個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 さて、唐六典に記された五つの方術を概観してきたわけだが、おかしなことが一つある。
 あるべきものが、ないのだ。
 咒禁師に最も用いられていそうなその方術とは、「呪符」である。

 呪符とは護符の一種であり、木簡や紙に描かれたもので、支那は紙の発祥の地でもあることからこの方術が特に広まった。
 呪符という概念は支那独特のもので、他の地域ではあまり発達していない。
 例えばインドでは文字を書くのに貝葉と呼ばれる巨大な葉を加工したものが用いられていた。玄奘三蔵などがインドから持ち帰ってきたのもこういった貝葉経である。
 この貝葉であるが、鉄筆で描き複雑な加工をしないと読めないし保存も出来ない。このため、インドでは呪符の文化は花開かなかった。
 やはり呪符には紙と筆が必要なのである。
 あと、漢字という独特の文字がこの呪符文化に適合していた。文字そのものが絵であるこの漢字は絵画的要素を発達させることができたのだ。
 こういった呪符的なもので現在発見されている限りで最も時代が古いものは、中国においては陶製の壷に描かれた紋様である。人類最古の人工物の一つである壷は装飾されていることが多く、筆を使って呪術的な文言と図形が書き込まれているのだ。
 続いて板、それも桃の板を使っている。支那では特に桃の板がこういった呪符に効果があるとされており、前漢では桃符という言葉が一般的であった。
 そして後漢になり、二千年近く用いられる紙の時代が訪れるのである。

 ここで、少しだけ紙の歴史について話しておこう。
 紙の発明以前、書記には木簡や竹簡、そして馬王堆漢墓で発掘されたような絹の上に書く帛書が用いられていた。ただし木簡や竹簡は重く、絹は高価であるという欠点があった。
 昔の教科書であれば後漢の宦官である蔡倫(さいりん)が紙を発明したと記されていたが、二十世紀に入り続々と前漢時代の遺跡から紙が発掘されたため現在ではこの説は否定されている。
 ただ蔡倫が安価な紙の製造法を発明したというのは動かしがたい事実で、この時代から紙は爆発的に用いられるようになる。
 蔡倫による製紙法の改良は西暦105年と時代がハッキリしている。
 太平道の教祖張角による黄巾の乱が184年なので、その頃には安価な紙が存在したわけである。
 呪符を焼いて飲ませるという符水の術も、こうやって安価な紙が広まっていたからこそできた技なのだ。

 日本における呪符であるが、最初のものは木簡形式であり、このような木簡は呪符木簡と呼ばれ特別扱いされている。確認できる最古の物は先述の新益京(藤原京)から出土している。
 発掘により、新益京は平城京のような唐風ではなく周礼に則った古い形の都であることが分かっている。
 新益京の着工は690年。平城京に遷都したのが710年なので主に使われたのは二十年程度である。もちろん710年以降も使われていた期間はあるのだが、ここの発掘物からは700年前後の風俗が分かって大変貴重なのだ。
 文の最後に「急々如律令」と書かれた木簡が出土しており、この当時既に道教系の呪術が行われていたことが確認できる。
 孔雀王呪経の所で述べたとおり、大神龍王と書かれた木簡が発掘されているのもこの新益京である。
 残念ながら、新益京に先立つ飛鳥池遺跡から発掘された木簡の中に呪符木簡があるかどうかは分からなかった。どうやら金属加工や僧侶に関する木簡が主体らしいが、まだまだ解読不能なものがあるらしいので今後の研究に期待したい。





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