最終更新: arahito_tajima 2014年03月20日(木) 00:19:03履歴
このように行き当たりばったり式で戦線を拡大した結果、食料と軍事物資の補給がほぼ途絶える。
上海戦に備えて弾薬等の軍事物資はまだ余裕があったが、特に食料の不足は想像を絶するものであった。
このため、上海―南京間の農村は大被害を蒙ることになる。日本軍はそれこそ蝗のように収穫した食料を食い尽くしていったからだ。
「中国軍が上海―南京間において清野戦術という徹底した焦土戦術を行っていた」という説もあるが、上海から南京に雪崩を打って逃げ出している中国軍はまともな命令系統もなく日本軍をハメようとして整然と撤退戦を行っていたのではないのだからこの説には無理がある。逃げ出した中国軍の兵士が途中にある農家の食料を奪っていたのは間違いないが、日本軍のように部隊ごとに農村の家屋を接収してのどかに豚や鶏を徴発していたのとは必死さが異なるであろう。
実際のところこの清野戦術が行われたのは12月7日から12月9日までの3日間、それもまだ中国軍の支配地域であった南京城市周辺だけであり、日本軍はむしろ南京に着いてから真の食糧不足に悩まされることとなる。
つまり、12月6日以前の南京包囲網準備期間において、上海―南京間では日本軍による凄まじい略奪が行われていたのである。そして12月7日以降、次の段階で行われたこの中国軍の清野戦術により補給(略奪)の滞った日本軍は南京市内での略奪を余儀なくされ、後述する捕虜をとらないことによる大虐殺が発生した。
上海戦に備えて弾薬等の軍事物資はまだ余裕があったが、特に食料の不足は想像を絶するものであった。
このため、上海―南京間の農村は大被害を蒙ることになる。日本軍はそれこそ蝗のように収穫した食料を食い尽くしていったからだ。
「中国軍が上海―南京間において清野戦術という徹底した焦土戦術を行っていた」という説もあるが、上海から南京に雪崩を打って逃げ出している中国軍はまともな命令系統もなく日本軍をハメようとして整然と撤退戦を行っていたのではないのだからこの説には無理がある。逃げ出した中国軍の兵士が途中にある農家の食料を奪っていたのは間違いないが、日本軍のように部隊ごとに農村の家屋を接収してのどかに豚や鶏を徴発していたのとは必死さが異なるであろう。
実際のところこの清野戦術が行われたのは12月7日から12月9日までの3日間、それもまだ中国軍の支配地域であった南京城市周辺だけであり、日本軍はむしろ南京に着いてから真の食糧不足に悩まされることとなる。
つまり、12月6日以前の南京包囲網準備期間において、上海―南京間では日本軍による凄まじい略奪が行われていたのである。そして12月7日以降、次の段階で行われたこの中国軍の清野戦術により補給(略奪)の滞った日本軍は南京市内での略奪を余儀なくされ、後述する捕虜をとらないことによる大虐殺が発生した。
揚子江上に浮かんでいたアメリカの警備船を航空機で撃沈する「パネー(パナイ)号事件」発生。あとアメリカのタンカーも撃沈している。
南京総司令唐生智脱出。以降中国軍側総崩れとなる。
第六師団と第百十四師団、南京城南の雨花台を占領。第六師団はそのまま南京城西側を北上していく。長江を渡って撤退しようとしていた中国軍はこの第六師団によって壊滅する。
第十六師団、南京城東の紫金山を攻略。
北方は第十三師団の山田支隊が抑える。
国崎支隊、長江対岸の重要拠点江浦城に侵攻。
日本では南京陥落の祝賀行事が行われる。
南京総司令唐生智脱出。以降中国軍側総崩れとなる。
第六師団と第百十四師団、南京城南の雨花台を占領。第六師団はそのまま南京城西側を北上していく。長江を渡って撤退しようとしていた中国軍はこの第六師団によって壊滅する。
第十六師団、南京城東の紫金山を攻略。
北方は第十三師団の山田支隊が抑える。
国崎支隊、長江対岸の重要拠点江浦城に侵攻。
日本では南京陥落の祝賀行事が行われる。
未明、南京陥落。
ただし、正式には第十六師団が国民政府庁舎に日章旗を掲揚した午後四時をもって「南京陥落」とする。
残敵掃討開始。
この件については中島今朝吾日記がよく引き合いに出されるが、現物を見ていないので慎重を期す。
ただし、正式には第十六師団が国民政府庁舎に日章旗を掲揚した午後四時をもって「南京陥落」とする。
残敵掃討開始。
この件については中島今朝吾日記がよく引き合いに出されるが、現物を見ていないので慎重を期す。
一般人の服を着た兵士、という意味である。中国軍の兵士は最終的に一般人の服を略奪してまで着替え、どうにもならない場合は下着だけとなった。軍服を着ていれば日本軍に殺されるからである。
結局一般人と見分けがつかなくなったため、日本軍は適当に軍人っぽそうな青壮年男子を皆殺しにしていく。これが世にいう「南京大虐殺」である。
