個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 ここで、もう一度日本書紀で咒禁師のことを初めて述べた文章を引っ張ってみる。

冬十一月庚午朔百済国王付還使大別王等献経論若干巻并律師禅師比丘尼呪禁師造仏工造寺工六人遂安置於難波大別王寺

 律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工の六人を難波大別王寺に置いた、とされている。
 比丘尼とは尼僧のことである。
 ここでいう呪禁師とは何かを説明するために、まず呪禁師の前にある律師・禅師という言葉について解説していきたい。

五師

 五師という言葉がある。
 これは仏教に関連する五つの師、経師・律師・論師・法師・禅師をひとまとめにした呼び方である。
 まず前半の経師・律師・論師であるが、これは仏教経典の呼び名にちなんだものである。
 仏教の聖典は経蔵、律蔵、論蔵の三つがあり、これを合わせて三蔵と言う。
 釈迦の教えが「経」、釈迦の命じた規則が「律」、それらの注釈が「論」であり、それぞれが膨大な量になっている。このため各蔵に特化した僧がいて、これを経師、律師、論師と呼んだのだ。
 論蔵はもともとアビダルマ(阿毘達磨、阿毘曇)と呼ばれていた。経と律の後に作られたうえ凄まじく煩雑である。中には本来の釈迦の教えから離れていってしまうものすらあったらしい。
 四番目の法師とは仏の教えに精通した者のことで、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵を極めた者、つまり三蔵法師のことである。三蔵法師といえば普通玄奘のことであるが、本来三蔵に精通した僧侶は誰でも三蔵法師と呼ばれた。
 なお、三蔵という言葉はその後美称に転化し、隋代以降は「三蔵律師」や「三蔵禅師」などといった本末転倒な称号が産まれている。
 経師・律師・論師・法師に対し、禅師(禪師)とは仏教の禅定に通じた僧のことである。
 禅定とは禅那(ぜんな)、サンスクリット語のディヤーナの音訳で、心を統一して瞑想し、真理を観察することである。簡単に言うと座禅のことであり、仏教では六波羅蜜の一つで重要な修行とされた。
 現在禅と言えば禅宗、いわゆる中国禅のことを指すのだが、中国禅は唐末以降に成立しており百済から訪れた時代の禅師と直接の関係はない。
 禅那と禅宗の差を一言で表すのは難しい。修行のため座して瞑想することが禅那、座禅を通じて悟りを目指そうとする支那仏教の一派が禅宗、とでも言おうか。
 釈迦が教えていた当時「悟り」とはもっと簡単に手の届くものだったのであるが、時代共に「悟り」とは理解するのも難しく手の届かないものであるとされ、頓悟(とんご)といってこれを一気に手に入れるため禅宗が発生したのである。
 禅の話をしだすとキリがないのでこのあたりにしておく。興味のある方は禅の専門書を参考にされたい。

 以上の話を基にすると、百済から送られてきたのは律師という律蔵(百済律宗)の専門家、禅師という禅定(禅那)の専門家だったというわけである。

三種の咒禁師


 こうやって律師や禅師の意味を同定してみると、ここに書かれている咒禁師とは律師や禅師と同じように咒禁の専門家を意味するのだろうということが予想できる。
 だが、ここでいう咒禁は仏教の咒禁で、道教に起源を持つ魔術的医療としての咒禁ではない。

 序文でも述べたが、仏教には三つの咒(禁)師がある。
 この三つの咒禁師は、ほぼ時代によって別れる。

 第一の咒禁師:初期密教の経典である陀羅尼経を原音風に読む専門の僧。
 第二の咒(禁)師:中期密教の影響を受け、儀式の中で密教的行法を行う僧。
 第三の咒師:第二の咒禁師から発展した、猿楽等の芸能を行う者。

 微妙な書き方をしているのは、第一の咒禁師は咒禁師としか呼ばれないが、第二の咒禁師は咒禁師と呼ばれたり咒師と呼ばれたりしており、第三の咒禁師に至ってはほぼ咒師としか呼ばれないためである。
 これら仏教系の咒禁師は本稿の中核たる日本の律令に記された医療系の咒禁師とは全く関係がない。これまでの研究ではそのことについて明示したものが無かったので、ここに挙げておくことにした。

 まず、第一の咒禁師から説明していこう。

第一の咒禁師

 支那の仏教の所で述べたが、支那における密教の最盛期は唐代、中期密教である。
 だが、初期密教の経典はもっと早く、東晋の時代に到達している。
 そのうちの一つが『孔雀王呪經』である。
 『日本霊異記』は正式な名前を『日本国現報善悪霊異記』といい、平安時代初期に書かれた日本初の説話集である。
 この本で役行者が孔雀王の咒法を修したとされているのだが、孔雀王系の呪經は四世紀に鳩摩羅什が訳した『孔雀王呪經』を初めとして数多く存在する。

