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予防接種の倫理について


第5回 医薬品等行政評価・監視委員会
(令和3年9月16日開催)のライブ放送の録画動画から意図を変えない程度に編集して書き起こしました。


(40:00〜1:00:00の部分です)

プレゼンターは
東北大学大学院医学系研究科・医療倫理学分野
大北全俊先生です。

先生が参照されている「資料」はこちらです。
本文中の下線はこちらでつけました。

司会:今回大北参考人にご参加いただきました背景としましては、新型コロナワクチンの接種が予防接種法上努力義務であって、本来個人の自由意志に基づいて接種するかどうかを決めるものですが、個人の置かれている環境条件によっては事実上強制ではないか、という問題意識が聞かれたため、これを踏まえた上で議論するということになります。予防接種法上の位置づけとか接種をどう取り扱うかについては直接この委員会が取り上げる事柄ではありませんが、巡り巡って事実上の強制が何らかの安全性に関わらないとも言い切れないということで、やはり関心は持つのだろうと。委員会としてはワクチン使用による保健衛生上の危害の発生拡大の防止ということ、それがどういうふうに施策が運営されて実施状況をどう評価できるか、監視すべきかという論点からご発表いただいて議論できればと思います。

大北:予防接種の倫理ということですでに皆さん十分に考えていらっしゃることを繰り返し確認するようなことにしかならないかもしれませんが、公衆衛生倫理というのは、議論する上でのフレーム、重要なポイントはこういうことではないかということを提示する分野になりますので、繰り返しになるかもしれませんがお聞きいただければと思います。

予防接種の公衆衛生上の倫理ということで大きく2つ論点があります。配分に関する議論…今日はこちらではなくて「自主的であるべきか、強制的であるべきか」、後者のほうについて確認して行きたいと思います。

ここで「強制」という言葉について確認ですが、私はWHOを始めとした英米系の文献を参考にしているので、英語では mandetory、 これをどう訳すかですが、「義務的」と訳す方が穏やかですが、義務的と訳すと、日本ではすでに定期接種A類とかCOVID19とかは努力義務が課せられているので、義務的というと混同すると思いますので、そういうものではないという意味を含めてあえて「強制」という強い言葉を使っています。つまり今の日本の予防接種法上含まれていない体制を強制で意味しています。

そうした自主的・強制的接種ということに関し公衆衛生倫理で議論するときには、実体的、これも訳し方が難しいのですが、そもそも自主的がいいのか、強制的がいいのかというレベルの議論の仕方と、どちらか決める決め方とか実施の仕方といった手続き的―どういう手続きで進めるのが妥当なのかという二つの次元の議論があります。

公衆衛生の場合、後者、手続き的なところが妥当な手順を踏んでいるかを重視する傾向にあるということもお伝えできればと思います。

3P目の公衆衛生倫理、これはワクチンに限らず「概要」という形でまとめさせていただきました。
主な問いというのは、個人から企業、いろんなエージェントが関与しますが、最終的な法制度に基づいて最終的に実施する主体として「国家」が出てくることになると思います。国家による「集団の健康に影響を与える政策をする、あるいはしないという不作為を含めて、どこまでそういったことが許容されるのかということが議論になってきます。その「程度」ということも倫理的課題としては、これは人権上の用語ですが「自由権的な課題」、どこまで自由を制限するのか、隔離とか、プライバシーのリスクですね、というようなポイントもあれば、「社会権的な課題」、つまり健康的な生活をどこまで公平に享受できるように国家や行政側が担保できるようにするのか、といった両側面の議論があります。

予防接種のほうはこの両方の議論がありまして、ワクチンは重要な健康を享受するためのひとつの武器になると思いますので、まずアクセスを担保するという意味での社会権的な要件と、自由―強制されない、あるいはされるべきか、といった自由権的な課題を両方含むことになります。

こういうような公衆衛生の施策について、倫理的要件ということで、まとめました。これはひとつの仮説にしか過ぎませんが、こういった施策を検討するとき、倫理的妥当性を検討するポイントとして、そもそもその施策は有効なのか、あるいはメリット・デメリットというものが均衡が取れているのかそもそもそういう施策をする必要性があるのか実施する必要性もあるし有効であると判断されたとしても、なるべく個人等に与える被害、損害を最小限に抑える工夫、あるいは取り組みがなされているのか、というようなことが4つ挙げられます。

