個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

僧尼令

 咒禁のことを調べていくと、どうしても医疾令だけではなく養老律令の僧尼令のことについて触れないといけない。
 この僧尼令というのは唐律令では道僧格といって格だったものを令に格上げしたりと、非常に日本独自の影響が強い令なのである。

 復元された養老律令・僧尼令の第一条、第二条を見てみよう。

僧尼令 1 観玄象条 凡僧尼。上観玄象。仮説災祥。語及国家。妖惑百姓。并習読兵書。殺人奸盗。及詐称得聖道。並依法律。付官司科罪。
僧尼令 2 ト相吉凶条 凡僧尼。ト相吉凶。及小道巫術療病者。皆還俗。其依仏法。持呪救疾。不在禁限。

 僧尼令という名前の法律であるならば第一条は「そもそも僧尼とは何か」や「僧尼になるにはどのような手続きを踏めば良いのか」が書かれていそうなものだが、いきなり「僧尼として行ってはならないことは何か」が書かれているのだ。このあたりで既にこの僧尼令というものの性格が現れている。
 第一条を詳しく見ていくと、観玄象とは天体の動きを観ること、仮説災祥とは災いを言いふらすこと、妖惑百姓とは百姓を惑わすことで、これらのことをすれば罪に問うと言っている。
 続いて第二条だが、こちらの方がより咒禁と関係が深い。ト相吉凶とは吉凶を占うこと、小道巫術療病者とは道術を用いて病人を治すことで、このようなことをすれば還俗させると言っている。ところが、

 其依仏法持呪救疾不在禁限

 ということで、日本においては仏法の持呪で病を救うことは禁じられていないというのである。
 これは続日本紀で

 僧尼依佛道。持神咒以救溺徒。施湯藥而療痼病。於令聽之。

 と、「僧侶が仏道の神咒を持って、湯薬を施して病気を癒すのは令において許されている」と明記されていることと一致する。

 ただし、令集解では「古記云。持呪謂経之呪也。道術符禁。謂道士法也。今辛国連行是」となっている。
 つまり、「仏法の持呪」ではなく「仏法及び道術符禁で病を救うことは禁じられていない」という意味になる。
 ただ、「今辛国連行是(持呪は現在辛国連がこれを行う)」と書かれていることから、僧尼が道術符禁を行うということと矛盾する。古記は既に散逸しているため、古記にいう「持呪」が果たしてこの僧尼令の「持呪」を差しているのかどうかは詳らかではない。

 ここで再び唐の律令と比較していきたいのだが、残念ながら唐令の道僧格もまた失われている。
 そこで唐六典を見てみると、僧尼に加えて道士、女冠(女道士)もまたト相吉凶してはならないこととされている。
 また、唐会要巻五十では

 永徽四年四月敕:道士、僧尼等,不得為人療疾及卜相。

 と書かれている。
 このとおり、僧尼は仏法なら病を救ってよいということはどこにも書かれていない。それどころか唐では道士も僧尼も人を治療してはならないと明記されている。唐の咒禁師が道教教団から派遣されているわけではなく、太醫署で養成されていることもこれと符合する。咒禁師は医師であって道士ではないのだ。

 このあたりに私は、日本のしたたかさというものを感じる。唐という先進国、大帝国で使われているものをそのまま使用するのではなく、自分たちの実情に合わせてうまく作り変えているのだ。華夷秩序の中で自分たちを二番手と位置づけ、支那の律令を恭しくそのまま施行した朝鮮との違いを感じるのである。

小道

 先程見ていただいた僧尼令第二条の「小道巫術」という言葉はなかなかきついものがある。
 唐の律令で「小道」などと書かれている記述は存在しない。唐の道教偏重具合からして、「小道」などという道教を卑下した用語を用いるわけがない。やはり養老律令の僧尼令はかなり唐の道僧格とかけ離れていると見て間違いないだろう。
 養老律令の僧尼令から逆に唐の道僧格を復元しようという試みがあるが、私はかなり無理があるのではないかと考えている。

 続いて868年頃に編纂された令集解を見ていくと、小道とは「厭符、小厭小符の類」とされている。また、持呪とは「経の咒」であるとされている。
 この「小道」という言葉に、道教に対する悪意、そこまでいかなくても嘲りに近い感情を感じるのである。

 日本が道教より仏教を重視していたのは、淡海三船が著した鑑真和尚の伝記『唐大和上東征伝』にも記されている。
 淡海三船は『唐大和上東征伝』でも有名だが、神武天皇から元正天皇までの漢風諡号を一括撰進したことでも知られている。つまり、それまで「天武天皇」などといった呼び方は誰もしていなかったのだ。
 『唐大和上東征伝』が著されたのは779年であるが、この一文に、

 主上要令将道士去、日本君王先不崇道士法、便奏留春桃原等四人令住學道士法

 とある。ここで言うところの主上とは当時の唐の皇帝玄宗のことである。
 鑑真を日本に招来する時に玄宗は日本の君主が道士の法を尊敬していないので道士を連れて帰れと言ったのである。これは玄宗の道教への偏向からして納得のいく話であった。
 ここから分かるのは、当時唐では既に日本で道教が尊敬されていないことを知っていたということと、日本は別にそれを問題視していなかったということである。
 隋代以前、道教系の方術は支那の先端的な養生法、避邪法として捉えられていた。道教が国家宗教として初めてシビアな意味を持つようになったのがこの唐代である。
 本文ではその後、留春桃原等の四人を道士法を学ばせるために住ませたと言う。
 だが、玄宗は762年に没してしまう。そしてこの時期の遣唐使はかなり失敗している。唐まで辿り着けなかったり、帰途で沈没していたりするのだ。
 このため、残念ながら西安で墓誌の発見された井真成のように留春桃原以下四名は日本に返ってこなかったようである。彼らが帰ってきていれば日本にも道観ができていたのかもしれない。

 さて、ここで留春桃原と書いたが、この部分を同様に引用した井上靖の『天平の甍』では、

 春桃原ら四人を選んで、彼らを唐土に留めて、

 となっている。
 留が名前扱いではなく、動詞扱いになっている。
 更に、留春・桃原という二人の人物扱いをしている説もある。
 ただ、この当時の日本人で留春もしくは春桃原などという名前の人物が本当にいたのだろうか?春で一つの姓かもしれないが、なんだか日本人らしくない名前である。渡来人でもこのような名字は見たことがない。
 また、唐側の史料でこのように名前を支那風に略すことはあっても、それを日本側の記述でそのまま使うというのもおかしな話である。

咒禁への影響

 こうした道教への嘲りや無視は、多かれ少なかれ道教を源流とする咒禁に影響を及ぼしただろう。先述のとおり教団道教と咒禁は厳しく分断されていたのだが、掌訣の所でも見たとおりバックグラウンドとして宮廷内で当たり前に道教儀式が行われていなければ用いられない技法も多い。
 とはいえ、咒禁は支那の先端的医療知識であった。道教が日本において避けられたとしても、何もなければ医療技法として命脈を保っていたに違いない。
 咒禁の息の根を止めたのは、同じ支那、そしてそれよりも遠い天竺の知識を得た仏教側の医療知識だったのである。





Menu

備忘録本編

「獲加多支鹵」の読み方について
銅鐸時代

【メニュー編集】

管理人/副管理人のみ編集できます