個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

補給

 このように行き当たりばったり式で戦線を拡大した結果、食料と軍事物資の補給がほぼ途絶える。
 上海戦に備えて弾薬等の軍事物資はまだ余裕があったが、特に食料の不足は想像を絶するものであった。
 このため、上海―南京間の農村は大被害を蒙ることになる。日本軍はそれこそ蝗のように収穫した食料を食い尽くしていったからだ。
 「中国軍が上海―南京間において清野戦術という徹底した焦土戦術を行っていた」という説もあるが、上海から南京に雪崩を打って逃げ出している中国軍はまともな命令系統もなく日本軍をハメようとして整然と撤退戦を行っていたのではないのだからこの説には無理がある。逃げ出した中国軍の兵士が途中にある農家の食料を奪っていたのは間違いないが、日本軍のように部隊ごとに農村の家屋を接収してのどかに豚や鶏を徴発していたのとは必死さが異なるであろう。
 実際のところこの清野戦術が行われたのは12月7日から12月9日までの3日間、それもまだ中国軍の支配地域であった南京城市周辺だけであり、日本軍はむしろ南京に着いてから真の食糧不足に悩まされることとなる。
 つまり、12月6日以前の南京包囲網準備期間において、上海―南京間では日本軍による凄まじい略奪が行われていたのである。そして12月7日以降、次の段階で行われたこの中国軍の清野戦術により補給(略奪)の滞った日本軍は南京市内での略奪を余儀なくされ、後述する捕虜をとらないことによる大虐殺が発生した。

1937年12月3日

常州に海軍航空基地開設。南京爆撃に用いられる。

1937年12月4日

第十六師団、南京当方の丹陽から句容に進撃。このあたりはまだ豚や鶏が残っていた。
その後の報告からも第十六師団は現地からの略奪により順調に糧食を得ていたことが分かる。

1937年12月6日

南京包囲網がほぼ完成する。

1937年12月7日

松井、太湖北東の蘇州へ移動。12月5日〜15日説あり。
「南京城攻略要領」配布。
蒋介石を含む南京の要人、翌日までにほとんどが脱出。
中国軍による清野戦術開始。12月9日まで。

1937年12月8日

南京城攻囲完成。

1937年12月9日

航空機で南京城内八か所に降伏勧告文を配布。
回答期限はなんと10日の正午である。南京攻略を念頭においた茶番としか言いようがない。

1937年12月10日

予定通り南京攻略開始。

1937年12月11日

国崎支隊、長江を渡る。対岸からの補給と南京からの退路を断つためである。
南京陥落の誤報により日本中がお祭り騒ぎとなる。

1937年12月12日

揚子江上に浮かんでいたアメリカの警備船を航空機で撃沈する「パネー(パナイ)号事件」発生。あとアメリカのタンカーも撃沈している。
南京総司令唐生智脱出。以降中国軍側総崩れとなる。
第六師団と第百十四師団、南京城南の雨花台を占領。第六師団はそのまま南京城西側を北上していく。長江を渡って撤退しようとしていた中国軍はこの第六師団によって壊滅する。
第十六師団、南京城東の紫金山を攻略。
北方は第十三師団の山田支隊が抑える。
国崎支隊、長江対岸の重要拠点江浦城に侵攻。
日本では南京陥落の祝賀行事が行われる。

1937年12月13日

未明、南京陥落。
ただし、正式には第十六師団が国民政府庁舎に日章旗を掲揚した午後四時をもって「南京陥落」とする。
残敵掃討開始。
この件については中島今朝吾日記がよく引き合いに出されるが、現物を見ていないので慎重を期す。

便衣兵

一般人の服を着た兵士、という意味である。中国軍の兵士は最終的に一般人の服を略奪してまで着替え、どうにもならない場合は下着だけとなった。軍服を着ていれば日本軍に殺されるからである。
結局一般人と見分けがつかなくなったため、日本軍は適当に軍人っぽそうな青壮年男子を皆殺しにしていく。これが世にいう「南京大虐殺」である。
ただ、「南京大虐殺」という名称にすると女子供まで手当たり次第皆殺しにしていたようなイメージをもたれるのが難点だ。
なんといっても食料がないので捕虜になぞできないのだが、皆殺しにしようとしても銃弾が足りず、突き殺すのも大変、死体の処理も大変、しかし放っておけば今度は襲われる恐れがある。往くも地獄、帰るも地獄とはまさにこのことであろう。
第十三師団山田支隊の山田少将の陣中日記には、
「斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ」
と表現されている。
南京事件擁護派、幻派(なかった派)は「便衣兵だから捕虜じゃないから殺していいよ」と言い切る。なぜこのような言い切りになってきたのかというと昔は「虐殺など存在しない」「支那兵を殺してはいなかった」と言っていたのが大量かつ組織的に殺害していた証拠・証言が続々と出てきたため言い逃れができなくなり、「便衣兵だから殺しても問題なかった」という論にシフトしていったのである。もちろん大量殺戮派は「いや、投降したのであるから捕虜である」と言い募って対抗していく。
これらの論は1899年にオランダのハーグで採択された「ハーグ陸戦条約」にのっとっているかのっとっていないか、という文脈から発生するのだが、上海南京戦争時代における末端の日本兵、支那兵ともにそんな条約は知ったことではないのであまりこの「便衣兵-捕虜論争」には関わらない方が良い。

1937年12月14日

掃討戦継続。

1937年12月15日

第十六師団中島今朝吾、独断で第十六師団の入城式を行う。
松井、南京東方の湯水鎮で戦災孤児の女赤子を助ける。松井賛美派はこの美談を抜かすことは無い。

1937年12月16日

17日入城式決行決定。
松井日記
「余リ入城ヲ遷延スルモ面白カラサレハ 断然明日入城式ヲ挙行スルコトニ決ス」

1937年12月17日

入城式。

ジャーナリストと上海南京戦争

 上海南京戦争時、数多くのジャーナリストが我先に南京へと向かったが、彼らは城内での惨劇についてはまず触れていない。これは当然で、そんなことを書けば命が無かったからである。
 こういう人間が何を見てきたかは、むしろ戦後、自由にものが言える状態になってからの文章を見た方が良い。
 例として大宅壮一がいる。大宅は12月13日には中山門に辿り着き、翌14日には南京城内を見て回っている。日本に帰ってから書いた『改造』という雑誌の記事には虐殺についてはひとことも記してはいない。ところが1969年の『サンデー毎日』には
「入城と同時に南京市内では手当たりしだいの殺人、暴行、略奪が行われたが、その日も今日と同じような好天気で地獄のパノラマを見るようであった」などととんでもないことをしれっと書いてのけているのである。

1937年12月18日

松井訓示
「日支一体の必要を感ぜしむる以外、出征の目的達成の途なし」
慰霊祭。

1937年12月21日

松井、南京を視察。

1937年12月22日

松井、上海に帰着。

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銅鐸時代

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