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arahito_tajima 2011年12月14日(水) 21:14:58履歴
「存思」という言葉を見れば、これが精神や脳に関する分野の呪術だと思われる方も多いだろう。
確かに存思そのものは図像を内的に映像化する技法なのだが、どちらかというとこの存思というのは主に内臓に関する方術として先に発展した。
五臓六腑に宿る神々「身体神」を念じることで神々を臓腑に留めおき、健康になろうという素朴な発想である。
唐六典に残された五つの行法の中で、この存思が最初に記されているのは理に適っている。存思は禹歩と同じく最も古代から伝えられている行法であり、魔術的治療の根幹を成すものなのだ。
存思の中でオーソドクスなのは五つの臓器に配当されたそれぞれの神格を思い浮かべるものである。
自分の内臓にいる神に思いを凝らせるイメージ魔術とでもいおうか。このような身体神の存思については陶弘景『登真隠訣』に詳しい。
五つの臓器、五臓は五行に大きな関連を持つ。
五行家は肝、心、脾、肺、腎の五つの臓器を木、火、土、金、水に配当した。いや、木、火、土、金、水に結びつけるべく身体の中から五つの臓器を選び出したと言うべきだろう。
古代支那は世界を分割するのに二つの基準を用いた。
それが陰陽五行。二と五の世界である。陰陽は全てを二分し、五行は全てを五つの区分に配当する。
科学とは世界を分割し整理することであり、東洋科学が失敗したのは二と五に拘りすぎたためである。観測を元にして区分の融通を利かせる西洋科学が最終的には勝者となった。
支那の古代文明はその分割方式においてすら上意下達を貫こうとしたのだ。二と五を神聖視するあまり適切な区分を作り出すことができなかった。現実を理論でねじ曲げようとして失敗したわけである。
陶弘景は本草に対し自然分類を行ったが、あのような分割方法こそ支那では異端だったのだ。第一章で紹介した『説文解字』もまた五行で区分されており、現代の字画による分類とは一線を画している。
話が若干それてしまったので再び存思に戻すと、存思の一種に「守一(しゅいつ)」とも呼ばれる技法がある。
もともと、存思を行っていた太平道では存思のことを守一と呼んでいたらしい。
方術の原始経典とも呼べる『抱朴子』でも守一について詳しく書かれている。
山田利明氏の『六朝道教儀礼の研究』では、「『老子』のいう一を極端に神秘化して一神の神としたのが『抱朴子』の守一」とされている。
実在する五臓、その五臓に宿る神を念じるのが最も基本的な存思法であるが、「守一」は仮想の器官、丹田について想いを凝らすという点が異なる。
『抱朴子』の丹田は上丹田、中丹田、下丹田と三つに別れているのだが、「三つの丹田を一が巡る」という記述と「三丹田にそれぞれ一が存在する」という記述が混在している。
これは「三つの丹田を一が巡る」という説の方が古く、『抱朴子』が書かれた時代は過渡期だったためである。
存思はなんといっても簡単な方術なので、時代が下るにつれ爆発的にバリエーションが増えた。
特に『雲及七籤』にはあらゆる存思、存想、存神の用例が載せられている(前掲『六朝道教儀礼の研究』より)。
五臓神をベースとした存思にも時代による発展が見られ、最初から五臓神が体内に存在し、これに想いを凝らして逃げ出さないようにするというものの方が古く、対して外側から気を取り込み、五臓に配置するという「導引」と混ざったものの方が後代の技法である。
また、五臓神だけではなく脳の神など他の諸器官の神も付け加えられていった。この身体神であるが本来はその容姿や服装、色を秘とし、各流派はその姿を口訣として伝えた。だが、現在の道観ではこれら複数の内臓神を描いた存思用の掛け軸なども売っているぐらいであるから、その秘密主義はだいぶ薄れている。
この存思は時代と共に健康法から離れ、神々を肉体に呼ぶ「招請法」「招神法」や自己修養である「内丹」として変化していった。
特に「招神法」として発展し、地上に神を降ろす技法として斎戒で最も重要な役目を担っていくのだが、些か咒禁の時代とは時期がずれてしまう。
日本の咒禁師たちが行っていた存思を年代を基にして再構築してみると、六朝のものがベースで、徐々に唐代のものが入ってきたに違いない。
五臓神に想いを凝らせる技法と、丹田に一を巡らす方法が混在していたのではないだろうか。その後徐々に五臓神以外の内臓の神も加えられていっただろう。
対して、神々を体内に招き入れる「招神法」にまでは至らなかったと思われる。唐代の咒禁師は斎戒といって道教的な儀式を行っていたが、本朝の咒禁師は道教教団というバックボーンが無かったため、斎戒までは行われなかったからである。
