個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 最近、「戦国時代の陰陽師」というキーワードで検索して当サイト来られる方が多いようです。
 これはタイトルで「戦国時代の陰陽師:賀茂在昌」と表記してしまっているせいですが、残念ながら当サイトの専門分野である「賀茂在昌」は確かに戦国時代の陰陽師であるもののどちらかというと「異端の存在」です。
 在昌の話を読んだ人に「これが戦国時代の陰陽師か」と間違ったイメージを植え付けてしまうのも問題でしょう。
 というわけで、近年進んできた戦国時代の陰陽師研究について少しだけ触れておくことにします。

 陰陽師の最盛期は安倍晴明を頂点とする平安時代後期である……というのが1990年代ぐらいまで一般的な通念でした。
 しかし、近世の陰陽道資料が集まってきたことで、大いに見直しが図られています。
 具体的には室町期において宮廷陰陽師は重用され高官位化していくとともに、民間では「唱門師(声聞師)」と呼ばれる俗流の陰陽師が活発に活動していたことが分かっています。
 なお、「天社土御門神道」といって陰陽道が神道化していくのは江戸時代の土御門家泰福の頃、将軍でいうと徳川綱吉かそのあとぐらい、徳川吉宗の前あたりですから、戦国時代はまだ神道化していません。
 といって全く神道が関係なかったのかといえばそうでもなく、そのあたりは下の「唱門師」において触れましょう。

宮廷陰陽師


 戦国時代の陰陽師の実像は、在昌よりもその父である在富の活動を見た方がよいのです。
 在富は暦の提出が本業ですが、頻繁に宮中で身固(みかため)儀式を行うと同時に、地震や天文に異常があれば「勘文」という調査書を提出していました。
 宮中以外の業務でいうと、天文二年には美濃に下向しています。これは美濃守護である土岐頼藝の病治癒に対する祈祷を依頼されてのようです。
 同様に天文八年には九州に下向しています。このときの下向理由は判然としませんが、北九州に勘解由小路の所領があったらしいのでその関係かもしれません。

 対して土御門有脩は天文に異変が起きたとき、勘文の提出より祈祷を任されていることが多い。暦の提出も在富と同時に提出していることが多く、「暦の勘解由小路」に対して「祈祷の土御門」といった区分が認められます。身固儀式は暦よりむしろ祈祷に含まれるのですが、記録に残る有脩による身固の回数が在富より少ないのは本拠地の名田庄にいてあまり京都にいなかったことが原因でしょう。
 有脩は他にも陣中の武将に呼び出されたりしており、吉凶を占うか何らかの祭儀を執り行っていたものと思われます。

唱門師


 宮廷陰陽師とは別に、民間陰陽師ともいえる「唱門師」の記録が徐々に発掘されています。
 唱門師はもっとさかのぼると声聞師といって万歳等の芸能の話まで繋がってくるのですが、本稿ではそこまで踏み込ません。
 彼らは周易、暦、神道の祓い、仏道の加持祈祷、果ては狐狸の類など、土御門の伝える陰陽道とは別種の法式を行っていました。まさしく民間陰陽道とでも呼べる魔術を執り行っていたのです。
 ここで注目してほしいのは、この時点ですでに神道系儀式を行っていた者が僅かながらでも存在するということです。

 この「唱門師」と「陰陽師」の区分について、江戸時代の話になりますが土御門家は口寄せ系統の術師を「唱門師」、竈払い系の術師を「陰陽師」と分けようとしています。神道系に近い竈払い系術師を「陰陽師」に取り込み、死穢に繋がる口寄せ系統の術師を外そうとしたものであろうとされていますが、あくまでこれは天社土御門神道が出始めの時期なので、戦国時代にこのような区分がなされていたわけではありません。
 むしろ、天皇・公家・武将によって使われていたのが「陰陽師」、民間で雑多な魔術を使っていたのが「唱門師」である、というのが戦国時代の陰陽師の区分でしょう。

 というわけで、戦国時代でも陰陽師はわりと一般的な存在です。「戦国時代に陰陽師が衰退した」という評価は戦乱で土御門家が京都の家をなくしたことと、勘解由小路家が断絶したことによる宮廷陰陽師に対するものでしょうが、それまでは宮中や武家で十分に活用されていたし、民間では妖しげな魔術を用いる唱門師たちが元気に活動していたのです。
 彼ら唱門師の活動は為政者の目に余ったようで、在昌の項でも述べていますが豊臣秀吉の時代に全国の唱門師が尾張に掻き集められたことがあります。

 このように戦国時代において全国に多数存在した唱門師たちをいかに支配下に置くかが江戸期の土御門家の課題だったのです。


 なお、この時代の陰陽師について本気で知りたければ名著出版の『陰陽道叢書3 近世』をお勧めしますが、この本は本格的な論文の集成であり、しかも戦国時代と江戸時代の話がシームレスに繋がっていて戦国時代の話だけを抜き出すのはわりと手がかかることを申し添えておきます。



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