個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

(注意)「賀茂在昌」で検索して飛んでこられた方はまずこの項目のトップである

「戦国時代の陰陽師:賀茂在昌」

からお読みください。(ここは中間地点ぐらいです)

賀茂在昌

 『歴名土代』によると、在昌の名が現れるのは天正五年です。その前年の天正四年、土御門家に対し「相伝の勅」が下されます。
 病床の土御門有脩に対し、そのすべてを息子久脩に伝えよ、というものです。

 天正五年一月二日に土御門有脩が死亡。久脩は喪に服すも三月六日に解服し、三月二十六日には土御門へと復本姓しています。
 それに対し、在昌の従五位下への叙位が天正五年閏七月十二日です。
 『歴名土代』には、この記述に継いで「故在富卿子實」と書かれています。

 まずは時期について。
 在昌がキリスト教を棄教して京都を訪れたのは間違いなく天正五年三月二十六日以前です。この時点で在昌の棄教と帰京が確定していなければ久脩は土御門へと復本姓することはできません。在昌の存在があって初めて久脩は土御門へ戻ることができたのです。
 もっと言うと三月六日以前でしょう。在昌が帰ってきてすぐ復本姓することは不可能ですから、一定の準備期間が必要だったはずです。この頃の喪の期間には規定はなく、半年以上喪に服していたものもいれば代わりが効かないため一か月程度で喪を開けさせられたものもいます。二か月程度で喪が明けたのは土御門復本姓への布石だったわけです。

 次に、「故在富卿子實」について。
 「實」の字は「実」の旧字体です。これが
  • 「故在富卿實子」
 ならば在昌は在富の実子なのだな、となっていて問題がないのですが、実際は
  • 「故在富卿子實」
 となっています。
 湯川敏治編の『歴名土代』では<故在富卿子實(以下ナシ)>とまで書かれています。どう考えても「實」で終わるのはすわりが悪いからです。

 いちおうこの記述をもって在昌は在富の実子ということになっているのですが、別の記述ではまた違う話が書かれています。それは天正十年の改暦問題時のことなのですが、先に『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』の記述について片づけていきます。

春日大社所蔵史料(2012年2月20日追記)

 当サイトでも大変お世話になっている東京大学史料編纂所に在昌関係のデータが載っていたのでリンクを張っておきましょう。

春日大社所蔵史料

リンク切れを起こすと泣けるので転記しておくと

(造一六)永禄十二年天正八年御造替記(仮題)               一冊

 室町後期成立 袋綴 楮紙 縦二五・九糎 横一六・三糎 全三十二丁 外題ナシ、(文首)「永禄十二年己巳当御造替年紀也、始例木作御/事始可有沙汰之由治定之、然者任先規日時」、(文尾)「天正八年庚辰五月廿四日 従五位下賀茂在昌」  

となっています。
 天正八年と言えば次項で解説する『御湯殿上日記』に「あきまさ」の記述が出始めたときです。
 春日大社は二十年に一度、式年造替(しきねんぞうたい)を行うのでその時の記録です。残念ながら撮影資料は見ていないのですが末尾に名前を載せているということはこれを書いたのが在昌だということでしょうか。
 実は、「在昌」の表記はなかなか一致しません。
 その後の表記の激しい揺れは次項以降で紹介していきたいと思います。






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