個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

ここではカルマニアの歴史について記す。

概論でも述べたがバクトリアの建国あたりまでを描く。カルマニアはグレコ・バクトリア王国の範疇に入っていないのだが、アレクサンドロス大王の死後起こったディアドコイ戦争が終わったのが紀元前281年の「コルペディオンの戦い」であり、イラン東部において実際にディアドコイ戦争後の新しい時代が始まったといえるのがグレコ・バクトリア王国の建国である。このあたりまでカルマニアはディアドコイ戦争の痕跡を引きずっていたと言えるだろう。
 カルマニアはディアドコイ戦争、いや、それ以前から優秀な傭兵の産出地とみなされていた。カルマニアという地名自体が「勇敢な」を意味する言葉なのだ。これら傭兵たるカルマニア歩兵、そして若干しか記述のないカルマニア騎兵について記したいので、この時代までを記述の対象とする。

紀元前539年−ナボニドゥス

 歴史上最初にカルマニアの名前が現れるのがこのナボニドゥスではないだろうか。
 名前的にはローマ人か何かのようなこの人物は、新バビロニア最後の王である。紀元前539年にハカーマニシュ朝によって滅亡。
 この後カルマニアに追放されたというのだが、この「カルマニアに追放された」というのがはっきりとわかる文書を探索中である。

紀元前330年以前−太守アスタスペス

 カルマニアを支配していた土着豪族。

紀元前330年−ペルシア王国の滅亡

 ダレイオス3世が倒れ、ハカーマニシュ朝が消えた。ただ、辺境の地カルマニアにはたいして激震は走らなかったものと思われる。

紀元前326年−シビュルティオス

 紀元前326年カルマニア太守に就任。アスタスペス処刑後か。カルマニアにおけるトレポレモスの前任者。後にアラコシアとゲドロシアを任されることとなり転任するが、ここから見てもかなり属州支配に長けた人物であったことが分かる。ペルシア人との融和を目指したアレクサンドロス3世の信任も厚かったであろう。

紀元前323年−アレクサンドロス大王没、ディアドコイ戦争開始

 バビロン会議後のカルマニア太守は資料によって異なる。トレポレモスかネオプトレモスになっている。

 Wikipedia-バビロン会議

 このような辺境を書き記してくれているだけでもありがたい。資料によっては欠落しているものもある。

紀元前317年−トレポレモス

 「紀元前317年のパラエタケネの戦いではカルマニア騎兵を率いて戦った。」とあり、数少ないカルマニア騎兵について書かれた記述である。だいたいほかの戦争においてカルマニアの傭兵はどれもみな歩兵となっているので、この記述は追いかけるに値するものである。
 シビュルティオスからカルマニア太守の地位を引き継いでいるので、彼がカルマニア太守であったことはほぼ間違いない。

年代不明−ネオプトレモス

 ネオプトレモスとカルマニアの関係は薄い。本当にカルマニア太守だったのかどうかは再検討しないといけないだろう。
 エウメネスに喧嘩を売っており、岩明均『ヒストリエ』では必ずやフルボッコにされるであろう可哀想な人物である。

紀元前281年−セレウコス死亡

 アンティオコス一世が継ぐ。

216年−アルダシール1世の即位

 カルマニアを支配下に置く。

224年−ササン朝ペルシアの成立

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