山田風太郎



 山田風太郎(やまだ ふうたろう、Futaro YAMADA、1922年1月4日-2001年7月28日、命日は風々忌)は、日本の小説家/エッセイストである。

著作一覧

その生涯
恵まれた幼年期から暗黒の少年時代へ

 山田風太郎は1922(大正11)年1月4日に兵庫県養父郡関宮町(現養父市)に生まれ、2001(平成13)年7月28日に肺炎でこの世を去った。誕生日は夢野久作、命日は江戸川乱歩と同じである。家族は両親の他に妹・昭子。啓子夫人との間に二人の子。
 本名は山田誠也。父・太郎は代々医者の家系に生まれた村内唯一の医者で山田医院を開業していた。母・寿子も医者の娘であった。幼い彼は裕福な家庭で不自由なく育つが、まだ彼が五歳の頃に父親を一酸化炭素中毒で亡くしてしまった。病死とも言われているが真相は中毒死である。その後叔父と再婚した母も、彼が兵庫県立豊岡中学1年から2年に上る春に死去。この精神的打撃から回復するのには十年かかったとのちに回想している。叔父は再婚して医者を続け、子のない叔父夫婦と親のない誠也の奇妙な家族関係が続く。
 このころの経験をもとにした小説には『天国荘奇譚』などがある。学生時代は数学が苦手な典型的文系少年であった。また『受験旬報』(現在の『蛍雪時代』)の懸賞小説に投稿して、八篇もの小説が一等に入選している早熟ぶりを示す。このころ彼が友への手紙に書いた言葉にはこんなものがある。

「身体虚弱の為か、天性の冷淡児の為か、全く所謂青春たる所以に興味がない。その癖夢はある。若者らしい夢はある。美と壮の融合せる一大伝奇(ロマン)を空想して、人々をして手に汗握らせようと云う夢である」

 母の生前は地元有数の進学校である豊岡中学最優秀の成績であった彼だが、死後は成績が急降下し三度停学処分を受ける。みなしごとなった孤独ゆえに彼は常に「魂の酸欠状態」を味わい、次第に不良少年となっていった。このころより仲間と雨、風、霧、雷の符牒で呼び合い、寄宿舎「洗心寮」に「天国荘」を設置したりした。1943(昭和18)年夏に家出し東京の軍需工場であった沖電気事務部門に就職、それから1993(平成5)年まで連綿と書き続けた日記もこの頃よりつけ始める。これまでの経緯について彼は後年こう語っている。

「勉強はちゃらんぽらん、体格はひょろひょろ、しかも親戚の廻り持ちで養われている身とあって、ついに家出をしてしまう羽目となったのである。(中略)決して養うほうにとっては養い甲斐のある少年でも青年でもなかった」

滅失への青春

 その後、医学校進学を目指し仕事の傍ら受験勉強を続ける。1944(昭和19年)、召集令状がくるが風邪をこじらせ肋膜炎に罹っていたため徴兵検査不合格、即日帰郷となる。直後に入試を受け二度目の挑戦で試験合格、軍医を目指して東京医学専門学校(後の東京医科大学)に入学する。1945(昭和20)年には東京大空襲を経験し、次第に激しくなっていった空襲のため学校ごと長野へ疎開することとなる。

 1945(昭和20)年8月15日、「帝国ツイニ敵ニ屈ス」とただ一行日記に記した彼は、戦時中に死ぬべきであった己が生かされたことを感じ、以後の人生は余生であると思うようになった。彼の同級生の多くは戦死しており、彼の卒業アルバムにある散っていった友の写真横には「戦死」と彼自身の字で書かれている。彼らはまさしく青春を戦火に砕かれた世代であった。このころの生活は『戦中派虫けら日記』および『戦中派不戦日記』に詳しい。この暗黒時代唯一の光は、山形で恩人高須氏夫人の連れ子にあたる可憐な少女・佐藤啓子(当時13)と出会ったことであろう。
 ちなみにこの頃は春獄久という筆名を用いていた。