 この『孔雀王呪経』に似た名前の経典に『孔雀経』という上座部の経典がある。
 これはジャータカ、本生譚の中にある一説である。本生譚というのは釈迦が釈迦として産まれる前、さまざまな人物や動物として生きていた時の話で、『孔雀経』はその名のとおり釈迦が孔雀だったときの話である。
 ジャータカの多くはお伽噺同然で、釈迦の時代に遡れるものではなくもっと新しい時代のものである。どうしても人は宗派上の大人物に対しこのような物語を作らないではいられないものらしい。
 ジャータカの『孔雀経』は孔雀の姿をした釈迦が捕まらなかったという物語で、経典とはとても呼べないような短い話である。ただ、その内容から災難避けの魔術として唱えられている。

 これに対し、鳩摩羅什の訳した『孔雀王呪經』は完全に異教の呪術という感じで、漢字では完全に意味不明の言葉、例えば「伊致毘致 阿致加致(イシビシ アシカシか?)」「吼吼吼吼吼(ククククク)」「婆婆婆婆婆(バババババ)」等が連呼されている。
 この鳩摩羅什訳の『孔雀王呪經』に四方の結界を為す「大神龍王」という言葉が出てくるのだが、新益京(あらましのみやこ)で発掘された木簡にも「四方卅大神龍王」という言葉が出てくる。しかもこの木簡には同時に「急々如律令」という道教系の漢字が記されているのである。
 新益京(あらましのみやこ)とは俗に言う藤原京のことで、本来は都を新益京、その中の宮を藤原宮と呼んでいたのだが、後世になってある学者が新益京を藤原京と呼んでそちらの方が一般化したものである。このことを気にする学者の中には「藤原宮(京)」や「藤原宮・京」などという表記法を取られる方もおられる。
 残念ながらこの鳩摩羅什訳の『孔雀王呪經』は現行『大蔵経』に入っているもので往時の姿を留めているとは限らない。それどころか後世の偽作であるとされているのだが、新益京の時代には各種の孔雀王系呪経が伝わっていた可能性が高く、しかもそれらは道教系統の呪術と既に習合していた可能性が高い。

 こういったマントラ(あえて「真言」と書かない)をそのまま載せた経典は呪経、陀羅尼経と呼ばれ、空海以前にも大量に日本へ持ち込まれている。
 ケチ臭い話であるが、陀羅尼は正式な読み方を師匠から習うことになっている。そもそもサンスクリットや中央アジアの言葉を無理矢理漢字で表しているだけのため、読み方を教えないと正しく伝わっていかないのだ。
 ここで仏教における第一の咒禁師が現れる。
 つまり、この咒禁師というのは経師、論師、律師、法師、禅師と同じく、呪経・陀羅尼経に特化した僧、マントラの読み方を正式に伝えられた僧という意味なのである。
 百済からやってきた咒禁師は、この陀羅尼が読める博学の僧だったのだ。

 さきほどマントラをあえて「真言」と書かないとしたが、これは「真言」のように漢字にしてしまうと漢字から別の発想に飛躍してしまうためである。
 マントラはどちらかというと「呪文」という意味なのだが、真言というと「真実の言葉」というイメージが先走ってしまう。
 このような例で極端なものを挙げると先述の「鳩摩羅什」がある。「鳩摩羅什」は「クマラジーヴァ」という名前の音訳で人名に過ぎないだが、後代になると「什」の意味を解説する経典が出てくる。つまり、「什」という字に意味があると勘違いする者たちが現れたのだ。
 初期翻訳僧たちはマントラを「真言」ではなく「咒」と訳した。この判断は正しいと思う。「咒」であれば単なる呪文であるというイメージがそのまま伝わる。
 第一章「漢字としての咒禁」でも述べたが、「呪」という言葉が用いられ始めたのが後漢以降である。北晋時代の漢訳経では「呪経」や「神呪経」というタイトルの陀羅尼経典が激増するのだが、内容的にこの時はまだ「呪」という漢字に悪い意味が無かったことが分かる。

 時期的に見てマントラという言葉を訳すために「祝」から「呪」の字が仏教僧の手によって作られたのではないだろうかと想像してみたのだが、「呪」の字が現れ始めたのが後漢末であり「呪経」などが現れるのはそれより更に後なので少しずれていた。

 なお、『孔雀王呪經』は仏教経典に道教の影響が見られるわけだが、逆もまた然りである。
 後述する『大唐六典』には咒禁師の説明の中に

 有禁咒,出於釋氏

 とある。
 「禁咒というものがあって、それは釋氏(仏教)由来のものである」という意味なのだが、基本的に唐朝の咒禁師は道教系のはずである。これは、道教経典の中に陀羅尼が含まれていたことを示す。実際に現行『道蔵』の中には陀羅尼を混ぜ込んだ道教経典がいくつも残っている。
 このような陀羅尼を混ぜ込んだ経典の中で最も多いのは雷部に属する神将を使役する「雷法」なのだが、北宋に現れた神霄派と呼ばれる道教の一派が「雷法」を完成させたのは南宋(1127年 - 1279年)の頃なので本稿では説明を省く。
 このように、現存している経典上にも道教と仏教がお互いに与えた影響が残されているのだ。

