個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 仏教が支那に流入してきたのは一世紀前半だと考えられているが、ここでは二世紀から唐の玄宗皇帝までの支那における仏教と道教の関係を追っていく。

(なお、先に道教のみの歴史を「第一節 道教:咒禁の故郷」から順に解説しているので、道教の歴史的展開を知りたくてこのページに来られた方はそちらをお読みください。)

後漢、三国、東晋

 支那への仏教の流入は漢代、前漢か後漢かで争いはあるものの、およそ一世紀頃と推定されている。
 その後三国志の時代に入り、仏教は魏や呉に浸透していったらしい。
 支那において仏教は老荘思想の「無」という概念をベースに入り込んできている。だから、まず支那の仏教が老荘思想の影響を大きく受けていたことを忘れてはならない。
 このような仏教を、「格義仏教」と呼ぶ。
 「格義仏教」が最も盛んになるのは三国時代の後、東晋のことである。
 般若経の中心思想である「空」の理論を説明するために老荘思想の「無」という概念を借りたのだが、逆に仏教への理解が老荘思想へ引きずられてしまった。
 この「格義仏教」が無くなっていくのは四世紀半ば頃、釈道安を初めとする問題意識を持った僧侶たちによりさまざまなサンスクリット語の教典から直接に翻訳されはじめた時であるから、ほとんど三百年間支那の仏教は老荘思想の支配下にあったと言って良い。

 次に、支那の民間宗教側が民衆に広がりつつある仏教の精緻な教理に対抗するため「老子」を宗派の祖に立て、老荘思想を中心にして理論面を強化していった。
 これが道教の始まりである。
 このため初期の道教の教理は仏教、特に格義仏教の教理にとても似通っている。共に老荘思想に頼ったのだから当たり前である。
 この後、各王朝の皇帝が仏教と道教を組み合わせようと努力するので更にこの二つの宗教は混濁が生じていった。ついには儒教まで混ぜ込もうとする始末である。

北周、通道観

 この混濁が最高潮に達するのが北周(556-581)の時代であった。
 北周の武帝は道教と仏教を融合しようと考えたが、逆にそれを求められた仏僧や道士たちは互いに相手をこき下ろし始める。これに激怒した武帝は仏教と道教双方を弾圧し仏僧や道士たちを還俗させた。仏教側ではこれを「三武一宗の法難」の第二波としている。
 この後、北周に通道観が建てられた。
 通道観とは北周によって都の長安に建てられた一種の宗教研究機関であり、武帝の求めた三教合一を実施すべく道仏両教に関する研究が行われていた。
 定員は百二十名で、人数は道仏半々だったようである。先の仏教、道教双方の弾圧により還俗させられた人々がその構成員となっている。
 先述の道教編で解説した『無上秘要』はこの通道観にいる道士の協力を得て纏められたという。
 通道観道士たちはその後隋に引き継がれていき、隋・唐代の道教に大きな影響を残していくのである。

隋唐の仏教

 隋の文帝は当初仏教と道教を共に重視したが、徐々に仏教が優勢になっていく。
 文帝自体はもともと尼寺で育てられたという伝承があり、道教より仏教を優先したのもそのためだと言われている。
 そもそも、聖徳太子が遣隋使を送ったのも文帝が仏教の守護者として知られたためである。ただ、小野妹子が隋へ辿り着いた時には次の煬帝となっていた。
 「隋書」には日本が隋の皇帝を「菩薩天子」と呼んだと書かれている。時期的には文帝のことだと思うのだが、この「菩薩天子」が文帝を指すのか煬帝を指すのかはまだ決着がついていないらしい。
 煬帝もまた道教と異なり仏教に関しては一貫して優遇している。
 隋代には大興善寺と呼ばれる巨大な寺院が造営された。向かい側には玄都観という道観が設置されたが、大きさは比べるべくもなかったという。

 隋に続く唐は歴代支那王朝の中で最も宗教に寛容であったが、結局外来の仏教と道教が相争う感じである。
 これは日本における神道と仏教の関係にも似ている。
 道教や神道が純国民的であるのに対し、仏教は世界的……とまで言っては言い過ぎなので、汎アジア的な指向を持つ。仏教は広くアジアのメンタリティに即した宗教なので、どこの国に行ってもいいセンに達してしまうのだ。
 この仏教の受容がそれぞれの国での宗教的到達度を試されるわけだが、あまり確固とした神話を持っていなかった国は仏教に丸ごと飲み込まれてしまう。タイなどはその最右翼であろう。チベットもポン教という宗教があったがほとんど仏教に飲み込まれてしまった。現代に生きるポン教は知らない人間から見ればチベット仏教の一流派としか思えない。
 神道や道教は、いってみれば半分世界宗教的なこの仏教と競り合って生き残ったのだ。それだけ神道や道教というものはその国民に根差したアイデンティティと一致している部分が強かったのだろう。
 仏教がアジア以外の国で流行らないのも、アジア以外の民族のアイデンティティと一致していないからではないだろうか。

 少々話が脱線してしまったが、唐代では道教が有利なものの、則天武后の周代には一時的に仏教が優勢となる。そして玄宗皇帝の時代、密教がその姿を現すのである。

支那の密教

 後述の仏教の咒禁師にも関わるため、仏教の中であえて密教だけは分けて記述することにする。
 仏教において道教で言うところの方術に最も近い密教は六朝期に一部の教典が持ち込まれたものの、本格的に栄えるのは唐の時代である。
 この時代の密教は中期密教と呼ばれ、『大日経』と『初会金剛頂経』が中心的な経典となっていた。この二つの経典はインドで別々に発生し、唐において初めて表裏一体の存在として位置づけられたのだ。
 残念ながら独自の発展を遂げた唐代の密教は空海に大半の教義を受け渡した直後廃仏によって衰退してしまったようであり、九世紀末にはその姿を失っている。
 その後タントラを中心とする後期密教が現れるのだが、これは支那側の指向に合わず侵入することができなかった。
 このように密教は支那においてあくまで傍流であり、日本のように大きな存在感を得ることは出来ていない。現在ではむしろ中国の密教寺院が日本の密教寺院から教えを受けているような状態である。





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