個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

「キリスト教徒になったとの説がある」賀茂在昌(かものあきまさ)に関する研究。

 こちらに来られた方は、おそらく「キリシタンに入信した戦国時代の陰陽師」こと賀茂在昌について知りたいのだと思います。
 ただ、二十年以上「賀茂在昌」について研究してまいりましたが、少なくとも2017年時点ではフロイスが記したキリスト教に入信した日本の天文学者「マノエル・アクィ・マルザ」と、実在の陰陽師「賀茂在昌」が同一人物であるという確証は得られていません。
 近年得られつつある史料は、「賀茂在昌」という陰陽師が実在し、秀吉と朝廷に仕えていたことを明らかにしています。ですので、今後は「最後の戦国陰陽師」として賀茂在昌がクローズアップされていくでしょう。

追記(2022/08/05):
 2022年5月26日に賀茂在昌を主人公とした小説『安土の日蝕』が刊行されました。書評:『安土の日蝕』に感想を記載しています。

追記(2022/07/20):
 気がついたらwikipediaの賀茂在昌の項目が本サイトを元に大幅に拡充されていました。編集していただいた諸氏に感謝いたします。
 錚々たる研究者の中で、一人だけ書籍・論文ではないので「但馬荒人[信頼性要検証]」といっぱい貼り付けられているのがとても恥ずかしいです(笑)。
 本当は学術論文にしてCiNiiに収録されるような雑誌等に掲載してもらうべきなのでしょうが、ツテがありません。申し訳ございません。

概説


 陰陽道二大宗家が一つ、勘解由小路家(賀茂家)。その実質的に最後の人物、賀茂在昌に関する専門の書物はいまだに書かれていないようです。
 二十年来、コツコツとキリスト教関係と陰陽道関係の史料を集めてまいりました。
 結論として得られたのは、

・「賀茂在昌」がキリスト教徒であったという証拠はまだ存在しないこと。
・実在の「賀茂在昌」は豊臣秀吉と朝廷に使えていたこと。

 になります。
 また、研究途上で新事実、というよりいくつかの風説が間違いであったことが分かりました。
 間違いであることが判明したのは、

・在昌がキリスト教徒になったので親が養子を取った。
・信長の部下に暦の間違いを指摘されたのでキリスト教徒になった。

 という風説に関してです。そもそもこれら二つの風説は年代的にも矛盾しておりまして、前者は在昌が30代ぐらいの話で、後者は在昌が60代ぐらいの話になります。
 この話に関しましては後の章で細かく論じてまいります。

 あとは、

・「勘解由小路在昌」という表記は現在のところ見つかっていない。

 ということも重要です。ですので、「勘解由小路在昌」という表記は今のところ間違いになりますので、本文では使用しておりません。

 賀茂在昌は陰陽頭を経て正二位まで上りつめた勘解由小路在富(あきとみ)の実子のようですが、この点はいろいろと複雑な事情があるようで明らかになっていません。

 賀茂在昌と比定される「マノエル・アキマサ」ですが、これが在昌だとすると、京都に訪れていたガスパル・ヴィレラの説教によってキリスト教徒になったのはだいたい在昌が40代の頃になります。「マノエル・アキマサ」の話はキリスト教側の資料で確認できます。
 次に確認できるのは五年後の永禄8年。「マノエル・アキマサ」は何らかの理由で家族とともに九州へ向かっていたのですが、ちょうど九州から京都へ向かっていたルイス・フロイス一行と伊予の堀江で出会います。ルイス・フロイスは偏執狂的な記録魔であり、彼と出会ったことで「マノエル・アキマサ」の足取りが歴史に残されたのです。

 しかし、その後キリスト教側の資料からは「マノエル・アキマサ」の記述がほとんど消えてしまいます。

 「賀茂在昌」に関する記録が朝廷の記録や武家の日誌に現れだすのはさらにその後です。御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)にはある日突然「あきまさ」なる陰陽師が現れます。また、天正10年に安土で行われた改暦問題でも名を残し、最終的には武家側に重用されたのか豊臣秀吉に暦を献上するまでになっています。

