個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 本稿では日本の歴史上、七世紀末から八世紀半ばまで存在した医療技術官僚「咒禁師」と彼らが用いた魔術的医療「咒禁」について解説する。
 なぜこのような限定的な表現をするのかというと、歴史上には同じ「咒禁師」と呼ばれるものの全く職掌の異なる職業がいくつか存在したからだ。
 特に仏教に多い。仏教には「咒禁師」もしくは「咒師」と呼ばれる僧種があった。しかもこの仏教関連の「咒禁師」「咒師」も時代によって所管する内容の異なる三種類の「咒禁師」「咒師」があるのだ。
 「咒禁師」の研究が難しいのは、資料の少なさからこうした全く関係のない「咒禁師」をあたかも一つの存在であるかのように取り扱ってしまっていたためである。

 「呪禁道士」という言葉があり得ないのは、そもそも日本において「呪禁道」なる魔術体系が存在しなかったからだ。
 「陰陽師」と「陰陽道」の関係から、「咒禁師」が存在したのであれば当然「咒禁道」というものがあったと思ってしまう。
 だが、「咒禁師」は実在したが「咒禁道」は存在しなかった。
 正確に言うと、「咒禁」は「道」と呼ばれるレベルまで到達できなかったのだ。
 この「咒禁道」が存在しないことを理解するために、まず「陰陽道」について解説しなければならないだろう。

 二十世紀も終わりに近づいた頃、
「陰陽道は中国に存在せず、日本独自の魔術体系である」
 という事実が衝撃を持って受け止められた。
 なぜ二十世紀の終わりになってこの事実が分かったというと、第二次世界大戦後の中国は共産党によって閉鎖された特殊な国家だったからだ。道教を初めとする古代支那学の研究は日本国内に残された資料でしか想像できなかった。残念ながら中国により近い朝鮮は日本より更に古代の史料が少なかったこともある。
 文化大革命と呼ばれる一連の運動が終わり、徐々に中国との学術的交流が深まっていった頃のこと。
 それまで日本では「陰陽道」とは春秋戦国時代に存在した「陰陽家」に起源を持つ魔術体系であると考えられていた。ところが中国側の資料を調べてみると「陰陽家」の思想は中国の民間宗教である道教に流れ込んだものの独自の発展は無かったことが分かった。
 しかも中国の道教と日本の陰陽道を比較していく中で、明らかに陰陽道は日本で独自の発展をしていったことが分かってきたのである。
 例を挙げると、古代日本の諸制度の手本となった唐には「陰陽寮」なる部署は存在しなかった。隋唐では同様の部署は「太史局」と呼ばれている。
 つまり、「陰陽寮」という名称自体が日本の創作物なのである!
 そして「陰陽寮」の所掌する範囲も微妙に「太史局」と異なっていた。「陰陽寮」は天武天皇が作った日本独自の役所であり、「陰陽師」もまた日本独自の官職である。
 そして「陰陽道」という言葉が現れるのはこれら「陰陽寮」「陰陽師」制定の遙か後代、平安時代からなのだ。
 陰陽寮の設立当初、陰陽師は「天文暦道」という「科学」を担当していた技術官僚であった。ところが、平安時代になってこの陰陽師が日本独自の「魔術」を発達させるようになっていく。この日本独特の魔術体系こそ「陰陽道」なのである。技術者としての「陰陽師」が先にあって後から魔術師としての「陰陽師」に変化していったのだ。
 こういった奈良朝の陰陽師と平安中期の陰陽師の違いについては、沖浦和光『陰陽師の原像』(岩波書店)に詳しい。

 次章以降解説していくが、「咒禁師」は上述の「陰陽師」と少し状況が異なる。
 「咒禁」と呼ばれる少数の魔術的治療法は存在したが、「咒禁道」と呼べるほどの高度な魔術体系は日本の歴史上に存在しなかった。
 そこまで到達できなかったのだ。
 本稿では、なぜ「咒禁」が「咒禁道」と呼ばれるまでに発展できなかったのかを多方面から解説していく。

