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arahito_tajima 2014年10月18日(土) 23:16:33履歴
さて、在昌が豊後へ訪れた頃の話は全く伝わっていないのですが、京都での勘解由小路家、そして土御門家のゴタゴタは資料が残っています。そしてその資料を突き合わせていくと、在昌が豊後を離れ京都へ舞い戻ってきた時期が徐々に浮かび上がってくるのです。
ここではまずそのゴタゴタに巻き込まれたかわいそうな人物、勘解由小路在高について述べていきましょう。
なお、これら勘解由小路家と土御門家一連の顛末については、木場明志先生の『暦道賀茂家断絶の事』に詳しく書かれています。だいたいこの「勘解由小路在高」の項から「勘解由小路在信:第二の息子」の項までが『暦道賀茂家断絶の事』をベースに他の資料で肉付けした部分となっています。
ここではまずそのゴタゴタに巻き込まれたかわいそうな人物、勘解由小路在高について述べていきましょう。
なお、これら勘解由小路家と土御門家一連の顛末については、木場明志先生の『暦道賀茂家断絶の事』に詳しく書かれています。だいたいこの「勘解由小路在高」の項から「勘解由小路在信:第二の息子」の項までが『暦道賀茂家断絶の事』をベースに他の資料で肉付けした部分となっています。
在昌の父、勘解由小路在富は永禄八年七月の十日ごろから腫瘍ができて八月に入ると急激に悪化。八月十日には没してしまいます。
この件でまず迷惑をこうむったのが在富の盟友、山科言継です。
山科言継は天皇から直々に勘解由小路家の跡継ぎを沙汰するように命ぜられています。
言継は在富の跡継ぎを選ぶために奔走しました。なぜなら、最悪自分の息子に勘解由小路を継がせるよう命ぜられていたからです。
言継は、土御門家に勘解由小路家を継がせるべく暗躍を開始しました。
ありがたいことに当時の土御門家当主有春(ありはる)には男子が四人おり、そのうち二人は養子に出ていたものの長男の有脩(ありなが)以外にもう一人四男の福寿丸(ふくじゅまる)がいました。有春の息子は有脩、佐分利養子、飛騨国司養子、福寿丸という順番になっています。なお、有春の息子の話は史料によって違いもあるようです。
土御門家の福寿丸は勘解由小路在高(あきたか)を名乗るようになり、ここに土御門家は勘解由小路家と縁続きになったのです。
ですが、元服もしていない彼は女房衆に「あきとみちこ」と呼ばれていました。名前を覚えられておらず、しまいには日記に「あきとみ」とまで書かれてしまう始末です。
この件でまず迷惑をこうむったのが在富の盟友、山科言継です。
山科言継は天皇から直々に勘解由小路家の跡継ぎを沙汰するように命ぜられています。
言継は在富の跡継ぎを選ぶために奔走しました。なぜなら、最悪自分の息子に勘解由小路を継がせるよう命ぜられていたからです。
言継は、土御門家に勘解由小路家を継がせるべく暗躍を開始しました。
ありがたいことに当時の土御門家当主有春(ありはる)には男子が四人おり、そのうち二人は養子に出ていたものの長男の有脩(ありなが)以外にもう一人四男の福寿丸(ふくじゅまる)がいました。有春の息子は有脩、佐分利養子、飛騨国司養子、福寿丸という順番になっています。なお、有春の息子の話は史料によって違いもあるようです。
土御門家の福寿丸は勘解由小路在高(あきたか)を名乗るようになり、ここに土御門家は勘解由小路家と縁続きになったのです。
ですが、元服もしていない彼は女房衆に「あきとみちこ」と呼ばれていました。名前を覚えられておらず、しまいには日記に「あきとみ」とまで書かれてしまう始末です。
十三歳、しかも何の教育も受けていなかった在高が暦のことを理解できるはずもなく、必然的に父の有春と兄の有脩が在高の面倒を見ることになりました。
だが、この二人にとって勘解由小路家が所掌していた暦道は大いに手に余るものでした。
まず、暦道には算道の素養が必要になります。そして天文と別れていた暦道にはこれまた口伝が多いのですが、土御門家には何一つ伝わってはいませんでした。
土御門家は勘解由小路家が会得した口伝も資料も得ることができなかったため、失敗を連発しました。
ここでいう失敗とは、端的に言うと日蝕と月蝕を外すことです。
当時日本で使われていた宣明暦をそのまま使うと日蝕の予報を出しすぎるという問題がありました。これは、
帯食というのは日の出、日の入りの時に日蝕が起きることであり、山がちな京都では日の出、日の入りは見えないため帯食の日は日蝕ではないと無視したほうが正答率が高まります。
同様に夜間、地球の裏側で日蝕が発生することを夜食といい、これもまた日蝕計算から外せばそれだけ誤答率が下がるのです。
賀茂家は何らかの方法によってこれらの要素を知っていました。つまり帯食や夜食を抜くことによって正答率を高めていたのです。
参考サイト:宣明暦法による日食予報の的中率について
在富は、この秘伝を伝えずに死んでしまったのです。
在高が勘解由小路を継いだにも関わらず後世になって勘解由小路家の正嫡は在富で終わったと言われるのはこのためでしょう。
