個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 支那の医学の歴史は古い。
 現代の感覚で言えば呪的な治療法というのは傍流、というよりむしろ医療の枠外という扱いであるが、「医」の字の変遷を見ていくと別の光景が見えてくる。
 医の古字である醫は下が酒を意味する「酉」になっているが、異体字に「巫」になったものがある。
 歴史的な変遷を見ると下側が「巫」となっているものから「酉」になっており、中央アジア側から酒(アルコール)を使って薬草から薬効を抽出する技術が伝わってきてから「醫」になったのではないかと考えられている。
 それまではむしろ薬草を使った治療よりも呪術的治療こそが医の本流だったわけだ。

 だが、文書に残された記録的には既に呪術的治療よりも薬草や針を使った治療が本流となっている。文字の発明と薬効の記録が密接に関わっているからであろう。
 実際、支那の医学書である『黄帝内経素問』にも「昔は祝由(咒禁)で病が治ったのだが、現在は治らないので内科には毒薬を用い、外科には針石を元いる」とされている。

 支那の医学書の数は膨大であるが、突き詰めれば一冊に行き着く。
 それが『黄帝内経』である。

『黄帝内経』

 『黄帝内経』は支那における最古の医学書であるが、この名を関した書物がいくつも存在する。
 例えば先程の『黄帝内経素問』に加え、『黄帝内経霊枢』『黄帝内経明堂』『黄帝内経甲乙経』等である。
 これは前漢時代に存在したとみなされる『(原始)黄帝内経』が逸失し、後世の学者が何度も編纂を行ったためである。
 便宜上、これらはまとめて「内経系医書」と呼ばれている。

 『(原始)黄帝内経』が前漢時代に存在したとみなされると書いたが、実はこの『黄帝内経』はまだ研究途上でありいくつもの学説が存在する。前漢時代に纏められたというものや、何百年も離れた二つのグループによって作られた二系統の書籍を纏めたものという予測もある。
 馬王堆から発掘された医学書との比較からも様々な知見が得られており、今後も数多くの発見が見込まれている分野なのだ。
 現行の研究で分かっているこれら黄帝内経系文書の歴史に現れただいたいの順番を表す。

前漢:『(原始)黄帝内経』が現れた。
前漢から後漢の間ぐらい:『鍼経』が現れた。
後漢:『(原始)素問』、続いて『鍼経』の大半を引き継いだ『(原始)霊枢』が纏められた。
三国:経脈と経穴に関して専門的に論じた『明堂』が現れる。
六朝:皇甫謐によって『(原始)素問』、『(原始)霊枢』、『明堂』を纏めた『甲乙経』が作られる。
唐代:『(原始)素問』『(原始)霊枢』に加え、『黄帝内経』と同時代と目される『黄帝泰素』を纏めた『太素』が現れる。唐初の道士楊上善による注釈が施されているが、楊上善が纏めたものであるかどうかは不明。その後、新たな『素問』と『霊枢』が王冰によって纏められる。

 唐代までの内経系医書の流れを纏めるとこのようになる。ただ、あくまでこれは一例で、研究者によっていくらでも違いが生じるだろう。
 各書籍の内容については次節の「古代日本の医学」で解説する。

傷寒雑病論(傷寒論)

 『黄帝内経』と同様に最古の医学書としてあげられるのが『傷寒雑病論』である。
 後漢の医療官僚、張仲景(張機)が一族を「傷寒」という伝染病で失ったため纏めたものであり、内容は伝染病に対する治療法が中心となっている。
 ただ、この本も『黄帝内経』を参考にしていると考えられ、独立した書籍ではなく内経系医書の一種であるという見方もある。
 傷寒は『傷寒雑病論』に記載された症状からするとマラリアの一種ではないかと考えられているが、現在の中国ではチフスのことを意味する。
 『黄帝内経』だけではなく、この本もまたまだまだ研究途中である。特に宋代に作られた『傷寒雑病論』は張仲景の原本をかなり改竄していると考えられている。
 後述の『神農本草経』が薬草の薬効に着目しているのに対し、『傷寒雑病論』は病状に合わせてどの薬を処方すべきかが書かれている。

神農本草経

 漢方は針と同じく支那の伝統医学を構成する重要な要素である。
 『傷寒雑病論』と同時代に成立したと考えられている。
 陶弘景の項目で一部解説したが、あくまで薬学の書物であり咒禁の要素はない。

 支那の医学書は膨大な数があり、その全てを解説するのは不可能である。ただ、本稿でこれ以降に述べる咒禁のことを理解するためであれば上記の三書を押さえるぐらいでいいだろう。





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