最終更新:
arahito_tajima 2014年10月19日(日) 00:19:03履歴
在昌研究で、もっとも難関なのが慶長十五年六月の方広寺大仏殿再興文です。
この文書の中で、賀茂在昌なる陰陽師が地鎮の儀式を行っているのです!
いやらしいことに、今まで「有昌」や「在政」など好き勝手な文字を使っていたのが、この文書だけはっきりと「在昌」になっています。
もちろん、今まで追いかけてきた在昌はとっくの昔に死んでいるはずです。ということは、もう一人の在昌が存在するということでしょうか?
しかも、この時点で存在するとなると、天正十年に久脩に随行した陰陽師もまたこの第二の在昌ではないか、という疑問が生じてきます。
慶長十五年では生きていたとしてもかなりの高齢です。とても地鎮の儀式など行えないと思います。
(追記:2014年5月15日)
木村純子『室町時代の陰陽道と寺院社会』p228の記載から『九条家歴世記録』第4巻に
慶長五年十二月八日歴賀茂在昌拝賀日時勘文
との記載があることが判明。これは『兼孝公記別記』の一節です。
九条兼孝は慶長五年に再度関白になっていることから、在昌は挨拶に来たものと思われます。
とりあえずこれで在昌に関する一連の資料を提示することができました。今後の研究に資すればと思います。
この文書の中で、賀茂在昌なる陰陽師が地鎮の儀式を行っているのです!
いやらしいことに、今まで「有昌」や「在政」など好き勝手な文字を使っていたのが、この文書だけはっきりと「在昌」になっています。
もちろん、今まで追いかけてきた在昌はとっくの昔に死んでいるはずです。ということは、もう一人の在昌が存在するということでしょうか?
しかも、この時点で存在するとなると、天正十年に久脩に随行した陰陽師もまたこの第二の在昌ではないか、という疑問が生じてきます。
慶長十五年では生きていたとしてもかなりの高齢です。とても地鎮の儀式など行えないと思います。
(追記:2014年5月15日)
木村純子『室町時代の陰陽道と寺院社会』p228の記載から『九条家歴世記録』第4巻に
慶長五年十二月八日歴賀茂在昌拝賀日時勘文
との記載があることが判明。これは『兼孝公記別記』の一節です。
九条兼孝は慶長五年に再度関白になっていることから、在昌は挨拶に来たものと思われます。
とりあえずこれで在昌に関する一連の資料を提示することができました。今後の研究に資すればと思います。
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