 結論から言えば、「咒禁師」とは白鳳に咲き天平に散った歴史の徒花(あだばな)である。
 誰がそれを望んだわけでもなかった。ただ、唐の律令に掲載されていたため日本でも無理矢理制定され、その直後から始まる仏教偏重・道教無視という時代の流れにより短期間で抹消された幸の薄い制度である。
 「咒禁師は陰陽師との争いに負けた」「咒禁は陰陽師に吸収された」という記述を見かけるが、天平の世に咒禁師は陰陽師と争っていない。当時、陰陽師はそのような仕事をしていなかった。陰陽師は天体観測に関するテクノロジーを所管する技術官僚であり、医療官僚ではなかったのだ。

 咒禁師の権能と活躍の場を奪ったのは陰陽師ではなく、「看護禅師(看病禅師)」と呼ばれる医僧たちである。

 奇しくもそれから二百年後、「咒禁」が再びこの国で必要とされることとなるのだが、その時既に「咒禁師」は欠片も存在しなくなっていた。陰陽師が「咒禁」を用い始めるのはこの時である。
 よって「咒禁は陰陽師に吸収された」というより、「誰も適任者がいなかったので仕方なく陰陽師に咒禁を用いさせた」、もしくは「目端の利く陰陽師が時代の流れに沿って咒禁を復活させた」という方が正しいであろう。

(追記:上で「咒禁師の活躍の場を奪ったのは『看護禅師』である」としているが、これは学説や通説ではない。そもそも「咒禁師」の研究がなされていない以上、学説や通説などあろうはずもない。これはWikipediaでよく貼り付けられている「独自研究」というやつなので、通説だと思い込まれぬよう注意されたい。)

下出積與氏


 先述のとおり、咒禁師に関する日本の碩学と言えば下出積與氏である。『国史大辞典』等、手に入る咒禁師関係の資料のほとんどは下出氏の書かれたものである。
 下出氏の視点は鋭く、例えば日本書紀の敏達記に、

冬十一月庚午朔百済国王付還使大別王等献経論若干巻并律師禅師比丘尼呪禁師造仏工造寺工六人遂安置於難波大別王寺
 敏達6年(577)、11月、帰国する大別王らにつけて、百済王が経論と律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工の6人を献上する。

 という記述がある。
 かつてここで記載されている「呪禁師」は後世の「典薬寮の呪禁師」と同一視されていたのだが、下出氏はここに記載されている「呪禁師」は並びから見てどう考えても仏教系の禁呪を使う存在であり、道教系であろう「典薬寮の呪禁師」と同一視してはならないと戒められている。
 この下出氏の記述を見た時、私はなるほどと感心したものだ。敏達記の「咒禁師」は官制の職ではなく、技術者としての「咒禁師」、それも仏教系の「咒禁師」だったというわけである。
 下出氏は日本の咒禁師は道教系のみで仏教系の禁呪は含まれていないとほぼ断定しているが、本稿では敏達記にある仏教系の咒禁師も考察に含める。なぜなら日本の官制のもととなった唐の官制では咒禁師の職掌は道教系の道咒のみならず仏教系の禁咒も含まれていたからである。

叙述プラン

 2011年現在、咒禁師に関するまとまった書籍は刊行されていない。また、本稿が対象とする日本の咒禁師に関して、そう豊富な一次資料があるわけでもない。
 というわけで、異なる七つの切り口からこの咒禁師を追っていこうと思う。

 第一章は「漢字としての咒禁」。
 興味深いことに日本の典薬寮の元となった唐の太医署、更にその元となった隋の太医署では、
「咒禁師」
 ではなく、
「祝禁師」
 と書かれている。
 まるで祝いを禁じているかのような感じであるが、そもそも「祝」と「呪」という漢字は同じ意味であった。「呪」に悪い意味が付いていくのは後世のことである。
 これは私だけかもしれないが、「咒」という漢字には「呪」の持つ悪いイメージは少なく、どちらかというと中立的な、もしくは聖と邪の双方を含んだようなイメージを持っている。
 この「咒」「禁」という漢字、そして「咒禁」という熟語については、本稿のテーマである日本の咒禁師の話とは若干ずれるのだが、後ろの章で参照することも多いので軽く一章を割いておく。

