個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 岩井三四二『踊る陰陽師−−山科卿醒笑譚』を読みました。読む前はタイトルから山科言継が中心となっていると思って楽しみにしていたのですが、どうやら主人公は家令の掃部助(かもんのすけ)のようです。

 山科言継なんといっても『言継卿記』という戦国時代を代表する日記で有名です。
 在昌のことを調べていて山科言継にもよくブチ当たりましたが、この二人そのものには面識はありませんでした。
 言継は在昌の父在富の盟友なので、面識がないというのもおかしな話なのですが言継側の記録にはほぼ残っていません。なので本文中には言継のことは大きく取り上げませんでした。

 山科家が衣紋道、衣服の権威として知られるのは後のことで、言継は有職故実に詳しく、織田信秀の時代から織田家とつきあいがあったことのほうで重要性が高いのです。加えて製薬の才があり庶民に対して医療行為を行うので親しまれていました。『踊る陰陽師−−山科卿醒笑譚』においても売れない薬を作っているちょっとボケたおじいちゃんという感じで登場しています。

 ただ、ここまでは教科書的人物像なのですが、この言継は教科書に書かれないであろう面が二つありました。

 まずは酒です。
 有職故実に詳しく、蹴鞠や和歌をたしなむ言継は余裕のある地方の武家に呼ばれることも多かったのですが、このような特技を持った公家はまだ京都にそこそこいました。
 言継が他の公家と一線を画すのは、飲む酒の量だったと言われています。
 公家と言えばお上品というのがこの時代でも当たり前です。木曾義仲と猫間中納言の物語を引くまでもなく、京都育ちの公家は量を好まず質を好むものと相場が決まっていました。
 だが言継は違いました。地方育ちの武家が引くぐらいの量を平気な顔をして飲むのです。勢い武家連中の憶えもめでたく、様々な戦国大名から後奈良天皇即位式の寄付金をせしめることに成功しました。

 もう一つは、ことのほか怪しげな祭儀や霊符を好むという悪い癖です。
 友人の在富は陰陽師の中でも堅物で鳴らしており、そのような幼稚な祭儀は好むところではありません。儀式用の人形はくれたり建て替えや元服などの吉日はしっかりと教えてくれるのですが、かつて土御門家が挙行していたような本物の陰陽道の祭式は教えてくれませんでした。
 我慢のできない言継は在富以外の怪しげな者を自宅に呼び寄せてしまうのです。
 竜天院覚弁もそのような輩の一人で、自称宿曜師の僧でした。
 言継はこの僧から霊符祭という奇っ怪な儀式のやり方を教えてもらい、あまつさえ自分で挙行しています。家中に霊符を張るとかで、言継の家族は大変な苦労をしたようです。
 なおこの覚弁という僧、永禄八年五月七日に妻と共に逮捕され次の年に処刑されてしまいます。それでも言継は霊符祭を辞めなかったというから、相当なものでしょう。

 『踊る陰陽師』というタイトルを見た瞬間、「言継のこのオカルト好きな面が炸裂する小説に違いない」と勝手に思い込んで購入したのですが、残念ながらそうではなく、むしろ人生の達人として非オカルト的な側面から助け船を出すあたり、「こんなの言継じゃない〜」と一人で悶えてしまいました。

ご質問 by 葛葉様 2012年04月16日(月) 22:35:40

大変興味深く読ませて頂きました。勉強になること数多で、学術的強度に優れた論考の数々を拝読でき、感動しております。

まさか自分以外に言継さんの霊符に触れてる人がいるとは思わなかったです(笑
質問なのですが、覚弁さんの素性や彼が自称宿曜師だという記述はどこにあるのでしょうか? お時間のある折にでもご教授頂ければ幸いです。

今後も愉しみにしております。

回答

もともと小説やゲームのシナリオ用に調べ始めたことを他の人にも使ってもらおうと載せているだけですので、「学術的強度に優れた」とまで言っていただくと嬉しいですが同時に恥ずかしくなってしまいます。

さて、御所望の件ですが確かあの部分は村山修一先生の文章を端折って書いたものと思われます。手持ちの書籍を調べましたところ大阪書籍の朝日カルチャーブックス71『日本陰陽道史話』239ページにありました。
ただ、この話のソースは当然『言継卿記』になると思いますが、そこまでは遡って調査しておりません。
あと、一か月ほどしましたらこのやり取りは「補遺2:山科言継」に移させていただき、こちらのコメントからは削除させていただきたいと思いますのでよろしくお願いします。


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