光に転じた私生活と作家としてのスタート

 1947(昭和22)年、東京医学専門3年生時に『達磨峠の殺人』を「宝石」誌の懸賞小説に投じ、入選。1949(昭和24)年には『眼中の悪魔』、『虚像淫楽』で第二回探偵作家クラブ賞を受賞する。この頃まで医者か小説家か迷っていた彼だが、小説家として生きていこうと決意を固める。
 推理作家として彼は江戸川乱歩に可愛がられ、戦争や混沌とした社会をモチーフにした推理小説、時代小説、キリシタン小説を発表する。代表作には『夜より他に聞くものもなし』、『太陽黒点』、『棺の中の悦楽』、『十三角関係』、『陰茎人』など。このころは芥川龍之介の小説と同じタイトルの作品があり、また彼自身もその風貌と作風か「小型の芥川龍之介」と呼ばれていた。戦後五人男の一人にも数えられる。この時期を暗黒時代と呼ぶ説もあるが、あてはまるとは思えない。私生活では独身の気儘さか、パンパンがうろつく夜の街を、江戸川乱歩や高木彬光らとともに飲み歩いてストリップなどを鑑賞する日々だった。

 そしてそのころになると山形での出会い以来、彼女が親と会うために上京するたび会っていた佐藤啓子は、あどけない少女から優しく愛らしい女性へと成長していた。1952(昭和27)年には日記にこう記す。

「夫婦は顔が長いのと丸いのとがなりやすいという。山田風太郎は顔が長く、啓子は丸い」

 翌年1953(昭和28)年、6月。10歳下の佐藤啓子と結婚。彼の私生活は、母の死以来の長い暗黒時代は終わりを告げ、明に転じた。翌1954(昭和29)年10月に長女・佳織、1957(昭和32)年に長男・知樹が誕生。妻の料理が好きで、8ミリフィルムに愛児を録画するマイホームパパであった。十代で孤児となった彼は、円満な家庭を気付くことに強い情熱を持っていたようである。

日本、山田風太郎の忍法にかかる

 中国四大奇書『金瓶梅』をミステリに翻案した連作短編『妖異金瓶梅』の好評を受けた彼は、同じく四大奇書である『水滸伝』の翻案に取り組む。しかしさしもの彼も、百八種類の武術を考えつかずあきらめかけるが、武術を忍法にしたらどうかと思いつく。1958(昭和33)年、こうして出来上がった『甲賀忍法帖』を発表した。

 その後『くノ一忍法帖』、『柳生忍法帖』などの作品群を次々と発表。1963(昭和38)年に刊行された忍法帖全集は300万部を売る大ヒット。次々と映画化され日本に忍法ブームを引き起こし、一軒家を建てられるほどの印税を生み出した。山田風太郎は時の人となり、見覚えのない自称:知人、縁者が門前に列を為した。さらには国語辞典にはそれまでなかった「忍法」という単語が加えられた。

 「なんのためにもならん小説」と意図されて書かれたシリーズであったが、その熱狂に風太郎は休む間もなく書き続け、しまいには「チンポが勃たんのに悪女と手がきれん男」、「自転車と同じで足をついたら終わり」という気分になりながらの執筆となった。そんな過密スケジュールのせいか、忍法帖は彼のキャリアにおいて最も出来不出来の差が大きいジャンルでもある。

 今日においても忍法帖の功績は多い。少年漫画におけるチームバトルも忍法帖にルーツを持つとされる。忍法帖にオマージュを捧げたアニメ『獣兵衛忍風帖』は"Ninja Scroll"の名で世界的に大ヒット、『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟、『キル-ビル』のタランティーノら、ハリウッドの映画人にまで影響を与えた。コンビニでは「おにぎり忍法帖」が売られ、劇団☆新感線には『レッツゴー! 忍法帖』という作品がある。忍法帖の存在感は薄れることもなく、増す一方なのである。