有春に至っては永禄十一年に日蝕を外した後、
「このままではお家の恥。次の日蝕を外せば命を絶つ所存」
とまで言い切っています。
ところがその有春が日蝕を外した心労からか次の年になって病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
土御門家は長男有脩が継ぐことになります。結果、有脩は土御門伝来の天文だけではなく畑違いの暦道まで全部一人で面倒を見る羽目に陥ったのです。
土御門家が暦と天文の両方を手に入れたことで、後世土御門家が何らかの策謀を巡らしたと邪推する者が現れました。これらの実情を知らない者たちが、
「陰謀で勘解由小路家から暦の権利を手に入れた」
「造暦の権利も手中に収めた彼らは絶大な権力を手にした」
などと書くようになったのです。
有春、有脩がそんな風に書かれていることを知ったら笑って済ますどころか本気で怒りだしたでしょう。
この頃の文献を見る限り、土御門家は日蝕や月蝕を外しては言い訳を書き連ね、事あるごとに勘解由小路家が断絶したことを恨みがましく書き付けているのです。
少なくともこの当時の土御門一門にしてみれば暦などというものから一刻も早く手を切りたかった。それほど暦道というものは土御門家にとって鬼門だったのです。
このあたりの事情が変わるのは110年ぐらい後のことなのですが、それはまた別項で記そうと思います。
だが、この二人にとって勘解由小路家が所掌していた暦道は大いに手に余るものでした。
まず、暦道には算道の素養が必要になります。そして天文と別れていた暦道にはこれまた口伝が多いのですが、土御門家には何一つ伝わってはいませんでした。
土御門家は勘解由小路家が会得した口伝も資料も得ることができなかったため、失敗を連発しました。
ここでいう失敗とは、端的に言うと日蝕と月蝕を外すことです。
当時日本で使われていた宣明暦をそのまま使うと日蝕の予報を出しすぎるという問題がありました。これは、
- 日食限界の値を広く取りすぎたこと。
- 帯食を考えていないこと。
- 夜食を考えていないこと。
帯食というのは日の出、日の入りの時に日蝕が起きることであり、山がちな京都では日の出、日の入りは見えないため帯食の日は日蝕ではないと無視したほうが正答率が高まります。
同様に夜間、地球の裏側で日蝕が発生することを夜食といい、これもまた日蝕計算から外せばそれだけ誤答率が下がるのです。
賀茂家は何らかの方法によってこれらの要素を知っていました。つまり帯食や夜食を抜くことによって正答率を高めていたのです。
参考サイト:宣明暦法による日食予報の的中率について
在富は、この秘伝を伝えずに死んでしまったのです。
在高が勘解由小路を継いだにも関わらず後世になって勘解由小路家の正嫡は在富で終わったと言われるのはこのためでしょう。
有春に至っては永禄十一年に日蝕を外した後、
「このままではお家の恥。次の日蝕を外せば命を絶つ所存」
とまで言い切っています。
ところがその有春が日蝕を外した心労からか次の年になって病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
土御門家は長男有脩が継ぐことになります。結果、有脩は土御門伝来の天文だけではなく畑違いの暦道まで全部一人で面倒を見る羽目に陥ったのです。
土御門家が暦と天文の両方を手に入れたことで、後世土御門家が何らかの策謀を巡らしたと邪推する者が現れました。これらの実情を知らない者たちが、
「陰謀で勘解由小路家から暦の権利を手に入れた」
「造暦の権利も手中に収めた彼らは絶大な権力を手にした」
などと書くようになったのです。
有春、有脩がそんな風に書かれていることを知ったら笑って済ますどころか本気で怒りだしたでしょう。
この頃の文献を見る限り、土御門家は日蝕や月蝕を外しては言い訳を書き連ね、事あるごとに勘解由小路家が断絶したことを恨みがましく書き付けているのです。
少なくともこの当時の土御門一門にしてみれば暦などというものから一刻も早く手を切りたかった。それほど暦道というものは土御門家にとって鬼門だったのです。
このあたりの事情が変わるのは110年ぐらい後のことなのですが、それはまた別項で記そうと思います。
勘解由小路家を継いだ在高ですが、天正二年から三年の間に夭折してしまいます。死因は全く分かっていません。
当然土御門家は次の後継者を要求されるのです。
土御門家としても差し出せるのはあと一人しかいません。土御門有脩の息子、久脩(ひさなが)です。
こうして久脩が勘解由小路在綱(あきつな)を名乗り、勘解由小路を継ぐことになりました。在高死亡後、天正三年のことです。
当然土御門家は次の後継者を要求されるのです。
土御門家としても差し出せるのはあと一人しかいません。土御門有脩の息子、久脩(ひさなが)です。
こうして久脩が勘解由小路在綱(あきつな)を名乗り、勘解由小路を継ぐことになりました。在高死亡後、天正三年のことです。
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