個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 咒禁師と渡来人は切っても切れない関係にある。そもそも、日本の記録に残っている咒禁師の大半が渡来人である。
 ただ、ここで私はもう一つの難題に直面することとなった。
 実は、渡来人の全体像自体がまだよく分かっていない。
 今来(イマキ)の人、つまり最近来た渡来人という表現があるぐらいであり、渡来人は何波にも別れて日本に訪れている。この「今才の渡来人」というのが四波あるうちの第三波ぐらいであり、より古代の渡来人に関する情報は更に乏しい。
 ここでは、記録に残っている日本の咒禁師について紹介していきたい。

渡来人の波

 渡来人の波があると書いたが、なぜそんなことが分かるのかと言うと、一つには墓制の顕著な変遷がある。
 ある年代に達すると、その時代以前の朝鮮半島で見かけられた墓の形や副葬品が日本国内で急増することがある。つまりこれがその数年〜数十年前に朝鮮半島から渡来人が大挙して渡ってきたという考古学的な証左である。
 また、その墓が日本国内の一か所に集中している場合、渡来人たちが大挙してその地方に移り住んだということも分かるのである。
 もちろん、『日本書紀』や『古事記』にも渡来人の波が何回かあるということは記載されているのだが、私はある年代以前の『日本書紀』の記述はかなり怪しいと思っている人間であるし、『古事記』に至っては『日本書紀』より更に怪しいというスタンスなので、やはり考古学的な史料を重視している。

 いささか本論とは外れるのだが、逆に日本から朝鮮半島への影響をこの墓制から探ることもできる。前方後円墳は現在のところ三世紀半ば過ぎの箸墓古墳から始まり、五世紀前半から半ばの大仙陵古墳(仁徳天皇陵)で最大の大きさとなり、六世紀後半の敏達陵古墳で終焉を迎える。
 朝鮮半島では五世紀後半から六世紀半ばに南部で前方後円墳の作例がみられることから、この時期より少し以前の段階で朝鮮半島南部に日本が影響力を持っていたことが分かるのである。
 以上の考古学的事実から、私は『ヤマト王権朝鮮起源説』に明快に反対する者の一人でもある。

鞍作得志

 「日本最初の咒禁師は鞍作得志ではないのか?」という質問があったので調べてみたが、まずこの鞍作得志という人物が出てくるのが『日本書紀』皇極天皇四(645)年である。原文を読むと確かに怪しい技を使っているのだが咒禁であるとは確定できず、むしろ針師である可能性が高い。しかも高麗国から帰りたいと思ったが毒殺されているということなので、日本最初の咒禁師とはとても呼べないだろう。




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