ヨハンがトルレスに匿われた戦乱とは、天文二十年(1551年)に発生した陶隆房の乱です。先にも述べましたがこの一件は勘解由小路家にも大きな影響をもたらしました。
勘解由小路家の後援者であった大内家の当主大内義隆が息子とともに自刃。大友義鎮の弟八郎晴英が大内家の家督を相続することになります。これにより勘解由小路家は北九州や山口にあった所領を喪失してしまいました。
当時の山口は日明勘合貿易によって潤う日本有数の都市であったことを忘れてはならないでしょう。京都から困窮した公家がやってくる落ち延び先だったのです。丁度この時京都からやってきていた公家のうちの何人かは巻き添えを喰らって殺されてしまいました。
このヨハン・デ・トルレスは後にフランシスコ・カブラルの通訳となります。カブラルが唯一認めた日本人とも言われています。また、後の秀吉九州制圧に際し、燃え落ちた豊後府内教会の焼け跡を黒田官兵衛とともに見回りに来たのも彼でした。カブラルと府内教会については、別のページで解説していきます。