個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

漢字としての咒禁

 『日本書紀』の敏達記に、

冬十一月庚午朔百済国王付還使大別王等献経論若干巻并律師禅師比丘尼呪禁師造仏工造寺工六人遂安置於難波大別王寺
 敏達6年(577)、11月、帰国する大別王らにつけて、百済王が経論と律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工の6人を献上する。

 という記述がある。
 これが「咒禁師」という言葉の、日本における初出である。

 日本書紀のこのあたり、特に敏達天皇は古事記に記載されていない「欠史十代」に当たるため敏達記の年代に関しては若干疑問が残る。考古学的な資料も少ないことから敏達天皇の実在すら確定していないようである。
 日本書紀に関して現在はこのような辛い状況なのだが、とりあえずこの「咒禁」という漢字について、中国側の資料を中心として述べていきたい。

 なぜ漢字に拘るのかというと、日本書紀が参考にしたであろう『隋書』では「咒禁博士」ではなく「祝禁博士」と書かれていたからだ。
 この、「咒」という文字と「祝」という文字の関連について先に説明しておきたい。ついでに「禁」の文字についても解説したあと、「咒禁」という熟語についても触れる。

 まずは「咒」という漢字について述べていこう。
 漢字を調べるのであればまず最古の漢字字典こと『説文解字』である。

 ここで拍子抜けされた方も多いかも知れない。
 現状、つまり2011年代の日本であれば漢字の大家、白川静の巨大な業績がある。氏の研究は特別で「白川学」とも呼ばれているぐらいである。
 ただ、この「白川学」はどうも呪術的要素が強すぎる。更に「呪」や「祝」という漢字自体が「白川学」の根幹でもあるので、白川静の話を持ってくるとどうしても論じる内容が拡散してしまいがちなのだ。
 正確に言うと、「白川学」の根幹は「口」である。
 この「口」を人間の身体の一器官である「口」と捉えず、「サイ」と呼ぶ呪具の象形と見なしたのが「白川学」の真骨頂である。
 恐るべきことに、「咒」はこの「口」が二つもある!
 最悪、「咒」という漢字の「白川学」をただ紹介するだけになってしまうだろう。
 ここで有名な「白川学」の紹介をするつもりはないので、興味のある方は白川氏の著作を参照されたい。
 むしろ、本稿では白川氏によって駄目出しされた『説文解字』の解釈をそのまま用いたい。
 それは次のような理由である。

 『説文解字』は西暦100年、後漢の時代にできている。その後、1900年間に渡って漢字に関する、いってみれば「聖書」として扱われてきた。
 白川氏はこの聖典たる『説文解字』が既に解釈を間違っている、甲骨文や金文の時代と解釈が違っているといってタテついたわけだが、今私が論じようとしている隋や唐、百済では逆に『説文解字』の解釈に基づいて漢字を用いている。
 特に唐では『説文解字』の写本が作られたほか注釈も作られており、『説文解字』がかなりの影響力を持っていたことが知られている。
 このため、本稿では「白川学」より『説文解字』での解釈を重視するのである。

 さて、これだけ論をこねくり回したにもかかわらず残念ながら見出し字九三五三字の『説文解字』にはこの「咒」や同字である「呪」という文字はない。
 呪という文字自体「祝」という漢字から分岐したもので、後漢以降になって初めて見えるようになる字だからだ。『漢書』での使用例はないが、『後漢書』で用いられるようになってくる。

 『説文解字』には分岐前の「祝」はある。扁が「ネ」ではなく「示」になっている。
 意味は「祭主贊詞者」で、どちらかというと現在の「祝」から連想される「お祝い」というイメージではなく、神官という「人」のイメージなのだ。
 そもそも「祝」の右側を構成する「兄」は「口」+「人」であり、既に人という字が入っている。白川学でも当然「サイ」+「人」で祭儀を執り行う人という重要な文字である。
 ただ、『説文解字』では「兄」は「長」としているのみ。
 白川学の根幹たる「口」の方も『説文解字』では割とあっさり「人体で言語、飲食に用いる部分」としており呪術的な要素は全くない。
 道教の主要な経典では、「祝曰」という表現が多く用いられている。これは日本語では「祝(シュク)して曰(イハ)く」と書き下されており、祝福の言葉を述べる際の枕詞のようなものである。

