個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

在昌が目指した豊後の府内教会とはどのようなところだったのでしょうか?

非常に残念なことながら、豊後における在昌の行動は一切記録が残されていません。豊後は当時日本におけるキリスト教の中心地だったのですが、日本布教長トルレスが口之津に移ったことと、記録魔ルイス・フロイスが五畿内へと渡ったことから極端に記録が減ってしまうのです。

ただ、イエズス会文書には非公開のものがあります。日本がバチカンを支配するようなことにでもなれば在昌研究も新たな局面を迎えるかもしれません。

府内

府内教会について解説する前に、豊後府内の状況について解説しておきます。

 この当時府内は豊後最大の都市であり、九州の中でも一、二を争う町並みでした。
 府内面前の別府湾には「沖の浜(オキノハマ)」という島か何かがあったのですが、約三十年後の慶長元年に起きる大地震とそれによる津波により海の藻屑と消え去ってしまいます。ただ、在昌が豊後を訪れた頃は何軒もの家が建ち並ぶ立派な港町であったようです。

 沖の浜については加藤知弘『バテレンと宗麟の時代』に詳しいです。当時のヨーロッパ人に記録された海港「沖の浜」の存在と津波に消えた「瓜生島」の伝承、そして昭和から始まる音波探索とその結果が触れられています。結論から言うと沖の浜は実在し地震も津波もあったのですが、なぜ「瓜生島」と呼ばれるようになったかは定かではないということでした。在昌も使ったと思われる沖の浜ですが、彼とは直接に関係しないのでこのぐらいにしておきます。

 沖の浜からは徒歩や小舟で府内中心部へと向かっていました。府内中心部は大分川西岸を中心とし、山に向かって碁盤目状に道路が延びています。

 この当時豊後を支配していたのはキリシタン大名の大友宗麟(そうりん)です。宗麟はもともと大友 義鎮(おおとも よししげ)を名乗っていたのですが、在昌が豊後に渡る永禄8年(1565)以前の永禄5年(1562)に出家して宗麟と号しています。キリシタン大名なのに出家とはこれいかにといった感じですが、後の天正6年(1578年)にはフランシスコ・カブラルから洗礼を受け「ドン・フランシスコ」の洗礼名を得ています。
 このフランシスコはもともと別の洗礼名をあてがわれたのをあえて断ってカブラルから直接譲り受けたものです。漢字では「普蘭師司怡」「不龍獅子虎」等と表記しており、特に「不龍獅子虎」はいかにも派手物好きな武将という感じを受けます。

 在昌が訪れた当時大友家は毛利氏と争っています。決して安全な状況ではなかったのです。

府内(豊後)教会

 府内教会については文献のみならず発掘作業も進んでおり、ここでは2004年に発表された五野井隆史氏の研究を元に在昌が訪れた当時の府内教会の様子を示していきます。

 大分川の西側にある大友家の屋敷の更に西、府内の人々が言うところの上(カミ)に教会と高名な病院がありました。
 イエズス会の豊後への布教は1553年に府内を訪れたバルタザール・ガーゴから始まります。竣工は1553年7月21日(天文二十二年六月十一日)。それまでキリスト教の重要な布教拠点であった山口が戦乱により荒廃したため、府内教会は1556年からしばらくの間日本におけるイエズス会の中心でした。
 正式名称は「ノッサ・セニョーラ・ダ・ピエダデ」。ポルトガル語で「わが慈悲の聖母教会」という意味です。つまりマリア系教会でした。
 教会敷地は大きく二つの部分に分けられます。
 病院のある下(シモ)、つまり東側の土地と、教会のある上(カミ)、西側の土地です。在昌が訪れた当時立派な病院の建っている下の土地にかつて教会と修道院が建っていました。上の土地は後で購入したものです。
 上の土地には北に司祭館、南に教会がありました。一番北のやや東よりに小さな厩舎があります。
 下の土地の病院は二つあり、北側にある新しく大きな病院と、その南にある古い小さな病院からなります。日本中から病人が集まってくると言われる病院は北側の大きな方でした。
 下の土地の真ん中には巨大な十字架が立てられており、北がそれらの病院、南が貧乏な人々を養うための慈悲院と墓地になっています。
 この巨大な十字架は、府内からもかなり目立って見えたようです。

