個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 咒禁は道教と切っても切り離せないが、さりとて現代で言うところの道教とこの時代の道教が大きく異なることも問題である。
 そもそも、道教教団自体が歴史的には五世紀になってやっと形成されたものなのだ。
 さらに、現代の道教は多種多様な神々に彩られているが本稿の主題である日本の咒禁師が存在した時代には誕生していなかった神々も多い。
 例えば媽祖(マソ)である。航海・漁業の守護神として特に台湾で人気の高い女神であるが宋代以降の存在であり当時は影も形も存在しない。
 しかもこういった道教神自体が仏教の影響を受けて作られていることが多い。
 道教の最高神である太上老君もまた仏教との争いの中で老子を元にして産み出された神である。多くの道教経典で真の最高神であるとされる元始天尊に至ってはろくな説話がない。

 こうしたなか、道教魔術の文献としてのスタートは葛洪による『抱朴子』である。『抱朴子』自体が四世紀前半に作られており、確固とした道教教団の発生より早い。
 更に遡れば二世紀に太平道、五斗米道が存在しており、これを道教教団に含めてしまうこともある。ただ、どちらかといえばこれらは道教教団の祖形、原始教団であろう。

 「道教とは何か」という問いはかなり難易度の高い質問である。
 道教の基は民間呪術の集合体である。支那の民間呪術が先にあり、仏教に対抗すべく理論面を強化した民間宗教が道教といえよう。
 本稿で中心となるのは「日本の咒禁師」で、彼らが一体どのような「咒禁」を行っていたかを突き詰めていきたいだけであるから、本稿では上述の解答程度に留めておく。
 「日本の咒禁師」の活動期間はだいたい七世紀初頭から八世紀中ほどまでである。現代のような情報化時代と異なり、他国の情報がすぐさま伝わるわけではない。しかもこれら道教に関する情報は支那から直接届いたのではなく、唐代以前は三国時代の朝鮮を経由して届いたものが大半であった。
 このため、支那での六世紀から八世紀初頭までの道教の展開を見ておけばよいだろう。時代的には魏晋南北朝、隋、初唐、盛唐ぐらいの時期である。
 やたらと時代範囲に拘るのはこのような呪術的・宗教的な主題は手を広げるとあっという間に議論が拡散するからだ。




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銅鐸時代

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