風太郎文学最高峰――明治もの誕生、そして日記封印いま破る

 1975(昭和50)年、『警視庁草紙』で明治ものへと移行。しばしば司馬遼太郎と比較して「明治のネガに対するポジ、正史に対する稗史」とされる傑作群を次々と発表。彼の原点である昭和20年8月15日へのプロローグとしての明治時代を印象的に描いた。有名人が交錯する精緻な仕掛けと奇想天外なプロットをもつ明治ものは、山田風太郎の作品構成力の頂点を示すとして名高い。彼自身も忍法帖よりはるかに出来がいいと自覚しており、敬愛する作家:吉川英治が禁じ手とした「キリシタン」と「明治」両方を執筆したことはストイックな彼としても誇りにするものと考えていたようである。忍法帖に較べて作品数こそ少ないものの、一点も駄作もない最高峰の作品群であり『明治断頭台』等はミステリ作品としても斬新なテクニックを用いて読者を唸らせた。

 また、このころ千冊以上も太平洋戦争に関する文献を読みあさり、ノートにまとめていた風太郎であったが、どの記録にも何か納得ができぬものを感じていた。彼は自らの昭和20年の日記を取り出し、ノートに書き写す作業に取り組み始める。こうして清書された日記を『戦中派不戦日記』、『戦中派虫けら日記』として刊行。戦時中の日記として貴重かつ秀逸なものであると好評を博す。昭和生前には戦中までの『戦中派虫けら日記』と『戦中派不戦日記』のみが刊行されていたが、現在は残りの人気も順次出版されつつある。1979(昭和54)年に発刊された『同日同刻』(絶版)も太平洋戦争関連の書物として白眉の出来である。

最後の小説群室町もの、風の去りしあとには何が残るか

 肉体の衰えを知った風太郎は、死に対する思いを深めてゆく。1986(昭和61)年には著名人の死に様を集めた『人間臨終図巻』を発表。この作品また、風太郎独自の観察眼とアフォリズムに溢れた奇書として、彼の代表作に数えられる。
 平成に入ってからは、それまで禁じ手とされていた室町時代を舞台にした小説を発表。彼自身の生んだ最高の剣侠:柳生十兵衛の最期を描いた室町もの最高峰『柳生十兵衛死す』を最後に小説の筆を折る。その後は病魔と闘いながら、新聞連載をまとめたエッセイ集『あと千回の晩飯』、インタビュー集『コレデオシマイ。』等を刊行した。

 享年79で病没、戒名は「風々院風々風々居士」、墓碑銘は「風の墓」。墓は八王子市の川上霊園墓地に建つ。

「――いろいろあったが、死んでみりゃあ、なんてこった。はじめから居なかったのと同じじゃないか皆の衆」

 彼はそう書き残したが、世間はそうは思わなかった。
 彼の死後も、未公開作品、日記、書簡集が刊行され続け、作品の映画化や再版もとぎれることはなかった。さらに2003(平成15)年より連載されたせがわまさき画による『甲賀忍法帖』の漫画化作品『バジリスク』は2004(平成16)年第28回講談社漫画賞受賞を受賞、大ヒットを記録し世界各国で翻訳される。彼は死んだがその名声は世界規模のものとなった。これからも、この風に見せられ魔界に足を踏み入れる者が絶えることはないだろう。

筆名

 中学生時代に 3人の遊び仲間と互いに呼び合うのに用いた符牒の雷/雨/霧/風に由来する。はじめて用いられたのは、中学時代に当時禁じられていた中学生の映画鑑賞を許可しろという「大論文」を映画雑誌へ投稿した際である。当初は「かぜたろう」と読ませたかったようである(国立国会図書館のデータベースにその名残が見られる)が、最終的に「ふうたろう」で定着した。
 本人は気に入っていない筆名とのことだが、「風」という字や風そのものは好きだという。

受賞歴
  • 1949 『眼中の悪魔』、『虚像淫楽』で探偵作家クラブ(現日本推理作家協会)賞を受賞
  • 1997 第45回菊池寛賞を受賞
  • 2000 第4回日本ミステリー文学大賞を受賞
  • 2004 『バジリスク』(画:せがわまさき)で第28回講談社漫画賞青年部門受賞

海外翻訳状況 世界各国で『バジリスク』の翻訳が進行中。原作への関心も高まっているようである
2006年12月06日(水) 23:07:27 Modified by kizurizm

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c07c4859.jpg (5.19KB)
Uploaded by kizurizm 2005年08月17日(水) 23:20:40



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