 大友宗麟は弘治三年(1557年)にこの府内教会を訪れています。
 在昌の到着当時、府内教会の司祭はフロイスとともにやってきたジョアン・バプチスタ・デ・モンテ神父です。時期ははっきりしませんが、ベルショール・フィゲレイドという神父も後に加わったようです。
 更に、同永禄八年末にはジョアン・カブラル神父とミゲル・バス修道士が府内教会に派遣され、永禄九年五月初めには在昌の師であるヴィレラが府内に帰還しています。

府内教会:ヌーネス図書

 ヴィレラと共に日本にやってきた東インド管区長、ベルショール・ヌーネス・バレト。ヴィレラと異なりヌーネスが日本にいたのは1556年7月から11月までと僅かな期間ですが、コインブラ大学で法律を学び博士号を受けた彼は日本の図書館史に決定的な足跡を残します。
 彼が日本にもたらしたのは、百巻を超えるヨーロッパの書物です。
 聖書、典礼書、グレゴリオ聖歌、オルガン曲集といったキリスト教に関する書物だけではなく、プラトンやアリストテレスといった自然科学の書もそこにありました。小型とはいえ十分に図書館と呼べるだけの代物です。
 ヌーネスたちが最初に辿り着いたのは豊後でした。彼がもたらしたそれらの書物もまた日本におけるキリスト教徒の中心地である府内教会に安置されたのです。

 このヌーネス図書は、永禄元年(1558年)ごろから徐々に日本語に訳されていったようです。

 ここからは想像なのですが、私は在昌が府内教会を目指したのはこのヌーネス図書のためではないかと考えています。具体的に言うとトレミー、つまりクラウディオス・プトレマイオスの書、更に限定して言えば彼の主著である『アルマゲスト』を求めたのです。

アルマゲスト

 イエズス会の書簡では、このヌーネスが持ってきた書物は"Hum Tholemeu"つまり『プトレマイオス』とのみ書かれており『アルマゲスト』であるかどうかは判然としません。
 ただ、もしこれが『アルマゲスト』ならば、時代的に見てベルショール・ヌーネス・バレトが日本にもたらしたのはレギオモンタヌスの『プトレマイオスのアルマゲストの抜粋』であろうと私は考えています。
 この本は十五世紀のドイツの天文学者、レギオモンタヌスが抄訳し注釈を加えたラテン語版の『アルマゲスト』です。
 『アルマゲスト』はエジプトの都市アレクサンドリアに住んでいたクラウディオス・プトレマイオスによる数学と天文学の専門書であり、西暦150年前後にギリシャ語で書かれています。よく知られているようにギリシャの学問は一旦アラビアへ移り、そこから十字軍を経由して再びヨーロッパへと帰っていきました。このため初期の『アルマゲスト』はアラビア語からの再々翻訳版だつたのですが、レギオモンタヌスはこれをギリシャ語版から直接ラテン語版に翻訳し抄訳、さらに詳細な注釈を付け加えたのです。一般的には『アルマゲスト』と呼ばれますが、もはや別の書物に近いこの『抜粋』はその後十七世紀前半までヨーロッパ天文学の教科書として用いられることになりました。
 なお、レギオモンタヌスについては長くなったので補遺3:レギオモンタヌスに移行しました。

イエズス会と数学教育(2022/07/26追記)

 イエズス会ですが、実はグレゴリオ暦の改定以前は数学教育にあまり熱心で無かったことが分かっています。ということは、数学の妹分たる天文学も教えられていなかったのです。
 アミーア・アレクサンダー著『無限小』によれば、イエズス会の著名な数学者であるクリストファー・クラヴィスがいかにコレジオのカリキュラムに数学を入れてもらうか苦労していたかが分かります。
 ところがクラヴィスがグレゴリオ暦の改暦委員に任命され、1582年にグレゴリオ暦が公布されると状況が一変します。数学の重要性が認められ、徐々にコレジオのカリキュラムに数学が導入されていったのです。
 1581年の時点では、クラヴィスはイエズス会士が数学について何も知らないことに文句を言っていました。しかし、1590年代初めにはコレジオ・ロマーノに数学アカデミーが設立されます。

 これを在昌の状況と突き合わせてみましょう。在昌が豊後府内教会にいたのはせいぜい1566年から1576年までの間です。つまり、イエズス会で体系的に数学(ニアリーイコール天文学)の教育が行われる前ということになります。






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