 ただ、これらの「あきまさ」が全て同一人物である保証はありません。しかしながら、それぞれの記録が薄い繋がりをもって一人の「あきまさ」を形作っているのも確かなのです。

 「在昌が『マノエル・アキマサ』だとすれば、彼はいつキリスト教を捨てて陰陽師になったのか?」
 この仮定に対する答えですが、当時の陰陽師、特に土御門家(安倍家)のゴタゴタに関する年表を作っていくとかなりの精度で棄教したと考えられる時期がわかりますので、これもお見せしていきたいと思います。

OVERVIEW


Akimasa Kamo(Kamo-no-Akimasa) is an apostate of Christianity and Onmyoji in Sengoku period. Maybe he is a son of Akitomi Kadenokoji, who successed Syo-ni-i via Onmyo-Gashira. But, there are complicated circumstances behind the matter, this point is not clear.
In his around 40's, Akimasa became Christian for sermon by Gaspar Vilela, who visit Kyoto at the time. This fact can be confirmed by Christian materials, but his early days have no information.
Next time his name can be confirmed is Eiroku-8(1565), five years after. Akimasa went to Kyusyu with his family for some reason, he met Luís Fróis and his party in Horie of Iyo. Luís Fróis and his party went to Kyoto from Kyusyu. Luís Fróis is a persistent recorder like as paranoia, becuse Akimasa's footprints remained in a historic event by meeting Luís Fróis.
But, hereafter description for Akimasa is disappeared from Christian materials.

Next time his name appear in record of japanese court or Buke(Samurai house) diary. In Oyudono-no-ueno-nikki(Court diary), one day suddenly appear an Onmyoji named "Akimasa". And his name remained by calendar revision discussion in Azuchi at Tensyo-10(1582). Finally Akimasa presents calendar for Hideyoshi Toyotomi, maybe he occupied an important position in Buke side.

But, there is no guarantee that these "Akimasa" is same person. However, each records have little connection, and shaped one person "Akimasa" indeed.

"When Akimasa apostated Christianity and became Onmyoji?"

This is main question of Akimasa research. To make chronology of Onmyoji trouble in those days, especially Tsuchimakado-House(Abe-House) trouble, clarify the time Akimasa apostasy with considerable accuracy. I want to show this chronology.

2014年増補改訂について


戦国時代の陰陽師「賀茂在昌」についていいかげんな話がネット上で蔓延していたため、これを正すべく現行のSeesaa wikiの前身たるLivedoor wikiにこのサイトを作成したのは2011年7月20日でした。
当時、というか現在でも在昌に関する専門の書物は編まれていません。
その後、私は2011年8月に咒禁師に関する若干の見聞を掲載し、2011年9月にカルマニアに関するメモ的なものを掲載するに至りました。
その後はこういった歴史関係とは異なる分野の小説の執筆に取り掛かっており、このサイトに関しては時々手入れはするものの長期にわたって見直しはしてこなかったのです。
今回改訂を行う気になったのは、2012年2月に発行された木村純子著『室町時代の陰陽道と寺院社会』を入手したためです。この書は陰陽道系研究者の書物であり在昌とキリスト教に関する新事実が明らかになったわけではありませんが、新たに在昌に関する醍醐寺関係文書が提示されました。他にも現行の記載に変更を加えなければならないような興味深い知見がいくつも載せられていたため、今回、この書籍を元に各章に対し訂正を加えていくものです。

あと、本サイトを見て在昌関係の小説の執筆を断念された方もおられるようですが、心配されることはありません。他のページにも記載しておりますが、「もともと小説やゲームのシナリオ用に調べ始めたことを他の人にも使ってもらおうと載せているだけ」であり、パクツイレベルのコピペでもなければどんどん参考にしていただいて小説なり漫画なりゲームに使用していただいたほうが掲載した甲斐があるというものです。

