個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

メルショル

 豊後における在昌の話は伝わっていませんが、彼の息子の話が伝わっています。

 まず、フロイスの書いた文章を見ていきましょう。同じ文章ですが、海老沢有道氏の翻訳文と、松田毅一氏・川崎桃太氏訳の『日本史』を比べてみます。

「この貴族〔アキマサ〕は彼の信心の印として、一人の息子をデウスの御奉仕に捧げる決意をした。この者は当時十一才で、快活怜悧な少年であるが、後年口ノ津で病死した」
(海老沢有道『マノエル・アキマサと賀茂在昌』より)

「この貴人(在昌)は、自らの信心から、息子の一人をデウスに奉仕させるために捧げようと決心した。(息子)は当時十一歳で、活発で賢い少年であったが、後年、口之津で病死するに至った」
(松田毅一・川崎桃太訳『日本史』)

 比べてみると下の方が直訳っぽいことが分かります。「奉仕させるために捧げようと」などは非常に西洋風の言い回しですね。また上では「快活怜悧な少年」となっていますが下では「活発で賢い少年」となっており、原文では本来形容詞が二つ連続しているくさい。このことから海老沢先生の翻訳は意訳っぽく、松田毅一氏・川崎桃太氏訳の『日本史』は直訳っぽくなっているのではないかという予想が成り立ちます。

 ここからは海老沢有道『マノエル・アキマサと賀茂在昌』の孫引きになるのですが、「日本イエズス会離脱者名簿」によると、

「六番目の〔離脱者の〕は伊予の国で生まれた日本人メルシヨルで、都の最初のキリシタンのマノエル・アキマルサの息である。」
「退会の三四ケ月後の一五八五年に、天草で告解もせず夜陰悲惨にも殺された。」

 とあり、「日本で入会したイルマン表」では、

「その同じ年〔一五八〇〕に日本人イルマン・メルショルが受け入れられた。彼は伊予の国の生まれで、のちに退会させられた。」

 となっているそうです。

 ここで、フロイスの話と若干齟齬が見られます。フロイス『日本史』では在昌が息子や娘たちを伴っていること、またフロイスたちと出会った正にその日に男児が生まれていることが記されています。フロイスの話では当時十一歳の息子を奉仕させたとなっているのですが、「日本イエズス会離脱者名簿」では伊予で生まれた息子が入信したことになっています。
 ただ、海老沢先生の計算では伊予生まれの子であれば「イルマンという正規の入会者としては年少にすぎる嫌いがある。」とのことです。
 他にもここで言及されているのは兄と弟で、兄は病死、伊予で生まれた弟は殺されたのかもしれません。

 私としては年齢とフロイスの記述から伊予で十一歳だった兄が天草で殺されたのではないかと考えています。デウスに奉仕させた息子が脱会したというのでは感動も薄れてしまうからです。
 あと、伊予で生まれた息子の方はキリスト教徒にならなかったのではないかと考えています。この第二の息子の話はまた別のページに記しましょう。




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