個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

ガスパル・ヴィレラ

ガスパル・ヴィレラこそが京都で初めて本格的なキリスト教の布教を始めた人物であり、在昌の師です。

フランシスコ・ザビエルを追って日本へ訪れ、日本布教長を任されたトルレスの命により、ガスパル・ヴィレラはロレンソ良西という改宗した琵琶法師とともに京都へ訪れました。九州にある沖の浜を旅立ったのは永禄二年(1559年)八月四日です。
いかにもバテレンといった服装ではなく、僧形に頭を丸め、墨染めの衣を着ていたといいます。これはよけいな軋轢を好まぬトルレスの方針でした。
四年ほど前に日本にやってきたヴィレラ自身はほとんど日本語を話せなかったようで、代わりにロレンソ良西が説教を行ったといいます。

ヴィレラはこれ以前に平戸で布教を行っています。永禄二年早春に平戸を追い出されるのですが、仏像を集めて焼いていたのが遠因のようです。
この仏像を集めて焼くというのはキリスト教宣教師のよくやる手で、後述のカブラルはもっと徹底して行いました。このため大友領内の仏教関係の史料はほとんど残っていないといいます。その後、キリスト教関係の建築物も徹底した破壊の憂き目に会うのですが、因果応報というものでしょう。

京都に来たヴィレラは迫害され京都市内を転々とするのですが、在昌がヴィレラを訪れたのは誓願時通り室町西入ル玉倉町、現在で言うところの中京区六角通室町西入玉蔵町にヴィレラ一行がいた時です。なお、ロレンソ良西以外もうひとりの日本人が随行しており、ヴィレラ一行は合計三人であったようです。
(2012/02/22もう一人の名前が判明しました。ダミアンという同宿でした。)

彼らイエズス会士は頻繁に書簡を交換しており、おかげで後世になっても詳細な動きがつかめてきます。この件に関しては松田毅一氏及び川崎桃太氏が翻訳されたルイス・フロイス『日本史』に詳しく書かれています。
松田毅一氏らの詳細な検討の結果、ヴィレラたちが誓願時通り室町西入ル玉倉町にいたのは西暦で1559年12月中、下旬から1560年1月25日とされています。つまり、キリスト教徒たちの手紙から在昌の入信はこの時期であると分かるのです。
年齢にすると42歳ぐらいの時のことになります。
前の節でも述べましたが、在種の死亡日が天文二十年(1551)。在昌の入信が1559末から1560初頭なので、在昌の入信と在種の養子縁組は何の関係もないのです。

その後のヴィレラ

 京都にいたヴィレラは永禄ニ〜三年の松永久秀の嫌がらせにより一時堺へと向かいます。永禄四年(1561年)七月のことです。
 永禄五年八月に京都へ戻り、永禄六年三月に再び堺へと赴きます。
 永禄九年四月、トルレス布教長の指示で堺から豊後府内へと戻るのです。
 その後の彼の行動は、カブラルの項目で解説します。
 在昌に関するヴィレラのネタはもう一つあるのですが、これは次項、「ルイス・フロイス」で紹介していきたいと思います。




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