ただ、「南京大虐殺」という名称にすると女子供まで手当たり次第皆殺しにしていたようなイメージをもたれるのが難点だ。
なんといっても食料がないので捕虜になぞできないのだが、皆殺しにしようとしても銃弾が足りず、突き殺すのも大変、死体の処理も大変、しかし放っておけば今度は襲われる恐れがある。往くも地獄、帰るも地獄とはまさにこのことであろう。
第十三師団山田支隊の山田少将の陣中日記には、
「斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ」
と表現されている。
南京事件擁護派、幻派(なかった派)は「便衣兵だから捕虜じゃないから殺していいよ」と言い切る。なぜこのような言い切りになってきたのかというと昔は「虐殺など存在しない」「支那兵を殺してはいなかった」と言っていたのが大量かつ組織的に殺害していた証拠・証言が続々と出てきたため言い逃れができなくなり、「便衣兵だから殺しても問題なかった」という論にシフトしていったのである。もちろん大量殺戮派は「いや、投降したのであるから捕虜である」と言い募って対抗していく。
これらの論は1899年にオランダのハーグで採択された「ハーグ陸戦条約」にのっとっているかのっとっていないか、という文脈から発生するのだが、上海南京戦争時代における末端の日本兵、支那兵ともにそんな条約は知ったことではないのであまりこの「便衣兵-捕虜論争」には関わらない方が良い。
結局一般人と見分けがつかなくなったため、日本軍は適当に軍人っぽそうな青壮年男子を皆殺しにしていく。これが世にいう「南京大虐殺」である。
ただ、「南京大虐殺」という名称にすると女子供まで手当たり次第皆殺しにしていたようなイメージをもたれるのが難点だ。
なんといっても食料がないので捕虜になぞできないのだが、皆殺しにしようとしても銃弾が足りず、突き殺すのも大変、死体の処理も大変、しかし放っておけば今度は襲われる恐れがある。往くも地獄、帰るも地獄とはまさにこのことであろう。
第十三師団山田支隊の山田少将の陣中日記には、
「斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ」
と表現されている。
南京事件擁護派、幻派(なかった派)は「便衣兵だから捕虜じゃないから殺していいよ」と言い切る。なぜこのような言い切りになってきたのかというと昔は「虐殺など存在しない」「支那兵を殺してはいなかった」と言っていたのが大量かつ組織的に殺害していた証拠・証言が続々と出てきたため言い逃れができなくなり、「便衣兵だから殺しても問題なかった」という論にシフトしていったのである。もちろん大量殺戮派は「いや、投降したのであるから捕虜である」と言い募って対抗していく。
これらの論は1899年にオランダのハーグで採択された「ハーグ陸戦条約」にのっとっているかのっとっていないか、という文脈から発生するのだが、上海南京戦争時代における末端の日本兵、支那兵ともにそんな条約は知ったことではないのであまりこの「便衣兵-捕虜論争」には関わらない方が良い。
上海南京戦争時、数多くのジャーナリストが我先に南京へと向かったが、彼らは城内での惨劇についてはまず触れていない。これは当然で、そんなことを書けば命が無かったからである。
こういう人間が何を見てきたかは、むしろ戦後、自由にものが言える状態になってからの文章を見た方が良い。
例として大宅壮一がいる。大宅は12月13日には中山門に辿り着き、翌14日には南京城内を見て回っている。日本に帰ってから書いた『改造』という雑誌の記事には虐殺についてはひとことも記してはいない。ところが1969年の『サンデー毎日』には
「入城と同時に南京市内では手当たりしだいの殺人、暴行、略奪が行われたが、その日も今日と同じような好天気で地獄のパノラマを見るようであった」などととんでもないことをしれっと書いてのけているのである。
こういう人間が何を見てきたかは、むしろ戦後、自由にものが言える状態になってからの文章を見た方が良い。
例として大宅壮一がいる。大宅は12月13日には中山門に辿り着き、翌14日には南京城内を見て回っている。日本に帰ってから書いた『改造』という雑誌の記事には虐殺についてはひとことも記してはいない。ところが1969年の『サンデー毎日』には
「入城と同時に南京市内では手当たりしだいの殺人、暴行、略奪が行われたが、その日も今日と同じような好天気で地獄のパノラマを見るようであった」などととんでもないことをしれっと書いてのけているのである。
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