概ねこちらはその施策が妥当か妥当でないか、という実体的なことを検討する上でのポイントとして提示されるもので、最後に公的な正当化という要件が公衆衛生倫理上重視されます。パブリックジャスティフィケーション、うまくない訳し方ですが、公的にそういう施策を正当化することがちゃんとできているかどうか。公衆衛生は一般の臨床医療のようにちゃんと説明をした上で患者から同意を得るという「インフォームドコンセント」が難しい。今回のCOVID19のような感染症の場合はほぼできないので、ある意味で先走って行政側が施策を打たざるを得ない。こうなった時に施策の妥当性をちゃんと公的に公開でき、市民レベルで検討できるような状況になっているのか。施策をしたあとに、それが本当に妥当だったのか、事後検証も重視されます。そうした手続きも経たうえで、事後検証自体も透明性を保ってなされているのかというところが、公衆衛生倫理としては重視されるポイントになります。

こうした「自由権的課題」「社会権的課題」両方を見据えると、一応は、個人の自主的な行為によって公衆衛生の目的が達成されるということが、一番コンフリクト(対立)がない状態なので、望ましいと言えます。日本の感染症法も基本的にはそういう理念で成立しているのかと理解をしています。そういったことを目指す上では、個人が主体的な行為で達成できるような、それが容易になるような環境を整える責務が主に国家等の行政側にはあると、いうような議論もあります。
スチュワードシップモデルというように支持されることもあります。

COVID19には限りませんが、強制的接種を正当化する場合、いろんな議論があるんですが、おおまかには危害原理という表現と、功利主義的議論(危害原理も本来は功利主義に含まれる)、という二つを挙げさせていただきます。危害原理というのは単純に「第三者に危害を及ぼさない限りは市民というのは自由である」という理念を表現したものですが、逆に言うと第三者に危害を及ぼす場合は公的な制限を加えられる、干渉が加えられるべきだ、という議論です。これがよく公衆衛生の自由権の制限の正当化に使われますけれども、ワクチンの場合はワクチンを打っていないという状態が他者被害とまで言えるのか、というところで議論が分かれます。十分言いうるという論者もいますし、そこまでは言えないという論者もいます。

次に功利主義的原理と言った場合には、ベンサムの「最大多数の最大幸福」というスローガンでご存知かと思いますが、なるべく利益が大きくなるような形でなされることが正しい、ということになると、リスクが十分小さくて得られる利益が大きい場合は、なるべくその利益を確保する方向で強制的手段も妥当だろう、という議論もあります。
代表的なのは「シートベルト」「ヘルメット」です。あれは個人がケガをするだけなんですが、強制的なものになっていますが、シートベルトをしたり、ヘルメットをかぶったところであまり負担はないでしょう。それに比べてシートベルトやヘルメットで個々人の怪我や死亡が減るということは全体的にハッピーだという発想で義務化することを後ろ立てる議論があります。
Duty of easy resucueという、簡単に救済できるんだったら助けるべきでしょという議論ともパラレルに議論されることがありますが、そうした背景で、ワクチン接種のリスクが十分低くて、広く接種が広まることによって社会全体として得られる利益が非常に大きいという場合であればなるべく強制的に持っていく方がいいでしょう、という議論の根拠にもなります。もちろんこれは「安全性」をどう評価するかで議論が分かれてくる。ピーター・シンガーという有名な生命倫理学者がいますが、シートベルトになぞらえて、接種を強制してもよいのではないかという議論を展開している人もいますが、シートベルトと同じようには語れないという議論もあります。

資料の5P,6P,7Pについては強制接種、英語では mandetory についての議論をまとめたものです。一番参照したのはWHOが2021年に出しているものをベースにところどころ他の論者の議論をつけ足した紹介になっているものだと理解してください。

5P目、まず強制とは何か、につきまして、正直考えがぶれているところがあるかと思います。WHO自身は何らかの制限というものを、直接・間接にかけること、というあいまいな表現を用いています。
もうひとつ突っ込んで「個人にとってより良い選択肢をはく奪する」という論者もいます。これはどういうことかと言うと、オーストラリアでは No jab, no pay という(COVID19ではないんですが)ポリシーがあるようで、例えば幼児の時に打つ麻しんといったワクチンを打たない場合には、子どもが受けるべきであろう社会保障的なものに何らかの制限をかけられるというようなポリシーです。
そうすると、よりよい選択とは、個人にとっては「ワクチンも打たない、けれども十分な社会保障も受けられる」、Aという選択もBという選択も享受できるというのが個人にとってはいいわけですが、この No jab, no pay だと、Aという、ワクチンを打たない選択をすると、Bという社会保障を受けられない、となるので、こういうのが強制だと。こういうふうな表現をしている人がいます。これはある程度、あいまいな中でも一定の考える軸は提示していただいているかな、と思います。
なので、強制なのかどうかというと、ある程度ペナルティの有無というところに具現化してくると思います。ペナルティについては世界レベルでも、罰金だとか、教育機会―入学要件にしたり、一時休まざるを得ないとか、様々あるようですが、そうしたものが問題になってくるということです。