 第二章は「宗教と咒禁」
 「咒禁」について学ぶなら支那の道教についてある程度の知識が必要なのだが、実は支那において仏教と道教はお互いに関連し合って発展している。
 そちらから説明すると逆に分かりにくく混乱してしまうので、先に道教の発展について時代を追って示し、次に裏面である仏教と道教の関係に踏み込んでいく。
 まず道教は六朝以前、隋唐、そして朝鮮という流れで解説する。残念ながら隋唐と比べ朝鮮史の史料は甚だ少ないため、古代日本に対する影響は最も強いと思われるが参考程度にしかならなかった。
 続いて仏教は支那、朝鮮、そして日本と話を進めていく。わざわざ日本の仏教の話をするのは仏教における「咒禁師」の説明をするためと、第七章「衰退する咒禁」の予備知識として必要なためである。仏教は咒禁の創生だけではなく衰退にも密接に関連しており、この問題については第七章「衰退する咒禁」で詳しく扱う。
 本稿が既存の研究に付け加えているのは支那と日本の咒禁を比較している点と、日本の咒禁に対する仏教の影響を論じている点である。前者は以前から期待されていたものだが後者はあまり問題とされてこなかった。

 第三章は「古代の医学と咒禁」。
 実は支那の「咒禁師」は道教教団とあまり関係を持っておらず、道士が咒禁を用いて治療を行うのは律令で禁止されていた。
 現代の考え方からすると理解しがたいのだが、あくまで「咒禁師」とは医者の一種なのだ。
 これは現代でいうところの「心身医」に近い。「心身医学」は心と体の問題を扱うが、彼らは宗教家ではなく医者なのである。
 ここでは古代支那と日本の医学について解説し、古代の医学における咒禁の位置づけについて解説する。

 第四章は「官制としての咒禁」。
 日本の記録に表れた官制としての咒禁師の初出は持統天皇五年(691)。それに対して終わりを神護景雲元年(767)とした。現在のところ、官制としての咒禁師の記録が途絶えたのがこの年だからである。
 陰陽師もそうなのだが、いわゆる技術者としての「咒禁師」と官制の職としての「咒禁師」は分けて捉えた方が理解が進みやすい。
 この章では、支那で官制としての「咒禁師」が出来たのはいつか、そして日本との違いは何かについて論じていく。

 第五章は「方術としての咒禁」。
「あくまで日本の「咒禁師」について考察する」
 としたが、どうしても支那の「咒禁師」を中心として話を進めざるを得ない部分がある。
 それが「方術としての咒禁」である。
 この時代の咒禁の技法について日本側の記録がほとんど残っていないため、同時代及び少し以前の咒禁について支那側の記録を参考にして解説する。同時に当時の日本における方術を再構築していきたい。加えて日本から出土した考古学的史料を元に若干ではあるが日本での咒禁及びその関連する呪術について解説する。

 第六章は「渡来人と咒禁」。
 ここでは日本の文献、特に日本書紀と続日本紀に現れた上代の渡来人咒禁師について解説する。
 咒禁と渡来人は切っても切れない関係がある。ただ、渡来人の研究自体がそれほど完成されておらず、もどかしい部分も多い。

 第七章「衰退する咒禁」。
 この章では神護景雲元年以降、なぜ咒禁が消えていったかについて詳しく述べる。
 先述の通り、咒禁師は陰陽師ではなく仏教僧に押されて消滅した。キーワードは看護禅師、そして道鏡(道教ではない)である。
 戦後から高度成長期ぐらいまでの道教関係の研究書を読むと、「『道教』と言うと『道鏡』のことと勘違いされる」というフレーズが目に付く。横浜の中華街で見られる関帝廟をはじめとする道教系施設や道教の盛んな台湾への旅行者が多くなった現在ではむしろ道鏡の方がマイナーなイメージがあるので隔世の感すら漂う。

 本稿ではあくまで上代における咒禁の衰退までを取り扱い、その後平安時代に陰陽道に吸収され再び蘇る咒禁は取り扱わない。それは遙かに豊かな史料のある領域になるが、本稿のテーマである「日本の咒禁師」を逸脱してしまうからである。




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