個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

さて、多種多様な資料を基に書き進めてきましたが、最後にこれまでの巷説や疑問についてまとめておきます。

1.在昌がキリスト教に入信したため、父である在富から勘当され、在富は在種を養子として迎えた。

 時期が全く合いません。在昌がキリスト教に入信したのは在種が養子縁組どころか死亡してさらに10年たった後です。そもそも、在富が在昌を勘当したという証拠さえありません。

2.在昌は西洋天文学に惹かれてキリスト教に入信した。

 フロイス『日本史』に書かれているので、これはまあ反証が出ない限り正しいとするしかないでしょう。
 本文中にも述べましたが、在昌はベルショール・ヌーネス・バレトが日本にもたらしたプトレマイオスの書、おそらく『アルマゲスト』を求めて府内教会に赴いたものと思われます。

3.在昌がキリスト教を棄てた理由について。

 九州豊後時代の在昌の足取りが判明していないので理由はわかりません。ただ、土御門家の相続問題から帰京を懇願されたことは予想に難くありません。今の時点では、理由の半分は土御門家の依頼によるもの、といった所です。

4.在昌は天正十年改暦問題で陰陽寮を追われ、キリスト教に入信した。

 天正十年というとだいたい在昌が60歳ぐらいの頃です。この20年ぐらい前にキリスト教に入信して、5年ほど前に棄教しています。そして陰陽師としてはむしろこの後のほうが活躍しています。完全に逆というわけです。


 いかがでしたでしょうか。何の根拠もなく「こうだったら面白いなあ……」という嘘や誤説が広まったため、在昌は無理矢理とても若いころにキリスト教へ入信したことにされたり、逆に年をとってから入信したことにされてしまいました。どう考えても矛盾しているのですが、今まで詳細に検討した人は誰もいなかったのです。
 しかし、事実を一つ一つ積み重ね、年表に落とし込んでいくことによりこういった矛盾は解消されていきます。私はこれこそが歴史学の醍醐味であると思っています。











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「獲加多支鹵」の読み方について
銅鐸時代

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