個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 咒禁師は天武天皇下で唐の律令を参考にして導入されたが、必要な人材を得られず衰退していった。
 衰退の決定打は陰陽師との争いではなく、道鏡を代表とする看病禅師によって呪術的医療というその権能を簒奪されたためである。ただし、簒奪した側にその自覚はなかった。
 陰陽師は咒禁師の権能を奪ったのではなく、二百年後の平安時代になって咒禁のような魔術的治療法が必要とされたことにより自らの魔術的権能を発達させていったのである。よって、咒禁は陰陽道の一部になった。

 徒花(あだばな)。
 これほどこの言葉がピッタリ来る制度もそれほどないだろう。咒禁師とは天武天皇下でうっすらと花を咲かせ、その後ひっそりと散っていったのである。




Menu

備忘録本編

「獲加多支鹵」の読み方について
銅鐸時代

【メニュー編集】

管理人/副管理人のみ編集できます