個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

生誕年

賀茂在昌の死亡日はいくつか記録に残されているので、比較的生誕年の計算は簡単です。
現在手に入る陰陽道関連の書籍にはよく慶長八年(1603)没と書かれているのですが、不思議なことに収集した史料からすると慶長四年(1599)八月没となっています。
手に入った史料は『歴名土代』と『系図纂要』なのですが、ともに「慶長四年八月卒」となっており、『歴名土代』では八十、『系図纂要』では八十一となっています。
なんといっても『歴名土代』は山科言継の息子言経が加筆を行っており、言経は慶長十六年(1611)に没していることから優れて同時代的なのです。
残念ながら『系図纂要』は江戸時代末期の作なので、この件に関しては『歴名土代』を参考にした方が良いでしょう。
慶長四年八十一歳説をとると、在昌は永正16年(1519)の生まれとなります。

では、ここで問題となるのが、いったい慶長八年説はどこから湧いて出たか、ということです。

在昌の死亡、慶長八年説の起こり(ここからは妄想です)

ここからは完全に仮説なので信用しないようにしてください。

『系図纂要』を手に入れたとき、気になったのが「同」という字の草書体です。
『系図纂要』では該当する部分に、
「慶長四年従四下 同年八ノ卒八十一」
と書かれています。
「従」の字もそうなのですが、「同」の字も草書体で非常にわかりにくい。「同」の中にある「一」と「口」がなくなり、左部分と上右部分が泣き別れているのです。
ここで私は気づいたのですが、何も知らない人間がこの「同年八ノ卒」を見て、間違えたのではないでしょうか?
つまり、「同」の草書体を見て、「八年八ノ卒」と勘違いしたのです。

これはあくまで仮説でしかありません。
どなたか在昌の死亡年が「慶長八年」と書かれている歴史的史料(大正以前に編纂された史料)があればお教えください。このページだけコメントが生きているのでコメント欄に記入をお願いします。

追記(2011/10/09):「陰陽頭賀茂在昌のキリスト教受容をめぐって」西蓮寺育子『キリシタン史の新発見』では「『歴名土代』によれば(略)慶長八年卒。」となっています。ところが国立国会図書館蔵の『歴名土代』では「慶長四年八月 日卒」と明記されています。この違いはどこからくるのでしょうか?
追々記(2011/10/09):木場明志「歴道賀茂家断絶の事」でも「『歴名土代』から(略)慶長八年八月卒。」となっています。
追々々記(2014/5/15):木村純子『室町時代の陰陽道と寺院社会』では『兼孝公記別記』慶長五年十二月八日条に在昌の活動記録が残されているとのことで、後に述べる慶長十五年六月の方広寺大仏殿再興文と共に再考を要します。木村氏は「慶長四年死去とは断じがたい」としています。

生誕地


戦国時代のキリスト教資料に現れる「マノエル・アキマサ」が賀茂在昌であると最初に提唱されたのはキリスト教学者の海老沢有道先生です。
その海老沢先生が、奇妙な記述に出くわしました。

「マノエル・アキマサは山口の生まれである」

この記述を見て海老沢先生は疑問を抱かれました。賀茂家といえば末端ながら公家。公家なら生まれは京都であろう、と。ただ、公家が戦乱を避けて山口に下ることもあっただろうと予測されています。

逆に私はこの記述を知ってオッと驚きました。
なぜなら賀茂家は当時山口を支配していた大内氏と密接な関係があったからです。
特に勘解由小路在宗は大内政弘の叙位に大いに力を尽くしたため、大内家からの扱いも並みならぬものでした。ここらへんの応仁の乱前後における大内家と賀茂家のつながりは森茂暁氏の研究に詳しいです。
また、末柄豊氏による勘解由小路家の所領の研究でも在富(在昌の父)以前における大内家との関係が見受けられます。

海老沢先生にしてみれば京都の公家が山口の生まれというのは首をかしげる記述だったわけでしょうが、私にしてみればアキマサが山口の生まれというのは「マノエル・アキマサ=賀茂在昌説」を補強する材料になったわけです。

なお、周防大内家は弘治3年(1557)に滅亡します。ただでさえ少なかった所領がさらに減ったことから、勘解由小路家は苦難の時代を迎えます。




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