2015年末追記

 長年在昌研究を行ってまいりましたが、最近「賀茂在昌はキリスト教徒ではなかった」説に傾きつつあります。
 近年、賀茂在昌の史料が数多く発見されております。そこから分かるのは、「豊臣秀吉だけではなく、朝廷や寺社など様々な権威から頼りにされていた陰陽師」像です。つまり、賀茂在昌を「安土桃山時代の重要な陰陽師」として捉えなおすべきだというのが私の考えです。
 これは、いろいろな史料が発掘されている割には、在昌がキリスト教徒、当時の言葉で言えば耶蘇教徒であったことが、どこにも書かれていないからです。
 豊臣秀吉の指が六本であったという良く知られた話があります。これは、前田利家の『国祖遺言』と、本文でも何度も取り上げているルイス・フロイス『日本史』という、全く関連のない文書に唐突に現れているため、信憑性があります。また、こういうのは多指症という症例なのですが、実は多指症はそれほど珍しいものではなく、「手では出生1000人に対して1〜2人」[1]ということで、特に秀吉は「右手親指が多い」という日本人に多いタイプの多指症ということから更に信頼性が増します。
 在昌にはこのような記述が見当たらないのです。海老沢有道先生が論文で名前の相似から類推されただけで、物的証拠が何もありません。

 では、ルイス・フロイスとアルメイダが伊予の堀江で出会った「Manoel Aqui Marza」とは何者なのか。
 こちらについては、バチカンに残された文書を丹念に追っていくしかないと考えています。
 同時に、日本に残された陰陽道関係文書から、「陰陽師としての賀茂在昌」が評価されていくでしょう。

 残念ながら『切支丹陰陽師』という夢は消えてしまいましたが、今後も在昌に関する研究は続けていきたいと思います。

[1]日本形成外科学会, "多指症,"
http://www.jsprs.or.jp/member/disease/extremities_..., 2015/12/08 参照




このページへのコメント

初めまして。歴史ファンで、細々と小説も書いております、鳥位名久礼と申します。
貴サイトの「賀茂在昌」の項、大変興味深く拝読いたしました。

このたび、一念発起して、この在昌の一代記小説を書いてみました。(URL)
妄想だらけの夢物語ではございますが…
在昌・また在富・在信・メルショルらという人物像と生涯の再構築にあたり、
貴サイトのご考察を大いに参考とさせていただきました。
ご高覧に与れましたら、またご叱咤いただけましたら幸いです。

末筆ながら、今後のご活躍を心より応援しております。

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Posted by  triona triona 2018年04月24日(火) 11:08:28
http://triona.jp/memo/aquimarza.pdf
返信

「第一章 漢字としての咒禁」で回答いたしました。まさか質問されることがあるとは思ってもいませんでしたので慌てました(笑)。トップページにもコメントできるようにいたしましたので、咒禁師関係は当分の間そちらでお願いいたします。

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Posted by 但馬荒人 2011年12月14日(水) 19:35:32 返信

コメントが入っていることに今気づきました。申し訳ございませんが呪禁師の「第一章 漢字としての咒禁」で回答いたしますので少々お待ちください。

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Posted by 但馬荒人 2011年12月14日(水) 18:55:06 返信

はじめまして。サイト、大変面白く読ませていただきました。
実は、呪禁師について調べているところで、こちらにたどり着きました。私は、何かの本で、呪禁の「禁」は 刃物を手にして呪文を唱える という意味を持つと読んだことがあるのですが、但馬様が研究されたうちで、「禁」にそのような意味があると示されたものはありましたでしょうか? その本以外では聞いたことが無かったので、但馬様の知識を判断のよりどころにしたく、質問させてもらいました。

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Posted by a.a 2011年11月30日(水) 19:44:37 返信

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