 次に、「咒」と「呪」の違いに踏み込んでいこう。 
 現在、「咒」は「呪」の俗字となっている。
 俗字とは、正統とされている文字、正字に対する異体字ということであるが、いつ誰が「呪」を正字にしたのかが分からない。
 明代の『正字通』では「咒」が正であるとされているが、他の資料では「古籍多作“呪”」とされている。
 「呪」が「祝」を元に作られた以上、より「祝」に近い「呪」が正字というのは納得のいく話である。
 それにしては「呪禁師」ではなく「咒禁師」としている表記が多い。同じように、初期密教系の経典もまた「咒経」や「神咒経」などと「咒」の字を用いていることが多い。
 どうやら時代時代によってもてはやされる字体があるようで、「咒禁師」が制度として生きていた時代や初期密教経典が漢訳された時代は「咒」と書かれることが多かったようである。
 このため、本サイトでは「咒禁師」表記を基本とする。ただ、『日本書紀』や『続日本紀』の善本で反証が多ければ「呪禁師」を使うことになるだろう。なぜなら、ここで論じている「咒禁師」はまさにその時代の存在だからである。

 禁もまた「祝」と同じように「示」が一部に入っている文字である。
 もともとは「林に覆われた聖域」ということらしいが、それをもって「閉じこめる」の意味になるとどこか災いを封じている風に感じられる。
 『説文解字』によれば

 吉凶之忌也。

 ということらしい。
 まことに残念ながら、たったこれだけの文章でも日本語にするのは難しい。というより漢文は助詞や区切りが無さ過ぎて現在の中国でも意味が分からなくなっていることが多いそうである。
 書き下し文であれば「吉凶これ忌むなり」といったところか。
 続いて、『説文解字』で「忌」という字を見ていくと、

 憎悪也。

 と書かれている。
 ただ、吉凶の「凶」ならともかく「吉」を憎むというのは話が合わない。ここでは「避ける」、つまり吉も凶も避けるのが「禁」だと理解するべきである。
 その後、この禁だけで単に「まじない」を意味するようになっていく。
 これが、次の「咒禁」という熟語を解釈する時に問題となってくるのだ。

ご質問 by a.a様

 はじめまして。サイト、大変面白く読ませていただきました。
実は、呪禁師について調べているところで、こちらにたどり着きました。私は、何かの本で、呪禁の「禁」は 刃物を手にして呪文を唱える という意味を持つと読んだことがあるのですが、但馬様が研究されたうちで、「禁」にそのような意味があると示されたものはありましたでしょうか? その本以外では聞いたことが無かったので、但馬様の知識を判断のよりどころにしたく、質問させてもらいました。

回答

 少なくとも漢字の起源的にはナシです。「禁」を構成する「林」にも「示」にも刃物のイメージはありません。「刃物を手にして呪文を唱える」という行為自体が道教的な要素を含んでおり、むしろそちらを経由して後から付けられた解説だと思われます。
 ただ、「示」を単純に「神事」ではなく「神にささげる生贄の台とそこから滴り落ちる血」とする物騒な解釈があり、そこから派生すると「禁」は「林の中で生贄を切り刻む」といういささか猟奇な絵柄になります。この場合は「刃物」のイメージが強調されますが「呪文を唱える」側が薄くなるでしょう。

咒禁

 「咒」の初出が漢代後半と言うことで、「咒禁」という言葉の初出は更に遅れる。
 咒禁という言葉を見て「呪いを禁じる」という意味に捉えるかもしれない。
 だが、そうすると隋代に用いられていた「祝禁」という言葉の説明がつかない。本来は治療のために「祝」と「禁」を用いるという意味だったのだろう。
 さきほど「禁」だけで「まじない」を意味すると述べたが、「祝禁」は「祝う&まじなう」という意味にも解釈できてしまう。
 「祝禁師」がいつの時点で「咒禁師」になったのかは未だにはっきりしない。隋代の律令や唐代初期の律令が発見されれば解決の糸口になるだろうが、これらは散逸してしまっているので現在では謎のままである。
 また、咒禁が治療用の魔術という意味を持つようになったのもいつか分かっていない。むしろ隋代に祝禁師として用いられたその時に初めて治療魔術という意味に限定して用いられるようになったのかもしれない。

 なお、咒禁という漢字をひっくり返した「禁咒」という言葉も用いられており、これは『抱朴子』等に見える。咒禁よりもむしろ禁咒の方が用例が多い。
 禁咒はどちらかというと火や刀、毒蛇など「何かを禁止する系統の咒法」という意味に用いられていたのだが、現在ではむしろ「禁断の咒法」、危険すぎて使ってはならないと禁止されている咒法を意味する言葉になってしまっているようである。時代と共に意味が変わっていった良い例だろう。




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