論者の中では、強制とは考えられないものとして「オプトアウト」、基本的には受けることになってるけれど嫌だという人には拒否できるというやり方の場合、とか、あとはインセンティブ。受けた人にはこれあげますよ、というタイプのものについては特段選択の幅を減らしていないということで強制ではないというふうに位置付けている論もあります。
ただし、オプトアウトも、「嫌だ」という手続きが非常に難しいと強制にほぼなっている、という指摘もできるかと思いますし、インセンティブに「ワクチンパスポート」と記載しましたが、ワクチンパスポートについても、今の「制限がある生活」をデフォルト(前提)に考えると、ワクチンを打ったらある程度自由を享受できるというオプションを得られるという意味では、制限されるわけではないんですが、「もともと制限がない生活」をデフォルト(基準)において考えると、ワクチンを打たない限りはその生活ができないという話になるので、どう考えるかというのが議論が分かれるのかなと思うところはあります。

次、6P、WHOの議論がベースですが、実体的・手続き的と分けたときの「実体的」のポイントをまとめました。
必要性というのは公衆衛生上の重要な目的が課題になっているかどうか、ですね。重大でもないのであれば必要性もないでしょう。
あと、つり合いという表現はいろいろ使われますが、この場合は強制的ではない、ボランタリー、自主的なやり方と比べて、強制的なほうがメリットが高いのかどうか、そういう意味でつり合いが取れているのか、というところで議論が出てきます。やはり安全性ということについては、十分なエビデンスに基づいているのか、ワクチンの承認に関して管轄機関が責任を持って承認しているワクチンであるのか。
ここについてはアメリカの、今は正式に承認されたと思いますが、当初は緊急承認で実施していたので。そうした状態では義務化というのは無理でしょうと言われていました。
あと、安全性については、経時的なモニタリングが重要であることと、やはり並行して、被害が出た時の公的な補償を担保することが重要だということが指摘されています。
あと、有効性もお分かりになると思います。
あと、十分にワクチンが供給されている状態にある、希望している人がハードルなく容易に受けられるという状態になっていないと、強制も何もないだろうという話ですね。
このあたりは実体的なポイントとして**されているものとなります。


次に7P目のワクチンの強制接種を見る倫理的要点としてここは重要かなと思います。
やはり、公的に信頼を受けられるようなポリシー、あるいは手続きを踏めているかどうかというところが、ワクチンの接種については重要なところだと思います。信頼を得るという意味あいでは、倫理的な決定プロセスを経ているか。これは重要になってくるのは管轄機関による透明性のある決定過程が担保できているかというところになってくると思います。

(少し飛ばしまして)安全性に特に重点を置かれると思いますが、モニタリングとか、進行していくにおいて出てくる症状とか、変わってくると思いますので、随時新しい知見が出てきた時の再検討といったところが求められることになると思います。

最後に8P目の検討課題というところですが、
COVID19のワクチンの場合はどのような接種の在り方が望ましいのか、というところにひとつの議論のポイントとしてはあるのかなと思います。

倫理的諸要点の総合的な検討、ただしこれもやはり、10代でどうなのか、高齢者にとってどうなのか、対象者によって区別して議論することが必要になってくるのだろうと思います。

そうした、どういったポリシーが妥当なのか、実体的なところをある程度見据えた上で、強制が望ましいのか、「ナッジ」と書きましたが、強制まではしないけれどもなるべく受けるように、いろいろあの手この手で環境的な装置を作るということです。強制ではないけれどもある程度圧力をかけていくというのをよしとして考えるのか、あるいはインセンティブくらいのレベルにするのか、それとももっとあらゆるものをほかして(?)本当にその人自身が望むかという自主的なところまでレベルを下げるか、というような、そうしたところが検討課題になってくると思います。

ということで、職域接種とか本日の課題になっていると思いますが、学校の集団接種というものをどう考えるか、といったところは議論が分かれてくると思います。

決定手続きの適切さというところに関わってきますが、重視する点ですが、やはり管轄機関が責任主体として明確に透明性と説明責任を確保した上で実施できているかどうか。その「信頼性の確保」というところでは特に安全性の評価とモニタリングが求められることになると考えています。
なので、すくなくとも集団接種等に関して、アクセスを担保するという意味で肯定的に考えるということも可能であるとも思いますし、それとも同調圧力でそこまで集団接種で圧力をかけるのが望ましくないと考えるかというところも議論が分かれるところだと思います。ただ、少なくとも厚労省等の公的な管轄機関において自由に打つべきものだとポリシーを提示している以上、それで末端まで一貫するということが、責任主体の明確化及び透明性の確保ということになると思います。プライベートセクターで闇のように適当なことが行われていると一貫性が取れていませんので、やはり一貫してある程度のナッジのような強い圧力的なものもよいと考えるのであれば公的な管轄機関でちゃんとした責任ある提示をするということが必要になってくるのではないかと思います。

長くなりましたが以上です。

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