個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 咒禁師が滅んでからほぼ二百年後の話。
 陰陽師が穢れを払い始めるのである。

『延喜式』

 日本の記録で最後に咒禁師の話が載せられたのが神護景雲元年(767)。奇しくもちょうど二百年後に、初めて公式に「触穢」の定めが施行される。
 それが、『延喜式』である。
 延喜五年(905)から始められた『延喜式』の編纂は延長五年(937)に一応完成する。ただし、施行は四十年後の康保四年(967)である。

 時代の流れと言ってしまえばそれまでかもしれないが、唐の医学書に書かれた「蠱毒」の技は、日本において「蠱毒」の対抗手段ではなく逆に「蠱毒」そのものを発達させてしまう。
 『続日本紀』にも記されているが、767年以降に「蠱毒」の記載が増えていく。そしてこれは「厭魅」と呼ばれる呪術とともに禁忌とされていくのである。
 平安に入り、「厭魅蠱毒」は日本の原宗教である神道由来の「ケガレ」思想と習合し、「触穢思想」として大成した。

 「厭魅蠱毒」はかつて「小道」と呼んで嘲ったはずの道教の技法である。そしてこれら「厭魅蠱毒」に対抗する術を磨いていったのが、二百年前に医療を担当した看護禅師ではなく、十世紀に医療を担当した典薬寮の医師でもなく、陰陽寮の陰陽師なのだ。
 当時、陰陽師だけが日本で唯一道教系の儀式を用いていた。「厭魅」や「蠱毒」といった道教由来の呪いに対抗する専門家として陰陽師がクローズアップされてくるのである。

 咒禁師は陰陽師に破れたのではない。咒禁師が必要とされなくなってから二百年後、徐々に咒禁が必要とされていったのである。そして十世紀半ば、その知識を持っていたのが陰陽師であった。
 かくして「咒禁」は、日本の呪術を総まとめにした「陰陽道」と呼ばれる魔術体系の一部を担うようになっていったのである。
 ただし、二百年の歴史は本来の「咒禁」を失わせるのに十分な時間であった。遣唐使無き平安の時代、陰陽師は過去の「咒禁」を完全に復活させることも、後継たる「祝由」を支那から得ることもできなかった。彼らは想像力を用いて、「触穢」に対抗する独自の技法を発達させていくのである。
 本稿ではこのように平安時代の陰陽師たちが編み出していった新たな「咒禁」そのものは対象としなかった。それは本稿の主眼である「上代の咒禁師」とは何の関わりもない呪術であるからだ。
 上代の「咒禁」は治療法であった。対して陰陽師の行った「咒禁」は治療ではなく予防である。たとえば禹歩は地鎮法の一部として「反閇」の名で実施されるだけであり、病気の治療には用いられていない。地鎮法の役目は土地神の祟りを鎮めること。そして土地神の祟りとはそこに住む人間の病気として現れるため、地鎮法とは結局病の予防を意味する。
 そもそも、平安時代においても病気の祈祷は僧侶・修験者の専売特許であった。陰陽師は治療儀式を行っていない。わずかに病気の原因追及を任されていただけである。これについては繁田信一『平安貴族と陰陽師』を参照されたい。





Menu

備忘録本編

「獲加多支鹵」の読み方について
銅鐸時代

【メニュー編集】

管理人/副管理人のみ編集できます