なくとも自分の前にはいない。自分には関係ない。
泣くことすら諦めた表情の少女などいない。
男達の吐き出した汚れをその身にこびりつかせた少女などいない。
破瓜の血が茶黒く乾いたシーツの上で膝を抱えて震えている少女などいない。
膝を抱えた手の指が数本、あらぬ方向へ曲がっている少女などいない。
自分を見て、新たに怯えている少女などいない。
男達に煽られ、ゲロを吐きながらズボンを脱いでいる自分などいない。
少女にのしかかろうとしている自分などいない。
ヤって見せたら家に帰って良いぜ、などと笑う男達などいない。
ここには、誰もいない。
ここにいるのは、はやてを気遣う自分しかいない。
そうだ。自分ははやてを気遣っている。
犯せと言われたから犯すのではない。
犯さなければ、もっと酷い目に遭わされるとわかっているから犯すのだ。これは、はやてを守るため。
自分の身を守るためではない。
逃げようとしたことなどない。
はやてを見捨てたことなどない。
自分は間違っていない。
悪いのは連中。
はやては被害者。
自分ははやてを守る者。
沢山守るために、少しだけ傷つける。それは仕方のないこと。
きっと、はやてならわかってくれる。
だって、はやては優しいから。だから、わかってくれる。
だから、怯えないで。
僕を見ないで。そんな目で僕を見ないで。
僕は悪くない。悪くないから。仕方のないことなんだから。
ゲロを吐きながら、下半身を露出させながら、はやてにのしかかりながら、稚拙に腰を振りながら。
僕ははやてを守っているんだよ。
だから、泣かないで。そんな目をしないで。
部屋の隅で、何かが光った。
立ち上がる四つの影に、部屋にいる者達は何事かとざわめく。
その中でただ一人、はやてだけがその意味を理解した。いや、理解させられた。
「皆、殺してぇ!」
彼女が理解したのはただ一つ。
力を手にしたこと。
だから力を振るった。
自らが得た力を。自らの思う方向へと。
烈火の刃は鮮血に染まる。鉄騎の大槌は骨を砕く。獣の牙は肉を噛み千切る。
癒し手は怨嗟と血臭に囲まれながら、はやてを癒す。
「はやて……ちゃん……?」
僕は、君を……
言いかけたコージが最後に見るものは、迫り来る刃の切っ先。
著者:野狗 ◆NOC.S1z/i2
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