 孔雀と密教の話については、司馬遼太郎『空海の風景』にも出てくるので、興味のある方はそちらも参照されたい。

 脱線が多くなったが、第一の咒禁師はこのようにマントラの読み方を正式に伝えられた初期密教の僧侶であった。
 では、第二の咒(禁)師について、修二会から見ていこう。

第二の咒(禁)師

 東大寺の修二会は大仏開眼の752年に始まったと言われている。
 一般的には「お水取り」として知られる修二会であるが、この修二会を執り行う練行衆の一人に「咒師」という役がある。この「咒師」が時に「咒禁師」と呼ばれる。
 この「咒師」は修二会において密教的な修法を行うのだ。
 東大寺は華厳宗の総本山である。そして、華厳宗はもともと密教ではない。
 大仏開眼の行われた神亀五年(七二八)は空海入唐以前であるが、魏晋南北朝時代には若干の初期密教系経典が漢訳されており、これらの経典が日本に流入していた可能性がある。
 こういった初期密教を表す「雑密」という言葉があるのだが、これがまた確定された用語ではなく対象が漠然としている。少なくとも空海の時代にはこのような言葉は無かった。
 このため、空海以前の密教と言ってしまった方が分かりやすいだろう。
 「修二会が本当に大仏開眼の頃から続いているのか」という疑問はともかく、なぜ非密教系の華厳宗東大寺で密教系の咒師作法が行われているのかというと、これまた空海が関係してくるのだ。
 本稿の範囲から少しずれてしまうのだが、百済咒禁師と比較するためにも東大寺と空海のことについて少しだけ触れておこう。

 東大寺大仏殿の大仏とは毘盧遮那仏である。
 これは密教の大日如来でもある。
 密教根本経典の一つである『大日経』は華厳宗の根本経典である『華厳経』に大きな関連を持つ。
 時期的には『華厳経』が三世紀頃中央アジアで纏められ、『大日経』は七、八世紀に成立したと考えられている。
 『華厳経』は毘盧遮那仏を中心とした経典であり、『大日経』はその毘盧遮那仏が密教について語るという構成をしている。
 このような経典上の関係もあって、空海は南都六宗のうち華厳宗だけを別格扱いしたのである。
 そしてまた東大寺側も当時大人気であった空海の密教を上手く取り込んでいく。支那では逆に華厳宗の僧侶が真言宗の僧侶と対立したりしていたようであるが、東大寺は他の宗派が没落していくのを尻目にしぶとく生き残った。
 なお、南都六宗のうち律宗もまた真言宗系に変化し、後年真言律宗として区分されることになるものの生き残ることに成功する。逆にほぼ全ての律宗が真言宗として扱われてしまうようになるのだが、これに関しては完全に本稿の範囲外となるので詳しくは述べない。

 第二の咒禁師は空海系の真言密教の影響が強い。時代的には百済咒禁師とは関係がないのだ。

 先ほどの孔雀と密教の話と同じく、この『華厳宗』と空海の話も司馬遼太郎『空海の風景』で触れられている。残念ながら『空海の風景』は正統派小説スタイルではなく、『坂の上の雲』や『竜馬がゆく』ほど人気はないのだが、この時代の空気を掴むには大変よい作品だと思われるので是非ご一読されたい。

 なお、咒師に関連して猿楽関係に法呪師(ほうしゅし)という言葉があるのだが、この第三の咒師は初見が延久5年(1073年)であることと古典芸能関係の書籍で既に詳しく検討されていることからに本稿では詳述しない。

その後の経師、律師、禅師

 仏教に関連する三つの咒禁師の話が終わったところで、経師、律師、禅師という言葉のその後についてここで触れておきたい。

 まず経師であるが、これは単に経典を書写する者という意味になりだいぶ格が下がってしまった。在昌の話でも述べたが、戦国時代頃にはさらに変化して暦を刷る専門の業者を「大経師」と呼ぶようになっている。

 逆に格が上がったのが律師である。
 624年に僧侶の位階である「僧綱」が制定された。この僧綱は僧正、僧都、律師からなる。その後また各位階が細分化されていくのだが、注目したいのは三番目の律師である。
 先程も述べたとおり律師とはそもそも律に詳しい僧侶という意味だった。ところが僧綱制定時に律師にこのような別の意味が付いたのである。
 逆に言えば、それだけ日本の仏教界で律が重視されていたということなのだろう。律をマスターした者はこれだけの位置に着くことができたのである。

 三つ目の禅師であるが、なぜか看護の意味を持つようになっていく。この話は第六章「衰退する咒禁」で扱う。





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