「存思」のことについては前掲、山田利明氏の『六朝道教儀礼の研究』が特に詳しいので興味のある方はそちらを参考にしていただきたい。
確かに存思そのものは図像を内的に映像化する技法なのだが、どちらかというとこの存思というのは主に内臓に関する方術として先に発展した。
五臓六腑に宿る神々「身体神」を念じることで神々を臓腑に留めおき、健康になろうという素朴な発想である。
唐六典に残された五つの行法の中で、この存思が最初に記されているのは理に適っている。存思は禹歩と同じく最も古代から伝えられている行法であり、魔術的治療の根幹を成すものなのだ。
存思の中でオーソドクスなのは五つの臓器に配当されたそれぞれの神格を思い浮かべるものである。
自分の内臓にいる神に思いを凝らせるイメージ魔術とでもいおうか。このような身体神の存思については陶弘景『登真隠訣』に詳しい。
五つの臓器、五臓は五行に大きな関連を持つ。
五行家は肝、心、脾、肺、腎の五つの臓器を木、火、土、金、水に配当した。いや、木、火、土、金、水に結びつけるべく身体の中から五つの臓器を選び出したと言うべきだろう。
古代支那は世界を分割するのに二つの基準を用いた。
それが陰陽五行。二と五の世界である。陰陽は全てを二分し、五行は全てを五つの区分に配当する。
科学とは世界を分割し整理することであり、東洋科学が失敗したのは二と五に拘りすぎたためである。観測を元にして区分の融通を利かせる西洋科学が最終的には勝者となった。
支那の古代文明はその分割方式においてすら上意下達を貫こうとしたのだ。二と五を神聖視するあまり適切な区分を作り出すことができなかった。現実を理論でねじ曲げようとして失敗したわけである。
陶弘景は本草に対し自然分類を行ったが、あのような分割方法こそ支那では異端だったのだ。第一章で紹介した『説文解字』もまた五行で区分されており、現代の字画による分類とは一線を画している。
話が若干それてしまったので再び存思に戻すと、存思の一種に「守一(しゅいつ)」とも呼ばれる技法がある。
もともと、存思を行っていた太平道では存思のことを守一と呼んでいたらしい。
方術の原始経典とも呼べる『抱朴子』でも守一について詳しく書かれている。
山田利明氏の『六朝道教儀礼の研究』では、「『老子』のいう一を極端に神秘化して一神の神としたのが『抱朴子』の守一」とされている。
実在する五臓、その五臓に宿る神を念じるのが最も基本的な存思法であるが、「守一」は仮想の器官、丹田について想いを凝らすという点が異なる。
『抱朴子』の丹田は上丹田、中丹田、下丹田と三つに別れているのだが、「三つの丹田を一が巡る」という記述と「三丹田にそれぞれ一が存在する」という記述が混在している。
これは「三つの丹田を一が巡る」という説の方が古く、『抱朴子』が書かれた時代は過渡期だったためである。
存思はなんといっても簡単な方術なので、時代が下るにつれ爆発的にバリエーションが増えた。
特に『雲及七籤』にはあらゆる存思、存想、存神の用例が載せられている(前掲『六朝道教儀礼の研究』より)。
五臓神をベースとした存思にも時代による発展が見られ、最初から五臓神が体内に存在し、これに想いを凝らして逃げ出さないようにするというものの方が古く、対して外側から気を取り込み、五臓に配置するという「導引」と混ざったものの方が後代の技法である。
また、五臓神だけではなく脳の神など他の諸器官の神も付け加えられていった。この身体神であるが本来はその容姿や服装、色を秘とし、各流派はその姿を口訣として伝えた。だが、現在の道観ではこれら複数の内臓神を描いた存思用の掛け軸なども売っているぐらいであるから、その秘密主義はだいぶ薄れている。
この存思は時代と共に健康法から離れ、神々を肉体に呼ぶ「招請法」「招神法」や自己修養である「内丹」として変化していった。
特に「招神法」として発展し、地上に神を降ろす技法として斎戒で最も重要な役目を担っていくのだが、些か咒禁の時代とは時期がずれてしまう。
日本の咒禁師たちが行っていた存思を年代を基にして再構築してみると、六朝のものがベースで、徐々に唐代のものが入ってきたに違いない。
五臓神に想いを凝らせる技法と、丹田に一を巡らす方法が混在していたのではないだろうか。その後徐々に五臓神以外の内臓の神も加えられていっただろう。
対して、神々を体内に招き入れる「招神法」にまでは至らなかったと思われる。唐代の咒禁師は斎戒といって道教的な儀式を行っていたが、本朝の咒禁師は道教教団というバックボーンが無かったため、斎戒までは行われなかったからである。
「存思」のことについては前掲、山田利明氏の『六朝道教儀礼の研究』が特に詳しいので興味のある方はそちらを参考にしていただきたい。
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